『よかたい先生――水俣から世界を見続けた医師 原田正純』
三枝 三七子(文・絵) 20130817 学研教育出版,135p.
last update: 20181101
■しかく三枝 三七子 20130817 『よかたい先生――水俣から世界を見続けた医師 原田正純』,学研教育出版,135p. ISBN-10: 4052038266 ISBN-13: 978-4052038266 1400+
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[kinokuniya] ※(注記)
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原田 正純
◇
水俣病
■しかく内容
◆だいやまーく学研出版サイト
https://hon.gakken.jp/book/1020382600
◇内容
「「公害の原点」と呼ばれる水俣病事件から50年もの間、患者の側に立ち続けた医師、原田正純。世界のあちこちで公害病の人たちを診察し、水俣から社会のひずみを訴え続けた。原発事故後の今、過去を知り、未来に活かすことの大切さを伝える。」
◇著者
「【三枝三七子(文)】
絵本作家。著作に『じゃぶじゃぶパパ』(偕成社)など。水俣市立水俣病資料館を訪ねたことが契機で水俣病をテーマとする絵本の制作を決意。その後、取材を重ねて、『みなまたの木』(創英社)を刊行。」
◆だいやまーく紀伊國屋書店ウェブストア
[kinokuniya]
◇内容説明
「「公害の原点」と呼ばれる水俣病事件から50年もの間、患者の側に立ち続けた医師原田正純。原田先生は世界のあちこちで公害病の人たちを診察し、水俣から社会のひずみを訴え続けました。過去を知り、未来に生かすことの大切さを伝える原田先生からの最後のメッセージ。」
■しかく目次
プロローグ 原田先生との出会い
第1章 医者になんかなりたくなかった
第2章 見てしまった責任
第3章 人よりもお金が大事なのか?――三つの公害・事件を追って
第4章 患者さんとともに生きる
第5章 世界のあちこちで起こる公害・事件
第6章 これからを生きるための水俣学
第7章 原田先生からのバトン
エピローグ たくさんの人に支えられて
解説 人間理解と生き方 柳田邦男
原田正純先生 略年譜
■しかく引用
- 東京での実習を終えて、熊本大学にもどり研究室に入ったら、水俣の奇病の原因解明をするようにといわれ、一九六一年に現地調査に行くことになった。|患者さんたちには本当にもうしわけないんだけれど、そのとき、ぼくは興奮したね。国じゅうが注目している原因不明の病気を調査しに行くんだと、気分がたかぶったよ。(p.30《見てしまった責任》)
- 患者さんたちがこれまでどんな思いで苦労して電車や車を乗りついで来ていたかということに、あたりまえのように駅まで車でむかえに来てもらっていたぼくたちは、気がつかんかった。どっかで、「病気を診てやっている」という気持ちがあったんだ▽△しろさんかくね。(pp.31-32《見てしまった責任》)
- 何より心が痛んだのは、ひどい症状で苦しむ患者さんの家ほど、目をおおいたくなるような貧しさだったことだ。家具なんかもちゃぶ台が一つあるだけで、どうやってくらしているのかと、思うほどだったんだ。|だれかがこの人たちの側に立たないと、この人たちの声は消されてしまう......と、このとき思ったね。(p.35《見てしまった責任》)
- そのあと〔日本精神神経学会賞受賞後〕、ぼくはやれることは終わったと感じて、水俣病から離れてしまった。それは今になって、失敗したと思うわけだけれどね。|今思えば、家族も、親せきもみんな、同じものを食べとるわけだから――不知火海(八代海)沿岸の人、対岸の人もふくめて――みんなの体調を調べなくてはいけなかったと思う。だって、魚は自由に泳ぎ、海は続いとるわけだから。(p.41《見てしまった責任》)
- 新潟県阿賀野川での胎児性水俣病の子は、とても少ない。それには国や県から産まないようにという指導があったんだ。恐ろしいことだと思う。それにしたがった人を非難はできんし、すべきでもない。けれど、生まれる前にわかっているから、無くしてしまうということを進めた指導は、それが正しいのかどうか、ぼくは聞きたい。生まれていけない命などないはずなのに。(p.54《人よりもお金が大事なのか?》)
- どうしてこの地域〔長崎県五島列島の玉之浦町〕だけに〔カネミ油症の〕黒い赤ちゃんが生まれたのか。それは、ここのお母さんたちが、黒い赤ちゃんが生まれるとわかっていても、産むことをやめなかったからだ。ぼくは彼女たちを尊敬した。言葉ではどれだけいっても、その重さは伝わらないかもしれないけれど、勇気のある強い愛を持った人たちだと今でも思うとる。(p.56《人よりもお金が大事なのか?》)
