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アイリス・ヤング集中講義のためのメモ・2

立岩 真也
2004/01
アイリス・ヤング集中講義


cf.ヤング先生の予告

January 27 - Justice and Gender


How the division of labor in the family puts women at a social disadvantage. The injustices arising from the devaluation of care work.

Readings:

だいやまーくSusan Okin, Justice, Gender and the Family, Basic Books (is this in a Japanese edition?)
部分訳がある(紹介↓)/本は学而館にある。
だいやまーくEva Feder Kittay, Love's Labor, Routledge
cf.Kittay, Eva Feder http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/kittay.htm
1月の勉強会で紹介してもらう予定。/本は学而館にある。
だいやまーくIris Marion Young, "Mothers, Citizenship and Independence: A Critique of Pure Family Values," in Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy and Policy, Princeton U Press.
これは紹介がある。↓/本は図書館から借りたものが学而館にある。



しかく フェミストとして

a)一つに「差異派」→。別文書「差異の政治について」
b)一つに(マルクス主義フェミニズム内における、二元論者に対する)一元論者。
b)について。まず、ヤングがこの主題について立ち入って論じたものを私は見ていない。つまり、1981年の「不幸な結婚を乗り越えて: 二元論を批判する」以後、その主張をより詳しく述べ、自らの立場が有効であることを示した文献があるのか知らないし、あるとしても読んでいない。
ただこの論争?に論点のずれがあるのではないかと感じている。このことは「ジェンダー研究会のためのメモ」に少し述べた。

c)関連して「ケアワーク」について。



だいやまーくSusan Okin 1989 Justice, Gender and the Family, Basic Books
=19940401 高橋久一郎訳,「公正としての正義――誰のための?」(部分訳),『現代思想』22-05:156-171(特集:リベラリズムとは何か) *学而館1階の部屋にCOPYあり

1(翻訳では略)
2ほとんど見えない家族
3ジェンダー、家族、そして正義感覚の発達
4フェミニスト批評の道具としてのロールズの正義論


2ほとんど見えない家族
ロールズ批判
「彼は家族の内部の正義に対しては全くどんな注意も払ってはいない。」(p.156)
「原初状態における契約の当事者たちは家族の長あるいは代表者である(p.128,146.)から、彼らは家族内部での正義の問題を裁決する立場にはない。」(p.157)
「私は以下[本章の最後の節と本書の最後の章]でロールズの理論が持つ建設的な潜在的可能性を展開するつもりである。しかし、その前に、家族内部の正義の問題を無視したことに由来する大きな問題に向かいたい。この問題は人はどのようにして正義感覚を発達させるのかということについてのロールズの説明を危険にさらすものである。」(p.159)
3ジェンダー、家族、そして正義感覚の発達
カントの考え方「とは対照的にロールズは、道徳的思考の能力の発展において、想定上は正義にかなった家族の内部で、最初に育まれた感情の果たす役割の重要性を認める。」(p.160)
「ロールズは率直にまたもっとなことに、道徳的発達の全体は根本的なところで最初期の段階から小さな子供を養育する人々の愛情に満ちた手助けと、この発達が生ずる環境の道徳的特徴――特に、正義――に基づいていることを認める。」(p.161)
「ロールズが家族の内部での正義を無視していることは、ロールズの道徳的発達の理論が要求していることと明らかに緊張関係にある。家族の正義は社会の正義にとって根本的に重要である。」(p.161)

4フェミニスト批評の道具としてのロールズの正義論
「ロールズはそうしていないけれども、正義の原理を定式化し適用するさいに、関連する両方の性の立場を一貫して考慮しなければならないということは明らかであるように思われる。とりわけ、原初状態における人々は女性の視点を特に考慮しなければならない。」(p.163)
「第一に、基本的な政治的自由に次いで最も欠かせない自由は「職業の自由な選択という重要な自由」(p.274.)である。家庭の外でさらに賃金労働をしていようといまいと、女性は家事と子供の世話についてはるかに大きな責任があるというジェンダー体制の中心にある仮定と慣習的な期待が、この自由を危険に晒していることを見て取ることは難しいことではない。」(p.164)
「第二に、ジェンダーの廃止は政治的正義についてのロールズの規準を満たすには不可欠であるように思われる。平等な形式的政治的自由が原初状態にいる人々によって支持されるだけでなく、こうした自由の価値におけるいかなる不平等(例えば、貧困や無知といった要因が及ぼす影響)も格差原理によって正当化されるのでなければならないとロールズは論ずる。」(p.164)
「第三に、原初状態における合理的な道徳的人間は、自尊心あるいは自負心を確実にすることを非常に重視するであろうとロールズは論じている。[...]この基本的な価値のために、原初状態にいる人々は自分が男性になるか女性になるかを知らなかったら、きっと両性間の徹底した社会的経済的平等を確立することに関心を持ったであろう。」(p.165)
「こうして、ロールズの正義論は暗黙の内にジェンダーによって構造化された社会制度を潜在的に批判している。」(p.165)
「正義の原理を自分の個別的な特徴や社会における地位を知らない代表者が全員一致で採用するとすれば、彼らは心理的そして道徳的発達において、本質的に同一でなければならない[...]。現在両性間に見られる違いに影響している社会的要因は――女性が親であることから女性の服属と従属のあらゆる現れまで――ジェンダーのない制度と習慣によってとってかわらなければならないだろとういうことをこのことは意味している。」(p.167)

