アムネスティ・インタナショナルによる「死刑廃止キャンペーン89」の一環として、6年前に死刑囚から再審無罪となった免田栄さん(63)が、16日までの予定で全国講演キャラバンを続けている。
1989年7月13日 朝刊 千葉
◆だいやまーく10の質問(主な候補者に聞く 89参院選千葉選挙区:7)
●くろまる10の質問
(1)子供のころ、あこがれた職業は
(2)尊敬する政治家は
(3)最近読んで印象に残った本は
(4)自分の欠点は
(5)自分の長所は
(6)モントリオール議定書でフロン全廃をめざすのは何年か(2000年)
(7)ロードショー映画館の入場料金は(1600円) 標準価格米10キロの値段は(3760円)
(8)「DINKS」の意味は(共稼ぎで子供のいない夫婦)
(9)リクルートの江副浩正前会長にひとこと
(10)もしあなたが首相なら、中国にどんな態度を取りますか
* * *
(届け出順、カッコ内は推薦の政党)
○しろまる糸久八重子氏 (57) 社前(社民・サラ)
(1)医者。家伝の薬などがあり、関心をもっていたので。
(2)加瀬完。県教組出身で30年間、参院議員だった。
(3)読む暇がないが、「ダイヤモンドダスト」は読んだ。
(4)いろいろあるけど。そそっかしいし、気が多い。
(5)まじめ。頼まれると何とかやらなきゃと思って。
(6)う〜ん。詳しくないけど......。1995年くらい。
(7)1500円。「レインマン」を見たい。米は姉から来るので。
(8)よくわからない。
(9)あなた、大変なことをしてくれましたね。
(10)「日中間の友好にひびが入る」ときちんと伝える。
○しろまる倉田寛之氏 (51) 自前
(1)小学生のときはパイロット。消防士にもあこがれた。
(2)県議だった父親。厳しい人だったが、影響を受けた。
(3)最近は読む暇がない。三国志や太平記は何度も読んだな。
(4)自分の意思と違うことがあると、短気な面が出てしまう。
(5)我慢強く、一つ一つ丁寧にやること。
(6)何年までかな。通産政務次官のころはよく勉強したんだが。
(7)ラストエンペラーを見た。1300円かな。米は4000円前後。
(8)夫婦であって夫婦でないような関係、といった意味では。
(9)金ですべてを握ろうとした。非常にけしからん人だ。
(10)残念で不幸なこと。でも国家に対する干渉になるから......。
○しろまる上田不二夫氏 (56) 無新
(1)検事、医者、大学教授。できるなら今でも兼業したい。
(2)吉田茂、とでもしておこう。
(3)仙台刑務所に入っていた元死刑囚の体験記。題名は忘れた。
(4)怒りっぽいところ。性格が激情型ですから。
(5)温かい心で是々非々を貫き通す。不正は絶対に認めない。
(6)環境問題にも関心はあるのだが、知らない。
(7)4000円ぐらい。米は知らない。外食がほとんど。
(8)さあ。何のことでしょうか。
(9)有能だが方法を誤った。成り上がり根性が災いした。
(10)裁判の方法に正義が感じられない。経済制裁を検討する。
○しろまる小田桐朋子氏 (33) 諸新
(1)担任の女性教師の影響で、教師。または弁護士。
(2)緑の党の対馬テツ子党首。学生時代に知り合った。
(3)緑の党でよく読まれている「太陽への道」。
(4)こうと思ったら自分の考えを他人に押しつけてしまう。
(5)突き進んでいくところ。
(6)わかりません。
(7)2000円くらい。米は3500円といくらか。
(8)わかりません。
(9)金をばらまいて政治を動かすのは良くない。
(10)内政問題だから、中国の内部で解決すべきことだ。
○しろまる板垣英憲氏 (42) 太新
(1)新聞記者。中学のときテレビドラマ「事件記者」を見て。
(2)ワシントン。大統領を1期でやめたのが潔い。
(3)「大国の興亡」。日本国家の衰亡のきざしを感じた。
(4)物事にこだわりすぎて、何事にもしつこい。
(5)いやなことは、すぐに忘れてしまう。
(6)以前に論文を書いたことがあるんだが。1992年ごろ。
(7)1500円かな。最近見てないから。米は1200円ぐらい。
