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『全障連』No.4


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しかく文字起こし


表紙
SSK
全国障害者解放連絡協議会 No.4

SSK通巻第374号
昭和46年第3種郵便物認可
昭和53年1月20日発行(毎月5、0の日発行〉)

写真省略「全障連第2回大会(77/8・13〜14)全大会の討論(於明治大学和泉校舎) 障害者を大半に、全国から2000名の参加をかちとり、障害者差別と闘う確固たる基礎を作った!」

表紙裏
全障連(全国障害者解放運動連絡会議)機関誌
No.4
発行日/昭和53年1月20日
編集人/東京都足立区西新井本町4-8 A-3-207
横塚 晃一
編集責任者/東京都足立区西新井本町4-18 A-3-207
関東ブロックTEL.03(870)0302
全障連全国事務局関東出版部
印刷/ハザマ印刷

全障連各ブロック事務局の連絡場所
くろまる全国事務局・関西ブロック
大阪市東淀川区南方町三〇六 大広荘
リボン社内
?〇六−三二三−四四五六
くろまる東北ブロック
仙台市木町通り二丁目三−一七 佐々木あて
富山哲夫
?〇二二二−七四−一一八三
くろまる関東ブロック
東京都足立区西新井本町四−一八A三〜二〇七
矢内健二
?〇三−八七〇−〇三〇二
くろまる北陸ブロック
富山市安野屋町一−九−三
河上千鶴子
?〇七六四−二四−七八三四
くろまる東海ブロック
岐阜県羽島郡笠松町松町円城寺六〇〇
戸田二郎
?〇五八三八−八−一八六四
くろまる中・四国ブロック
岡山中央郵便局私書箱4号
岡山「障害者」解放委員会
?〇八六四−七三−四七〇七(笠原)
くろまる九州ブロック
橋岡市東区馬出五−一九−四
(注記)青い芝の会気付(校正者注:(注記)、「青い芝の会」の前に印字があるが、穴が開いていて判読不能)
?九二−六四一−七七四三
(校正者注:「全障連〜七七四三」四角囲み)

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全障連機関誌No.4 目次
全障連第二回大会の報告と総括の視点...全国事務局...2
1・22〜23 54年度養護学校義務化阻止! 全国総決起集会ならびに文部省闘争へのよびかけ...教育小委員会...5
就学時検診反対!―地域からの闘いの報告―
就学時検診反対の六年間の経過...教育を考える会(がっこの会事務局)連絡会...7
(1)はじめに
(2)いたる所で就健反対の意思表示を!
(3)共に生き、共に学びあおう!共に闘おう!
私たちのなかまはどのようにして「普通学級」に入り、どのように闘ってきたか...ある親の報告(豊島福祉研究会)...9
特集/生活現場からみた養護学校とは
私は学校へ行けなかった...猪野 千代子...11
生活現場から養護学校とは...須田 雅之...12
全国各地のさまざまな闘いの紹介と提起
1・11差別弾圧裁判糾弾闘争に「障害者」開放闘争の力を結集し、勝利しよう...岡山「障害者」解放委員会...14
今日のろう労働者の状態...ー石坂善新堂における闘いにそって―...印刷・出版労働者の会...15
ろう労働者
手話の可能性と限界
底辺労働者の未来をかけて
全障研批判...リボン社理論委員会...19
はじめに
1.全障研発生課程概観
2.発達保障理論批判
3.全障研運動の本質
小委員会からの報告...25
1.全国闘争報告
2.赤堀さんの近況
交通小委員会からの報告...26
生活小委員会からの報告...27
1.生活小委員会としての今後の方針
2.具体的なとりくみ
編集後記...28

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全障連第二回大会の報告と総括の視点
全国事務局

1.全障連第二回大会は八月一三、一四の両日東京の明治大学に於て昨年の結成大会を五〇〇名も上回る二〇〇〇名の結集をもって克ち取られた。あいにくの雨天続きにも拘わらず、大会は初日から全国の闘う仲間の熱気にあふれ、昨年同様、時間不足に対する不満が続出する程の盛況ぶりだった。
初日の十三日は、午前九時半に副幹事の荒木氏が二回大会の開会を宣言した後、司会に北陸ブロックの平井氏を選び、続いて、病気療養中の横塚代表幹事からのメッセージが代読された。この後司会より大会全体を通じての障害者のコミュニケーションの保障の問題が提起された。それを要約すると(一)コミュニケーションは原則として当人同士が直接行うように務める。(二)不明な点は率直に聞き返す。(三)どうしてもわからない時は本人の意志に従う。(四)手話に付いても上と同様であるが、現状においては手話通訳をおき発言のペースや内容にもそれぞれが考慮をはらう。以上が昨年のコミュニケーションをめぐる討論の結果出された一定の結論であった。その確認をふまえて支援連帯の挨拶として、まずこの一年間赤堀奪還闘争を共に闘ってきた全国「精神病者」集団及び赤堀闘争全活からのアピールを受け、次いで日本社会党の目黒議員、更には車イス乗車拒否問題をめぐってまだかなりのすれちがいがあるとはいえ全交運バス共闘会議からのアッピールをも受けた。この後八・九の最高裁による差別的、反動的上告棄却のため急きょ参加出来なくなった部落解放同盟との連帯を全員の大きな拍手で確認した後議長選出に移った。そして議長団に関東ブロックの福田、村田、関西ブロックの福永の3名を選出し、そのまま事務局長よりの基調提起を行っていった。時間の関係で提起は細かい点を省略して行なわれ、討論及び承認は各分科会での討論を受けて、二日目の総括集会で行う事が提案され拍手で確認して全体会を終えた。
2.午後からはそれぞれの分科会に別れて討論が進められた。今年は、昨年生活分科会と一緒になっていた交通問題を独立させ、併せて六分科会一四分散会をもち、一三日午後八時までと翌日午後三時まで熱心な論議がなされた。
まず第一の交通分科会は「交通運輸行政の障害者差別を糾弾し、交通機関の自由で安全利用をかちとろう」のテーマでもたれ、一つの分散会ではあったが、相次ぐ乗車拒否を反映して一五〇名あまりが参加した。特にこの分科会には、今年新たに北海道、北陸などからの闘いの報告も行なわれ、活発な討論がかわされたが、とりわけ交通労働者との共闘の在り方に付いて議論が集中し最後に運動方針とスローガンを確認して終った。
第二の生活分科会は「障害者の自立生活の理念を確立し、地域社会で生きるために行政闘争を拡大しよう」のテーマでもたれ、二つの分科会で約二〇〇名が参加した。ここは特に障害者の参加と積極的な発言がめだち、地

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域での自立を促進するための在宅訪門の報告や生活保護の収入認定、年金など具体的な問題も提起された。そして優生思想と闘うことを確認した。それらを受けて最後に厚生省への具体的な要求を早急に整理する必要性を確認した。
第三の教育分科会は「五四年度養護学校義務化を阻止し、すべての障害児が地域校区の普通学級へ就学する闘いを通して、差別選別教育体制を変革しよう。」のテーマでもたれ六分散会で約八〇〇名が参加、五四年度養護学校義務化を目前にして各地の闘いの報告と討論が活発にすすめられた。その中でとりわけ教育労働者の主体的な運動をどのようにして作り出すかが問題となり、これまで以上に日教組への働きかけを強化することが確認された。そして最後にこの分科会を担った部分が今後の義務化阻止闘争をも責任をもって担うことと、その上に立って具体的な方針を確認して終った。
第四の労働分科会は「重度障害者にとっての労働の意味を問い直しつつ、障害者に対する就職差別及び職場での差別との闘いを組織しよう」のテーマでもたれ、分散会は一つで一三〇名あまりが参加した。就労闘争の位置づけをめぐって熱の入った討論が行なわれたが、昨年の討論が充分生かされず、やや、からまわりの感があり、統一スローガンも上げるまでに至らなかった。
第五の施設分科会は「施設における障害者の生活の自由をかちとりつつ、地域での自立生活の闘いと結合させよう」のテーマでもたれ二分散会で約二〇〇名が参加。施設の必要性に関して、特に施設在所生から施設を出たいと云う気持ちと、出ても生活の場がないと云うジレンマの中で悩んでいるという生の声が多く出され、地域の闘いとの結合の必要性が強調された。これまで以上に施設労働者のの組織化と共闘を実現していくと云う方針も確認された。
第六の医療分科会は「障害者を差別抹殺する医療の告発を推し進める中から差別と闘う医師・医療労働者を創り出そう」のテーマでもたれ二分散会で約二〇〇名が参加した。第一分科会は主に精神医療を、第二は医療の差別性や人間破壊の問題を中心に討論されたがとりわけ第一において精神障害者と身体障害者の関係が大きな問題となり、それは赤堀闘争の位置づけをめぐる論議にまで発展して、かなりのくい違いをみせた。統一スローガンは何とか確認したが同時に徹底した総括の必要性をも確認した。
この後三時過ぎから総括集会に移り基調報告の承認、各分科会からの報告、新役員の承認などが行なわれ最後に全国幹事会でかなりの議論となった二回大会の宣言を全体の拍手で確認して二日間にわたる全日程を終了した。
3.さて本大会を昨年のいわば「やっとこぎつけた」結成大会と比較してみると、まず大会の準備や運営に関してはかなりのゆとりがもてたと云える。単一組織の形態をもたない我々全障連にとって全国集会一つを成功させるのも並大抵のことではなく、全国の仲間の献身的な努力と相互信頼がなければ到底実現し得ないのである。とりわけこれまでやや統一に欠けると言われた東京で大会の成功をみたことは、今後の全障連の発展にとっても大きな力となるであろう。結集の人数も昨年を大きく上回りその層も巾広さを増している。その事はとりも直さず我々のこの一年間の闘いの前進を物語っているとも言えよう。
しかし、このような成果を確認したうえでなお、より多くの総括点が残されていることをもふまえておかねばならない。大会後の全国幹事会において、すでにかなり論議がかわされているが未だ全体の確認を得るには至っていない。もちろん我々は意見の相違をごまかしや排除によって乗り切ろうとは思っておらず、たとえどんなに時間がかかろうとも正しい方向性を確立するために議論を積み重ねる事にしている。従ってここでは現在幹事会

