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Spivak, Gayatri C.

[ガヤトリ・スピヴァック/スピヴァク]


last update:20100726
このHP経由で購入すると寄付されます

1942−

しろまる 本務校、Department of English and Comparative Literature, Columbia University. での紹介
http://www.columbia.edu/cu/english/facbio.html
[Edward W. Saidと同僚ということになります]

しろまる 現在web上にある中でおそらく一番詳しい著作目録
http://sun3.lib.uci.edu/~scctr/Wellek/spivak/index.html
[例によってEddie Yeghiayan さんがつくっているものです]

しろまる web 上でSpivak を紹介しているpage はいくつかあります。
・English Department, Emory University の The Post Colonial Studies website から
http://www.emory.edu/ENGLISH/Bahri/Spivak.html
・The Center for Digital Discourse and Culture at Virginia Tech University のFeminist Theory Website から
http://www.cddc.vt.edu/feminism/Spivak.html
・Stanford University での Presidential Lectures の講師紹介から
http://prelectur.stanford.edu/lecturers/spivak/index.html

しかく主著
1974 Myself Must I Remake: The Life and Poetry of W. B. Yeats. Crowell.

1987 In Other Worlds: Essays in Cultural Politics. Methuen.
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=1990 (鈴木 聡・大野 雅子・鵜飼 信光・片岡 信 訳)『文化としての他者』紀伊國屋書店
[原書の序文,第3,4,6,12章を省略して訳出。12章の出典は、Selected Subaltern Studies. Introduction の出典と同じ]
だいやまーく1988 "Can the Subaltern Speak ?", C. Nelson & L. Grossberg eds.Marxism and the Interpretation of Culture, University of Illinois Press=19981210 上村忠男訳『サバルタンは語ることができるか』,みすず書房,148p. 2300円 ISBN4622050315 C1310
[bk1]

1990 The Post-Colonial Critic: Interviews, Strategies, Dialogues. Sarah Harasym ed. Routledge.
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=1999[1992年版の改訳] (S. ハレイシム 編集、清水 和子・崎谷 若菜 訳)『ポスト植民地主義の思想』彩流社

1993 Outside in the Teaching Machine. Routledge.

1996 The Spivak Reader. Donna Landry and Gerald MacLean eds. Routledge.
・内容を見てみる→amazon


1999 A Critique of Postcolonial Reason: Toward a History of the Vanishing Present, Harvard University Press.
=20030425 上村 忠男・本橋 哲也 訳,『ポストコロニアル理性批判──消え去りゆく現在の歴史のために』,月曜社,619+49p. ISBN:4901477064 5775
[amazon]/[kinokuniya] (注記) *f

2003 Death of a Discipline. (The Wellek Library Lectures) Columbia University Press.
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2003.9出版予定 Other Asias. Blackwell.

しかく共編著
1988 (with Ranajit Guha) Selected Subaltern Studies. (Essays from the 5 Volumes and a Glossary) Oxford University Press.
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[この本の抄訳ではないが、この本に収録された5つの文章の訳を含むものとして]
=1998 (R. グハ, G. パーンデー, P. チャタジー, G. スピヴァック著、竹中 千春 訳)『サバルタンの歴史』岩波書店

しかく翻訳 Derrida, Jacques. 1976 Of Grammatology. Johns Hopkins University Press.
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Devi, Mahasweta. 1995 Imaginary Maps: Three Stories. Routledge.
・内容を見てみる→amazon

Devi, Mahasweta. 1997 Breast stories. (The selected works of Mahasweta Devi) Seagull Books.

Devi, Mahasweta. 1999 Old women: Statue and the Fairytale of Mohanpur. (The selected works of Mahasweta Devi) Seagull Books.

Devi, Mahasweta. 2003 Chotti Munda and His Arrow. Blackwell.