*メモ
一読して、議論がひっくり返っているか、循環しているか、そのように思える。(説明は後ほど)。さて、こうした議論をヤング先生はどのように位置づけて使おうとしているのだろうか。『正義と差異の政治』にも言及があったと記憶するが、それも後ほど↓。
ちなみに訳者の高橋久一郎さんは千葉大の教員で(ギリシア哲学専攻だと思う)、私は1993〜94年度、千葉大で助手をしていた。この文章を昨日初めて読んで、彼の解題の注の最後のところに「一通り書いた後で、立岩真也氏の家族論についての大部の草稿を頂いた。こうした問題を見てきた彼の議論の整理などを見ても、規範理論としてのフェミニズムはまだ未整理であるという私の印象は的外れではないと思う。もっとも、立岩氏自身はそのように読まれることを迷惑に思うかも知れない。」(p.171)と書いてあって、たまげた。(ちなみに、私はそのように読まれることを迷惑には思いません。)
何をお渡ししたのか記憶にない。『WORKS』というその頃作った草稿集だろうか。ちなみに千葉大にいたころに書いた文章では以下のものがある。(あるいは、これか、これの草稿をお渡ししたのだろうか。)
19940300 「夫は妻の家事労働にいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」
『人文研究』23号(千葉大学文学部紀要)pp.63-121(1994年3月)220枚

*『正義と差異の政治』における言及
・「例えば、幾人かのフェミニストは現代の正義論が家族構造を前提としており、性や親密性や子育てや家事労働を含む社会関係がどのように組織されるのが最もよいのかを問うていないことを指摘している。(see Okin, 1986; Pateman, 1988, pp.41-43)」(p.21) ・(ギリガンなどの論を紹介した後)「もっと最近になり幾人かのフェミニストの理論家たちはこの正義とケアとの対立を疑問に付するようになってきた」(Freidman, 1987; Okin, 1989)
・「例えばスーザン・オーキンは、ロールズの原初状態のアイディアを、正しい結果に到達するために社会におけるあらゆる特殊な位置や視座を考慮にいれる過程として再構築している。さらに普遍主義的なカント流のアプローチと異なり、彼女は、すべての人のものの見方を考慮にいれるということは、感情に理性を対立させてり特殊性を排除することではないと示唆している。実際、それは、あらゆる特殊な位置や視座に共感できる道徳を根拠づけようとする人(moral reasone)能力に依存しているのである(Okin, 1989 cf.Sustain, 1988)」(p.105)
・Okin, 1978 (p.110)


だいやまーくIris Marion Young, "Mothers, Citizenship and Independence: A Critique of Pure Family Values," in Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy and Policy, Princeton U Press.
=1995: "Mothers, Citizenship, and Independence: A Critique of Pure Family Values," Ethics, Vol. 105, April, pp. 535-556.→reprinted in Uma Narayan and Julia J. Bartkowiak, ed., Having and Raising Children: Unconverntional Families, Hard Choices, and the Social Good (University Park: Penn State Press, 1999), pp. 15-38.
=1996: 田坂さつきによる紹介が『生命・環境・科学技術倫理研究資料集(続編)』(千葉大学), pp.16-22 にあり 7p.=B4で4枚

「結婚している両親から構成される家族が道徳的にすぐれている」という価値判断がある。このような価値判断は正当なのか。ヤングはこの点を問題にする。
ギャルストン(Galston, William)に対する反論。