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で論点になっている問題とその内容を紹介するだけに止めておくことにする。
A、全障連の性格についてーー「全障連の性格があいまいだ。」と云う指摘は、これまでも内外でしばしば行なわれ、あるいは中傷の材料にされてきた。この点については2回大会前後の幹事会に於いても、特に大会宣言と行動綱領問題をめぐって活発に論議されている。云うまでもなく全障連は障害者自身が中心となって多くの健全者を巻きこみつつ障害者に対する差別と闘い、障害者の地域社会での自立生活を推し進め未来の解放をめざして運動することを基本的一致点としている。確かにこれだけではまだまだあいまいであり抽象的とも言えるが、しかしまずこれらの一致点をしっかりとふまえ、特に歴史性や立場にちがいのある団体の統一戦線的組織としての現状を正しく把握して討論をすすめなければならない。主観的な焦りや余りに客観的な評論家的態度、更にはセクト主義や教条主義は今後の総括においても批判されるべきであろう。
B、ー障害者と健常者の関係について
この問題は昨年の結成大会に於いても大きな問題となったが、今年はとり分け交通と教育の二つの分科会に於いて交通労働者及び教育労働者との共闘の進め方をめぐって、より具体的な討論がなされ、更にこの間の幹事会でもより深く煮つめられつつある。主な主張を要約すると、まず一つは「健全者が障害者に対して差別者と存在し、障害者を殺しかねない彼らの意識を糾弾していくことが必要だ」と云う立場と、もう一方は、「今、より重要な事は、障害者と労働者の共通の利害を認識し共通の敵に向って闘いを進めることだ」と云う立場である。この両者の相違を止揚し、一つの方向性を生み出すにはまだかなりの討論と時間を要することはやむを得ないとしても主張があまりにも観念的になったり、教条的になったりすることは避けねばならない。いずれにせよこの問題は、全障連の性格や障害者解方運動の展望にも関わる事柄であり、実りある討論が望まれている。
C、軽度障害者の位置づけ
軽度障害者は、その個人の努力やリハビリテーションなどによって社会機構の中に組み込まれると云う性格が強く、その事が彼らに「健全者に同化したい」という願望をいっそう強く持たせることとなり、その立場をあいまいにしてきた。しかし、この間の総括によって軽度障害者の側から「自分達もやはり差別を受ける側であり、特に福祉切り捨てが進行する中で首切りなどの攻撃が強められているにも拘わらず、自分たちを健全者と同様に位置づけることは納得出来ない」と云う提起が強く出された。幹事会はこの提起を基本的に確認しつつ障害者と健全者の関係の議論ともかみ合わせなからこの問題を整理することになっている。
D、精神障害者と身体障害者の関係について
先にも触れた様にこの問題は医療の分科会に於いて赤堀闘争に関する論議の中て浮きぼりにされてきたが、全障連が結成大会において赤堀闘争を全国統一闘争のひとつとして確認しておきながら、あまり前向きとは言い難い議論が内部から出てきたことには深刻な総括と特に精神障害者の仲間に対して深く自己批判しなければならない。今頃この様な討論になった背景には、我々があまりにも安易に精神障害者に対する差別と身体障害者に対する差別との共通性のみを強調し、相違点や矛盾を正しく把握する姿勢に欠けていたことによると思う。しかしながら今回の総括、議論をきっかけにして身体障害者自身がこれ迄以上に、まず赤堀さんとの面会活動を強化し、又地域で差別を受けている多くの精神障害者と日常的な関わりをもっていくことが再確認されたことは、この問題の解決のために大きな前進と云えよう。今後の討論が期待される所である。
E、幹事会の票決権に付いて

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全障連の最高決定機関である全国幹事会においては規約上徹底討論による満場一致を原則としてきた。しかし緊急を要する議題でありながらどうしても意見の一致がみられぬ場合が実際に生じてくる中でこの票決の問題がとりあげられることとなった。現在は「票決で決めることは却って対立を助長することになる」と云う意見と「票決もやむを得ない」という意見が出されて討論が継続されている。
F、行動綱領に付いて
大会後の幹事会において全国青い芝の会連合会から全障連の思想をもっと明確にする必要があるとして、青い芝思想を基調とする五つの項目からなる行動綱領(案)が提案された。現在これをめぐってまず全障連の現状に照らして行動綱領が必要か否かが論議され、更にこの綱領の内容にも討論が及んでいる。しかしこの点に付いても、他の問題と同様「いやそれ以上に」拈り強く真しな討論が必要である。
G、その他分科会の持ち方や内容に付いても多くの不備が指摘されたが、今後それぞれの分科会を担った団体や個人が中心となって課題、ことに小委員会を設け恒常的に討論を行い方針の具体化を計っていくことが確認されている。
以上、はなはだ不充分な総括であるが全国の仲間がこれらの諸点について各ブロック、各地域、各団体で積極的な討論を開始されることを訴えたい。

1/22〜23
54年度養護学校義務化阻止!
全国総決起集会ならびに文部省闘争へのよびかけ
教育小委員会

全障連結成以後、政府?文部省が打ち出した障害者差別政策「54年度養護学校義務化」に対する闘いは、全国各地で社会的波紋を投げかけ、「義務化阻止に向けた大きな連動のうねりがつくり出されてきている。
一方あと、一余りにせまった「義務化」をいかなる反対があろうと押し切ろうとする政府?文部省の動きは、活発化の度合いを深め、「義務化」準備の遅れている自治体への指導を強めてきている。義務化の要として、養護学校の新設、就学指導委員会の設置、教師の確保などを中心に差別と選別の体制づくりが進められている。
全障連は、すでに今年4月24日、25日両日にわたって、全国の闘う仲間八〇〇名をして「54義務化」阻止全国総決起集会を開催し、第一波文部省闘争を貫徹すると共に全国各地で、「54義務化」の具体化を阻止してゆく広範な運動を組織すべく障害者・親・教育労働者をはじめとする共闘組織の結成を呼びかけその実現をめざして闘いの強化をはかってきた。
この第一回全国集会の成功は、その後、各地に阻止共闘会議の結成をおし広げ、すでに仙台、神奈川、京都、大阪、兵庫、奈良等で実現し、東京、埼玉、干葉、新潟、名占屋等でその準備がすすめられている。
こうした運動の全国化は、これまでとりくみの不十分であった労働組合の中て波紋をまきおこし、自治労は、七八年度連動方針とし

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て「54義務化」に反対してゆくことを、今年度定期大会で決定し、どの子も地域の普通学校での保育・教育の実現をめざすとりくみの具体化をはかってきている。また、十月三〇日には、大阪の地において、豊中、吹田など大阪府下の各市教組十五単組の共同主催による第一回障害児教育研究集会が一二〇〇名もの結集の下、『地域の学校「障害児」の教育をどう保障するか』をテーマに開催されてきている。このような動きが活発化してくる中で、障害者解放運動の前進をかちとる上で、障害者の自立と解放の視点をさらに明確化し、具体的共同闘争の推進をさらに強めてゆかなければならない。
こうした全障連を軸とする障害者解放運動の前進に恐怖する全障研は、全障連への誹謗と中傷キャンペーンをことさら強化し、障害者解放運動の前進をひっしになってはばもうとしてきている。
このことは、彼らが全障連の誹謗をすればするほど全障連の作り出してきた運動の正しさが認識され、またこれまで全障研の影響を受けてきた親や労働者、学生の間にさえ疑問が出されてきており、全障研の動揺をあらわにしてきていることをよく物語っているにすぎない。
全障研の「発達保障論」に下ずく「義務化完全実施論」は、政府?文部省の差別・選別体制強化の補完物でしかなく、現在の差別社会を打ち砕くどころか、障害者の立ちあがりをおさえこむ役割しかはたしていない。
この間の情勢の中で、全障研が基盤にしてきた革新自治体での福祉政策の破綻は、このことを如実に示してきており、福祉見直し論を契機として、保守・反動勢力と何ら変わらない体質を露骨に示し差別を積極的に先どりしてきていることを我々ははっきり見ておかなければならない。我々は、障害者差別と闘うことをさらに強化し、全障研の攻撃を打ち砕く闘いをおしすすめてゆかねばならない。
政府?文部省に対する闘いは、同時に我々全障連運動を全国に拡大し、阻止共闘会義の全国化をとおし広範な勢力の結集をはかってゆくものとして位置づけられなければならない。第一回「54義務化」阻止全国統一闘争の不十分性を克服し、全国の闘いを一つに結ぶ闘いとして我々全陸連は、闘うすべての障害者・労働者・学生・市民に第二回全国集会への結集を呼びかけると共に、差別を公言してはばからない文部省に対し、「義務化」阻止をせまる一大結集の実現を共にかちとってゆくことをここに強く訴える。

〈日程〉
一月二十二日(日) 54年度養護学校義務化阻止全国総決起集会
午後一時 集合
午後二時 開会
全障連代表あいさつ/連帯・共闘団体アピール/基調報告提起/共催団体の報告とアピール/全国各地の闘いの紹介とアピール/討論
基調報告採択/スローガン採択
午後七時 閉会
しかく場所 青少年オリンピック記念センター(新宿より小田急線「参宮橋」下車)
一月二十三日(月) 第二弾文部省闘争
正午 日比谷公園集合(文部省等総決起集会)
全障連・共闘団体代表アピール/行動提起と採択/文部省交渉団決意表明/大衆抗議行動
午後四時 総括集会
文部省交渉団報告と確認/大衆抗議行動総括
午後五時 解散
〈連絡先〉
全障連全国事務局
大阪市東淀川区南方町三〇六 大広荘
? 〇六(三二三)四四五六
全障連関東ブロック連絡所
東京都足立区西新井本町四−十八 A三−二〇七
? 〇三(八七〇)〇三〇二
日本脳性マヒ者協会・全国青い芝の会総連合金事務所
川崎市高津区子母口四三七 さつき荘
?〇四四(七八八)八八六九 (校正者注:「〈日程〉〜八八六九」四角囲み)

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就学時健診反対!
地域からの闘いの報告

就学時健診反対の六年間の経過
教育を考える会(がっこの会事務局)連絡会

私たちは、がっこの会がはじまってから六年間、ずっと就健反対の運動にとりくんできました。
もともと、がっこの会ができたのも、来年学校にいく年齢になったが、「どうにも入れてもらえそうにない」、という親達の不安をいっしょに考え、いっしょにのりこえていこうという所を出発点としていたのだから当然のことだったのです。入学すればしたで、色んな問題が、次々とあるし、私達がとりくまなくてはならないこと、問題意識ばかりが一方では、どんどん広がっていきます。
それにも拘らず、毎年入れてもらえるかしら、就健にいった方がいいのか、いかない方がいいのか、特殊へといわれたらどうしようと不安にゆらいでいる親があとを絶ちません。
72年頃のとりくみは、就学とはどんなものか話し、受付る義務はないのだから拒否しよう、拒否できなかったら受けるのも仕方がないが、どう判定されようと普通学級へがんばろう、自信がなかったら、サボリましょう。というようなことを一生けん命話しあってきました。しかし、一人でがんばれといわれても、がんばれない人だって出てきます。
73年からは、おののきながらやっぱり受けてしまう人達を外側からはげますという意味もふくめて抗議のビラまきがはじまりました。この年には、二次健診(就健でチェックされた子が個人精密検査をされ、判定委員会への資料とされる)にも抗議のビラまきをしています。
74年も同様ですが、更に、いくつかの教職員組合の定期大会に、組合の方針として就健拒否を、とよびかけるビラまきもしました。この年は各地でのとりくみがかなり広がり、都内だけでなく近県でもビラまきが行われました。
75年には、ビラまきにとりくんだ地区自体は残念ながらすこし少なくなりました。就健にくる前からすでにチェックされ、ふりわけがすんでしまっているからやっても仕方ないという声もでてきました。就健の果している役割りや、ビラまきを何のためにやるのかというあたりの捕え方が、各地区で多少のズレがあったということでしょう。