しかく日本語で読めるその他の文章
1983 "Displacement and Discourse of Woman." In Mark Krupnick, ed., Displacement: Derrida and After.
pp. 169-195. Theories of Contemporary Culture, (Center for Twentieth Century Studies, University of Wisconsin-Milwaukee), 5. Indiana University Press.
=1986 (ガヤトリ・C・シュピヴァク, 鵜飼 哲・武内 旬子 訳)「転位と女のディスクール」"現代思想" 13(1) (1985年1月) pp. 220-245.
=1997 (長原 豊 訳)「置き換えと女性の言説」"現代思想" 25(13) (1997年12月、特集=「女」とは誰か)pp. 172-207.

1984 "Marx after Derrida." In William E. Cain, ed., Philosophical Approaches to Literature: New Essays on Nineteenth- and Twentieth-Century Texts. pp. 227-246. Bucknell University Press / Associated University Presses.
=1985 (山崎 カヲル 訳)「デリダ以降のマルクス」"思想" 732 (1985年6月) pp. 1-23.

1987 "Speculations on Reading Marx: After Reading Derrida." In Derek Attridge , Robert Young, and Geoff Bennington, eds., Post-Structuralism and the Question of History. pp. 30-62. Cambridge: Cambridge University Press.
[抄訳]
=2000 (福井 和美 訳)「概念-隠喩としての貨幣: マルクス『経済学批判要綱』を読む」"環" 3 (2000年10月、特集: 貨幣とは何か) pp. 100-121.

1988 "Can the Subaltern Speak ?", C. Nelson & L. Grossberg eds.Marxism and the Interpretation of Culture, University of Illinois Press.=19981210 上村 忠男 訳,『サバルタンは語ることができるか』,みすず書房,145p. ISBN:4-622-05031-5 2415 [amazon]/[bk1] (注記) *f

1992 "Acting Bits/Identity Talk." Critical Inquiry (Summer 1992), 18(4) pp. 770-803.
Issue is entitled "Identities," edited by Kwame Anthony Appiah and Henry Louis Gates, Jr.
=1993 (小野 俊太郎 訳)「断片を演じる/アイデンティティの話」"みすず" 1993年7月号、10月号

1995 "Ghostwriting." Diacritics (Summer 1995), 25(2) pp. 65-84.
=1998 (長原 豊 訳)「代作する―亡霊が書くこと――Ghostwriting」"情況 第二期" 9(9)(1998年10月、特集: デリダと政治的なもの)pp. 40-74.

1998 (後藤 浩子 訳)「女性史の異議申し立て(チャレンジ)」"思想" 898(1999年4月、特集: ジェンダーの歴史学)pp. 35-44.
[「ふくおか国際女性フォーラム '98」での基調講演]

1999 (鵜飼 哲・馬場 智一 訳)「インタビュー アポリアを教えること――新世界秩序のなかのサバルタン」(1999年7月、特集 スピヴァク――サバルタンとは誰か)pp. 68-79.
[1996年7月6日、崎山 政毅・鵜飼 哲によるインタヴュー]


しかく言及

だいやまーくJudith, Butler 1990 Gender Trouble : Feminism and the Subversion of Identity, Routledge(=19990401, 竹村和子訳『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社).
(p271)
(*18)仮装に関するフェミニズムの文献は広範囲にわたる。ここでは、表現およびパフォーマティヴィティの問題群との関係に限定して、仮装を分析する。つまりここで論じられる問題は、仮装は本物や真正さと理解されている女性性を隠蔽しているものなのか、それとも、女性性やその「真正さ」に対して疑義をはさむ手段なのかということである。仮装概念をフェミニストが応用することについて詳細に論じたものとして、以下の論文と著作が挙げられる。Mary Ann Doane, The Desire to Desire: The Woman’s Film of the 1940’s (Bloomington: Indiana University Press. 1987) [邦訳メアリ・アン・ドーン『欲望への欲望―1940年代の女性映画』松田英夫監訳、勁草書房、1994年], "Film and Masquerade: Theorizing the Female Spectator," Screen. Vol.23, nos.3-4 (September-October 1982), pp.74-87; "Woman’s Stake: Filming the Female Body," October, vol.17 (Summer 1981). ガヤトリ・スピヴァクは以下の論文で、ニーチェとデリダに依拠して、偽装としての女という挑発的な読みを提起している。 Gayatri Spivak, "Displacement and the Discourse of Woman,"in Displacement: Derrida and After, ed. Mark Krupnick (Bloomington: Indiana University Press, 1983). また次の論文も参照のこと。 Mary Russo, "Female Grotesques: Carnival and Theory" (Working Paper, Center for Twentieth-Century Studies, University of Wisconsin-Milwaukee, 1985).