- このカネミ油症になった人たちは医学の世界ではとても大切な人たちだ。もっと大事にしなくてはいかんよ。(p.57《人よりもお金が大事なのか?》)
- 二〇一二年八月二九日、カネミ油症被害者救済法が成立し、政府による公的支援がはじまりました。それは四四年にわたる運動の末、やっと手にした一歩なのです。|原田先生は「子宮は環境である」という言葉を残しています。わたしたちのくらす世界が汚染されてしまうと、赤ちゃんを育むお母さんのおなかも安全ではなくなり、赤ちゃんに影響を及ぼしてしまうのだと、強く訴えられていました。それは水俣病やカネミ油症の人々を見続けたなかから、どうしても人類の未来のために、いわずにはいわれない訴えだったのだと思います。(p.58《人よりもお金が大事なのか?》)
- この〔1969年6月に「訴訟派」がふみきった〕裁判を支援するために一九六九年に水俣病研究会が作られ、法律や社会学からも、この水俣病事件を解き明かしていこうとする人たちが集まってきた。メンバーのなかには、水俣病に苦しむ人々をえがいた『苦海浄土』(講談社)を刊行して注目された作家の石牟礼道子さんや、熊本大学法学部の富樫貞夫さん、社会学の丸山定巳さん▽△しろさんかくなどがいた。医学からは、ぼくに参加を持ちかけられた。「水俣病はぼくの専門ですから」といって出たことを、今もはずかしく思い出すね。ぼくは、思い上がっていた。この研究会に参加することで、それまでぼくのいた医者の世界では、この病に対して非常にあやふやにしか理解していなかったということを、思い知ることになった。(pp.64-65《患者さんとともに生きる》)
- 「水俣病事件に深入りするほど、ぼくの大学での風当たりが強くなったとですよ。「患者をコントロールしとる」とか「政治的な動きをするな」とか「売名行為!」というようなビラをはられたり、「患者に肩入れしすぎだ」「医者なのに公平さ、中立さを欠く」といわれたりしてね。
でも、公平・中立というのは、両者の立場が同じくらいであるときにだけ、真ん中にいることが、公平だろうし中立といえるのだと思うの。水俣病事件の場合は、患者△しろさんかく72/73▽さんたちのほうが、どう見ても社会的にも経済的にも立場が弱い。それなら弱いほうに立たんと公平ではない、とぼくは思っとる。
いろいろと取りざたされ、批判の的になってよかったと思うよ。批判もされん、話にものぼらん研究者なんておもしろいことないでしょ? おかげで、一九七二年に助教授にしてもらってから、熊本大学では一度も、水俣病の講義をすることはなかった。そのかわり、大学の外では自由に患者のほりおこしやら、ほかの大学に講義をしに行ったりしていた。医学部だけでなく、法学部、教育学部、経済学部......よその大学にはよく呼ばれたよ。これは水俣病問題が、医学だけではとらえきれない、社会的、政治的な広がりを持っていることを示していると思うね。
裁判中、毎晩続く対策作戦会議に、熊本市と水俣市を往復し、診察を続けていたけれど、そういった活動費用は、ほかの病院で宿直などをして、なんとかひねり出した。自分の活動に必要な資金は自分でかせぐしかなかったのね。そのころ、ぼくには家族がおったもん、めいわくはかけられんでしょ。
水俣病の裁判は、今も終わっていないんだ。患者さんの立場もみんなむずかしい。▽△しろさんかくチッソと関係のなかった漁民、チッソに家族が勤めてそれで生活しとった人、海から離れとったのに売りにきた魚や貝をたくさん食べて発症した人、原因がわからんときに、だれにもバレないうちに患者をかかえてほかのところへ移り住んだ人......いろんな人がいる。だから、それぞれ求めることがちがったり、怒るところもちがったりするから、いい争いのようなことも起こる。そのたびに「よかたい、よかたい!」そういってなだめるしかなかったね。
長い時間、ほうっておかれ、差別のなかで息をころしてくらしていた人たちの苦しみは、はかりしれないものがあるんだよ。」(pp.72-74《患者さんとともに生きる》「職場の熊本大学で」)
- 「今、公害問題という言葉はなくなりかけとるね。環境問題を研究しますというと、予算がおりる。でも、公害というとだれもふりむかん。おかしいでしょう? 「公害」というと、どうしても水や空気、土を汚染した企業のあり方を非難することになるからね。
世界ではもっと水銀公害の研究は進められとるよ。大勢の被害者を出したこの国が、なぜ、先頭に立って研究をせんのか? 失敗を未来に生かそうとしない考え方に、ぼくは見のがせない大きな問題を感じるね。」(p.109《これからを生きるための水俣学》「今、伝えたいこと」)
■しかく言及
◆だいやまーく立命館大学産業社会学部2018年度前期科目《質的調査論(SA)》(担当:
村上潔)
第3回:
「なぜいま質的調査なのか(2)」[2018年04月25日]
◆だいやまーく立岩 真也 2018
『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社