*以下に収録
◇立岩真也・定藤邦子 編 2005
『闘争と遡行・1 於:関西・+』,Kyoto Books
※(注記)購入できます。
*第1稿
生まれる前の段階で遺伝子の情報等を知ることを出生前診断と言う。胎児がいる子宮の羊水等を検査する。着床前診断はさらに前の段階、受精卵を検査をする。その検査結果を使い人工妊娠中絶を行う。着床前診断なら受精卵を子宮に戻さない。こうして例えばいずれかの性の子どもが生まれないようにできる。神戸市の医師が学会の規定に反してそれを行い、ことが明るみに出るといったんは謝罪、その後、学会を除名されると不当だとして提訴。こうした一連の出来事が報道された。
出生前診断自体については様々考えるべきことがあるのだが、このたびの事件は御粗末なもので、あまり真面目に論じようという気にもなれない。ただ一つだけ、ごく当たり前のことを述べる。それは、依頼された主題でもある。その人は憲法第13条の生命・自由・幸福追求の権利を盾にとるそうだ。また「自己決定権」から自らの行いが正しいと言いたいらしい。しかしそれは間違っている。
自由とは自分のことについての自由であり、自己決定とは自分のことについての決定である。そうでないと意味をなさない。また、他人が自分のことを決めてよいとなったら、むしろ反対の意味になってしまう。
さて、障害の有無であれ性別であれ、ある性質の子を生まないという決定は、何についての決定か。それは自分のことについての決定ではない。どんな子なら生まれてよいか、どんな子は生まれてこれないかという、他者についての決定である。胎児を殺してならない存在=人だと主張する中絶反対論者の立場に立たなくとも、このことは言える。それは、他者のあり方の決定であり、どんな他者を自らが、そして社会が迎えるかという決定である。自由の尊重とは他者のあり方を勝手に決めてならないということだ。ならば、この行いはむしろ自由の尊重と反対の行いである。
むろん親は子に強く関係する。しかし、だから子のことをなんでも親が決めてよいとは言えない。また子のことを親が決める権利がいくらかあるとして、少なくともそれを親の自己決定権だとは言わない。こうして、自らの自由、自己決定という論理から、出生前診断・選択的中絶を正当と言うことはできない。
ただ自己決定だけが理由に持ち出されるのではない。例えば兵庫県では1966年から「不幸な子どもの生まれない運動」が始まり、69年には衛生部に対策室が置かれた。73年から74年に抗議を受け、一部事業や対策室の廃止、名称変更がなされた。このことを多くの人は忘れている。だがその発想がなくなったわけではない。だから、こちらの方はどうなのか。抗議した人たちは何を言ったのか、それを知りなおすこともまた必要なことだと思う。
*確定稿?(20040506送付)における変更(第2段落のみ)→第2段落だけ掲載
出生前診断自体については様々考えるべきことがあるのだが、このたびの事件では主張にも行いにも整合性や一貫性のないところが多く、あまり真面目に論じようという気にもなれない。ただ一つだけ、ごく当たり前のことを述べる。その人は憲法第13条の生命・自由・幸福追求の権利を盾にとるそうだ。また「自己決定権」から自らの行いが正しいと言いたいらしい。しかしそれは間違っている。
立岩真也(たていわ・しんや)
1960年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。専攻は社会学。
『私的所有論』(勁草書房)で出生前診断について考察。他の著書に
『弱くある自由へ』(青土社)、
『自由の平等』(岩波書店)。ホームページ http://www.arsvi.com。
cf.
◇立岩 真也 2004年02月04日 「(コメント)」
『読売新聞』2004年02月04日朝刊(2004年02月03日取材)
◇立岩 真也 2004年04月08日
(大谷氏の一件についての取材に)
新聞→掲載されなかったもよう
◇松永 真純 200112 「兵庫県「不幸な子どもの生まれない運動」と障害者の生」
『大阪人権博物館紀要』5:109-126→立岩・定藤編[2005]*
*立岩真也・定藤邦子 編 2005
『闘争と遡行・1 於:関西・+』,Kyoto Books
※(注記)購入できます。
◇兵庫県 1968 『不幸な子どもの生まれない施策――2カ年間のあゆみ』
◇兵庫県 1971 『不幸な子どもの生まれない施策――5か年のあゆみ』
◇兵庫県衛生部不幸な子どもの生まれない対策室 1973 『幸福への科学』,のじぎく文庫(兵庫県立のじぎく会館) <434>*
* 立岩
『私的所有論』p.434で言及
「兵庫県衛生部に「不幸な子どもの生まれない対策室」が置かれ、「不幸な子を産まない県民大会」が開かれ(一九七三年十月)◇08、同月、日本母性衛生学会で「不幸な子供を生まないために」といった特別講演がなされる。彼らの提起がなければ、それが良いこととしてそのまま公的な衛生・福祉の施策として通ってしまうような状況にあって、これは重要な提起だった。だった、というだけでない。[...]」(p.434)
◇08「普通の人なら、一生に二億円ぐらい収入がある。ところが異常児は、はじめからプラスはなく、使うことばかりだ。だから私は、なるべくそういう人を出さないことが、本人にとっても社会にとっても幸せだと思う。」(一九八七年七月七日NHK「ETV8問われる生命倫理2――胎児診断」での当時の兵庫県知事の当時を回想しての発言、白井泰子[1988:116]に掲載)。文献として兵庫県衛生部不幸な子どもの生まれない対策室[1973]。紹介と批判として谷奥克己[1973]。当時の他県、そして国の動きを別に調べて記録しておく必要がある。」
◇
http://www.meijigakuin.ac.jp/~katos/print-B2.htm
◇
http://www.fsinet.or.jp/~atom/news80.html
◇
http://www.lifestudies.org/jp/yusei01.htm
◇愛媛県社会福祉協議会 1969〜 不幸な子どもの生まれないための運動
http://www.ehime-shakyo.or.jp/s1/sn-1-1-1.html
■しかく言及
◆だいやまーく立岩 真也 20130520
『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+
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[kinokuniya] ※(注記)