だいやまーく加藤秀一, 19980910, 『性現象論――差異とセクシュアリティの社会学』勁草書房.
(pp148-151)
こうしてセジウィックが同性愛の領域にかんして掘り下げた認識は、ジェンダーのカテゴリーとフェミニズムの主体にかかわる本質主義の問題をあくまでも理論的探求と実践的主体形成との緊張関係のなかで繰り返し問う、ガヤトリ・チャクラヴォーティ・スピヴァックの議論とも響き合うことになる。著書Outside in the Teaching Machine(『教育機械の内部における外部』とでも訳せばよいだろうか)の冒頭に置かれたインタビューのなかで、スピヴァックもまた、生物学や遺伝学の本質主義的傾向には断固として反対し、経験的なものと本質というカテゴリーとがしばしば混同されていることに苛立ちを隠さない。しかし彼女にとって、ただ単に本質と目されるものを否定してそれを社会や歴史の効果に解消してしまうだけの「理論」が役立たずで退屈なものであるということもまた明らかなのだ。とりわけ被抑圧者が抵抗の礎として掴み取る「アイデンティティ」を、そのようにして容易に転覆あるいは解体できる程度の「本質」などに回収してしまってはならないとスピヴァックは強調する。「私たちは、単なる言葉としての言語ではなく、生そのものという言語によって、休むことなく自伝を《書く》のです。《存在する》ために。それをアイデンティティと呼ぶのです!」(Spivak [1993:4])。それは、仮にそれを本質と呼ぶとしたら、それに対する「批判」の意味の方こそが変更されなければならないような何事かである。すなわち、単に対象=本質を裏返しにする――容易に裏返せる程度の観念へと対象をあらかじめ密かに変造しておきながら――のではなく、また本質という観念を導入してしまう他人や自分自身の誤りを暴露してみせるのでもなく、「それを利用しないことができないようなものの危険性を認めること」[ibid.:5]であり、「この上なく有益なもの、それなしには私たちが一瞬一瞬を生きていくことができないもの」[ibid.:4]にどこまでも巻き込まれながら、そのただ中で、その危険性を認識し絶えず問い直していくような態度としての、《批判》。いまやそれは、脱構築(deconstruction)と呼び直されてよいだろう。
このような展望のなかに、スピヴァックの言う「戦略」、より具体的には「本質にまつわるリスクを引き受けること」、「本質主義を戦略的に利用すること」は位置づけられている。戦略は理論ではない。言い換えれば、文脈に関わらずどのような場合にも真理として通用することを(密かにであれ)目論む理論ではない。もちろんそれは理論から流出する応用形態でもない。戦略は戦略である。このように粗雑に要約してしまうと、これは単なる機会主義的な運動論のようにも見えるが、必ずしもそうではない。言い換えれば、実践は理論など無視して好き勝手にやればいいというありふれた放言の類ではない。同じ著書に収録された論文「フェミニズムと脱構築、再び:交渉」のなかで、スピヴァックは「認識論/存在論」なものと「倫理政治的」(ethicopolitical)なものとの還元不可能性に、そして前者の水準における理論的対象と後者にかかわる企ての主体とのあいだにある距離/差異について言及している。そして脱構築とは、しばしば通俗化されて流通している解説とは違って、この差異を溶融せずに、還元不可能な、しかしそれゆえに批判されなければならない緊張を孕んだ差異のままに肯定するための教えなのである。
それでは、フェミニズムの文脈において、本質主義の戦略的利用とは何をどのようになすことなのか。そして、それを条件づけるような文脈とはどのようなものなのか。右に挙げた論考においても、スピヴァックは一義的なマニュアルのようなかたちでこの問いに答えてはいない。それは、ニーチェとデリダにおける「非真理の真理」としての「女」の名をめぐる脱構築的/批判的な考察の途上で、断片的に示されているだけだ。けれどもそこには、どれほど豊かな示唆が秘められていることだろう。女たちが「存在するために」は欠くことのできない、しかしつねに過剰な意味を、他の何事かを指し示してしまう「濫喩」(catachresis)としての「女」という名、という解釈を繰り返し変奏しつつ、文章が終結に向かいその主題が頂点に達したところで、スピヴァックは「脱構築的フェミニズム」の展望について語る。すなわち、「女」という名づけを――ただしより正確には、「女」という「特定の名」を固執することではなく「名づけ」そのものの意義を――擁護することと同時に、同じ「指示対象」には決して還元されえない、女たちの分割について。
「「名」を[実在する]指示対象に変容させてしまうことから生じうるあらゆる災禍について自らに言い聞かせながら――別の言葉で言えば、濫喩の教理問答書をつくりながら――、それにもかかわらず、厳密に言って私たちには歴史的にみても地政学的にみても文字通りの指示対象としてはイメージできない(cannot imagine)、踏みにじられた(=権利を奪われたdisenfranchised)女を、「女」と名づけよう。」(Spivak [1993:139])
「[そして同時に]私たち自身が、単に名づけられるだけの存在ではなく、名づける側でもあることを知るために、女の名を分割しよう。」[ibid:139]
