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性の「主体」/性の<主体>

立岩 真也
第35回日本=性研究会議「性の主体性」
1998年10月24日(土) 於:東京・品川 コクヨホール


だいやまーく要旨「性の「主体」/性の<主体>」(09/30送付)
*当日の報告は以下の本に収録されました。お買い求めください。

カバー写真 だいやまーく立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』
生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110
[amazon]/[kinokuniya] (注記) w02,f04

しかく『私的所有論』p.110
(第4章「他者」1節「他者という存在」3「他者である私」より)

「......
と同時に,私,私の身体は感受されるものであり,私が私のものとして制御する私ではなく,私があることと切り離し難くあり,あることの一部をなしていながら,他者にとってもまた私自身にとっても他者であるような私があり,私の身体があるだいやまーく02。「生命」「生命一般」が尊いということではなく,個別の他者が,さらに私のもとにあるものが他者として私に現われることが肯定される。私からそうした他者性を消去してしまうことの否定が「私の肯定」と呼ばれるものではないか。もちろん,そんなことを気にせず,いつも私が私の身体を道具として使えるのなら,それはそれでかまわない――同じことをこれから何度か述べるが,そこでは問題とされるべき問題は既に消失してしまっている。だがそうはできない時,侵襲される時,身体の受動性が受動的であることによって否定される時,それをさらに否定しきれずになお切り抜けようとなされることは,(例えば性的な)関係を断つこと,その関係を特殊なものとして他の関係から切り離すこと,私自身が能動者として振る舞うこと,他者によってではなく私によって私を制御することによって劣位を否定すること,あるいは私を,私の身体を私の本体から切り放すことである。これらは論理的な可能性を網羅した対応であり,例えばフェミニズムは厳密に論理的にこれらの一つ一つを試みていっただいやまーく03。それらの戦術の少なくともいくつかは実際に有効であり,有効であり続けるだろう。しかし,単に否定を否定することの可能性も残されてはいる。本書は,間接的にではあるが,その可能性を考える試みでもある。」

しかく「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」pp.68-72
『現代思想』26-7(1998-7):57-75(特集:自己決定権)