(8)ジンクスじゃなくてディンクス? 聞いたことない。
(9)悪をして善をなした功労者。政治改革の原点になった。
(10)弾圧中止を要請する。でも制裁や亡命受け入れは難しい。
○しろまる石井正二氏 (44) 無新(共)
(1)探検家か宇宙飛行士。「鉄腕アトム」の世代ですから。
(2)元京都府知事蜷川虎三。しっかりした骨組みを持っていた。
(3)稲の起源をたどった「稲の道」。生活の歴史に興味ある。
(4)引っ込み思案と言われる。選挙出馬を聞いて仲間が驚いた。
(5)昔の恩師が「正ちゃんは正義漢だった」と手紙をくれた。
(6)わからない。資料は集めているが、よく読んでいなくて。
(7)2000円ぐらいかな。米は5000円。
(8)(つづりを書いてみて......)共稼ぎで子供がない。
(9)ったことを洗いざらい明らかにしてもらいたい。
(10)断固抗議する。国際世論で包囲しなければならない。
○しろまる菅原道生氏 (38) 進新
(1)テレビの特派員。海外に行けるというのが魅力だった。
(2)田川誠一。自分の政治信念を貫き通すから。
(3)鈴木牧之「北越雪譜」。雪に苦しむ農民の生活が印象的。
(4)整理整とんがダメ。典型的なB型で、他人が気にならない。
(5)明朗で、腹を立てない。
(6)うっかりしてたね。うーん、1997年かな。
(7)1500円か2000円。米は家から送って来るので、約2000円。
(8)よく聞くんだけど。意味はわからない。
(9)あなたのお陰で、日本中が政治に目覚めた。ありがとう。
(10)ニューヨーク市長が言った「シェイム(恥)」と同感。
1989年7月14日 朝刊 1外
◆だいやまーく麻薬密輸事件で死刑判決のオチョア元将軍処刑 キューバ
【サンパウロ13日=小里特派員】キューバからの報道によると、国際麻薬組織の密輸にかかわって国家を裏切ったとして軍事法廷で銃殺刑の判決を言い渡された革命の英雄、アルナルド・オチョア元将軍(57)ら4人は13日、夜明けとともに銃殺隊により処刑された。
革命30年の歴史の中で最大の政治的衝撃を与えた事件となったが、現地の外交筋の間ではともに革命で戦ったカストロ国家評議会議長が4人を終身刑に減刑するのではないかとの観測が流れ、またローマ法王やアムネスティ・インタナショナルなどが寛大な処置を訴えていた。
しかし同議長は「内外に甚大な影響を与えた深刻な事件であり、減刑は免責の印象を与えることになる」として、減刑を認めず、軍の規律を最優先する立場を明らかにした。
1989年7月14日
◆だいやまーく処刑などの報道減ったが... 宣伝消えても死刑執行続く 中国
【北京13日=斧特派員】13日北京に届いた情報によると、中国・四川省の成都で、民主化要求運動に参加した男性2人が8日、死刑を執行された。6月の「暴乱鎮圧」直後の見せしめ処刑以後、処刑についての報道は少なくなっており、一部には「国際世論に配慮して自制しているのでは」との見方も出ていたが、大々的な宣伝がなくなっただけで、関係者の捜索、逮捕とともに、裁判や処刑は各地で続いているようだ。
13日北京に到着した四川日報(9日付)によると、6月初め四川省成都で起きた騒動で、焼き打ちなどに加わった若者2人に今月1日、1審で死刑の判決、8日に執行された。別の4人のうち1人に死刑(執行は2年間猶予)、3人に無期懲役の判決が確定している。
他の地方紙から拾った関係記事によると−−。
▽遼寧省瀋陽の遼寧大学歴史科に盗みに入り、陳列棚から文物70件を盗んだ2人に今月3日、瀋陽で死刑執行(9日付遼寧日報)
▽吉林省長春で殺人、放火、婦女暴行、強盗など重大犯罪人159人の公開判決言い渡し大会を6月29日に開き、うち16人に死刑判決(4日付吉林日報)
▽新疆ウイグル自治区バーチュー県の労働者、謝旺泉(24)と羅志強(21)の2人は「6・4事件」にからみ「デマを流した」かどでバーチュー公安局に4日つかまった(6日付新疆日報)
1989年7月16日 朝刊 3総