先進国の、大学の研究室の中にいる女――フェミニズムの理論家(「存在/認識論の主体」)と、「そのような主体に変化していくことさえもない女、『女たちの団結』や『個人的苦痛』といった類の、人間の利害にかんする決まりきったお題目を超えてその歴史性や主体のあり方を想像することが私たちにはできない、あの踏みにじられた女」(「存在/価値論(axiology)の対象」)とのあいだに横たわる、解消することのできないこの断絶の肯定は、あるいは女という指示対象に依拠することでより多くのものを獲得しようとする種類の政治には不安をもたらすかもしれない[ibid:140]。けれども、「私はあなたの慈悲の対象のなかに自分をみつけることができない」という被抑圧者たち――解消も同化も拒む還元不可能な他者としての「サバルタン」――の声に立ちつくすことは、抵抗そのものの放棄ではないし、また理論の拒絶でもないはずだ。それはむしろ、フェミニズムを作動させてきた力であるとともにその躓きの石でもある「特定の名」としての「女」を脱構築することで、より多様で多元的な闘争の様式をつくりだしていくための、新しい原点とされなければならないだろう。
スピヴァックの高度に理論的で、暴力的なまでに繊細な行論の全貌を適切に紹介することなどぼくにはとてもできそうにないし、ここはそのための場でもない。右の大まかな要約/再構成から、それが多幸症的な理論忘却にも絶望を装った実践嫌悪にも陥ることなく現実の諸問題に立ち向かってゆくための、身の引き締まるような、しかしどこか風が吹き抜けるような励ましをぼくらに与えてくれることが、ほんのわずかでも感じとれていただければうれしい。
(pp305-307)
だがこのときすでに、本質主義/構築主義という対立図式がそれほど明快に貫徹できるものではないことがあらわになりはじめているだろう。なぜならそれは、ただ純粋に認識論的な問題なのではなく、いかにして「女」たちと言いうるか、いかにして「女」の解放を言いうるか、すなわち、いかにしてフェミニズムは可能であり、誰に呼びかけ、誰のためのものなのかという、一連の直接に実践的な問いを繰り返し問い直し、深めてゆくなかで練り上げられてきたものであるからだ。むしろそのような実践的関心こそが、認識論の精緻化を駆動してきた力である。「女たち」によって分有される何ものかが「アイデンティティ」と呼ばれてきたことはその徴候である★10。本質主義と構築主義が二項対立として(二種類の「学説」、のようなものとして)図式化しきれないのは、本質と呼ばれかねないあの何ものかを見極めるべき者が、観察者ではなく、それを担う当事者自身であるからだ。言い換えるならこれらの主張は、その一方を押し立て他方を斥けることが、そのこと自体を支えるために他方の観点をぜひとも必要とするような、厄介な現実のただなかで行なわれる以外にはありえないからだ。「女たち」を包囲する現実が圧倒的に本質主義的であり、それが彼女たちの劣位を正当化する根拠として濫用されているとき、最初になされる異議申し立ては、あてがわれたのとは別の、より肯定的な本質を、「女」の名の下に書き込むことであるだろう。その次に現れるのは、「女」というアイデンティティもまた社会的な構築の効果にすぎないとする、本質主義そのものの批判である。だがこれに対しても、それだけでは事は済まない、あまりにも安易にアイデンティティを手放すことは性差別への運動の基盤そのものを掘り崩すがゆえに倒錯的でさえあるし、それが実質的に意味するものは「女」を廃棄して世界を「男」一色に塗り込めることでしかないといった再批判が立ち上げられる。これは本質主義への単なる回帰ではないが、またそれ以前の諸段階を乗り越えた次の段階というわけでもない。むしろそれは、「女」をめぐる本質主義が性差別――の不在――の根拠であった状況に対するあの最初の抵抗と、次に来る本質主義批判との対立を止揚することの不可能性を指し示し、「女」というアイデンティティそして名そのものを、本質主義的に固定化するのでも構築主義的に解消するのでもない別の語り方へ向けて開いていくという、別の態度を示唆するものである。もしもフェミニズム理論に最前線と呼ぶべきものがあるとすれば、それは古い理論に対するただの否定=乗り越えとしてではなく、つねに乗り越えられたように見紛われながら実はそれを立ち上げた現実は少しも終わってなどいない諸概念、しかも互いに矛盾しあうようにみえる諸概念を、それぞれの不可避性において、私たちの思考を限界づけるべき条件として認識しようとする努力においてしかありえないだろう。たとえばガヤトリ・スピヴァックが次のように言うとき――
「あらゆる人間的現実を男(man)という名で呼ぶことは、第一の運動である。それがヒューマニズムである。そこに女という名を代入することが第二の運動である。それを引用符で括って「女」とすることが第三の運動であるが、それは総合ではなくて、一時的な、半分だけの解決であり、つねに問題を生み出す。なぜならそれは第二の運動ととりちがえられることもあるからだ。したがって、運動を続けながら、決して起こらないがつねに起こりうるさらに先の運動、第四の運動に向かって、つねに前を見続けることだ★11。」
「決して起こらないがつねに起こりうる......第四の運動」、それはスピヴァックの展望のなかで、つねに今ここの一歩先にあるのと同時に、すでにあった第二の運動(本質主義)と第三の運動(構築主義)とのあいだ、総合=止揚を頑なに拒むそれら二つの項のあいだの調停不可能性そのもののなかに見出されるものである。そうだとすれば、そうした認識は独りスピヴァックの独創ではない。一九八〇年代後半から九〇年代前半にかけて追究されてきたジェンダーをめぐる一連の批判的展開、すなわち、性差別の起源をめぐる問いの焦点を性差そのものから性差と性差別との言説的な結びつきへとずらした江原由美子による考察★12や、ゲイル・ルービンの自ら「超越論的リビドーなきカント主義」と呼ぶ本質主義(批判)への重層的な洞察★13、さらにはジェンダーではなくゲイのセクシュアリティに合焦した研究ではあるが、フェミニズムの文脈においても極めて豊かな示唆を与えてくれる、イヴ・セジウィックによる本質主義/構築主義という枠組みそのものへの批判★14など、それらは辿った経路は違うとしても、いずれもスピヴァックと同様に現実のありのままの複雑さに踏みとどまり、乗り越えではなく理論の場所をずらすことに貢献し、後退不可能な理論の線を画定した作業である。