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一方、この75年には、ほんの少しではあれ能力差別につながる方向で行われる就健を廃していく方向でとりくむ、という方針が教職員組合の場で討論されはじめました。就健をめぐっての学習会を組合としてもつ所も、二〜三出てきました。教師の側での動きが一歩前に出てきた年です。もちろん反対の方向への一歩もでてきます。川崎では、小学校校長会研修部で、「最近普通学級への就学を希望する親も増えてきて困る。教育委員会でいろいろやっても結局指導助言にとどまっている。就学拒否権を校長に与えよ」といった趣旨の文書が出されたのもこの頃です。
また、実際にこれまでよりもはっきりと選別差別の続健拒否を学校側に表明していく親が出て来たのもこの年です。
76年は、こうした経過をふまえて、今までの方針をもう少しふみ出せるようになりました。就健の持つ意味をこれまでのように直接おいだされた人の体験を語っていくだけでなく、直接ひっかからない子どもにとってもおかしいものだということを、もう少し訴えよう。どの子も拒否をという方針を具体化しよう。保育園や幼稚園にも働きかけていこう。等ということが、ポツポツ出はじめました。そして77年です。

(2)いたる所で就健反対の意志表示を!
できる?できないの物差して子どもをはかり、地域の学校は中以上の子どもかくる所だ、中以下は特殊学級へいけ、下は養護学校だ、という教育委員会のやり方は、ますます強まっています。78年度までには、この体制を完成し、79年度からは、判定され、指定された学校にいくしかない、というのが文部省の方針です。たとえ、タテマエだとしても、子どもに教育を受ける権利があり、行政はその権利を受ける義務があるといえたのは、これまでのことです。79年度からは、判定し、ふるいわけ、学校を指定する権利を教育委員会がにぎり、指定を受ける義務しか親子には残されていない。文字通りの義務教育にしょうと国と文部省は狙っています。
就健は親子が学校と関りをもつ最初の目です。学校とお前達の関係はこうなんだと、押しつけられる第一歩の日です。
中以上の子にとってもこれは同じです。就健で今日、中以上といわれた子達も決してムエンではありません。特大・大・中の上、中の中、中の下、というふるいわけは、このあと小学校6年間、中学校3年間を通してずっと行われます。偏差値いくつだからお前はあの高校、お前はこちらの高校というふるいわけがこれからずっと行われるわけです。もちろん中の下よりも低いと思われれば毎年特殊学級へ、養護学校へとおい落されていきます。
こうしたふるいわけの物差しからしか子どもを見ない今の教育を変えよう、教育における主人公は子どもなんだと国家や権力の個ではなく、大衆の側なんだということを、至る所で主張していきませんか。
私たちは、
?@健診の果している役割りを教育全体の中でとらえかえし、その問題性を大勢の親達、教師たちに訴えていこう。
?Aとりわけ拒否をはっきりうちだしながら、教育の主体は、子ども別なんだと主張している運動があることを伝え一緒に考えていくことをよびかけよう。
?B訴えても訴えても知らん顔をして、教育委員会の手先きになっている教師たちにも、それでよいのかとはっきり抗議し、仲間として立ち上ってもらおう。
?C色んな問題にとり組んでいる人達に共同行動をよびかける人達に共同行動をよびかけ、共に闘う輪を広げよう。
?Dそれぞれが仲間うちで話すだけでなく、外に向かって叫べる人間になっていこう。
?Eそういう仲間のカで、不安になりつつ就健をうけてしまう親たちを支え、もっと強いなかまになっていってもらおう。

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?Fこうした私たちのカをみせつけ、教育委員会に圧力をかけていこう。
?G入学した後の諸問題にも、こうした力で親と一緒にとりくめるよう問題を深めていこう。
(3)共に生き、共に学びあおう!共に闘おう!
私たちは、これまで、どの子も、どんな子も、地域で共に生き、育てあおうと呼びかけてきました。学校も、教育も、共に生きる中で、ひとつの過程の問題でしかないと、生きあうこのとために、学校や教育が何をしなければならないかこそが大切なんだと主張してきました。「盲・ろう・肢体不自由・ちえおくれ」等々、「障害」別、「能力」別に、それぞれの学校に仕分けられ、子どもも親も、その生活の全てを、学校教育のために捧げさせられるなんて、全くアベコベの話しではないか!私たちは、「能力」や「障害」をいいたてて共に生きていくことを阻もうとする全ての力を、政策を、差別としてとらえ、そのひとつひとつを具体的に闘い、のりこえていこう、各地で差別と闘う仲間とのつながりを強めようと運動してきました。
現在各地で、いろんな形で運動をくり広げています。ある地区では、ほんの何人かで学習会をひらきつつ、自分たちの主張を広く知らせようと、細々とビラまきをしている所もあります。ある地区では、毎日の例会を中心としながら、遠足にいったり、海の合宿を行ったり、日常的な交流のつみ上げと、そこをふまえての地域で共に!の拠点づくりをしている所もあります。幼児グループという形で保育園、幼稚園から、拒否された子どもたちの生活を守りながら、単にその枠の中での安らぎを守るのではなく、そこから外へ向けて地域の保育園、幼稚園、学校に入ろうという運動をつくり上げている所もあります。
そして闘いの第一歩として、子どもたちへの選別・差別は許さない、教育の主人公は、子ども達、私たちなんだ、という宣言を、就学時健康診断の拒否を通して、学校側にたたきつけていきましょう。

私たちのなかまはどのようにして「普通学級」に入り、どのように闘ってきたか
ある親の報告(豊島福祉研究会)

私どもの子供が満六才で就学をむかえた時子供を進ませる道として普通学級、特殊学級又は養護学校と、三通りを念頭におき、それぞれについて検討しました。
まず養護学校の場合ですが、実際に見学にいって見て又養護学校に行かせるのだけはやめようと決めました。
特殊学級については、いろいろ考えましたが、実際に特殊学級を、担任なさっている先生あるいは近所の特殊学級に子供を通わせている方のすすめなどあって普通学級に子供を通わせるという結論に達しました。
普通の場合、まず区から就学通知なるものが配布され入学予定校において知能テスト、健康診断がおこなわれ小学校入学というコースになるわけですが、所が待てどくらせど入学通知がきませんでした。(事前に就学相談に通っていました)そこで豊島福祉研のメンバーとともに教育委員会までおしかけて就学健診の当日受付時間ぎりぎりにやっと入書き通知書の発行だけを取りつけ学校へかけつけました。
さて、学校の知能、体力の検定ですが、そんなものには興味が全くない子供は全然受け付

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けません。当然学校側は条件を出し母親の口から「付きそいますから」という約束を取り付けてしまいました。その間約四ケ月間一日中朝から家へ帰るまで気の休まるひまもなく苦しい日々の連続でしたが、その反面学校の教育内容、担任の先生の性格同じクラスの子供達一人一人についてもかなり勉強になりました。先生もたまに授業参観に来る親とちがい毎日毎日顔を合わせる親にたいしよそいきの顔はしていられませんから、当然素顔を見せます。そういう点においては、この一学期間が普通の親の何年分かに担当する期間について先生や同じクラスの子供、他のクラスの子供、他の学年の子供達についてまでも見る事が出来ました。夏のプールを除外されそうになったこと、特定の授業からこっそり排除されていたこと、近所のこどもたちにからかわれたりいじめられたことなど、さまざまのつらい思いを経験しましたが、そのつど泣きねいりしない努力をつみ重ねてきました。
今までの経験を通じて普通学級に通わせる事についての良い点、悪い点について考えてみますと、同一地区の子供達と生活の一部を共にするという事が他の人々や子ども達、本人とも大きな違和感をもたせずにすむトラブル(からかわれたり、いじめられたり)なども少ない(多少の事については「普通」児、「障害」児の区別なしに弱いものは強いものにいじめられたりするものであるから、これはおとな社会の責任)特に同じクラスの子供たちは、他のクラスの子供達にいじめられたりした場合など助けに来てくれることなどの例もあった。よく有る例だが(一般的に言えばだが)健康人の中に障害をもった人が入っていった場合、ほかの人種を見るようにして自分とはまったくちがった世界の人間を見るような感をもつ人が多いのが実情ですが、時間でも多く生活を共にした人に対しては、そうゆう違和感を感じにくくさせる。又「普通」児の中に人って生活する事は「普通」児の生活を直接目で体で肌で感じ取る事でありこれは本人にとって最大のメリットではないか?
では悪い点についてですが(まわりをとりまくかんきょう特に担任の先生の教育姿勢によって非常にちがいがあるようだが)団体生活という事でお荷物あつかいされやすく、学校を教育の場特に勉強という考え方からいえば多少のづれが生じて来る。ただでさえ、落ちこぼれという言葉が流行になっている世の中において「障害」をもった子供が学校に行って現行の授業を受けると言う事が、どんなに苦痛であるかはさっしてあまりが有る。しかし、とにもかくにも現在子供が学校に行く事を少しもいやがらずに家を出るという事、これが約二年間普通学級に通わせた一つの結論です。
親の立場から言うとすれば、それぞれの親が、子供の為に強くなり、言うべき事はだれにもえんりょせずにどうどうと言う事が大切ではないかと思います。同時に、一人の親の問題としてひとりでなやむのでなく、みんなで考え、支えあい、行動しなければとてもやっていけないと考えています。

(校正者注:以下、「54年度養護学校義務化阻止 学習パンフレットNo.2」の広告」)
54年度養護学校義務化阻止
学習パンフレットNo.2
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全関西54年度養護学校義務化阻止共闘会議結成大会の基調と闘いの経過/障害者・親・教師からの発言/4・24〜25全国総決起集会によせて/関西各地の『共闘会議』の報告/資料:養護学校と特殊学級ほか

全関西54年度養護学校義務化阻止共闘会議
全国障害者解放運動連絡会議関西ブロック
大阪市東淀川区南方町306 大広荘?06-323-4456 (校正者注:「54年度〜4456」四角囲み)

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特集/生活現場からみた養護学校とは
機関誌第三号で座談会「養護学校の差別を問う」を特集しましたが、今回は、生活現場から見た養護学校を特集したいと思います。
重度障害者にとって、養護学校とは何か。そして、なぜ普通学級に入っていく運動がでてきたのか、そうした問題は、今、自立生活を行なっている重度障害者にとってどのような意味を持つのかを考えていかなければならないと思います。
現在、政府・文部省がなりふりかまわず強行しようとしている「54年度養護学校義務化」に反対する立場も、単に政府・文部省の政策に反対するのではなく、障害者が自立して行くとき、教育とは、養護学校とは何んなのかを、障害者自身が徹底的に追求していかなければならないと思います。
(編集局) (校正者注:「機関誌〜(編集局)」四角囲み)

