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例えば結核療養者の運動では本人の多くに経済的困難があり、それで運動する。他方、障害児の親たちは、扶養したり世話したりするために後に困難になっていく人は多いが、すくなくとも当初さほどでないこともある。筋ジストロフィー協会や「重心」の親の会の初期の(なかにはずっと続けた)役員には社会的地位その他を得ている人たちがいる。そうした人たちが活動に関わる、そんな人だから活動のために動けたということもある。中高年になって多く発症するALSの人などの場合には本人にもそんなところがある。
そしてもう一つ、どこに頼むかということがあった。野党は、今より力が強かったとしても、野党ではある。予算を引きだすには与党に言っていくのがよい。しかしもちろん、その人たちに受け入れられねばならない。そのことにおいて、結核療養者は普通の大人であって、見栄えも普通である。さらにその歴史的経緯もあって、共産党などと繋がっているから、他の政治勢力に話を聞いてもらうのは難しい。それに対して、まず子どもは、かわいいし、かわいそうであり、その子をもつ親もかわいそうである。母親が訴え、大臣や議員が受け入れるという構図になる。その人たちに受け入れてもらうには左翼的でないほうがよいということがある。
筋ジストロフィーについては親の運動があって、一九七〇年代初頭に始まる「難病」対策・政策に先んじて政策対応がなされた。進行性筋萎縮症児親の会が発足したのは一九六四年、「全国重症心身障害児を守る会」が結成されたのも同じ年だ。その人たちは「争わない」人たちだった。得たいものを得るためには「イデオロギー」を排するのがよい。杉田【俊介】があげた「争わない」とは、まずは、そういう立ち位置、立ち位置からの主張を言う言葉である。
[...]それは、たんなる戦術と言えないところもある――本気でそのような献身的な心性の人たちだったようでもある――のだが、その時において、政策と生活を得るには有効な方策であった。運動に「政治」をもちこまないことを唱えた。あるいはそのように言いながら、政権党(の有力者)に陳情するという政治活動を行なった。
そしてそれに政治が、有力な政治家が応えた。例えば研究所の設立を田中角栄が約束する――結局はロッキード事件〔間違い〕で失脚し約束は果たされなかったのではあるが[...]。そして施策・施設の必要性をメディアが訴え、支援する。この時期善意は様々にあった。島田療育園に集団就職の女性たちが勤めたことがあり[...]、それが報道されたりした。伴淳三郎、森繁久彌[...]といった芸能人たちが社団法人[...]「あゆみの箱」の活動を行なった☆11。これにもあまり知られていない、少なくとも私はまったく知らなかった挿話がある☆12。
[...]そしてその人たちは、とくに筋ジストロフィーの親の会の人たちは、原因究明と治療法の開発を求めた。当然のことだったと思う。[...]患者(の家族)団体が基本的に専門職者(の団体)と対立関係にあるという理解が、全体として水準が高いと言えない研究のなかで優れた成果である衛藤幹子の著書(衛藤[1993])にもあるが、そうとは限らない。[...]ここでの家族会と研究者である医学者で施設の医師・そして経営者とのつながりは強く、恒常的なものであり、たいへん良好である。
そして「重心」の親の会にしても筋ジストロフィーの親の会にしても、求めたのは子が暮らせる収容施設だった。[...]
まとめれば、一つに、けなげであることやよくなる可能性があること、悲惨であり苦難に面していることを言う。これらは相反する要素でなく、同情・理解を得るためにも有効である。一つに、治療を求め、それを仕事とする人たちと協調することになる。一つ、家族の過大な負担を軽減するための施設を求める。
他方の「革新」の側はどうか。[...]」