だいやまーくHacking, Ian 1999 The Social Construction of WHAT ?, Harvard University Press(=20061222, 出口康夫・久米暁訳 『何が社会的に構成されるのか』岩波書店).
(pp16-17)
初期の女性解放運動の闘士たちは、男女間の権力関係を改革する必要があると確信していたが、一方で、性(セックス)の違いは、その権力関係が不可避のものだという印象を与えていることも承知していた。そこでフェミニストたちは、「ジェンダー」という言葉を動員したわけである。ここで、先の(1)から(3)までのテーゼに出てくるXを「ジェンダー」で置き換えてみよう。フェミニストは、まず、(1)「ジェンダーにまつわる属性や関係は、かなりの程度偶然の産物である」と、われわれに納得させる。そのうえで、フェミニストはさらに、(2)「それらの属性や関係は、ひどいものだ」とか、(3)「現行のジェンダー的属性や関係が、まったく無くなるか、少なくとも根本的に変えられたならば、女性は特にそうだが、さらに言えば人間はみな、いvまよりも大分ましな人生をおくることができる」といった主張を行うのである。このような仕方で、確かにジェンダー論をかなり見通しよく、まとめることができる。だが問題はそう簡単ではない。(1)から(3)までの一連のテーゼは、物事をかなり単純化しているきらいがあることも認めざるをえないのである。たしかにフェミニストと言ってもさまざま。構成というアイディアを真剣に用いているフェミニストもいれば、それを単に弄んでいるフェミニストもいる。だが、いずれにせよ、そのようなフェミニストの間にも、実は理論的な立場の違いが数多くあるのである(*9)。
(pp81-82)
(*9)この点に関しては、エリザベス・グロスが具体的な名前を挙げている(Grosz 1994, 15-19)。彼女は関連する論者たちを三つのグループに分ける。そして、第一のグループは平等主義者、第二のグループは社会構成主義者とそれぞれ呼ばれる。ここでの社会構成主義者に入るのは、「おそらく、今日[1994年のこと]のフェミニズムの理論家の過半であろう。すなわち、ジュリエット・ミッチェル、ジュリア・クリステヴァ、ミッシェル・バレ、ナンシー・コドロウ、マルクス主義的フェミニストたち、精神分析的フェミニストたち、ならびに主観性の社会的構成という概念にコミットするすべての人たちである」。「平等主義と社会構成主義とは対照的に、第三のグループははっきりとそれと識別することができる。このグループに所属するのは、ルース・イリガライ、エレーヌ・シクス、ガヤトリ・スピヴァク、ジェーン・ギャロップ、モワル・ガーテンス、ヴィッキィ・キルヴィ、ジュディス・バトラー、ナオミ・シュール、モニック・ウィティツグ、その他大勢である。彼女らに言わせれば、女性の心理的、社会的存在のあり方を理解するには、身体というものが欠かせない。しかし、その身体は(歴史を持たず、生物学的に与えられた、文化による影響を受けない対象)とは、もはや見なされていない。彼女らが問題にしているのは「生きられた身体」、すなわち、ある特定の文化において、一定の仕方で表現され、用いられている限りでの身体なのである」。