◆だいやまーく中国問題で日本の経済力、無視できず アルシュ・サミット政治宣言
【パリ15日=今西記者】「ひとつ間違えば、日本が袋だたきに遭う場面も」−−主要先進国首脳会議(サミット)に臨んだ宇野首相がもっとも気をもんでいたのが、中国問題に対する参加各国、なかでも欧州勢の反応だった。ところが、結果は、それほど激しい応酬もないまま、「中国が孤立化することを避けるよう期待」と、中国当局の対応を促す形で政治宣言での対中非難は全体として抑制の効いたものになったと首相一行は受け止めている。基本的には日米両国が組んだ"タッグマッチ"で米国が日本の立場を後押ししたのに加え、中国に厳しい姿勢を示していた欧州勢が、アジアの中で大きな位置を占める「経済大国ニッポン」の意向を尊重せざるを得ないと判断したことがその背景にある。
「中国に関する宣言」で、中国への新たな制裁措置が回避されたことについて、外務省幹部は「日米間で事前の意見調整が終わっていた上に、欧州各国の首脳の間でもサミット参加7カ国のうちで中国の実情を一番良く知っているのは結局のところ日本、との見方で一致したのが大きい」と説明する。
中国問題で日本政府の気のつかいようはたいへんなものだった。サミット出席に先立って三塚外相は、ベーカー米国務長官に対し、中国の孤立化はアジアの平和と安定に重大な障害をもたらすことを強調。中国通で知られるブッシュ米大統領も理解を示し、サミットでは東欧諸国の民主化推進を期待する米国の立場を日本が後押しするのと引き換えの形で、米国が中国への「慎重な配慮」を求める日本を真っ先にバックアップした。
例えば関係者によると、東欧、中国問題を集中的に協議した14日夕の第1回外相会合で、三塚外相は先頭を切って米国の東欧支援を評価、資金協力を含めた「応分の協力」を表明した。続いて、中国問題に入ると、ベーカー米国務長官が「孤立を避ける」との日本の方針に賛成を表明。これにカナダ、英国、西独の順で次々と同調、異論なしで了承されたという。
欧州各国にしてみれば、中国への日本の「生ぬるい」対応に不満は残しながらも、中国の民主化のためには経済改革が欠かせぬとの気持ちもあって、その経済力を背景にアジア世界で抜きん出た発言力を身につけてきた日本の意向を無視するわけにはいかなかったようだ。
武力弾圧に対する国際世論の厳しい非難を浴びた中国当局だが、最近は労働者らの死刑を執行して「見せしめ」にするといったことがなくなるなど、西側全体との協力関係修復を模索しているふしがある。中国への厳しい非難の姿勢を崩していないフランスなど西欧各国も、こうした現状を踏まえて、中国自身に厳しく孤立化回避への対応を負わせる形での表現で、あえて日本などの主張に歩み寄った、という側面もありそうだ。
経済大国から政治大国への脱皮を目指す日本は、昨年のトロント・サミットで「カンボジア問題」「フィリピンへの経済援助」「ソウル五輪の成功」などアジアの政治テーマを積極的に取り上げた。宇野首相は、サミット出席に先立って韓国の盧泰愚大統領に電話して、「アジア・太平洋の一員としての立場で臨みたい」と約束したが、中国問題ではその通りイニシアチブを発揮した。
次々と日米間の懸案を片づけ、まさに政権の絶頂期にトロント・サミットに臨んだ竹下前首相と、もともと政権基盤が弱い上に逆風のただ中で外交的対応などほとんどできないままで出席した宇野首相。その立場には比較にならない開きがあったが、結果からすると、サミットでの2人の発言力に大きな差はなかった。裏返していえば、政権の安定度のいかんによらず、日本の経済力の大きさは無視できないものがあるといえる。
ただ、日本がアジアの「盟主」然と振る舞い始めれば、近隣諸国の反発を招くことは必至。「アジアを代表してのサミット出席」という立場がこの先定着してくれば、その分、日本の国際社会での調整力が厳しく試されることにもなろう。
1989年7月17日 朝刊 茨城
◆だいやまーく再審の実現へ土浦で交流会 茨城・波崎の保険金殺人事件