「......
しろいしかく9 畳まれてしまうこと
7・8で検討した範囲の決定は,実は自分のことの決定と言えるものではなかった。だから,自らについての決定という意味での自己決定を認めるのかという問いそのものに関わらないものだった。しかし他方に,たしかにその人のことだと私達が認めることについての決定,すなわち自己決定としてなされることがある★15。
自己決定が「論」として主張される時には,ずいぶんと曖昧でありながらあっけらかんとしていることが多い。他方で,特に自己決定を実践する人達のある部分に,妙な――というのは,苦しそうな――いさぎよさ,生真面目さがある。すべての要素を書き切ることができないから,ごくあっさりとあらかじめ断定的に言うが,それは,それが堅い自己決定であることに発している。また,二つの契機が併在していることによる。先には他者との関わり方における二つの道の間の選択が問題になっていたのだが,それが一人の者の内部に折り畳まれる。そしてその人に決定を委ねようとしながら,しかし割り切れない思いを抱くのもこのことのゆえである。どのように言うか,何をするのかが難しくなる。
自らを統制し,ある方向に向けて鍛練していくという至極単純な営みがある。それ自体は人生の時間の使い方の一つではあり,使い方としては悪くない。さらに他者との関わりが入ってくる場合がある。他者による承認が求められている。自らが自らを他者の要求に合わせて形作ることによって得られる他者による承認がある。この営みは,時にはうまくいき,そしてその人は満足するかもしれない。これはそれで終わりである。私達はおおむねこのようなことがうまくいったりうまくいかなかったり,それを繰り返して生きている。
ただ単にそれを楽しんでいるようにも思えないことがある。一つに,得たいもの,得なくてはならないものを得るために自らに対して抑制的に関わらざるをえないことがある(cf.立岩[1995])。一つに,なにかを克服しようとしている,あるいはなにかに抵抗しようとしているように見えることがある。例えば,自らを制御できなくなることに耐えられず,そのことによって死を決定する。このような安楽死への志向がある(立岩[1998a])。このこととある種の身体の統制,身体の支配は似ている。安楽死とダイエットとを一列に並べるのは不謹慎であるかもしれない。しかし,不謹慎であるにしても,共通する部分があると思う。
自らが制御することができないものとして訪れるもの,あるいは既に訪れてしまったものを,受け入れることができない,あるいはやりすごすことができない。あるいは,受け入れたり,やりすごしたりできないこと,そのようなことがあること,そのことが認められない★16。この時,身体を自身の制御下におこうとすることによって,それを避けようとする,少なくともその到来を遅らせようとする。また例えば身体を肯定できない時,自ら身体を否定することによって,それを肯定していないことを自らに示し,肯定しないことを自らに確認することによって,肯定されないものから距離を取り否定的に対する自らを確保する。
そして,今述べたことにしても,多くの場合自らに対する自らのおりあいのつけ方が問題になっているだけではない。他者との関わりが入っている。
一つに,私は他者にとって有用であることで,他者にとっての自らの価値を高めようとしている。しかし,それがうまく行かず,私は私を否定しようとする。そのような営みがたしかにある。しかし,何かができたりできなかったりする私は,他の誰かでもよく,そもそも私でなくてもよい。しかしこの私にとっては,この私,が問題なのだとすると,求められているのは,もう一つ,単に私が私であることが他者に受け止められることである。このような他者による承認が求められている。
しかし受け入れられていない,否定されていると感じている。その否定を否定したい。しかしその人は否定を単に否定することができないと思う。この時,私の身体を譲渡すること,あるいは酷使することは,私自身が私(の身体)を否定することによって,その否定を否定する営みであると考えられる。私は私の一部を切り離し,切り放す。自棄という方法で否定を否定しようとする。しかし,棄てられるものもまた私の一部であるなら,自棄し続けることはできない。でなければ本当の死が訪れる。私は,その私を自らが終わらせることによって,他者による否定を超える。決定しえないものであった存在の存在が終わり,決定だけが残る。残りはしないが最後に存在を終わらせる決定がなされ,決定が存在を終わらせる。これは比喩ではない。文字通り生命を終わらせることが,自死が「解決」となる。
制御能力が人であることの指標であるとされ,それを有していることが生存を認められるために必要とされる。これが優生を駆動するものの一つだった。ここにあるものもそれとその中身は同じものである。自己を決定すること,自己を制御すること,堅い自己決定。これを第一のものと受け取ること,受け取らざるをえないことが基底にある。あるいは,それを否定したいのだが,否定するために同じものを使ってしまうことに発する。ただ違いは,ここではそれが自らに折り畳まれているということである。それがその人において苦しさを作り出す。それは,一つには,自らが自らの存在に対して否定的に関与してしまうからであり,一つには,そのような否定を否定しようとする時にも,その否定の方法として自らが否定したいと思うものと同じものを使ってしまうからであるが,特にここでは,その行いが自らによるものであることによって,それをどこかから押しつけられたものとして自らから引き離し否定することができないからである。

しろいしかく10 弱くしてしまうこと
この時に,周囲にいる者もまた,その人の決定としてあるものに対していったい何を言いうるのか,と思う。一方で,自己決定を認めると述べた。他方で,条件が問題になると述べた。とすると,どちらが優先されることになるのか。問題が言えたとして,それは一人一人の決定に優越するのか。

「彼らは,自殺についてしていけない唯一の問いだというのに,「なぜ」という問いを問わずにはいられない。
「なぜだって? 単に,私が望んだからだ」。[...]
博愛主義者たちへの忠告がある。本当に自殺の件数が減ることをお望みならば,十分に反省された,平静な,不確実さから解放された意志をもって命を断つ者しか出ないようにしたまえ。自殺を損ない,惨めな出来事にしてしまう恐れのある不幸な人々に自殺を任せてはならないのだ。いずれにせよ,不幸な者の方が,幸福な者よりも遥かにたくさん存在するのだから。」(Foucault[1979=1987:186-188])