だいやまーく竹村和子, 20010220, 「「資本主義はもはや異性愛主義を必要としていない」のか――「同一性の原理」をめぐってバトラーとフレイザーが言わなかったこと」上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房:213-253.
(p222)
したがって「同一性の原理」の遵守は、たとえ同一性が社会構築されたものではあっても、同一性を成立させている関係機構を固定化することによって、つまり同一性に不安を与える「外部」を設定しない─あるいは「構造的外部」にしてしまう─ことによって、同一性を社会的な「本質主義」に擦りかえていく(4)。ひとは一過性の出来事として異性に惹かれる、あるいはたまたま偶然に死ぬまで惹かれつづけるのではなく、すべての人間が異性愛者であること、ありつづけること─異性愛へのアイデンティフィケーション(同一化)─を自然化し、本質化しなければ、異性愛主義は崩壊する。したがって異性愛主義を遵守する制度においては、社会構築主義と本質主義は相反的な関係にあるのではなく、共犯的な関係に形態変容していると解釈することができるだろう。
(pp247-248)
(*4)ジュディス・バトラーは"construcyionism"と"constructivism"を区別して、前者を擁護し、後者を退けている(Bodies That Matter)。バトラーによれば、後者(constructivism)の見解では、たとえ人間主体を文化や言語によって社会構築されたものと考えていても、その構築を固定したものとしてとらえるので、結局は「言説的な一元論や言語中心主義」に帰着する。いわば、文化や言説や権力による決定論になってしまうと言うのである。同様のことをガヤトリ・C・スピヴァックは、社会構築主義は現在の資本主義社会を本質(社会一般)とみなす一種の本質主義だと批判している("Subaltern Talk")。
(pp229-230)
だがわたしたちは、まだそれがどこへ向かって進んでいくのかを見定めることはできない。それが資本主義が経験する「恐慌」と同様に、異性愛主義を早晩、潰滅的に崩壊させていくのか。だが「恐慌」にしたところで、少なくとも一九二〇年代末から三〇年代にいたる世界恐慌によって資本主義は壊滅させられたわけではなく、せいぜいがケインズ流の社会資本の導入がおこなわれた程度で、マルクスが言うような「〔資本主義とは異なった〕あらたな生産様式」や「国民的な規模の協同組合企業の拡張」(Marx[1959-61,3:431])へと変容していったわけではない。むしろ資本主義は、ガヤトリ・C・スピヴァックが批判しているように、南北問題と性差別と異性愛主義を複雑に交錯させたさらに巧妙な搾取をもたらしていると言える(*8)。
(p248)
(*8)第三世界とフェミニズムの問題をマルクス主義の再考で論じた興味深い論文に、Spivak, "Ghost Writing"がある。これはJaques Derrida, The Specter of Marxへの応答でもある。

