『老いるについて――下町精神科医 晩年の記』
浜田 晋 20100324 岩波書店,192p.
last update: 20101207
■しかく浜田 晋 20100324 『老いるについて――下町精神科医 晩年の記』,岩波書店,192p. ISBN-10: 4000224042 ISBN-13: 978-4000224048 1700+
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地域精神医療の旗印を掲げ、上野の地で患者と向き合い、変わりゆく町を見続けてきた。バブル崩壊、阪神淡路大震災、下町の高齢化。烈しく生きた母との闘い、そして看取り。うち続く医療・福祉制度改悪への怒り。自らの老いと「定年」。晩年を迎え、ますます意気軒昂。「意地悪じいさんパワー」あふれる、愛と義憤のエッセイ集。
内容(「BOOK」データベースより)
地域精神医療の旗印を掲げ、上野の地で患者と向き合い、変わりゆく町を見続けてきた。バブル崩壊、阪神・淡路大震災、下町の高齢化。「悪女」だった母との闘い、そして看取り。うち続く医療・福祉制度改悪への怒り。「定年」、入院、そして自らの老いへの感慨。時に烈しく、時に温かい著者のまなざし。老精神科医が、この暗き世に贈る、ささやかなメッセージ。
■しかく目次
1 バブル崩壊と阪神・淡路大震災
2 「ぼけ」と「痴呆」の間
3 老いを生きる
4 さまざまな老いの姿―そして私
5 講演録・老いとの対話―義母と母の看取りから
6 母の死・父の記憶
■しかく引用
「一九五六(昭和三一)年私は精神科医になった。それから五十年余がたつ。はじめは巨大精神病院(都立松沢病院)に一二年つとめた。当時は大学と精神病院が私たちの働く場であった。脳病理組織学が私の専門であり、臨床と二足のわらじをはいて育った。そして精神病院入院主義の精神医療のあり方に疑問を感じ、一九七〇(昭和四五)年から地域活動をはじめた。そこでみた地獄が私を大きく変えた。
一九七四(昭和四九)年、私は学生時代から縁の深い上野の地に、当時ほとんどなかった精神科診療所を開業した。そして声高に、精神病者は社会という文脈の中でみるべきだと叫んだ。」(浜田[20100324:vii])
「わが国は不思議な国である。「痴呆」が重要な鍵をにぎるであろう「介護保険法案」に「痴呆の専門家」の関与なく(一部の御用学者が缶よしているかもしれないが誰かわからない)どんどんと進行していく。昨今の国会と同じ状況であり、それは学者もマスコミも一般市民も無縁である。
「家族の看とり」をもう少し広げて、「家族・その他の関係」というテーマで、鶴見俊輔先生を中心に春日キスヨ(『介護とジェンダー』家族社、一九九七年)、?コ永進と私の四人が一九九八年一二月二〇に集まって討論した。それが『いま家族とは』という単行本で、一九九九年二月岩波書店から出版された。しかし反応はない。
介護保険法の主旨は、今日「家族の力」が弱まってきたため「介護」という難事業に「社会の力」をかりようというのである。それはまちがっていない。問題はその中味である。」(浜田[20100324:50])
「友人、
島成郎が死んだ。[...]活動家の彼を私は知らない。共産主義も、それをスターリン主義と批判し、新しく組織した共産主義者同盟(ブント)も私には無縁の世界だった。 私が彼を知ったのは、一九六八年、私が東大で勤めだし、東大闘争のさなかだった。当時東大精神科教室はその渦中にあった。よく会合がもたれ、当時国立武蔵診療所に精神科医として勤めていた島は、時々そこに参加していた。みんな緊張し、暗く、激しい口調でしゃべっていたが、<0060<彼は明るく‖擁喪として‖笑顔が美しく‖私にはきわだって大きく見えた|その論旨は明快で‖政治ナンチの私にもよく理解できた|ハンフムで‖男っぽく‖そして何よりもやさしくて繊細だった|当時はまだ遠くから彼を眺めていただけだった|私が東大闘争に見切りをつけ‖一九七】馬‖東大を去って‖地域活動に入って‖東京中をかけずり回っていた頃‖彼は私の行動を眺めていたのであろうか|
その後彼は沖縄へ渡った。彼なりの思いがあったのだろうと。そして何年か経って、わたは彼に呼ばれて沖縄に講演に言った。私は目を見張った。数年の間に彼は沖縄の保健婦や役所職員や家族たちを含めて地域をすっかりオーガナイズしていたのである。[...]たいていの人は彼にほれてしまう。私もその一人だった。ところが彼は、私を「わが師」と読んでいたことを葬儀の日、奥さんから聞かされた。私は一一月一一日青山斎場で彼への弔辞を読みながら泣いた。
老いとは次々と友人に先立たれることである。」(浜田[20100324:61]、初出は200101)