1 母子家庭の貧困
母子家庭の子供が、情緒・強調性・学歴等において劣っているという調査結果
問題は母子家庭の貧困にあるとする。
2 家族における女性の従属
ギャルストンは男女の不平等、すなわち男性の優位という事実に注意を払っていない。
離婚した多くの女性が再婚を希望しないのは、自己中心的な楽しみを追求したいためではなく、不当な隷属関係に再び入らないためである。
3 自立(independence)
2つの意味を区別。「自律(autonomy)」正当な範囲において、他者に従属することなく、他者の脅しや懲罰を恐れることなく、自分の人生に関して選択することができること。「自足(self-sufficient)」自分の必要を満たすために、他者からの援助を必要としないこと。
自足できなくても自律できるのがよい
4 社会貢献
社会貢献と定職に就くという意味での自立とを同一視してはならない
・多くの収入を得られる仕事ほどど社会貢献しているとは考えられない
・雇用の機会を増やすべき
5 家族の価値の多様性と国家政策
両親により構成された持続的家族でなくとも、市民的徳を備えた子供が成長することは可能。
国家が行うべき支援
・出産と避妊の自由
・父親の養育義務
・福祉改革
・完全雇用と収入の保証
・母親の家(国家が用意する共同生活の場)

*メモ
基本的に異論はない。
ただこの論は、シングルマザーでも(しかるべき環境があれば)子どもはちゃんと育つのだという言い方になっているのだが、そしてそれはまったく正解なのだが、もしそうでなかったら、その時にはどう言うのかという問いは立てられる。
それでも自由だ、と言いたくはなる。しかし、より深刻なケースを考えるならそうそう簡単にも言えないはずだ。さて...という問いは残る。
ギャルストンについての言及は『正義と』ではp.24などにある。

cf.
Drucilla Cornell 1998 At the Heart of Freedom: Feminism, Sex, and Equality, Princeton UP=2001 仲正昌樹他訳,『自由のハートで』、情況出版、本体3200円、ISBN4-915252-52-3 第4章 養子とその所産:家族法、ジェンダー、性差を再検討する

