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『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』

安積 遊歩 20100115 太郎次郎社エディタス,190p.


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しかく安積 遊歩 20100115 『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』,太郎次郎社エディタス,190p. ISBN-10: 4811807340 ISBN-13: 978-4811807348 1680 [amazon]/[kinokuniya] (注記)

だいやまーく太郎次郎社エディタスHPより
http://www.tarojiro.co.jp/cgi-bin/SearchMain.cgi?operation=3&ISBN=978-4-8118-0734-8

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・太郎次郎社エディタスHPより
自立しているってどういうこと? お金を稼げること? 立って歩けること? 自分のお尻が拭けること? 「自立へがんばる障害者」像から一歩、踏みだし、すべてのいのちを肯定する著者が、未来を生きる娘に、そして社会へ贈る、あるがままに生きていい、というメッセージ。

・「BOOK」データベースより
たったひとつの私のからだ。「骨形成不全症」のレッテルを超えて生きる著者が語る、未来へのメッセージ。

しかく著者略歴

・太郎次郎社エディタスHPより
1956年、福島県生まれ。生後約40日で「骨形成不全症」と診断される。1983年から半年間、アメリカのバークレー自立生活センターで研修を受け、ピア・カウンセリングを日本に紹介。障害をもつ人の自立をサポートする〈CIL くにたち援助為センター〉代表。立教大学コミュニティ福祉学部兼任講師。
著書に『癒しのセクシー・トリップ』『車イスからの宣戦布告』、共著に『女に選ばれる男たち』(以上、小社刊)、『生の技法』(藤原書店)、共訳書に『自分を好きになる本』(径書房)など。

・「BOOK著者紹介情報」より
安積 遊歩
1956年、福島県生まれ。生後約四十日で「骨形成不全症」と診断される。1983年から半年間、アメリカのバークレー自立生活センターで研修を受け、ピア・カウンセリングを日本に紹介。障害をもつ人の自立をサポートする「CILくにたち援助為センター」代表。コウ・カウンセリングの日本におけるエリア・リーダー。実践自然保護団体(日本熊森協会)顧問。立教大学コミュニティ福祉学部兼任講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

しかく目次

1 「治す」って、なんだろう―治療する側・される側
2 いのちの市場化に抗う―後退と進化
3 貧しい人から豊かになる―貧困と偏見
4 女性のからだを侵略するもの―セクシュアリティーと生殖
5 生き延びる子どもたち―親と子、再考
6 自分のお尻を拭けなくたって―プライバシーと自立観
7 地球の上に連なって生きる―いのちとエコロジー

しかく詳細目次

はじめに

プロローグ――たったひとつの私のからだ

I 「治す」って、なんだろう――治療する側・される側
車イスはメガネと同じ
「治る」ということ
痛みと闘うだけで精一杯
骨折なしの一年
想定外の骨折
揺れる親心
手術が怖いのはあたりまえ

コラム1しろまるコウ・カウンセリングと再評価カウンセリング

II いのちの市場化に抗う――後退と進化
精子バンクでいのちのショッピング
いのちの商品化
出生前診断の功罪
医療の「進歩」
「進化」する優生思想

コラム2しろまる優生思想と優生保護法

III 貧しい人から豊かになる――貧困と偏見
少女の目を盗らないで
フィリピンの貧しい村で
生活保護を使いこなす
ベーシック・インカム

IV 女性のからだを侵略するもの――セクシュアリティーと生殖
従軍慰安婦の絶望が見えなかった
謝って、そして耳を傾ける
強制不妊手術が生む絶望と無念さ
優生保護法が存在する社会とは
性器を切除される少女たち

コラム3しろまる女性性器切除

V 生き延びる子どもたち――親と子、再考
親になるということ
いのちの神秘のプロセス
フィリピンから迎えた里子
川の字で寝る心地よさ
「おじいちゃんといっしょに寝るか?」
蚊帳のなかの蛍
母の涙
地獄のなかに天国をつくる子どもたち

VI 自分のお尻を拭けなくたって――プライバシーと自立観
中学受験
"お願い"で獲得した就学権
自分の部屋はありません
自分のお尻を自分で拭かなくてもいい
排泄の音

コラム4しろまるピア・カウンセリングと自立生活運動

VII 地球の上に連なって生きる――いのちとエコロジー
幼いエコロジスト
二歳まではみんな重複重度障害者
「這えば立て」の抑圧
共同生活はエコロジカル
いのちとモノをたいせつにする暮らし
「まったく年をとると......」
人間は泣くことができる
三つのサンクチュアリ

しかく書評・紹介・言及

だいやまーく立岩真也 20100115 「安積遊歩の新刊に」
http://www.tarojiro.co.jp/cgi-bin/SearchMain.cgi?operation=3&ISBN=978-4-8118-0734-8