鹿島郡波崎町で昭和38年に起きた保険金殺人事件の富山常喜死刑囚の無実を訴え、再審請求運動をしている「波崎事件の再審をかちとる会」(世話人・吉田昇平さんら約20人)が16日、土浦市中央1丁目の亀城プラザで「波崎事件・土浦交流会」を開いた。
この事件は、昭和38年8月26日午前零時半ごろ、富山死刑囚の内妻のいとこで、波崎町に住む農業石橋康雄さん(当時35)が、自宅から約1.3キロ離れた同死刑囚宅から帰宅した後、苦しみ出し、病院へ収容されたが死亡したもの。
昭和48年の東京高裁判決によると、同死刑囚が保険金をだまし取ろうとして、石橋さんに600万円の生命保険をかけさせたあと、交通事故死にみせかけようと計画、立ち寄った石橋さんに青酸化合物入りのカプセルを飲ませた、とされている。
同死刑囚は捜査段階から一貫して犯行を否認。青酸化合物の入手先がはっきりしないなど、決め手となる物証もない難事件とされていたが、1審の水戸地裁土浦支部は41年、石橋さんが死ぬ間際に「薬を飲まされた」「箱屋(同死刑囚の通称)にだまされた」などとしゃべったという妻の証言などから、死刑判決を下し、東京高裁、最高裁もこれを支持した。
かちとる会では現在、部分的に判決の不合理を訴える第2次再審請求をおこしている。交流会には、かちとる会のメンバー、弁護士ら約20人が集まり意見交換をした。この事件を研究している元朝日新聞記者で当時事件の取材にあたった足立東さんは「捜査には自白も、裏付けとなる物証もない」とえん罪を主張した。
1989年7月18日 朝刊 1外
◆だいやまーく韓国、安企部の徐議員スパイ断定で引き締め強化へ 平民党は窮地に
【ソウル17日=小田川特派員】韓国の第1野党、平民党の徐敬元議員の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)訪問事件が17日、国家安全企画部(安企部)によって「スパイ事件」として発表されたことは、韓国社会に大きな衝撃を与えている。国会議員が北朝鮮を利するスパイ罪に問われたのは69年の金圭南議員(死刑)のケース以来。この日の発表で、民主化闘争のリーダーを自認してきた平民党(金大中総裁)はさらに窮地に立たされた。与党民正党は利敵行為を取り締まる国家保安法の改正の白紙化を打ち出し、韓国政府は当面、引き締めを強める様相だ。ソウルでは、南北対話は一層後退を余儀なくされるとの見方が強い。
韓国当局はこの間、徐議員、在野勢力指導者である文益煥牧師の訪朝、全国大学生代表者協議会代表の林秀卿さんの平壌での世界青年学生祭典参加を、野党、急進派の在野勢力、学生らの締めつけのテコにしてきた。17日の安企部発表はこうしたタイミングの中で「国会を舞台にしたスパイ事件」と決めつけたもので、衝撃は極めて大きい。
検察当局は今後、平民党の金大中総裁、文牧師の実弟である文東煥前副総裁に対して、事件の参考人として事情聴取をするなど、同党に対する追及を続ける方針だ。
これに対して、平民党は17日、「金総裁は事件に無関係。捜査には絶対に応じない」と改めて表明。徐議員に対する弁護人接見禁止の違法性などを主張、盧泰愚政権は平民党へのダメージをねらっているとして謝罪を求めた。しかし平民党に対する韓国世論の風当たりは強い。平民党は当分、党立て直しへけわしい道を歩むのは必至。同党が先頭に立ってきた全斗煥政権時代の不正、光州事件の解決など、民主化に欠かせぬ問題の解明も遅れるとの見方が出ている。
一方、民正党の朴浚圭代表委員は17日、政府の許可なしの徐議員らの訪朝事件は「北朝鮮の対南戦略だ」として、北朝鮮の方針に変化がない限り、今後1−2年間は国家保安法を改正しないと表明した。同法は民主化に伴う「悪法改廃」が迫られる中で、民正党が2月の臨時国会に改正案を提出したが、文牧師訪朝事件で審議が中断している。野党、共和党(金鍾泌総裁)も民正党の方針変更に同調する姿勢と見られる。文牧師訪朝後に強まった韓国の引き締めは、「スパイ事件」発表を契機に、さらに厳しくなる見通しだ。
<徐敬元議員>