自己決定が最初にあるのでなく,自己決定を承認するのは存在を認めることの一部であると述べた。ただ,その存在を積極的に表わすものとして,ひとまず言葉がある★17。その当の人から決定が表出され,積極的にその人に現われているのがそれだけである時,それを受け止めざるをえない。
こうして,自己決定を否定することができないと思う。と同時に,ある種の自己決定に対してそれをそのまま受け入れることをためらわせるものがある。そして,そのためらいは,その人の決定が,存在に破壊的に作用する装置に導かれ,その存在を否定するものとしてあることに対してのものである。だから両者は同じところから発している★18。
その意味で,自己決定を認めることとある決定を疑問に思うこととは矛盾しない。しかし,同時に,両者は同じところから発しているから,いずれをとるかを決めることが難しくなる。けれども,ここで自己決定自体が否定されているのではなかった。ある決定に際して作動している力,それによって生じるであろう結果,これが問題にされている。真空になされる決定はない。決定の条件を問わないということは,現在の決定の条件,決定に関わる規範・価値を肯定するということでしかない。だから,その人の決定を最終的に止めることができるかどうかはさておくとしても,条件を問題にしうる。このことは3で確認した。その人はある条件下では最適の決定を行なったのかもしれない。しかしそれは別の条件の下では行なわれなかった。その条件を認めるべきではないなら,その決定をそのままよいものとして受け入れるわけにはいかない。
ここには間違いを正すことも含まれる。例えば,なにかを屈辱とし,その時には死ぬのがよいと教えられている社会があり,その教えが決定を促す条件となっている時に,それを教えたことは間違いだったと言うのである。価値に関わることについて判断をさし控えようという主張の含意を理解しながら,しかし間違い(だと判断しうること)を教えてしまった時には,そこに教えられた価値は既に存在してしまっているのだから,それは訂正されるべきだと言いうる★19。
だから,決定を作動させている外的なそして内的な条件を動かすことができ,除去できるなら,その時に,自己決定をそのまま認めることができる。まったくの恣意としての自己決定,なにか了解しがたい趣味としての自己決定を支持する者にとっても,むしろその者にとってこそ,これだけが行うことのできることである。
困難は,まず現実に条件を変更する困難である。例えばその人は,できるなら今の選択肢を選びたくはないと思っている。しかし,今現在の条件のもとではそれが最善である。この時に,条件が変わらず,しかもその決定が禁じられたとすると,そこでその人ができる次の別の決定は,むしろより望ましいものでなくなる。だから,所与の条件を変えないまま選択を禁じることは空しいか,有害である。完全に変更の可能性が閉ざされているのでなければ,変更をやってみるほかない。
そして時間が既に流れ,かつて与えられた条件が人の中に内在してしまっていることによる困難がある。よく信じている人がいる時,信じるに至る歴史があり,信じているという事実がある時,それを否定することはその人自身を否定することでもある。それを抑止して,別のあり方に促すことは,より大きな苦痛を与えることでありうる。ただ,この時にも,何も言えないのではないはずだ。
以上から明らかなことがある。自己決定,インフォームド・コンセント,そしてパターナリズム★20で解決できない問題があるということである。
第一に,自分で決定しその通りになった結果得られるのでないものを望んでいる時に,自己決定という解決はありえない。むしろ,自己決定しなくてはならないことによってその者はその場に追いやられたのだから。このような時,4に見た自己決定,自分が自分を選択すること,その能力を身につけること,そのために努力すること,これらによって自らの置かれている状態を脱すること,これは端的に不可能である。
第二に問題とされる範囲。インフォームド・コンセントでは情報だけが与えられる。それは,例えば,あなたの家族は負担することができないとか,この病院には人工呼吸器がいくつしかないとか,そういう情報である★21。パターナリズムの多くも状況を所与とする。その上で,正常な自己決定能力を有していない者に対して,その欠落を代理しようと入ってくる。それに対してここで問題にされてきたのは,判断能力といった個人の能力・資質に還元されることのない条件,決定が行なわれる状況である。
第三は強さと弱さに関わる。自己決定論は強い人間を前提にしており,弱い人に対してパターナリズムが適用されるのだと言われる★22。しかし,ここで問題にしたことはこれと違う。当の人は十分に強く,そして冷静に賢明な判断をしているのかもしれない。しかし,このことと,そうしないでもよいではないかとその人に言うこととは矛盾しない。むしろ多くの行いは,その人が強いことから,少なくとも強くあろうとすることに発している。強いことによって弱くなっているのである。
だから,一つにはまったく物質的な諸条件,決定が可能になるような,同時に決定しないことが可能になるような諸条件を造り出すことである。
そして一つには,考えて,言うことである。例えば,強くあろうとするその思いはどこから来ているのだろうか,考えてみると強い人が一定数いた方がなにかと都合がよいくらいの理由しかなく,それ以外には根拠はなさそうだと,もっと弱くあればよいのだ,もっと弱くあってよいのに,と言うことである。それはおそらく,過剰なものを差し引く行いである。もっと積極的には,その人が条件をつけずに肯定されること,少なくとも許容されること,ということになるだろうか。けれど,それがどのような意味で可能なのか,私にはよくわからない。少なくとも,肯定し続けることができるようには思えない。ただ,肯定されることへの欲望もまた一つの症状であると言えるかもしれない。否定が肯定への衝動を形作っているのだとすれば,ともかく肯定される時,肯定への衝動もまた終わっている。その意味で,肯定の過程とは,構築されるとともに解体されていくような過程であるのかもしれない。★23」


......以上......

*以上で一部を引用した「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」は立岩『弱くある自由へ』に収録されました。


UP:1998
立岩 真也
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