安積さんは、人にものを頼むのが上手な人だ。このあいだもある催しでご一緒したとき、もってきて残った本の販売を頼まれて預かってしまった。そして電話がかかってきて、またこの原稿を頼まれてしまった。
次に安積さんは、基本とてもまっすぐな人で、書かれているとおりのことを思っていて、それで書いているのだから、ひねくれるのが仕事みたいな私にとっては、その紹介といって何を書いたらよいものか。これはもう読むしかない、私なんかになんにも加えることはないのだ。
ただ一つ、すなおでない私も、知りあって二十数年の安積さんが、基本そのときと同じで、ずっとまっすぐやってきたと思うとともに、自分や娘の宇宙さんの身体を「なおす」ことについてのためらいや、希望や、しかし、という揺れや複雑さを書いたところを、よく考えていったらどうなるのだろうと思った。痛みは「違和」であるとはっきりと書かれる。しかしそれを抱えてやっていくという。考えてみたい人は考えるとよい。私も考えてみるかもしれない。
そんな場所がこの本には、ほかにもいくつかあると思う。ただ安積さんは、やはり基本、勇気づける人で元気づける人だ。元気がなくて自信がもてないが、それはたぶん自分のせいではない、でもそれがなんだかよくわからないと思うことがある。そしたら、読んだらいい。

だいやまーくhttp://asakayuho.com/activity/newbook.html/

だいやまーくhttp://www.janjannews.jp/archives/2469778.html

だいやまーくhttp://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/1243
http://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/1259/

だいやまーく立岩 真也 200912 「できないことのよしあし・3――人間の条件・23」
理論社・ウェブマガジン http://www.rironsha.co.jp/special/ningen/index.html
→立岩 真也 2010年08月16日 『人間の条件――そんなものない』,理論社,よりみちパン!セ,392p. ISBN-10: 4652078552 ISBN-13: 978-4652078556 1500+ [amazon]/[kinokuniya] (注記)

「その上で、気にしないことだってできてしまうということだ。もう一人、私の知人に安積遊歩という人がいる。1954年生まれ。彼女には骨不全障害という障害があって、さきの三井さんほどずっとではないが、外出などでは車イスを使っている。三井さんと同じで、東京の国立市に住んでいる。(そもそも、二十年以上の前のことだが、三井さんを私は安積さんに紹介されて知ったのだった。)その人が今度出す本『いのちに贈る超自立論』(太郎次郎社)の目次には「自分のお尻を自分で拭かなくてもいい」という見出しがあったりする。そこにはこんなことが書かれている。

「動かない手足が現実なのだから、自分のお尻を堂々と他人に預けるというのが、私たちの自立となるのだ。[略]
プライベートとか個人のテリトリーとかいう考え方は、障害をもった人の現実にはまるで役に立たない考え方であり、ときには害をもたらしさえする」
「プライバシーの概念から自由な子どもや知的障害の人とつきあってみると、そもそもプライバシーというものがどういうふうに人と人との関係に役立ち、一人ひとりを大事にするものなのかがわからなくなるのだ。食べること、動くこと、移動すること、ときには眠ることにさえ人の手を借りなければならないときには、プライバシーさえ分かちあわれることとなる。分かちあわれたプライバシーは、プライバシーと呼べるのだろうか。」

安積さん本人が気にしない人で、この本には車イスがはいりきらないトイレではドアを閉めなくなったといったことも書いてあるのだが、それは「世界に類をみないばかげたもの」である「音姫」といった排泄音を消す装置に「あえて対抗したいと思っている気もする」という。
これらは、「性」という項目が関係するとまたややこしくなる、なかなかに深い話ではある。同性だったらよい、ということもあるが、介助する人として女性の方を選ぶというか好むという男性が多いという話もよく聞く。トイレが分かれている話にしても、性同一性障害の人――簡単に説明すると、自分で思う性と身体に現れている性とが一致しない人――だとどうなるのかとか。ただこれを深めていくと、これはこれで別の連載になってしまう。このへんでいったん切り上げよう。
切り上げて、簡単にすると、恥ずかしいといった気持ちは、本当のところはどうなのか、他人が勝手に判断するのでなく、まずは本人に即してみようということになる。すると一つに、やはり――ほとんどの場合、ある種類のということだが――人に委ねるのはしんどいということがある。ただもう一つ――ほとんどの場合、誰でもということではなく、とくに害を加えられる可能性がある場合にはとんでもないということになるのだが――じつはさほど気にならないということがある。
そしてそれをすこし進めると、他人に用があってしまうので他人がいてしまうことがどんなことなのかということになる。今回紹介してきた人たちは、これまで勝手に施設に集められて仕切りもないような大部屋に住ませられ、世話する人たちの都合で生活が制約されてきた人たちだから、まずは、一人になれることを主張し、実現してきた。そして、世話する人もよけいなお節介をせずいてほしい、不要な時にはいないでほしいと言って、それも実現してきた。ただ、このことと基本的には矛盾することではないと思うのだが、人がいてしまうということのよさのようなものもあったりする。さきの安積さんの本の「自分のお尻を自分で拭かなくてもいい」の最後のところには、「精神」関係の病を発症した人が、「ずっと遊歩のことがうらやましかった。でも、これからは、ぼくだって病気なんだから、ひとりでいなくていいわけだ。ぼく、病気になってよかった」と言ったという話が出てくる。
ここでももちろん、「選択」とか「自己決定」という言葉を知っている人は、一人の時は一人でいられ、人といたい時は人といる、それを選べるのがよい、と言うのだ。私もおおむねそう思う。そして、必要があっている人と、いてほしくている人とは違う。これもそうだと思う。ただ、人がいてほしい時に人がいないことはある。先方も選べるのだから、自由なのだから、それは仕方がないとはされる。そんなことはわかっている。しかし、やむをえなく人が必要で、人がいる。その方が、選べることのもとで人がいないよりもよいこともある。それもまた事実なのだ。」