私は学校へ行けなかった
猪野千代子

私は物心つく頃まで教育を受ける機会がなかった。父や母は、字を覚えさせる為に学校へ入れるつもりであったし、当然小学校にも籍はあったが、運悪く、就学年齢に達した時戦争がおこってしまい、戦火は激しくなった。生きるか死ぬかの時に学校どころではなかった。敗戦後しばらくの間、物資の不足やなにやらで、やはり学校どころではなかった。その上私は一人では思うように歩けなかった。ようやく戦後の動乱もおさまったころ、担当の先生が家へ訪ねてきた。その時はじめて先生は、私が障害者であることを知った。そして学校側の配慮により、私は就学免除となった。
妹が毎日学校へ通うのを見て、私はなぜ学校へ行けないんだろうと不満に思ったが、両親が私は頭がいいから学校へ行かなくてもいいと言うのを聞き、そう思い込んでいた。それで私は強く「学校へ行かせてくれ」と訴えることもしなかった。
私は、十七歳まで両手は普通に動いていた。それまでは、足が動かなかっただけだった。だから字を習おうと思えば習えたはずなのだ。教育ということで字だけ覚えるのなら、五、六年やれば覚えられたと思う。わからない字は辞書を引いたりするやり方を覚えたかった。だから五、六年だけでも小学校に入れてほしかったと思う。それが今でもおしまれてならない。
昔は今と違って、テレビや他の報道機関が発達していなかった為、学校以外で知識を得ることは、容易でなかった。だから、それだけ知識を得ることは今の子にくらべると不利な状態だったと思う。今の子はテレビなどで

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得た知識で、こういう所がいいとか悪いとか判断できるようになったと思う。だから、今の子ども達は余裕を持っているように思える。
十三か十四の頃から私は妹や弟の国語の教科書を引っぱり出して裏についている「アイウエオ」を見てやり出した。誰からも直接には力を借りず、弟や妹が読んでいるのを聞いて、自然に覚えることができた。でも、言葉の意味や活用などの応用は、教育の場がなかった為、なかなか覚えることはできなかった。親は小さい時、名前を教えてくれただけである。
「この子は施設に入れないと何も覚えられない」ということがある。私の場合、十二歳頃施設に入れるという話があったが、親は、「かわいそうだからいれない。」といって入らなかった。
親は小さい時よく表に出してくれたけれど、十歳頃になると表に出る機会が無くなった。両手が動いていたのだから訓練所にでも行っていれば、今のようにはなっていなかったと思う。
両親が亡くなり、私は施設に入った。施設に入ると、職員のやり方とかの自分の不満が出てきた。小さい時から施設で育った人は、これが当り前だと思い、現状に満足したり、あきらめたりする。しかし、私は大人になって入ったから「これでは何の為に生きているのか。」と思いつつ、失望の日々を送ったのを覚えている。
教育に関していうと、施設の場合、職員がこれを数えたいと思っても一人の職員が、脳に障害があったり、言語に障害がある十人もの子供を抱えては、ほとんど教えることができないという現実があった。上の人達から命令が来たりもするから、よけい何もできなかった。それから、教育を受けてきた人とそうでない人とで、いろいろな面で差別されてきた例えば、施設で一泊旅行を計画しても、教育を受けていない人は常識がないから泊ったりすると迷惑をかけるといって、日帰りにさせられるということがあった。職員は学校に行っていた障害者を上に見ていたのだ。
また、学校に行ってない人に対しては、ごまかすような態度をとる。職員は、私がわからないだろうと、わざと難かしい話をしてごまかそうとしたことがあった。今の施設は、学校へ行った人と行かない人とで分けている。そして、学校へ行った人の間にも、できる子とできない子の区別をつけている。区別するということは、区別する側の人が意識しなくても、区別されている人を傷つけている。全くおかしい。
私は施設を出て生活している。私は教育を受けていないけれど、いろいろな人とつき合い話をすることで得ることは大きいと思う。
人との話の中で、良い所、悪い所を判断できるようになってきている。

(校正者注:以下「全障連結成大会報告集」の広告)
全障連結成大会報告集
‘76・8・8〜10大阪市大
B5/370ページ
頒価2,500円
内容
☆報告編
8・8全障研への情宜くろまる8・9全体会
8・9〜8・10分科会討論報告くろまる8・10傘体会
☆まとめ編
全体体総括くろまる各分料金まとめ
☆資料編
よびかけ案内文くろまるマスコミ
連絡紙No.1〜10くろまる全障研のビラ
赤堀闘争資料
編集・発行/全国障害者解放運動連絡会議 (校正者注:「全障連結成〜連絡会議」四角囲み)

生活現場から養護学校とは
須田雅之

光明養護学校を「卒業」し、4年たった。51年の3月から家を出て、所謂自立生活らしきものを続けています。私は、現在22才ですが、これまで生きてきたことをふりかえると5才から、施設・養護学校という「障害者」だけの生活・教育を18才になるまで強いられてきたのです。その13年間の中で、私が、何をしてきたのか、それは、同じ仲間である重

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度の人をからかって喜んだり、遊ぶ時には、軽度の仲間と遊ぶのが多かったし、先生からは、「おまえは、がんばれば、勉強ができるのだから、真面目にやれ」と言われ、一時的に頑張って俺はできるんだというふうに、仲間に対してイキがっていた時もある。それと同時に、家と学校との行き帰りの時には、すれちがう健全者の目を意識し、おびえて、回り道して帰ったりしたことも、中学時代まで続いた。学校生活の中では、比較的ノビノビとやっていたし、高校の頃から、重度の仲間たちと一緒に、休みの日とかには繁華街に行って遊んだりしたし、すこしではあるが、ボランティア(健全者)の学生ともつきあいだした。一人でも電車に乗ったりして、外に出て行くことも、高校の頃やっとできるように、なった。高校の勉強自体は、あまりしなかったし、してもしょうがないというか、俺等「障害者」が学校の勉強を頑張ってしたところで、卒業しても、なんの役にも立たないと、思っていた。とにかく、自分が生きていく上での夢なんかは、なかったというか、しらけが多かった。といっても、何となく、卒業しなくちゃならなくなっていく中で、学校の成績とか、親は私に対して、職業訓練校に行くことを勧める。「須田君は、努力してがんばれば、仕事もできるし、社会に出ても、普通の人達の仲良くしていれば、やっていけるから、頑張んなさい」てなことを言ってくる。他のクラスの仲間にも、あなた達は「障害者」なのだから、あまり囲りの人達(健全者)に、迷惑をかけないで、自分のことは、自分でやるように、何か一つ生きがいをみつけて、仕事ができなくても、それをやっていれば、生きていける、ということを、進路指導の方針として、私達に教える。それは、個々の「障害者」が、一人の人間として、如何に、自分で生きていく、自分の将来は、自分の力で切り開く(闘う)ということではなく、囲りに気を使い、今の社会に、適応させていく。だから、施設・職業訓練、在宅、ということを前提として、教育し、進路指導していく、これが、養護学校の教育の中身であり、「障害者」同士、軽度と重度という中に、「俺はおまえよりできるんだ」というような、差別的な考えを、必然的に生じさせていくのだ。私は、自分の卒業後の将来をどうしていくべきかについては、きっぱりと、先生とか親との意見を聞かないで、普通の企業で働くことを希望し、実現しましたが、囲りで働く健全者との関係ができなかったり、通勤のしんどさ、賃金面のことなどで、つぶれてしまいました。だけども、それは、わかっていたことです。はじめから、働くことに夢も無かったし、自分の存在を、体でもって知りたかった。はたして、「障害者」が、うまく生きていける社会かどうか、生きていくことはどういうことなのかを、あえて知りに行った。だからこそ、普通の企業への就職もしたし、今は今で、生保で一人で生活している。それはいろんな手続きとか、欲しいものを買うことを自分で責任をもって行う、ということであり、生活していくうえでの、一切のことを、自分の責任で解決していくことだと思う。
私にとって、施設、養護学校での生活は、健全者との関係をしゃ断されたことであり、自分で、責任をもって動くということを奪われてきたこと、そして重度の仲間達に対して差別的な意識があって、逆に、ノビノビしてきた所である。私は今、自分の力で、生きていくことを貫こうとしているし、生活していく上での社会性を、一つ一つ獲得していく、それは、地域にいる「障害者」の仲間との関係を、豊かにしていくことであるし、また健全者との共同性を追求(「障害者」と健全者とのかくとう)していくことである。私は、将来、また働こうと思っている。

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全国各地のさまざまな闘いの紹介と提起

1.11差別弾圧裁判糾弾闘争に、「障害者」解放闘争の力を結集し、勝利しよう!
岡山「障害者」解放委員会

9月16日あの憎むべき3・11再審棄却決定を下した静岡地裁で1・11の分離公判が強行された。1月11日私達は「再審開始!最終弁論化策動粉砕!赤堀氏奪還!」を掲げ闘い抜いた。全国「精神病者」集団、全国障害者解放運動連絡会議、赤堀闘争全国活動者会議の共同闘争に対する司法権力?警察権力の闘争破壊、強弾圧はすさまじいものでした。
1月11日を最終弁論とし、早期に再審棄却をもくろむものととらえたが故に私達は徹底して闘い抜いた。「障害者」差別に貫かれた赤堀政夫さんへの社会からの排除・抹殺攻撃が、ひとり赤堀さんだけでなく全国125万「精神障害者」総体への攻撃であり、赤堀差別裁判糾弾闘争は「精神障害者」解放闘争として勝利せねばならない。
私達の闘いにより阻止はしたが、あの優生保護法改悪攻撃は「障害者」を「社会不適応者」=「役立たず」として抹殺せよという明確に総資本の命を受けての国家櫨力からの「障害者」抹殺攻撃であった。同時にそれは、現在生きている「障害者」には「生きていてはならない者」として人間として生きる権利を主張することさえ出来なくさせ社会から排除していく攻撃であった。更に54年度養護学校義務化は「障害者」を単に普通学校から排除するだけではなく、地域社会から「障害者」の生きる場を奪い、当り前の人間として生きることを否定するものである。
このように「障害者」に対する「身体障害者」、「精神障害者」を問わずかけられてくる地域・社会からの排除・抹殺攻撃に対決し、「障害者」解放闘争の発展を勝ち取っていかねばならない。そのことに向けた大担な一歩を赤堀差別裁判糾弾闘争は踏み出した。1月11日の静岡地裁の鉄サクをのりこえての実力糾弾闘争はそのことを司法権力につきつけた。そうであるが故に車椅子をメチャメチャに破壊してまでの強弾圧があった。
私達はこのような権力の闘争破壊攻撃に屈することなく、より強固な「身体障害者」「精神障害者」の団結を檎棄し、「障害者」解放闘争の勝利の展望を切り開いていかねばならない。

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9月16日静岡地裁和田差別裁判長は分離公判を強行した。「被告」が何故に裁判にかけられねばならないのかその背景を一切問題にせず、行為のみを裁くという許すことのできない赤堀差別裁判糾弾闘争の圧殺にほかならない。和田は、「車椅子を入廷さすなら小法廷(傍聴席19)しか使わせない」と「障害者」差別をもって団結の破壊を意図してきた。被告の意見には一切耳をかさず、発言すれば退廷を命じ、抗議する傍聴団には機動隊を動入しテロ・リンチを加えての強弾圧をかけてきた。結集した静岡青い芝のメンバーの介助もできない状態にしておいて「障害者は裁判所が責任を持つ」はないものだ。徹底した「障害者」解放闘争、赤堀差別裁判糾弾闘争の破壊であり、私達は断じて許すことはできない。
1・11差別弾圧裁判に結集し、「障害者」解放闘争、赤堀差別裁判糾弾闘争に勝利していこうではありませんか!共に闘わん!