だいやまーく上農正剛, 20031020, 『たったひとりのクレオール――聴覚障害児教育における言語論と障害認識』ポット出版.
(p475)
(*8)当事者の「証言」をどのように取り扱うかという問題については実はそれなりに複雑な問題がある。それは、その当事者といえども、ある錯綜した政治的「関係」性の中にいるからであり、その制約から完全に自由になり得た立場で発言することは不可能だからである。正直な思いをことばにすれば、一生懸命育ててくれた母親は悲しむのではないだろうか。言語訓練をしてくれた先生は怒るのではないだろうか。聞こえる知り合いは失望するのではないだろうか。何より、これから仲間になろうとしている聞こえない友人たちには不興を買って拒絶されるのではないだろうか。マイノリティである聞こえない人間は、たった一言を発するだけでも、それがどこで、いつ、誰により、どのような文脈で受けとられるかわからない緊張の中に常にいる。政治的な関係性を考慮し、致し方なく戦略的なもの言いにならざるを得ない面がある(ちなみにヒルバーグの『記憶』の原文副題はThePoliticsofMemoryという)。このことは、まず何より「言語」獲得自体に関し本来的に複雑な状況にある聴覚障害児の場合、一段と大きな意味を持つ。その事情の一端は本書第1章2「難聴児の自己形成方略ーインテグレーションの「成功例」とは何だったのか」で触れた。インド出身の評論家スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak)はこの複雑な政治的関係性の中にいる当事者の「証言」問題をインドの限定階層「サバルタン」を通して問題提起している。スピヴァクの本質的な考察も踏まえ、聴覚障害児における当事者の「証言」問題を今後さらに掘り下げて考えてみたいと思っている。