しかく引用

III 貧しい人から豊かになる――貧困と偏見
ベーシック・インカム

「ベーシック・インカムとは、私の直感的な理解によれ<0086<ば‖生きているというその一点において‖その人に保護されるべき基本妬な所得である|
たとえば私は、前述のとおり、長いあいだ生活保護を受給していた。この受給には生活困窮者という条件があるので、その条件をクリアしていさえすれば、だれでも堂々ともらってよいはずだ。しかし、残念なことに、そこには数かずの偏見がある。その偏見をなくすために闘ったり、条件撤廃を求めたりすることを考えると、ベーシック・インカムの考え方はよりシンプルだ。
人間はやりたいことをやって生きていけるはず、と私は信じている。つまり、仕事も、みんながやりたい仕事につけるはずだし、ついていいのに、「お金をもらうのだから、イヤな仕事でもがまんしてやらなければならない」と思わされている人があまりに多い。
また、どんなに好きな仕事であっても、長時間やり続けていたら、イヤになるだろう。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、世界中の人がそれぞれ自分のしたい仕事を一日四時間すれば、世界が平等で平和に暮らしていけるはずだ、と言っている。それだけの労働で、全世界の人口をまかなうにじゅうぶんな食料やサービスを生み出せるというのだ。
この社会のなかで多くの人たちが感じている生きにくさ・非情さは、分配の不公平からきているのではないか。それをキックするのが、ベーシック・インカムの考え方だと思う。
もし、生まれてきた段階でだれもが一定の所得を保障され、そのことを子ども自身がきちんと知ら<0087<されて杷識していれば‖虐待する親のもとにずっと留まりたいと思う子はいないだろう|もっとも‖親のほうも‖子どもを辛べさせなければならないという強力なプレップャーから解放されるわけだから‖虐待自体もなくなるだろう|
食べるためには働かなければならない切迫感は、ベーシック・インカムの実現によって劇的に変化するにちがいない。」(安積[2010:86-88]) cf.ベーシックインカム

IV 女性のからだを侵略するもの――セクシュアリティーと生殖
従軍慰安婦の絶望が見えなかった
謝って、そして耳を傾ける
強制不妊手術が生む絶望と無念さ
優生保護法が存在する社会とは