今日のろう労働者の状態―石坂善新堂における闘いにそって―
印刷・出版労働者の会

東京・神田の製本会社、石坂善新堂労働組合の解雇撤回闘争は、一九七七年七月一日、組合側の全面勝利のうちに終った。七五年二月の闘争開始以来、二年五カ月ぶりだった。
この会社は、ろう者をたくさん使っていて、その差別待遇のありさまに、若い労働者が素朴な怒りを感じた。それがきっかけとなって彼や彼女たちは、労働組合をつくった。会社は組合つぶしをねらって、組合員二名を不当解雇し、あらゆるきたない手段を使って弾圧を加えた。石坂善新堂労働組合は、ろう者と共に組合をつくっただけでなく、さまざまな面で、支援共闘会議をはじめ、神田地区の労働者・学生の間に新鮮な話題をふりまいた。しかし、当初八名のうち二名いた、ろう者組合員は、闘争の過程であいついで脱落し、勝利の日を組合員として迎えることはできなかった。現段階における、ろう者の可能性と限界を端的に示すものだった。この限界は将来に向って必ず克服されるにちがいない。
現在、障害者としてのろう者をめぐる問題は、その他の障害者とかなり性質を異にしている。ここでは、石坂労組のたたかいにそって、ろう労働者の状態を考えてみたい。石坂闘争は組合運動に多くの話題と教訓を残したが、本稿では、ろう者に関すること以外は多くをふれなかった。闘争の発端と途中経過については、全障連結成大会基調報告・資料集一三九ぺージを参照してほしい。

ろう者―安い労働力
「ろう者を働かせていて、ろう者のことは何も考えず、健聴者以上に危険な状態におかれています。」(組合結成をよびかけるビラより)
会社は、ろう者のことは何も考えていない―。このことを逆にいえば、ろう者のことはとくべつに考えてやらなくても、どうにか仕事はやらせられるということだ。たいがい製造業であれば、その会社の設備・条件をそのままにしておいて、そこへろう者をつれてくれば、すぐにまにあう。この点が、労働力として見た場合、障害者のうち、ろう者の最大限の特性なのだ。
目の見えない人、手か、足の不自由な人の場合、おそらく現在の設備のままでは、まにあわないだろう。設備改造ということになれば、すでに安い労働力とはいえなくなる。
なるほど、ろう者はきこえないし、多くのばあい満足にしゃべれない。それでも、ろう者は猿ではない。エンゲルスがいうように、
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「どんな猿の手にもまねのできない数百の操作をおこなうことができる」(猿が人間になるについての労働の役割)ここにろう者が第二次大戦後の早い時期から、安い労働力として底辺の労働市場に投げこまれてきた基本的な条件である。
その上、アメリカ占領軍当局の示唆もあって、一九四八年、盲・ろう教育が義務制となった。教育によって、ろう者は言語を獲得した。ここでいう「言語」とは、話しことば(音声言語)だけでなく、文字言語、手話言語を含む。手話は正式には教えられなかったけれど、上級生から下級生へと、手話が受けつがれた場所は、正にろう学校であった。実に言語こそ、労働と共に「猿の脳ずいが人間の脳ずいに変わっていくのをうながした、二つのもっとも重要な刺激」(エンゲルス・前掲書)なのだ。
これが、教育がろう者におよぼす劇的な効果であって、健聴の、生まれながら自然に言語を獲得できた者には、その効果のほどを想像することはむずかしい。
これによって、ろう者は、言語によって結びつけられている人間社会に適応し、その労働能力を有効に使用できるようになった。つまり、はじめて「仕事をする人間」となることができた。
しかし、それは安い労働力であった。学校はろう者を安い労働力として売りこむことに心をくだいた。差別を差別と思わないよう、差別ということばはけっして教えず、ひたすらきびしい条件に耐えてまじめに働く人間をつくることが、ろう教育の目的とされた。「愛される中学生」これが、自ら全国ろう学校中の名門と称する大阪・生野ろう学校中学部が、一九五〇年代にかかげた標語だった。
それはともかく、何とか職業につけ、どうにか自分で食っていくことができたということは大きな利点だった。そこから、労働条件のことはひとまずがまんして、休みの日に遊びやサークル活動に慰めを見出す道が開けていた。こうした余暇活動の中心として、ろう者団体は、身障者諸団体の中でいち早く活動と組織をひろげていった。ろう者がそれを必要としたばかりでなく、ろう者自身がその活動をささえる経済力を持っていたからである。
一九六五年以降、おりから大衆路線を走り出した日本共産党と、ろう者団体の全国組織・全日本ろうあ連盟が出会うことになる。日本共産党の路線と、ろう者のおかれている諸条件が、よく適合したからだ。両者は相たずえてその精力を福祉政策要求に集中した。日本経済の高度成長のもとで、それは成功した。というよりも、もともと福祉政策は、帝国主義が労働者に与えるアメとして必要としたものなのだ。
もちろん、その間、労働運動のうずにひきこまれ、たたかったろう者も少なくはなかった。しかし、ついに大きな輪にひろがることはできないでいる。

手話の可能性と限界
石坂労組は、ろう者と共に組合をつくり、全員で手話を学んだ。学ぶべき手話はそこにあった。一九七〇年代の日本で、手話はありふれたものになっている。今、考えれば信じられないことだが、わずか十数年前には手話はめったに見られなかった。たしかにろう者は手話を使っていた。しかし、それはけっして健聴者が使うものではなかったのだ。ろう学校の先生も、ろう者の親・きょうだいも手話を使おうとはしなかった。ろう者自身が、ふつうの人に手話をおぼえてもらえるとは、考えもしなかった。
日本のろう者をめぐる諸事件の中で、手話の普及ほどめざましくも劇的な事件はないだろう。
一九六五年、大阪学芸大学(現在の大阪教育大学)の、ろう教育課程の学生と、青年ろう者の間に交流が生まれた。若い同世代のろう者と健聴者の交流として、おそらく最初の
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できごとだった。彼らはそこで手話の有効性を確認した。「手話の会」が生まれ、やがて大阪府・市の補助を受けて「手話教室」が開かれる。開設当初は一人の受講生をさがすにも苦労した。七七年現在、この講座は受講生二百人、八学級を擁するに至っている。
やがて、全日本ろうあ連盟の組織を通じて、全国に運動がひろがっていく。なかでも手話が一般の人びとの目の前にあらわれたのは公職選挙立会演説会に手話通訳がつけられたときだった。一九六八年、参議院選挙の前に大阪のろう者団体が気迫をこめて大阪選管委に要求したことにはじまる。
選挙演説の手話通訳という、そのこと自身が果した効果は疑問だが、手話というものの存在を人びとに知らせた効果は大きい。その後、手話は日本共産党の組織にのって広がったそればかりでなく、日本共産党の期待を越えて、日本共産党と対立する人びとや組織にまでひろがっていった。それでも、手話普及に果した日本共産党の功績は賞賛されてよいだろう。それまでだれも手話の有効性に気付かなかったことは、信じがたいことだが、コロンブスの卵を最初に立てたのは、日本共産党だった。
しかし、おそかれ早かれ手話は普及しなければならなかった。ろう者の社会生活のひろがりが、必ず、ふつうの人びととの、よりひんぱんな接触の中で、より有効な対話を必要とする時と場とに到達するにちがいないからだ。石坂善新堂の現場がその一つだった。
手話にはまだ多くの限界がある。手話はまだ未発達の言語であり、単語の数がはなはだ少い。これはそのまま、ろう者層のまずしい文化水準の反映なのだ。ろう者の文化を高めるためには、健聴者の文化、つまり人類の文化が、手話を通じてろう者に流れこまなければならない。その過程で、手話とその技法が発達していくだろう。それは一つの創造活動だ。その現場に私たちは立会っている。
石坂闘争の初期、若い労組員は闘争用語いっぱいの集会の場で、異和感をおぼえたときいている。同様のことは、手話を使うろう者にとっていっそう切実だ。じっさい闘争用語の通訳はむずかしい。やむなく石坂専用の手話をいくつか作ったようだ。このようなことは、しかし、やたらかってに行うことは許されない。言語は人間が作ったものであり、日常それほど親しいものでありながら、自ら意図して作ることはできないという唯一のふしぎな存在なのだ。
私たちは、より有効な手話を創造する使命を帯びつつ、しかし、すきかってに新語を作ってはならないという矛盾に耐えていかなければならない。さしあたって、手話が不完全であることをわきまえ、背のびしないことだ。
にもかかわらず、手話はすでに偉大な役割を果しつつある。少し大げさにいえば、健聴者とろう者は、これまで目の前に居ながらお互い他の星に住んでいるように遠かった。手話によって、ろう者も健聴者も、たくさんの友だちを発見し、獲得したのだ。全障連のように、他の障害者と共にろう者自らが参加する運動が、手話の普及した後にはじめて実現したのも、この理由から当然のことだった。

