(「自己責任」について・メモ)
立岩 真也 2004年04月14日,15
※(注記)2004年05月13日 別の取材を受ける→
メモ
◆だいやまーく2004年04月14日午後『AERA』誌よりEメイルと電話あり
◆だいやまーく以下、2004年04月14日 19:00暫定版
◇1)「危険があることがわかっていて、止める人もいるのに、
あえてそれを行い、結果、予測された危険な事態に巻き込まれた。
その人をそこから救い出す努力を他人がする必要はない
(あるいはするべきではない)」
という理屈だろうか。
◇2)しかし、まず、A:(準備不足・経験不足で荒天が予想されたのに
出かけて)山で遭難した人がいても、仕方なくではあっても、救出に行く
ことにはなっている。それはよしとするなら、1)の理屈を全面的には
認めていないということである。
そしてこの度のことB:についてはほっとけばよいとするなら、
それは1)の理由からではない
(なぜならAについては救出を認めているから)
とすると、それはAよりもB(この度のこと)の方が、ほっとおくべき
であると考えているということだが。
つまり、山に行くより、イラクに行く方が、すべきでない(その結果に
ついて放置しておくべき)度合いが高いと考えているということだ。
私はそうは思わない。
◇3)
2)でどんな場合にも、(仕方なくかもしれないが)救いに行くだろうと
述べた。さらに、それが正当化されるもっと強い理由が、普通に考えれば
この場合にはある。
私は拘束された3人の思想や行動のことをよく知らないけれども
よいこと(とその人たちが思うこと)のために(危険は知った上で)
行ったのではあるだろう。
例えば、大きな危険があることを知って、人を助けに行った人自身もまた
案の定、危険な状態に陥ったとして、その場合、やはりその人を助けに
いくだろう。
1:その「よいこと」が別の人にとって「よいこと」であるかどうかは
別だ。しかしそのよしあしについては判断は判断として、それと別に、
その人たちが陥ってしまった事態から救うべきだとは言える。
繰り返すと
それは上記1):どんな理由であろうと という理由と
上記2):「よいこと」をしようとしていた という理由とによる
2:そしてそのことと別にことのよしあしについて論ずればよいし、
その行いやその主義主張を非難したい人は非難すればよい。
*例えばその人が、イラクの人に、アメリカ的価値に対する
「寛容」を求めているのだとすると、その人は一貫していない
ことになる。
◇ たしかに「自己責任」という言葉、ここ何年かの間の流行り言葉
でもある。つまり、自分の力で自らを救えないものは、救われなくて
よいというのである。この手の話をまったく私は支持しない。
(このことについては今度書いた本
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004b1.htm
に書いた。)
だがそのようなことがたしかにいろんなところで言われている。
覚えているのでは、(薬害でエイズになる人はかわいそうだが)
ゲイでエイズになる人は「自業自得」、だとか。
(こういう言い草に反論するのは、上述した事例よりはすこし
難しいかもしれない。しかし、やはりこの言い草がおかしいことは
言えるはずだ。)
このような規則があると、それで得する人(持ち出しせずにすむ人)
はたしかにいる。だからそういう人にはこのきまりは受ける。
これは当たり前。
ただ昨今の状況をみてみると、どうもあまりたくさんは得しない人
の中にも、この種のお話に乗っている人というか、乗せられている
人がいるようだ。
これはまたどういうことだろう? その、それなりの社会背景といった
ものをあげることはできるだろうし、それは多分当たっている。
ただ、それとともに、(あまりよく考えず、とにかく)攻撃的なことを
言ってもよい、ということになってしまっているということもあるように
思う。それはやはりよくなくて、たいへん見苦しい、と私は
言いたい。
◆だいやまーく夜電話あり 少し話をする。
◆だいやまーく夜Eメイルあり。文案あり。