全羅南道の貧しい農家に生まれ、学校には小学校も含め一度も通ったことがない、といわれている。72年にカトリック農民会に加入してから本格的に農民運動に身を投じ、農民デモなどで2回にわたって投獄を経験。84年から88年に平民党に入党する直前まで同農民会の全国会長を務めた。総選挙後の初登院のさいには白のゴム靴、韓服姿で現れ、話題をまいたりもした。
1989年7月19日 朝刊 1外
◆だいやまーくミャンマーで民主勢力、平和行進へ 政府は首都の外出自粛訴え
【バンコク18日=宇佐波特派員】ミャンマー(旧ビルマ)の消息筋が18日伝えたところによると、建国の父、アウン・サン将軍が暗殺されて42回目の記念日を迎える19日、反政府派最大勢力の全国民主連盟(NLD)の総書記長アウン・サン・スー・チー女史は他の104政党とともに会場のアウン・サン廟までの平和行進を予定している。これに対し国家法秩序回復評議会(ソウ・マウン議長)は「個人、政党を問わず記念日に行う政治的目的の行進は認めない。もし、この禁止令を破れば、軍は必要な措置を取る」と警告している。また、軍は18日、首都ヤンゴン(旧ラングーン)に広報車を出し、19日は昼間の午前6時から午後6時までの外出を控えるよう市民に呼びかけた。
スー・チー女史の父親であるアウン・サン将軍が暗殺されたのは1947年7月19日。命日には将軍をしのぶ記念式典が開かれ、独立の功労者の家族らが、政府に招待されてきた。ことしは、スー・チー女史ら9家族が招待され、8家族までは出席を表明している。しかし、スー・チー女史は欠席の方針で、代わりに、軍事政権とは無関係の民主勢力による平和行進を計画、軍部を硬化させている。
一方、ヤンゴンの聖地シュエダゴン・パゴダで17日午後、約300人の僧、市民らが軍事政権を非難するビラをまき、デモをしたため、軍と治安警察隊が出動し、解散させた。反軍感情は、去年の民主化デモから1年を迎え、次第に高まりつつある。
19日の政府によるアウン・サン将軍をしのぶ記念式典は午前8時(日本時間同10時半)から予定され、軍はアウン・サン廟やNLD本部の周囲に完全武装の兵隊を配置するなど首都警備を増強した。18日の国営放送によると、ヤンゴンなどの3地方の軍管区司令官に司法権が与えられた。市民法廷とは無関係に軍事法廷を開き、被告には最低3年の懲役から終身刑、死刑まで科すことができる。
1989年7月22日 夕刊 1総
◆だいやまーく控訴審も死刑支持 大韓機事件の金賢姫
【ソウル22日=波佐場特派員】大韓航空機事件で、1審のソウル地裁で死刑判決を受けた金賢姫=キム・ヒョンヒ=被告(27)に対する控訴審の判決公判が22日、ソウル高裁であり、裁判長は1審の判決を支持し、控訴を棄却する判決を言い渡した。弁護人側はこの判決を不服として金被告と協議のうえ上告する構えをみせているが、7日以内に手続きをとらないと死刑が確定する。
この日の判決で裁判長は「北に操られていたことや、反省していることは理解できるが、運航中の民間航空機を爆破するというのは、最も非倫理的行為で、とうてい許せるものではない」として、控訴を棄却した。
1989年7月22日 夕刊 らうんじ
◆だいやまーく独断撤退:20 他部隊も相次ぎ退く(空白への挑戦)
8月下旬のソ蒙軍の総攻撃で壊滅状態となり、やむなく撤退したのはフイ高地だけではなかった。
23師団長・小松原道太郎中将の日記によると、25日の井置支隊の脱出を皮切りに29日までに支隊2、連隊6、大隊2が守備地から撤退している。ノロ高地方面守備の長谷部支隊、バルシャガル高地方面守備の山県部隊などである。
このうち7部隊を小松原は、部隊長の独断による撤退としている。その責任をとって、山県、伊勢、井置、長谷部の4人の部隊長が戦場や後方で自決した。ほかにも3人の部隊長が敗退を恥じて、みずから命を絶った。
このように大隊以上の部隊が次々に戦場で守備地を放棄した例は、日本軍の歴史の中ではきわめて珍しいことだった。ノモンハンが初めてだったのである。
* * *
当時の陸軍刑法は、「司令官軍隊ヲ率イ、敵前ニオイテ故ナク守備地、モシクハ配属ノ地ヲ離レタルトキハ死刑ニ処ス」として厳しく退却に制約を設けている。