底辺労働者の未来をかけて
二年五カ月の石坂闘争の過程で、四人の組合員が組合をやめ、会社を去っていった。うち二人はろう者だった。一方で解雇撤回を叫んで闘っているときに、なぜ解雇もされない者が、自ら職を捨てていくことが可能だったのか?もちろん、すぐにも他の職が、しかも、いくらか石坂よりはましにちがいないその他の職があったからだ。不況といわれる一九七七年でも、中小企業の若年労働力は慢性的に不足であり、若い彼らは、いくらでも新しい職の発見が可能なのだ。そして健聴者ばかりでなく、ろう者もまた、この転職の「自由」を手中にしているのだ。
この事情は、「解雇撤回」の意味をほとん
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ど失なわせる。そうではないか?他に職はいくらでもあるというのに、なにをゴタゴタめんどうな闘争をやるのだ。?
やめていく前のろう者組合員から、「私たちのやっていることの意味がよくわからない」という声があったそうだ。それはこのへんの事情をいっていたのではなかったろうか。
「解雇撤回闘争は単なるエゴではないのだ。労働者解放のために、未来に生きることなのだ」このことがわかるかどうかが、解雇撤回闘争をたたかっていけるかどうかの分れ目になる。「製本労働者の未来をかけて」―石坂闘争がかかげた標語だ。いうはやさしく、実践はむずかしい。
支援の労働者や学生はよい。彼らはもともと何かやりたくてうずうずしているのであり、自らの思想の実践の場を求めているのだ。だが当該はそうはいかない。好きで闘う者ばかりではない。したがって、ここで大切なことは学習である。「学習は闘い」である。それがむしろ、支援が果すべき最大の役割ではないかと思われる。
今日、このような闘争は、民主主義(ブルジョア民主主義)の理念では勝利できない。労基法にせよ、労組法にせよ、それはブルジョア民主主義の理念の産物であるが、それによって闘うには今やマルクス主義の理念が必要となっている。石坂闘争の勝利は端的にいえば草の根マルクス主義の勝利だった。
したがって、支援の理論家の人びと、すなわち労働者階級の解放のために生きようとしている人びとは、闘争がはじまってからはもちろん、ふだんから学習の指導に心をくばるべきだと考える。健聴者に対してと共に、ろう者に対しても。そのために今や手話という武器がある。
石坂をはじめ、中小企業の現場におけるたたかいが、あるいは労働者階級の解放―日本革命へのたしかな道となるかもしれない。それを証明するものが、石坂に加えられた神田警察署の弾圧だ。体制は自らの危険を敏感に察知したからこそ、石坂を単なるコップの中のあらしとは見なかったのだ。日本の全労働者の八〇%は中小企業に働く労働者なのだ。中小がこけたら日本資本主義は沈没する。これら中小に働く労働者が未組織の問、大企業労働者が少々さわい でも、体制は安泰なのだ。
いい古されたことだが、中小企業の労働組合は、企業別組合でなく、産業別・個人加盟の組合に向って組織される必要がある。石坂労働組合と、支援共闘の関係は、名はどうあれ実質において、個人加盟組合の形態をそなえている。ここから真の個人加盟組合へは、もう一歩だ。
闘争は、法廷闘争やゲバ闘争によって勝てるものではない。資本を屈服させる最後の力は、石坂が証明したようにピケストや出荷阻止などで敵の糧道を断つことにある。それを実行できるのは生産現場に立つ労働者だけなのだ。
「ろう者の問題は私たちの問題である」石坂の女子組合員はこの美しいことばを発した。事実はこのことば以上に真実だ。健聴労働者とろう労働者は、同じ底辺の労働者として、手話に結ばれて、共通の場に立っている。はるかに続く日本革命への道の入口に近く立っている。
「印刷・出版労働者の会」
連絡先 千代田区飯田橋一−一一−一
八千代ビル2F
印刷文化研究所

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全障研批判 リボン社理論委員会

☆はじめに☆
国家一〇〇年の計は教育にあり、その権力の国民教育制度の残された環=障害児教育制度の曳船として全障研の10年の間違いは、「54年度養護学校義務化」をもって難破しようとしている。全国的に高まった障害者自らの純金の闘いによって、既に全障研の誤りは暴露されている。その良貨が悪貨を駆逐するさ中にあって、彼ら全障研は専門家として、教師として、施設職員等々としてのありのままの現在を守ろうと私たちの正当な闘いに積極的に敵対してきているが、これは過去の障害者差別の歴史に学ぶことなく、また様々な差別実態やありのままの差別的存在を問うことなく、己れの現在を守るために障害者の未来を圧殺するものであると考えなければならない。したがって私たちは、障害者独自の組織の要求に基いた障害者解放運動の歩む道程にある妨害物を除去し、私たちの正当な運動を防衛するために、具体的な闘いとともに、全障研の間違いとそれを許すものを明らかにしておかなければならない。

1 全障研発生過程概観
まず、戦後障害児教育の流れは、日教組結成(一九四六年)の前年に結成された全国盲学職員連盟・全国ろうあ学校職員連盟による文部大臣・連合軍・国会に対する障害児教育義務化の要求運動に始まる。このふたつの職員連盟は、翌年の日教組結成に際して解消し「日教組特殊学校部」(全障研の母体)となるが、日教組の動きとは別であり、在野に日本盲人連合会・全日本ろうあ連盟(一九四九)を生み出しつつ、日教組全国教研(一九五一)とは別枠で、盲教育研究大会・ろう教育研究大会(一九四九)を持つうちに障害児教育の流れの源をつくり出したと言える。そして普通教育に対して遅れた障害児教育の枠づくりが「国民の教育権」をタテに特殊学級・養護学校設置要求運動として行われる。〈公立養護学校整備特別措置法(一九五六)養護学校就学奨励費支給(一九五六)特殊学級設置補助金支給(一九五七)等〉その結果、置き去りになった中身の問題が第五次教研(一九五五)で、和歌山での聴覚障害児殴打事件に端を発する取り組みが、「人間差別と解放教育」として提起されるが、教研全体ではまだ問われなかった。文体第一〇次数研(一九六一)あたりまでは、戦前の土台の上での盲・ろうあ者の義務化教育が学校制度につくられる時期であった。そして次に第五次数研での提起が、第十一次・第十二次と全体化され、「解放教育」がテーマになる背景は、権力の阻害者対策が、教育、福祉、医療の三つの行政の枠の中で試られ、そこからの矛盾が出てくる時期であったこと。それは、また障害者や障害者の問題に関れる人々が様々な専門家としてつくり出されてくる時期でもあり、日教組障害児学校部も、障害児教育の専門性、教師たる専門家を前面に出し、第15次数研(一九六六)で「全国民間研究サークルの呼びかけ」を行い「みんなのまちがい(校正者注:「まちがい」傍点)」を実体化させる。まずは、教師の教育研究団体として始まった。
ところで社会状況としては、日帝の高度成経経済政策の矛盾が一九六〇年代に入って全般的に顕在化する中で福祉国家(新支配体制)の準備が進む。そして手をつなぐ親の会(一九五一)から引きつづく親の運動が、障害児殺し→施設不足で福祉ブームをつくり、のせられる中で、障害者差別の問題を自らに問う

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ことを放棄した関係者の要求運動〈寮母大会(一九六〇)、肢体不自由職場代表者集会(一九六二)、精薄教育戦場代表者集会(一九六二)等〉が、障全協として組織され、以後の彼らの運動は、?@研究?「全国障害者問題研究会」、?A要求?「障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会」の機関として全障研運動のパターンがつくられてきた。それは、障害者を発達の道すじへ封じ込めるものとしてそれまで未熟であった権力の障害者抹殺、管理体系に大きく貢献して行く。
さて、日教組は勤評闘争、学力ゲスト闘争等の敗北、混乱のうちに総学習、総抵抗運動に追い込まれる。学校管理体制強化の中で闘いきれない教師は、自らをより良き管理者として矮小化して行く。戦前、戦中の「教師聖職規定」を否定した「教師の倫理綱領」?教師は労働者である?は、フヌケとなり、自らを専門家と位置づける中で能力主義教育は完成する。その専門性は、「発達保障理論」を掲げる全障研運動としてフルに発揮される。全障研結成当時の権力の特殊教育観は、「特殊教育の目標は端的に社会的自立を達成することができる人間の育成である............精薄児は自ら進んでよき社会の形成者となることには限界があり、............この限界をはっきり見つめるところに、精薄教育の本質がある。」『学校運営研究』一九六五)と文部官僚の言がある。これに対して日教組が、「障害児教育の経験も全然ない権力主義的官僚が、前記のような誤った障害児教育観を堂々と述べ、行政を行おうとするのですから、たまったものではありません。」(『日本の障害児教育』)と、「限定可能性論」、「社会適応論」として批判している。しかし、自らの専門性を拠り所とする批判は、つまるところ「発達の無限の可能性」から、「発達保障理論」信奉へと転落してしまった。それは、「発達保障論」で武装(?)された専門性が、民間サークル活動(全障研活動)を通して「国民的合意」=権威を得れば権力と闘えるという利用主義的な路線をつくりだしたことである。教育あるいは学校での障害者差別の願われを把握することが、差別を認識し、障害者独自の解放運動に与していくものでは絶対になかったものである。その転落のひとつの大きな背景としては、障害者の解放運動が、まだ決定的に未熟であったということが言えるのだが、であるとすれば、その未熟さとして認識し、それを克服していく闘いを提起できなかったし、いまだそうであるということにおいて、全障研を生み出した日教組の間違いを指摘しておかなければならない。

2、発達保障理論批判
(イ)全面発達論の出所
全障研の発達保障理論は、「人間には無限に発達する可能性があり、その発達への可能性を権利として保障する」こととある。そのもととなる論理が発達の法則=全面発達論であり、障害児に関する発達観、つまり〈何ができないか〉〈どこまでしかできないか〉ではなくて、〈何ができるか〉〈どこまでできるか〉という立場の論理的な裏づけを持つといわれるのであるが、あくまでもこれは、「対象の学」であり、障害者を疎外した上で成り立つ「象げの塔」であって、差別?被差別を軸にした実践=相互変革の闘いという論理とは全く無縁のものである。
その全面発達論は、戦後研究が盛んになった発達心理学の中からヴイヨッキーの欠陥学を飯野節夫、田中昌人等が流用したものである。背景としては、この欠陥学はソビエトの「物質の生産拡大が社会主義を完成する」という路線の下で、生産性と生産能力主義に基いたものである。それは、ソビエトでは一九六〇年代に既に、障害者の分類収容が、欠陥学の四領域(?@ろうあ教育?A盲教育?B知的遅滞児教育?C言語矯正)を基本に学校体系、施設体系として完成していることにうかがえる

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と思う。(重度・重症は?)つまり、「物質は出す、それで障害を克服せよ」という体制的な障害者問題の解消路線が、「健全者に近づけ」という教育として徹底していることである。その欠陥学の根拠としては、パブロフ等の実験(条件反射学)による「生理学酌量の蓄積が新らしい心理学的質を与える」というひとつの事実が心理学と生理学の壁を破ったこととして、大きくは「物質の生産的諸力が人間を解放する」裏づけとされ、障害者に関しては「訓練」という領域が正当化されていったと考えられる。その「訓練」を含めて、欠陥学が、障害児教育理論となるのは、「発達の最近接領域」の考えのデッチ上げである。それは、発達の過程において、「教授」という介入が障害児の可能性を発見したり、伸ばしたりするということにある。
大ざっぱであるが前記の欠陥学が、全障研の発達観である「量的発展(機能回復)→質的発展(社会性の獲得)」という機械的弁証法の根拠なのであり、障害者問題の一般的解消への源である。それは、障害者差別の歴史と現実を見ないことによってのみ保障される。