「私の脳性麻痺の友人は子どもを三人、産んだ。一人めを産むとき、病院からも家族からも徹底的に反対されることはあまりにも明らかだつたので、彼女はカトリック系の病院を選んだという。カトリック系の病院はその教義にのっとって避妊も中絶も禁じているので、たとえ重い障害をもっても、中絶しろと脅されることばないだろうと考えたのである。彼女の予測はまんまと当たり、一人めをぶじ出産。二人め、三人めはフェミニストの助産師のもとで自宅出産をした。
障害をもつ女性の性と生殖に関する権利(リプロダクティブ・ライツ)は、ごく最近まで皆無だったといっても過言ではないだろう。アジア太平洋戦争に負け、日本国憲法を起草しても、障害をもっ人の子どもをもつ権利はまったく語られることもなかった。それどころか、一九四八年にできた優生保護法に象徴されるように、高度経済成長をひた走るために、経済的に迷惑な存在は不妊手術をすべしLという優生思想が蔓延してきた。
私は小学校の高学年くらいから、「優生保護法指定医」という看板を見るためにイヤな気持ちがしていた。まだ幼くて優生思想というものをよくわかっていたわけではないのに、優生保護法ということばに、なぜか、自分が劣っていると言われている気がしたのだ。
その後、中学でメンデルの優性遺伝や劣性遺伝を学び、ここでいう「劣性」とは劣っているという意味ではなく、一代めには現われない遺伝形質であることを知った。そして、「優性」は優生思想の「優生=優良な生命」ではなく、一代めに現われるという意味でしがないことを知った。しかし、その授業のあいだじゅう、クラスメイトが遺伝について正しく学べているか、劣性を「劣っている状態」と勘違いしてはいないか、とビクビクしていたことを覚えている。
優生保護法の条文を読んだときは、さらに衝撃を受けた。私と似たような障害の人たちに対して、不妊手術をすべしと謳っているのだから。
だいたい、自分のからだが妊娠に耐えるのかどうかさえ不安であり、さらにそれ以前に、恋人ができる見通しも絶望的だつた。それなのに、あたかも、そうした私の不安や絶望はこの世の真実なのだとでもいうように、優生保護法があったのだ。こんな法律が存在する社会で、障害をもつ女性のリプロダクティブ・ライツが語られるわけがない。
そんなすさまじい差別のなかで、日本で初めて重い障害をもちながら子どもを産んだ人に、木村浩子がいる。彼女は以前から画家・俳人として活躍しており、同時に、反戦平和の活動家でもある。しろさんかく101 彼女の名前を知ったのは、重い障害をもつ女性が障害にも負けずに娘を産み、その子は障害がない、という新聞か雑誌の記事でだった。
その記事を読んで、もちろん、素直にすごいなとも思ったけれど、彼女が足の指を使って絵を描くということと、生まれた娘は健康だったという点が記事では強調されていることに、ずいぶん違和感を抱いた。もし、彼女の障害が遺伝的なもので、子どもにも同じ障害があったなら、どうだったのだう。まだ十代の私にとっては言語化しえない暗雲のような思いだった。
その後、木村浩子さんと知りあいになり、「土の宿」という彼女がつくった民宿へも、宇宙を連れて訪ねた(浩子さんが若い人たちに平和を伝えていくためにつくった民宿だ)。浩子さんから「つぎの時代をつくるのはあなたです」と励まされ、しみじみと自分が生きてきた歴史の変遷を感じたものだ。
私にとって、たしかに優生思想は強烈だった。もちろんいまでも。遺伝的な障害をもつ人はけっして子どもを産んではならない、と強調して書いてある優生保護法を読んだときは、自分が子どもを産むなんてことば起こりえないのだ、と体中に冷水を浴びせられたような思いがした。
ただ、少なくとも私は、そのときの恐怖に留まることなく、優生保護法撤廃運動に積極的に参加していった。国連の「人口と開発世界会議」に出席すべく、エジプトのカイロに飛んだのが一九九四年。しろさんかく102 二十数か国のジャーナリストにインタビューを受けるなか、情報が錯綜し、いつのまにか私は、「不手術を受けさせられた障害をもつ日本女性」となってアラビア語の新聞に登場していた。一週間にわたった会議で、私は日本の優生保護法の差別性をガンガン発言しまくった。そうできたのも、小学校高学年から自分の存在そのものを脅かされてきた感覚が、自分の内に厳然とあったからだろう。
その思いが爆発し、一九九六年には、私の人生のプランにはなかったけれど、娘の宇宙を産んだわけだ。もし、宇宙が生まれなかったら、私は、この社会が障害をもつ女性のリプロダクティプ・ライツを奪いつづけていることに腹を立て、抗議しつづけることだけに留まっていたかもしれない。しかし、いま、同じからだの特質をもっ娘の宇宙を目の前にして、私たちのリプロダクティプ・ライツはさらに具体的になってきていることをじゅうぶんに感じている。

性器を切除される少女たち

VI 自分のお尻を拭けなくたって――プライバシーと自立観
自分のお尻を自分で拭かなくてもいい
「動かない手足が現実なのだから、自分のお尻を堂々と他人に預けるというのが、私たちの自立となるのだ。[...]
プライベートとか個人のテリトリーとかいう考え方は、障害をもった人の現実にはまるで役に立たない考え方であり、ときには害をもたらしさえすると言っておこう。」(安積[2010:153])
排泄の音
「プライバシーの概念から自由な子どもや知的障害の人とつきあってみると、そもそもプライバシーというものがどういうふうに人と人との関係に役立ち、一人ひとりを大事にするものなのかがわからなくなるのだ。食べること、動くこと、移動すること、ときには眠ることにさえ人の手を借りなければならないときには、プライバシーさえ分かちあわれることとなる。分かちあわれたプライバシーは、プライバシーと呼べるのだろうか。」(安積[2010:157]) cf.身体


UP:20100217 REV:20220103
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