◆だいやまーく2004年04月15日午前、メイル(文案)拝見。
文案:「見殺しにするという意味になる言葉が普通の人の口からすらっと出るようになったことにドキッとする」
と話す立岩真也(たていわしんや)・立命館大助教授(社会学)も、「自己責任」という言葉が流行語になってきたと感じる一人。そこにあるのは、自分の力で自らを救えないものは、救われなくてもいいという考え方だ。たとえば薬害でエイズになる人はかわいそうだが、ゲイでなった人は「自業自得」と言った人がいた。自己責任の原則が浸透すれば、責任を問われずに得をする人がおり、そうした人たちに支持されるのは当たり前だ。だが、どうも得をしない大勢の人たちも、その考えに乗っているふしがある。
その理由として、なにがしかの社会的背景を指摘することもできるだろうが、と前置きしたうえで立岩さんは言う。
「とにかく、攻撃的なことを言ってもよいということになってしまった。しかも言っていい度合いが大きくなった。これはよくないし、たいへん見苦しいことだと思う」
「見殺しにしてしまえという意味の言葉が普通の人の口からすらっと出るようになったことにどきっとする」
と話す立岩真也(たていわしんや)・立命館大教授(社会学)は、「自己責任」という言葉がとくに九〇年代以降、経済や政治の世界でむやみに使われ、攻撃的な気分にもっともらしさをかぶせる言葉として広がってしまったと考える。自分の力で自らを救えないものは救われなくてもいいとなると、人のために何もせずにすんで得をする人がいる。だから自己責任がそういう人たちに支持されるのはわかる。だが、どうも得をしない大勢の人たちも、乗せられてしまっているふしがある。
そこになにがしかの社会的背景を指摘することもできるだろうが、人々の気持ち自体がそう変わったとも思えない、と前置きしたうえで立岩さんは言う。
「ただ、それは自己責任だとか、まったく無責任に攻撃的なことを言っても許容されると思われるようにはなってしまっている。しかも言っていい度合いが大きくなった。これはよくない。とても見苦しいことだと思う」
◆だいやまーく2004年04月15日 11:00 文案改作→発送
改作版:「見殺しにしてしまえという意味の言葉が普通の人の口からすらっと出るようになったことにどきっとする」
と話す立岩真也(たていわしんや)・立命館大教授(社会学)は、「自己責任」という言葉がとくに九〇年代以降、経済や政治の世界でむやみに使われ、攻撃的な気分にもっともらしさをかぶせる言葉として広がってしまったと考える。自分の力で自らを救えないものは救われなくてもいいとなると、人のために何もせずにすんで得をする人がいる。だから自己責任がそういう人たちに支持されるのはわかる。だが、どうも得をしない大勢の人たちも、乗せられてしまっているふしがある。
そこになにがしかの社会的背景を指摘することもできるだろうが、人々の気持ち自体がそう変わったとも思えない、と前置きしたうえで立岩さんは言う。
「ただ、それは自己責任だからほっとけとか、まったく無責任に攻撃的なことを言っても許容されると思われるようにはなってしまっている。しかも言っていい度合いが大きくなった。これはよくない。とても見苦しいと思う」
cf.
◇立岩 真也 1998年06月20日
「自己決定→自己責任、という誤り――むしろ決定を可能にし、支え、補うこと」
『福祉展望』23:18-25(東京都社会福祉協議会)
*過去の『AERA』関連
◇2001年05月21日浜田敬子「デフレ時代の幸福感」(訪問取材での発言を紹介)
『AERA』14-22(700):8-13
http://www.asahi.com/column/aic/Mon/d_aera/20010514.html
◇2001年01月08日「21世紀動かす40代100人」アンケートに回答
回答全文
『AERA』14-1(2001-No.1・'01.1.1-8 合併増大号):8-13,29-36
◇1999年06月20日
(男女産み分けについてのコメント)
『AERA』
http://www.asahi.com/paper/aic/Mon/d_aera/19990621.html