(ロ)根本的否定の保障
全障研の発達保障理論とは、前述のような機械的な発達観が現在の日本ではまだ一般的に認められておらず、障害児教育が政府によって保障されていないということにあって、少しも体系的な理論というものはない。だから、奇しくも「発達保障の理論は、集団と個人、社会体制を民主化すること。この三つの独自の発達の法則性をもつ糸を内的に結合させて実現して行く実践思想である。」と言わざるを得ない。
彼らの「発達保障」とは、まず第一に障害者自身が障害を克服するための手だての保障であり、第二にその手だての物質的な条件を制度的に保障する教育・医療・福祉といった政策の確立を言う。発達心理学の一般的な発達観が障害者に結びつけられるとき、当然のことながらそれはまず「完全な人間=健全者」がありのままに想定され、そこへむけての障害者の一人一人の努力が評価される。差別のゴマカシ、健全者エゴの優生思想のスリ抜けが、実は障害の克服と称して障害者の自己主張を圧殺する。全障研にあっては、障害者の主張とは即自的な要求でしかありえない。過去の障害者抹殺の歴史を背負い現代という新たな、優生思想の社会の中で抹殺される者としての障害者という社会的存在が、自ら障害者としての革命的主体を創り上げようとすれば、それは全障研の科学(校正者注:「科学」傍点)によれば「敗北主義」というレッテルが用意される。月刊誌「みんなのねがい」の、あの「ぼくも歩きたい」等々のやり口を見よ。既成の全社会領域に於て障害者の一生を通じて障害者としての存在が否定され抜く中で個別障害者が健全者に近づきたいと願うのは、闘いを通して団結を為し得ない限りあたりまえのことである。もし、教育・医療・福祉あるいは、職場、学校、地域といった風に個々バラバラに分断された個別障害者の即自的要求の集合が、社会現象として真理であるのなら一切の諸科学は不要であろう。しかも、「となり近所の友達と一緒の学校へ行きたい」という障害児の要求はキレイに抹殺されている。健全者をいいものだとし、障害者を否定する優生思想が、障害者自らをして「健全者に近づきたい」と己れの存在を否定させるところに差別の根の深さがある。その差別との闘いはまず自立と解放をかけた障害者自らの団結によって始まるのだ。
そういった障害者を抹殺する優生思想の個別障害者へのありのままの反映を要求として見立てるところから出発する全障研のバラバラな科学的実践は、民主主義によって「統一」される。親、教師、施設職員等といった「国民」の許可がなければ、障害者の要求は「国民的合意」とならないものらしい。そしてその「国民」の許可があって初めて障害者に権利が付与される。障害者に関れる者と、親

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教師、施設職員といったように個の存在が権利によって徹底的に分断されているという課題は一向に問われない。障害者に関れる者が健全者としての自らの立場を問われない。全障研の「統一」とは障害者問題の一般的解消であり、ゴマカシを通してしか維持できない。
この発達観を障害者に一方的に押しつける発達保障理論の理論的根拠は、障害者差別を「非社会的差別」と把え、それに「社会的差別」の側面を付け加えていくというものである。彼らの保障理論を図式化すれば(何と図式化できるんだ!)。
図省略
これが、発達保障理論の全てであり、ゼロである。障害者をもっぱら対象としてしか見ない技術の糸と、「見通し論」としての改良主義的な政治の糸の結合の中に、障害者の革命的主体と闘いが、抹消されている。優生思想の伝統と、民主主義の神話とが「健全者も障害者も同じ発達の道すじをたどる」という融和主義の媒介によって、障害者の現実存在を根本的に否定する。それは、「全面発達」の保障というよりも、「根本的否定」の保障というのがふさわしい。

(ハ)専門家領域の保障
発達保障理論の果たす役割りというのは、前述の障害者の存在の根本的な否定の上で成り立つ専門家としての領域の保守と拡大再生産である。障害者独自の解放運動の全国的な高まりの中で、養護学校の矛盾が、障害者や親等から、「地域、校区の普通学校へ」の動きが出てくると、全障研はあわてて「隔離ではありません。健全児との交流は『共同教育』としてやって行くんです。」と切り抜けようとしている。養護学校の矛盾が明らかにされてくると「人間関係の発達」などと、いまさらにいわねばならないのだが、「共同教育」というのは別に新らしい画期的なものでも何でもない。学校行事の体育祭や文化祭等で普通学校の健全児と交流するという、養護学校が旧来個別にポツリ、ポツリとやっていたものである。本質的には、「発達を思いこませる障害児教育」の保守である。普通学校へ障害児が入る事による障害児?健全児の関係性・付き合いと、そこから出てくる現実の問題への取り組みは相も変わらず否定されている。「共同教育」とは、障害児の集団の枠とを前提にしたもので、お互いにその枠を突破することは許されない。障害児が普通学級へ入って行くことは、「分散帰級であって、障害者の団結を認めないことである」と、養護学校での集団教育をタテに、障害者の団結(闘い)を教室の空間にわい小化せざるをえないのである。もはや、悲鳴に近いものであって、そのゴマカシははっきりしているのであるが、問題となるのは、やはり、実際に普通学校で障害児問題に取り組むときの発達保障理論のまきちらす、「発達」の思い込みであろう。では、具体的な話しから述べていく。
にじゅうまる今年20才のA君は寝たきりの重度脳性マヒ者で、週に五日間、近くの中学校の障害児学級へ通っている。籍は普通学級しろまるしろまる組で、中学二年生である。カリキュラムは、国語、算数等々とあるが、身体が思うように動かなくて言葉のでないA君は、先生の援助によって歌を唱ったり、絵を描いたり、字を覚えたりしている。無論、リパビリテーションの時間は毎日1時間ばかりあるが、この訓練の時間がA君にとっては面白くないものだと言う。しかし、「学校は面白い?」と聞けば、眼をパチパチされて肯く。何が面白いんだろうかと授業参観(!)に行ってみた。丁度昼休みの時間だったので、障害児学級には普通学級の生徒が20人ばかり押しかけて来ていてワイワイと賑やかだった。よく見ると男子生徒は23人であとは女子生徒ばかりで、A君のまわりに群がっている。そのA君の顔は、「イッヒッヒ」といった感じである。ニタリ、ニタリ

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としてしまりがなくなっている。後で聞いたらこの時間が一番楽しみであるとのことで。
学校の方針としては、障害児としては、障害児と健全児の分離には反対であって、養護学校にも、隔離だから反対であるとのこと。したがって、昼休みとかホームルームの時間あるいは運動会といった行事に障害児と健全児を交流させるようにしているのである。昨年度から始まったこの学級は、体育とか国語か専門であった教師で編成されている。教師が言うには「障害児教育の理論とかいった専門的なことはあまり知らないけれども、みんなそれぞれの能力を持っているはずだ。それを放置するのではなくて、どうやって伸ばして行くのか。それを課題として、この子らとの具体的な関わりの中からつくり出して行くんです。」と。
そこでは昼休みのA君の笑顔は全面的に肯定されていた。よくある光景なんだが、健全児がA君をまるで赤ちゃんをあやすようにキャッキャッとさわいでいる。A君は、言葉は出ないが感情表現のはっきりした人である。「でも、あんたより4つも5つも年下の生徒なんだろう。」と言うと、今年の成人式を誇っていたA君は、「ムカーッ」とした顔をする。結局A君にとっては子供扱いされるのは腹が立つけども、眼の前に女の子がたくさんいると、つい楽しくなってしまうらしい。(よくワカル!)冗長な話しになったが、実はあらかじめ「教育者」という枠を設定される学校では、「発達」の思い込みに囚われやすいということを視るためである。それはA君が健全児との交流の中で、4才も5才も年下の健全児から子供扱いされるということから、また障害児が置かれている状況と関係性より、では自分は社会的にどういう人間として扱われ、どういう存在なのかを問うていく課題はそこにはなかった。担当教師の口からでてくる言葉は、「どうやって伸ばすか」「どうやって発達を保障するか」だけである。障害児学級の生徒だけスクールバスで登下校しているのであるが、いつまでも取り組みの成果を昼休みの交流や、ホームルームの交流に求めるのではなく、「どうしてホーム・ルームや昼休みだけしか付き合えないのか」「どうしていっしょに登下校できないのか」「どうして学校が終ると障害児といっしょに遊べないのか」等々、障害児学級の今のあり方を絶えず、障害児?健全児の関わりの中から問い直していくことが忘れられてしまう。
実はその障害児?健全児の関係性が、学校内→登下校→地域(いっしょにあそんだりすること)として問われてくるとすれば、それは教師もまた自らの「教育者」としての障害児とのありのままの関係性が問われてくることでもある。乱暴に言えば、「20才になったA君と酒をくみかわし、男同士としての話しができるのか!」ということである。つまり、「教師」という資格と職能を脱ぎ捨てたところで、労働者あるいは健全者として「いったい君は何者なんだ!」ということが問われてくる。A君の教師の場合、次のように言わざるを得ない。「この子たちは中学校が終っても絶対に家に帰してはいけない。施設を考えていかなければならない。」と。障害者が、家庭に在宅障害として放置される問題を地域の問題課題として問いつめていく闘いの回路は全く抜けてしまっている。
「発達」の思い込みは、現場主義によって簡単に教師をしばりつけてしまう。教師としての関わりを一歩出なければ、普通学校へ障害児が入っていくという闘いも、障害児学級=ミニ養護学校として権力の土俵にからめ取られてしまうだろう。教師としてのありのままの存在とありのままの関わりを一気に突破していくことが求められる。

3、全障研運動の本質
以上述べてきたように、全障研の実態と運動とは、
?@障害者に関わる人々(教師、親、施設職員

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ボランティア等)の現場での即自的要求を
?A「発達保障理論」の研究によって特権を貧る専門家と集団の理論指導によって組織し
?B特定政党の路線にのせた障害者抜きの「国民的合意、要求」に仕立てることによって現場実践?政治の糸をもつ社会運動であること。
そこに認められることは、
?@「見通し論」として特定政党の誤りにあるがままに引きずられ、現場での障害者差別と全く向き合わない中身と
?A「発達保障理論」による障害者の現実存在の根本的否定と、
?B差別に対して責任を放棄し、障害者に対して責任を全くとらない研究集団の質とである。
差別と闘わず、障害者を心理学や医学の対象としてしか見ず、その研究によって金取り物とり運動として障害者の社会的存在を抹殺しようとする全障研に私たちは深い憤りと怒りを覚える。私たちは運動実体として障害者独自の組織と要求を作り続けているし、一人一人(個別)をとりあげ、それらのよりあわせの中で全体(障害者とそれに関わる社会関係)に責任をとりつつある。
我々は、政府や権力への批判とは異なるやり方で、我々の歴史的必然と正当な運動を防衛し、それによって前進させるために、新たな闘いを求め創り上げていかなければならない。

《全障連機関誌定期講読のお願い》
全国の障害者差別を許さない闘いを紹介し、共に自立と解放の運動を考えていこう。また全障連全国統一闘争を要に、全国的な状況と情勢、さらに課題や方針を積極的に提起していきます。
差別を許さず日夜闘っておられる全てのみなさん。機関誌の定期講読をお願い致します。
にじゅうまる隔月刊/B5、30ページ、一部二〇〇円 年間一三五〇円(送料込み)/「SSK」開封
にじゅうまるお申し込みは
全国事務局・又は各ブロック事務局へ料金を添えてお願いします。
にじゅうまる全国事務局
大阪市東淀川区南方町三〇六 大広荘
郵便振替「大阪・57342」

《原稿募集》
「全国各地のさまざまな闘いの紹介と提起」に原稿を送って下さい。
全障連は、全国各地のさまざまな障害者の自立と解放運動の交流と、それに基づいた論議を求めています。あなたの進めている運動を全国の仲間に知らせると共に、社会的アピールの場にどしどし活用して下さい。また障害者解放の道すじをより明らかにするような小論文も期待しています。