また陸軍作戦要務令は、「戦闘ノ経過ツイニ不利ナルニアタリ退却ヲ実行スル際ハ、上級指揮官ノ命令ニヨルヲ本則トス」として独断退却を戒めている。
荻州6軍司令官や小松原23師団長が井置に自決を勧告した根拠は、この2つの規則であった。
撤退の中でもフイ高地の場合は、ソ蒙軍の北翼からの南下を許し、中央戦線の日本軍の壊滅の主因となったと見られていた。「軍法会議で死刑になるより、自決の方が軍人として名誉」と2人は考えたのである。
陸軍刑法と作戦要務令を、よく見てほしい。前者が禁じているのは、「故なき場合の退却」である。後者は「退却の際の指揮官命令は原則」といっている。
井置支隊長の撤退の判断を、私が正しいと考える理由を3つ挙げる。
(1)24日からの攻勢転換を前に、小松原は「フイ高地固守」を23日午後に下達した。井置支隊の無線機は同日午前に破壊されていた。井置は自分の判断で行動するしかなかった。
(2)攻勢転換作戦の舞台は、戦線中央と南翼だった。最北翼のフイ高地はソ蒙軍にふみにじられ、すでに固守する意味は失われていた。
(3)日本軍では損耗率50%を、壊滅状態とみる。井置支隊の損耗率は、撤退時には51%に達していた。本隊の捜索23連隊の損耗率は、実に73%だった。
* * *
防衛庁の公刊戦史も、「井置支隊は22、3日に後方へ下げ、主力に加えるべきだった」と述べ、用兵の失敗を指摘している。
もう1人、井置を自決に追い込んだ男がいる。関東軍参謀・辻政信である。
関東軍機密作戦日誌には、こう書かれている。「(フイ高地撤退に関し)井置中佐の師団長あての報告には謝罪の字句なし。(中略)暗然たるものあり」。前線から戻った辻の報告である。
井置がフイ高地から撤退して自決もせず、謝罪もしなかったので、辻参謀もまた激怒したのであった。=敬称略
(石川巌記者)
1989年7月22日 朝刊 1外
◆だいやまーくスー・チー女子とティン・ウ氏、1年間外出禁止に 総選挙出馬阻む
【バンコク21日=宇佐波特派員】ミャンマー(ビルマ)の消息筋が21日伝えたところによると、同国の国家法秩序回復評議会(ソウ・マウン議長)は同日朝、反政府派最大勢力の全国民主連盟(NLD)総書記長、アウン・サン・スー・チー女史(44)と議長のティン・ウ元国防相(66)の2人を、20日朝からヤンゴン(ラングーン)市内の自宅に軟禁したことを正式に発表した。2人には1年間の移動・外出禁止が命じられ、事実上、来年5月に予定されている総選挙への出馬が不可能となった。
自宅軟禁の理由として同評議会スポークスマンは「2人は国家治安維持法に違反し、この2カ月前から国軍と国民を分裂させるようなさまざまなたくらみを行い、国家の治安を脅かすさまざまな違法行為を重ねてきたため」と説明した。
同法は1975年に公布され、違反者には1年間の自宅軟禁が適用され、必要に応じてさらに3年延長される。この間、外出禁止、電話での外部との接触、外国大使館・政党との接触も禁じられる。家族も官憲の監視なしに外出できない。
同スポークスマンは、NLDの存続は認めると語ったが、ソウ・マウン政権に対する抵抗のシンボルであるスー・チー女史が活動の自由を奪われたことは、今後の反政府運動にとって大きな打撃となろう。しかし、こうした強硬措置は「公正・自由な選挙の実施」というソウ・マウン政権の約束をほごにするものであり、国民の反発を一層、深めることになろう。
2人の自宅軟禁についてバンコクの外交筋は、NLDを軸に反政府運動が盛り上がりを見せ始めたのを軍事政権が警戒。運動を早い段階で封じ込めるため取った強硬策と見ている。
ソウ・マウン政権は18日には、戒厳令違反者に対して首都を含む三軍管区司令官が、一般法廷とは別に軍事法廷を開き、死刑判決を下すことができる、という軍政の強化策を打ち出し反政府派の動きをけん制したばかり。
スー・チー女史に対しては、これまでにも選挙遊説中に軍人らが妨害。6月21日の反政府暴動1周年記念の追悼集会では軍が発砲して、1人が死亡、その際、スー・チー女史が一時身柄拘束される事件が起きていた。