◇メモ

c)
女性の不利益がケアの仕事に価値をおかないことに由来しているとして、なぜケアの仕事に価値がおかれないのか。(それは女性が低い位置に置かれているから→女性のする仕事には価値が置かれなくてもよいとさされるから... というのは循環している。)
一つに、なぜケアの仕事に価値がおかれないのか。それに対する答が正解であることを証明することは多分できない。ただ、以下のように考える。
立岩真也 2003年11月05日 「家族・性・資本――素描」,『思想』955(2003-11):196-215 資料
「世話をする仕事を取り上げよう。この仕事の待遇がよくない。それは女性の仕事だとされるから、そして女性の仕事は低く扱われるから、と言われるのだが、さらにもう少し説明が必要だろう。なぜ格差があるのだろう。
他方に待遇のよい仕事、仕事Aがある。その仕事を遂行する能力の希少性がある場合のあることを認めよう。この社会の機構を信仰する人は、ゆえにその格差は当然であると言うだろう。けれども、この希少性、ゆえに高い対価が当然であるという構造がどこから出てきているのか、何が希少な仕事を生み出すかである。技術のことを考えてみる。ただしここではそれを狭義の科学技術と考える必要はなく、様々な商品開発や経営戦略、組織運営術が含まれる。今までにないもの、他と少しだけでも異なるものを作り出すということがそれなりに特殊な能力や訓練を必要とすることは認めよう。そしてそうした能力の存在自体は、むろん何のためにその才能を使うのかということがあるのだが、ひとまずよいことであるとしよう。しかし、だからといってこの仕事が特別に遇されるのが当然だとは言えない。なぜ相対的に新しいものが求められるのか。その新しい技術によって生産されるものの取得が権利として認められており、この規則の下ではその相対的な優位が収益の格差をもたらすことがあるからである。ゆえに、そのような仕事について、選抜や優遇がなされる。これはあくまで先んずるものに利益が与えられるという規則の下に生じていることである。所有の規則が競争と成長への衝迫を作り出している。財に向かう人間の無限の欲望が資本制の運動を作っているとただ考えるなら、この面を見逃してしまう。
比べて低く遇されている仕事、仕事Bがあり、その一部に世話をする仕事がある。このことについても働く側が多くの場合に未組織で交渉力が弱い等幾つもの要因があり、それを単純化して捉えるべきでないことはふまえた上で、今述べたことと対になる要因だけをここではあげる。
この仕事の待遇をもっとよくすべきだと考える人たちは、そのことを言うために、この仕事の「専門性」を示そうとしてきた★18。行う人、技能の希少性を言うのである。そのような部分があることを否定しない。しかしその上で、この言い方にはやはり限界がある。例えば介護と呼ばれる仕事の相当の部分は、自分で行っている人もいるその日常的な行いを手伝ったり代わりにすることである。それですまない部分はある。だが、例えば子育てもそのようなとても微妙な複雑な仕事でもあるのだが、同時に、多くの人ができてきてしまってきた行いである。難しいけれども、多くの人ができた方がよいし、なぜだかできてしまうことである。
そして、この仕事は、基本的に贈与としてなされるし、またなされるべき行いである。例えば子を育てることは生産者の生産であったりもし、ゆえに将来見返りがある行いでもある――そしてマルクス主義フェミニズムと呼ばれる流れは多くこの部分に注目し、見返りがあってよい労働に見返りがないことを問題にしてきた――のだが、しかしだからその行いをなすのではなく、例えば生産者とならない人もまた育てるのであれば、それは基本的には贈与としてなされる。消費者としても生産者としても人間を必要とする人はいるから、人間を生産すること、子を産むことは持ち上げられるのだが、実際にここで起こるのは別のできごとである。この社会で優遇される仕事が相対的な違いを作り出すことを目指すのに対し、これは絶対的に個別なものの支持である。
間違えてならないのは、贈与であることはその仕事が無償の仕事であることをまったく意味しないこと、むしろそれが社会の義務としての贈与であるなら、その実現の形態として社会が支払うことが求められるということである★19。つまり、生産されたものの一部をその仕事に、その仕事をする人たちにまわすことになる。この行いが基本的に格差を縮小する方向に作用することをさきに述べた。そして、この仕事を十分に行おうとするなら――むろん「社会化」することによる効率化という側面もまた確実に存在するのではあるが――それが、生産の拡大につながる部分を削ることになることが懸念される。だから、1)格差を維持したいという力が働く限り、そして2)成長のためにそのような部分を無視しようとする力が働くと、この仕事は劣位に置かれる。
こうして世話する仕事は現実には次のように現われるだろうし、実際現われている。まず、私事として実際上は家族のこととされる場合とそこに社会が入ってくる場合とある。前者、依然として実際の担い手として家族が関わる場合でも、そのための費用を家族が支出し実際の行いは「外部化」して家族成員自身は別の仕事に就く場合でも、また後者の場合、具体的には政府を介して支出する場合にも、1)格差を是認し、2)成長を優先し、その結果としての3)生活の困難をそのままにする社会、仕事Aが優遇され仕事Bはそうでないという仕組みになっている社会では、その担い手は、そしてつまりは世話される人たちは、よく扱われることがない。
この仕事から逃れて仕事Aに就く人もいる。しかし、その仕事にそう多くの人が必要なわけではないから、Aの枠はすぐに一杯になる。そしてBの仕事についてもとくに世界に広げてみるなら、世界にはたくさんの人がいるから、供給不足からその対価が自然に上昇するということにもならない。社会的な贈与の性格が十分でなければその待遇は低く抑えられるし、私的に雇用される場合も同様である。
こうして、3)人々の生活を最低限維持しつつも、1)格差を是認し、2)成長の方に促す機構・規則のもとでは、仕事AとBの格差はなくならない。とすると、この仕事の区別と性差とを完全に切り離してしまうべきであり、また切り離すことができるのであれば、「資本制」は性差別を必要とする、性差別を帰結するとは言えないが、切り離せないあるいは切り離すべきでないと考える場合には、そうではないことになる。」
・すなわち、所有の規則、&所有の規則のもとでの競争と成長への圧迫が存在するとき、に、ケアの仕事でない仕事のある部分はより高い位置を与えられ、ケアの仕事を含むある部分はより低い位置を与えられるということだ。

一つに、女性がなぜケアの仕事をするのかという問いがある。
以下、立岩真也 2003年11月05日 「家族・性・資本――素描」,『思想』955(2003-11):196-215 資料
「男はしかじかの性格で、女はしかじかの適性があるといったことのどれだけがもともとのもので、どれだけが作られたのかはわからない――そもそもこの種の問いがどこまで有効なのかという問題がある。ただとりあえず一つ、女が子を産むということはある。もちろん、それが面倒な人はやめればよい。また例えば、忙しいから代わりに産ませることも可能ではある。だが少なくとも、それを自らが引き受けようとする時には引き受けさせたらよいだろうとは言えるだろう。こうして統計的に女の方に多くそれが傾くのであれば、仕事の違いと性差とを完全に切り離すことはできない。
このように考えるなら、そしてここで述べてきたような所有と生産のあり方が存在する時代が近代だとするなら、近代を徹底することによって女性が解放されることは、ありえない。この時代のあり方について資本制という言葉を使うなら、性差別と資本制とが連関し連動していることを、他でなくここで辿ってきた道筋の論によって、論証することができる。」


UP:20031229(別ファイルの一部から作成) REV:20040118
アイリス・ヤング集中講義立岩 真也
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