(校正者注:以下、「たいまつ新書26」の広告)
たいまつ新書 26
島田事件と赤堀政夫 赤堀闘争全国活動者会議編
挿絵省略(校正者注:「無実の赤堀政夫を殺すな!!」と書かれた表紙)
しかく昭和二九年静岡県島田市で幼女殺害事件がおきた。犯人として一人の「精神薄弱者」が、逮捕された―赤堀政夫てある。
しかく冤罪とは、どうしても犯人を上げねばならぬ窮地に陥った警察が、あらゆる違法をおかして犯人を作りあげることだ。島田事件は精神障害者を徹底的に悪用したその典型である。
しかく全国へ連帯の輪を広げる二十代の青年たちは、精神障害者の差別糾弾とその解放をかけて、赤堀政夫の無実を証すために本書を著わした。
赤堀闘争全国活動者会議事務局
東京都豊島区北大塚二−十七−一 上台ビル 6F
〇二三六−七七二六−四四三四
六八〇円

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小委員会からの報告
赤堀小委員会からの報告

はじめに
断じて許す事のできない、3・11静岡地裁伊東正七郎による第四次再審請求棄却決定に対し反撃を開始してから約八カ月、東京高裁―法務省への闘いの正念場として、赤堀闘争全国活動者会議、全国「精神病者」集団、全障連の三者共催で11・27全国闘争が行なわれた。
《1》全国闘争報告
26日には、前段行動として、10万人署名の集約分を東京高裁刑事三部小松正富と法務大臣瀬戸山三男にあてて提出する行動がもたれた。赤堀一雄氏、全活「病者」集団、全障連の各代表、西宮弘代議士ら代表団は、署名を提出し、「再審開始」と「死刑執行阻止」を屋外の部隊と呼応して強く迫った。
翌27日、秋晴れのもと会場の日比谷公園野外音楽堂は、全国から結集した750名の熱気に包まれた。集会は12時から開始。司会は、共催団体それぞれから、しろまるの会、仙台共に闘う会、全障通関東ブロックでおこなわれた。
全体集会は、まず全活代表から「障害者」労働者、学生の共同闘争を更に発展させ、赤堀氏を生きて奪い返そう」という統一基調提起がなされ、全国「精神病者」集団、全障連からアピールがなされた。そして、各団体のアピールのあと、獄中で闘い抜いている赤堀さんより、さらなる闘いの決意と支援者への共に一致団結して闘うようにとの提起が代読され、戦闘的なシュプレヒコールの後、宣伝カー、旗、車イス、歩行可能な障害者、二つのスクラム部隊とデモに出発。また、「病者」集団もスクラム部隊とともに権力の牙の前にも公然と登場し、果敢に闘いぬいた。

《2》赤堀さんの近況
10月中旬に出されてきた宮刑の赤堀さんと我々との交流をたちきる「新規面会全面禁止」という前代未聞の暴挙は、関西、東北ブロックの赤堀さんに面会に来た仲間にたいしても許しがたく、我々の前にたちはだかったが11月5日の宮刑門前闘争、6日の仙台共に闘う会と全障連東北ブロック共催の300名による宮刑包囲糾弾闘争、7日、9日と続いた交渉と、11月17日に関東の仲間が新規に面会し、「トラブルはさけたい。監獄法が改正されるまでは現行どおりとする」との宮城拘置支部保安課長の捨てゼリフと共に打ち砕かれた。だが、いま、刑法改「正」―保安処分新設、刑訴法改「正」とともにすすめられている「監獄法改「正」保安課長の口から吐かれるように、宮刑当局は、我々と赤堀さんを分断し赤堀さんの無実の叫びをほうむりさろうと、あらゆる手段をつかって弾圧をかけている。赤堀さんは、全国各地の仲間に獄中から、年賀状を送り、仲間の体を気づかい、闘いの前進を訴えている。これに応える闘いを全障連の総力をあげて闘いぬこう。許せぬことに、赤堀さんは、5日間の面会・連動の禁止という処分を受けている。(12/22〜26日)理由は食事などを独房に運んでくれる受刑者に、お菓子をやったということで!!人間にたいするごく自然の交流が、そしてやさしさが、刑務

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所では罰を受けるのだ。このような宮刑に対して断乎、赤堀さんの処遇の改善を要求する抗議と赤堀さんに限りない激励を発しよう。
60年ぶりの暖冬とはいえ、仙台は底冷えのする日が続いています面会にあらわれる赤堀さんの手は真赤なしもやけで、足はかなりひどく油薬をつけています。三週間ほど前に医者の診療があったとき「荒れやすい体質だから水はつかうな」と言われたそうですが、(これまで、シャツなどは宅下げして、共に闘う会が洗い、パンツだけは冷たい水をつかって自分が洗ってました)そもそも、この体質こそ、24年間も閉じこめられた結果つくられたものです。赤堀さんのものです。赤堀さんのヂの手術を麻酔もなしで行うような乱暴きわまりないやり方で医者が指摘するほど、過酷な状況の中で、赤堀さんは闘っているのです。
赤堀さんの越冬体制は、ふとん2枚と毛布3枚、無料の湯タンポ1個に1日30円の有料湯タンポ1個といったところ。
せまく、寒い獄中で、冬を越す赤堀さんに獄中生活―医療などの待遇改善をなんとしてもかちとらねばなりません。
11・27全国闘争以後、すでに、東京高裁小松正富に対して、12月に弁護団より最終の即時抗告理由補充書が出されています。赤堀さんと放浪を共にした岡本佐太郎さんの写真発見など、赤堀闘争は新らたな展開をみせています。しかし、刑法改「正」にむけた「意見を聞く会」の広島―高松での強行など、障害者をはじめ全人民を圧殺する司法の反動化が急ピッチで進行するなか、東京高裁小松は、即時抗告棄却、死刑執行をネラッています。障害者差別を許さず、赤堀さんを生きて奪い返すために、10万人署名、宮刑、法務省、東京高裁への抗議、要請のパガキ、電報などあらゆる闘いと赤堀さんへの激励の手紙、面会に力を注ごう!

交通小委員会からの報告
交通の小委員会では、全国大会後初めての会議を10月31日に予定していましたが、2団体が都合悪く欠席のため流れました。その後全国幹事会のあった11月12日に小委員会ごもちました。その中で全国大会交通分科会のテープおこしとまとめの文章を分担しました。交通分科会の中では各地域の報告により乗車拒否が全国で行なわれていることが明らかになりました。
そこで交通労働者に対し、車イスの乗車の介助をするようつきつけていこうということで、全交運に対して公開質問状を出していくことになりました。
質問の内容はだいたい次の様なものです。
1.乗車拒否に対して、今までどう捉えてきたか。
2.それに対し、どう対応してきたか。つまり中央パス共闘会議通達、私鉄総連決議(介

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護者を二名つける、車イスを折りたたむ、車イスを固定する、という条件)をどう総括しているのか。
3.横浜交通局は前記2の条件に必ずしもこだわらない、という回答をしている。しかし組合がこれに反発している。このことをどう捉えているか。
4.合理化攻撃と「障害者」が自由に乗れない、という関係を今後の労働運動の中でどう捉えていくつもりか。
この公開質問状を全障連として全交運に出し、1月を目途に話し合いをもちたいと思います。
また国労などとも全障連各ブロックにより各地域で話し合いをしていきたいと交通小委員会では考えています
その他、今後の活動として、全障研の改善要求との違いや、「障害者」解放運動としての交通問題について体系化していきたいと思っています。そのための情報と資料の整理を行い、各地で学習会ができるように小委員会として組織していきたいと考えています。

生活小委員会からの報告
1 生活小委員会としての今後の方針
生活小委員会は、一二月一〇日東京で第一回の会合をもち、以下の基本的な方向をきめました。この内容は、一二月十一日の全国幹事会で、東北ブロックの橋本さんより提案され全体で了承されました。
現在のところ生活担当者は以下のメンバーです。東北ブロック 橋本(福島青い芝) 関東ブロック 荒木(関障連) 関西ブロック 未定(関西青い芝)
〈闘いの基本〉厚生省などに闘いをはじめるとき、具体的な話しに入る前に、障害者が今、地域で生きている現状、差別を厚生省にしらしめて行かなくてはならない。
わずかばかりの福祉手当などでごまかされることのないように、「自立に関する我々の見解」(注)を示していくことが大切になる。
(注)「自立に関する我々の見解」として、小委員会の会合では、隔離された状態から地域社会に出ること、社会のあらゆる所にどんな障害者でも生きていかれること、障害者の主体性が確立されること、生活のすべてに対し障害者自身が責任をとっていくことなどが、提起されました。
〈基本的な闘いの課題〉
(1)生活できるだけの大巾な年金の増額
(2)地域での自立生活にたいし、最底、施設にかけているぐらいの介護料の増額(現在は、生活保護の他人介護加算二万八千円で、特別基準として厚生大臣がみとめると六万円まで出る。しかし施設で一人当りにかける金額二六万以上と比べれば話しにならないほど低い)
(3)今は、年金、手当がふえると、生活保護費がへらされてしまう。この収入認定をさせない闘い。
(4)羊水チェック、遺伝相談所などにみられる厚生省による優生思想の攻撃と闘う

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(5)施設や親もとから出て、障害者がすみたい所にすめるような住宅の保障
2 具体的なとりくみ
(1)第三回大会(七八年夏)より前に、「生活」討論集会、厚生省交渉をもつ。
(2)そのためにも、各地で自立生活を闘っている団体、個人の交流、意見交換のために、連絡紙(交流紙)を二ケ月に一回出す。(簡単なもの。各地区から投稿をつのる。)
(3)生活小委員会の会議は、二ケ月に一回を定例とし、その他必要に応じて全国的な結集のときなどにひらく。
場所は、東京をべースに、東北、関西でも六回(一年)に一回ぐらいひらく。会議には、交流もかね、担当メンバー以外でも直接、「生活に関わっている人に出てもらうようにする。(以上)

「生活」連絡紙は、一月末に出したいと思います。各地で自立に向けて闘っている団体、個人のみなさん、ぜひ積極的に投稿をお願いします。ビラだけでもけっこうです。
送り先 東京都練馬区南田中5-25団地27-107
荒木義昭 (校正者注:「「生活」〜荒木義昭」四角囲み)

挿絵省略

編集後記
しろまる今号から、関東出版部で編集することになりました。卒直に言って、編集者のなれないのと、なかなか原稿が集まらないことなどで、少々ウンザリしています。しかし、全障連に対する内外からの期待と、在宅、施設から自立へ向けて闘いを開始している多くの重度障害者を見るとき、編集局の少々の苦労など微々たるものだと思います。
しろまる今回は、ひきついだばかりだったので、キッチリした編集ができませんでしたが、次回より明確な編集方針を出したいと思います。又、編集も、編集局だけでおこなっていくのではなく、全国の仲間と読者の皆さんと一緒につくって行く機関誌をめざしています。
しろまる全国の仲間、そして読者の皆さん。機関誌への批判、意見、解放理論を深める論文などをどしどし書いて下さい。
(全国事務局関東出版部)

作成:山口 和紀

UP:20220624 REV:20220906
全障連『全障連』(全国機関誌)目次障害者(運動)史のための年表
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