また、今月7日にシリアム精油所で起きた爆弾死傷事件についても、軍部はNLDの若手活動家の犯行だったと発表するなどNLDを「危険な党」として印象付けていた。5月末公布された選挙法にも、外国勢力と関係の深い者、外国から市民権を与えられた者の立候補を禁じる、との1項があり、これも英国人の夫を持ち英国暮らしが長いスー・チー女史の出馬制限をねらったもの、との見方も出ていた。
1989年7月25日 夕刊 娯楽
◆だいやまーく映画「殺人に関する短いフィルム」のキェシロフスキ監督に聞く
ポーランド映画界の異才、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の新作「殺人に関する短いフィルム」が公開中だ。昨年のカンヌ映画祭審査員賞、第1回ヨーロッパ映画賞グランプリなどをとった秀作である。このほど来日したキェシロフスキ監督が、自作について語った。
2つの殺人が描かれる。1つは、うっ屈した青年の衝動殺人、もう1つは、社会の制裁としての死刑という名の殺人。それも、青年の内面に深入りせず突き放し、裁判の過程も一切省略、かわりに殺人場面を過剰なほどリアルに描写する。
「普通の映画は、殺人の動機を見せる。しかし、この映画のテーマはそこにはない。私自身、青年がどうして殺人を犯したのかわからない。私が描きたかったのは、何の利益も生まない、そしてだれにも理解できない暴力というものそのものなのです。暴力描写が残酷だという批判はありますが、この映画の場合、あのように描く必要があったのです。殺人という行為の真実だからです。たしかに、これは心地よい映画ではないでしょう。が、それだからこそ観客は居住まいを正して見てくれると思う」
若い弁護士が登場する。彼を通して、映画は死刑制度に疑問をなげかける。
「私自身、死刑制度には反対です。死刑もまた殺人だからです。ただし、私はそのことを言いたくてこの映画を撮ったのではありません。こういう話を現代という時代の中で見てもらいたかったからにすぎません」
物語は、寒々としたワルシャワの風景の中で展開される。くすんだカラーの、時にわざとシミをつけた画面が、この冷厳な物語に一層冷え冷えとした感触を与えている。
「特殊なフィルターをつけて撮影しました。冷たく醜い雰囲気を出すための工夫でした。光の加減の方がせりふよりずっと雄弁ですから」
キェシロフスキは、1941年、ワルシャワ生まれ。「ある党員の履歴書」(75年)などの記録映画、「ペルソナ」(同)などのテレビ映画で国際的に知られるようになった。劇場用映画は、モスクワ映画祭金賞の「アマチュア」(79年)を含め、これが5作目だ。
記録映画はもう撮らないという。「人間の内面を突っこんで描きたいから。記録映画ではもの足りなくなったのです」。ドストエフスキー、カミュが好きだという。「人間の真実を描いているから。それもおそろしいほど奥底深く」
ポーランド映画の現状には「少しずつ良くなっている」が、楽観視はしていないようだ。
1989年7月27日 夕刊 2社
◆だいやまーく「牟礼事件」の死刑囚、佐藤が"獄中結婚" 相手は短歌誌同人
昭和25年に女性が行方不明になり、2年後に東京都三鷹市牟礼で白骨死体で見つかった「牟礼事件」の死刑囚、佐藤誠(81)=仙台拘置支所在監=が、福島県相馬市の特別養護老人ホーム「相馬ホーム」で療養している短歌同人の滝田アキノさん(82)と結婚していたことが分かった。
佐藤は「えん罪」を訴えて第8次再審請求中。関係者によれば、自分の死後も再審請求を承継してもらう願いもあって、"獄中結婚"に至ったようだ、という。婚姻届は26日に受理された。滝田さんは、佐藤が主宰する短歌誌「スズラン」の同人。佐藤と文通を続け、再審請求の運動にも熱心に取り組んでいるという。
1989年7月27日 朝刊 2外
◆だいやまーく騒乱利用した2強盗に死刑 中国で判決
【北京26日=田村特派員】26日付の夕刊紙・北京晩報によると、北京市中級人民法院(地裁に相当)は同日、5月から6月の「動乱と反革命暴乱の時期」に治安取締員や交通警官を装って、農民を襲い金などを奪っていた農民2人に対し、強盗罪などで死刑の判決を言い渡した。