Spivak,Gayatry Chakravorty 1993 Outside in the Teaching Machine,Routledge・New York and London

だいやまーく天田城介, 200412, 「抗うことはいかにして可能か?――構築主義の困難の只中で」『社会学評論』219(Vol.55, No.3):223-243.
http://www.josukeamada.com/bk/bpp25.htm
(p231)
佐藤がG.スピヴァックの「すべてを構築されたものと呼ぶのが反本質主義だという考え方は,社会的なものthe socialが本質だとみなすことにつながる」という言葉を引用しながら指摘するように,「本質主義には,表面的に観察される水準と潜在的に決定している水準という2つのレベルがある.論理的に言えば,こういう二つの水準を使って思考するのが本質主義なのである.一方,構築主義は(中略)構築されたものconstructionという概念で考えるかぎり,構築するものを召還してしまう.それは論理的には本質主義である」(佐藤 2002:61).いわば,「構築するもの」という全体性に対する別の全体性を密輸入しているのである.先に確認したように,分析上便宜的であっても「アイデンティティのカテゴリー」を「結果」として措定する限り,構築主義は本質主義に近接/変転する【14】.
(p226)
したがって,《豚の思考》への「抵抗」において決定的に重要な点は,「同一性(アイデンティティ)」の次元での「抵抗」ではなく,「同一性の原理」を根底から脅かす自己内部のアイデンティティの「撹乱」なのである(*19).付け加えると,物語論は言語を媒介とした相互作用を通じて「支配的な物語」の呪縛から解放され,「オルタナティブな物語」を紡ぎ出すことを主張するが,往々にして自己同一性(アイデンティティ)を前提にした「他でもあり得た」という陳腐で平板な偶有性を機軸に自己の可変性を主張するだけで「同一性の原理」の脅威を惹起へと結びつき難い.
(p240)
(*19)G.スピヴァックの「戦略的本質主義」を採用することで「生き難さへの抵抗」「抑圧からの解放」となることがある.だが,それは同時に,?@「カテゴリー」が与えられることによって「身体制御の免罪符」となるゆえに「同一性の原理」が温存される危険性を孕む.また,?Aエスノメソドロジーが指摘するように,実践的推論に基づく諸々の相互行為によって現実が説明可能な形で達成されているように,「名前(名のること)」によって自らの納得し,周囲からも理解が得られるといった相互行為を通じて既存の秩序がその都度ごとに達成されていく.だが,これらはいずれも「承認/誤認」の軸にして構成される「同一性の原理」を前提にした議論である(天田 2004a).

だいやまーく児島明, 20060320, 『ニューカマーの子どもと学校文化――日系ブラジル人生徒の教育エスノグラフィー』勁草書房.
(pp30-31)
本質主義と構築主義の葛藤は,一つのジレンマを生みだした。松田はこれを,「ある人間分節を『実在』として認定したとたん,その分節は多様な個人を超越した一枚岩の他者として出現することになる。しかし分節の実在性を否定してしまうと,現実の差別や暴力を生み出す構造が温存される。なぜなら抵抗し異議を申し立てるには,この分節に依拠し内部の連帯を打ち固めねばならないからだ」と説明し,「解体すべきものに依拠せざるをえないというジレンマ」(松田,1996b,62頁)と表現している。
このようなジレンマから脱却すべく,「戦略的本質主義」(Spivak,1994,古谷,1996),「戦略的リアリズム」(Abu‐Lughod,1989,松田,1996a,1996b),「反─反本質主義」(Gilroy,1993)等,さまざまな方策が提唱されている。たとえば「戦略的リアリズム」とは,現実の不正な構造に対する「政治的責務」を果たすために,便宜的・暫定的に本質主義者になってしまおうという発想である。民族や性といった他者分節をひとまず便宜的に固定してしまい,そのうえで現状の変革に主体的に参画しようというわけである(松田,1996b,62頁)。

Spivak,G.C. (1994)長井香里訳「一言で言えば....インタビュー:ガヤトリ・スピヴァックに聞く」 『批評空間』 ?U-3,44-64頁。


*作成: 追加者:植村 要
UP:20021024 REV:20030222,0812,20050110,20080504,0511
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