1989年7月28日 夕刊 らうんじ
◆だいやまーく独断撤退:24 井置に厳しい小松原(空白への挑戦)
23師団長・小松原道太郎=当時54歳=は、戦場の幕舎でもロウソクの灯のもとで日記を書いた。
彼は語学研修生や武官として3度もモスクワで勤務し、日本陸軍の中ではソ連通の1人だった。容姿端麗で、貴族的な人柄だった。
同じ陸軍中将だが、第6軍司令官・荻州立兵=当時56歳=は、陣中で昼間からウイスキーを飲み、いつも赤い顔をしていた。
こちらは日中戦争の徐州会戦で武勲を上げたバンカラ型で、猪首(いくび)で小兵の将軍だった。
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昭和14年の小松原日記は、現在、東京・目黒の防衛庁戦史部図書館に保存されている。「小松原師団長ノモンハン陣中日誌」である。ノモンハン事件の貴重な資料の1つとされている。
愛用の日記帳は、博文館の当用日記。Gペンを走らせた米粒のような字が、ぎっしりつまっている。4、5ページおきに赤鉛筆と青鉛筆で色を入れた戦況図が書き込まれ、新聞記事や戦場のスナップ写真まではってある。
その日の戦況、作戦計画、受領した命令、部下の評価、師団長としての所感や反省......、そうした内容を克明に書きつづっている。小松原のきちょうめんな性格が一目でわかる日記である。
小松原日記を読んでいて、驚くことが1つある。フイ高地守備隊の井置栄一支隊長を、一貫して痛烈に批判していることである。
「敵一大隊ヲコトゴトク撃退セリ」(7月21日)。「フイ高地ハ防戦ハナハダ務ム」(8月21日)。褒めている個所もなくはない。
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しかし、井置の撤退前から自決後まで、小松原は日記の中でしつこいほど彼をこきおろしている。
要するに井置はソ蒙軍の総攻撃前から師団司令部にしばしばSOSを発して小松原を驚かせ、意志薄弱のため陣地を死守せずに撤退した、というのである。
某中佐の話として、「井置中佐、"ロス"ノ鉄帽ヲカブリ、脱走セリ」と書いている個所もある。ソ連兵の鉄カブトをかぶって、変装して退却したというのだろう。まさか井置がそんなことをするはずはあるまい。
「井置夫人ハ感謝ノ念ナシ」。妻いくにまで、小松原は八つ当たりしている。彼女から夫の死因を追及されて、よほど不愉快だったのだろう。かなり好悪の感情が強い人のようである。
小松原は井置に、なにか含むところでもあったのだろうか。23師団の情報参謀だった鈴木善康元少佐(89)が、東京・世田谷に存命である。おりあしく入院中だったので、知人を介して鈴木に聞いてもらった。
「小松原師団長が、井置中佐に含むところはなかったはずだ。フイ高地撤退を23師団の敗因と思い込んでおられたようだ。軍法会議の死刑より、自決の勧告の方を選ばれたのだろう」。それが鈴木の返事だった。
関東人と関西人、都会育ちと田舎育ち、スタイリストとマジメスト......。小松原と井置は相性が悪かったとしかいいようがない。=敬称略
(石川巌記者)
1989年7月29日 夕刊 2社
◆だいやまーく金賢姫が大法院に上告 大韓航空機事件
【ソウル29日=波佐場特派員】大韓航空機事件の控訴審で、1審の死刑判決を支持する控訴棄却を言い渡された金賢姫=キム・ヒョンヒ=被告(27)はこのほど、この判決を不服として大法院(最高裁)に上告した。
1989年7月31日 夕刊 1社
◆だいやまーく両親殺しに無期懲役判決 新潟地裁
一昨年8月、草刈りがまなどで老いた両親を殺したうえ、めい2人に大けがをさせたとして、殺人と同未遂罪に問われた新潟県岩船郡神林村生まれ、住所不定、無職高野重春被告(40)に対する判決公判が31日、新潟地裁刑事部で開かれた。森真樹裁判長は「犯行は非道かつ凶暴、動機は理不尽で自己中心的。ただ計画的なものではなかった」などとして無期懲役(求刑死刑)判決を言い渡した。