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『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』

樫村 愛子 20070820 『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』(光文社新書),光文社,328p.


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しかく樫村 愛子 20070820 『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』(光文社新書),光文社,328p. ISBN-10: 4334034152 ISBN-13: 978-4334034153 935円 [amazon]/[kinokuniya] (注記)

しかく内容

出版社/著者からの内容紹介

市場至上主義、雇用の流動化、社会保障の縮小、ワーキングプア、格差、貧困、自己責任社会――。
グローバル化経済のもと、多くの人々の生活が不安定化(プレカリテ)していくなかで、どのように個人のアイデンティティを保ち、社会を維持していけばいいのか?
自分探し、心理学、お笑い、オタク文化、メディア・スピリチュアリズム、リアリティ・ショーの隆盛はいったい何を意味するのか?
ラカン派社会学の立場から、現代社会、あるいは現代の人々がぶつかっている難問を記述し、処方箋の一端を示す。

内容(「BOOK」データベースより)

市場至上主義、雇用の流動化、社会保障の縮小、ワーキングプア、格差、貧困、自己責任社会―。グローバル化経済のもと、多くの人々の生活が不安定化(プレカリテ)していくなかで、どのように個人のアイデンティティを保ち、社会を維持していけばいいのか? 自分探し、心理学、お笑い、オタク文化、メディア・スピリチュアリズム、リアリティ・ショーの隆盛はいったい何を意味するのか? ラカン派社会学の立場から、現代社会、あるいは現代の人々がぶつかっている難問を記述し、処方箋の一端を示す。

著者について

樫村愛子(かしむら・あいこ)
1958年京都生まれ。東京大学大学院人文社会学系研究科社会学専攻博士課程満期退学。現在、愛知大学文学部社会学科准教授。専門はラカン派精神分析の枠組みによる現代社会・文化分析。著書に『ラカン派社会学入門』、『「心理学化する社会」の臨床社会学』(以上、世織書房)。共著に『ネオリベ現代生活批判序説』(新評論)、『ジェンダーと社会理論』(有斐閣)、『フロイト&ラカン事典』(共訳・弘文堂)、『フェミニズムと精神分析事典』(共訳・多賀出版)ほか多数。

著者略歴(「BOOK著者紹介情報」より)

樫村 愛子
1958年京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科社会学専攻博士課程満期退学。愛知大学文学部人文社会学科准教授。専門はラカン派精神分析の枠組みによる現代社会・文化分析

しかく目次

しかく引用

再帰性のもつ問題

「再帰性」は、現代社会を考えていく上でのキーワードであるが、一方、「再帰性」だけで社会を設計し、考えようとすると、困難が生じる。(p. 65)
再帰性を評価する議論や論理は、人間が再帰性をもつこと、すなわち人間が合理性や論理性、高度な知的レベルをもつことを前提に形成されており、再帰性を形成する過程を、それらの議論内部では語れない。(p. 66)
再帰性の論理で形成されるシステムや社会が、その内部で矛盾や困難を起こしている問題〜中略〜主体の再帰性に対して社会の再帰性がコントロールを離れて先走ってしまい、主体の再帰性と社会の再帰性の両者がかみ合わない現象である。(p. 68)
社会(精度)の再帰化の進行に伴い、社会(制度)の再帰化についていけない人々が生み出され、そこに見られる主体の再帰性の格差が生じている。また、社会(制度)の再帰性においても、地方格差に見られるような格差が広がっている。(p. 74)
創造的な再帰化とは異なり、現在課せられている再帰化は条件付きのものであり、マクドナルド化であることが見えてきた。また再帰性が十分に働くための条件整備が必要であることがわかった。(p. 103)
ギデンズは、再帰性という概念を提示する一方で、再帰性の条件整備に関わる「ライフ・ポリティクス」という概念を提示している。しかし、彼の「ライフ・ポリティクス」 の議論は抽象的であり、現実に対する政治性が欠如している。(p. 103)
ギデンズは、伝統の固定性からの解放と、位階的な支配の条件からの解放、搾取・不平等・抑圧の減少、除去を目的とし、自律を獲得することを目指す、従来の政治を「解放のポリティクス」と呼ぶ。それに対して、これらの解放を前提とし、人生をいかに生きるべきかという道徳的、実存的問いに答えなければならない、選択とライフスタイルの政治を「ライフ・ポリティクス」と呼び、現在の社会における「ライフ・ポリティクス」の必要性を主張した。(p. 104)
バウマンは、この点でギデンズの「ライフ・ポリティクス」の議論を真正面から批判する。「ライフ・ポリティクス」のために必要な「解放のポリティクス」の条件が解体していることを指摘するのである。バウマンは、現在の個人化情況では、諸個人の苦労の共通性を一つの集合的なものとしてまとめることは困難であり、政治的な力を構成することが困難になっていると述べる。また、自己実現の権利を与えられてはいるが、実現可能性をコントロールする力は必ずしも配分されていないと指摘する。(p. 104)
ギデンズは、適応不良は「アディクション(中毒者)」になるという。が一方、ほとんどの人がアディクションになるくらい、再帰性は困難だとも指摘しているのである。(p. 105)
「メタ・ライフ・ポリティクス」とは、個人が模索・試行の過程を保証するイマジナリーな領域への権利要求や、そのための実効的な社会条件の構築に関わる営みである。「メタ・ライフ・ポリティクス」は「ライフ・ポリティクス」が可能となるよう、個人を支えていく試みである。その内実は、その個人が追い詰められているイデオロギーや社会的条件からの引き離しと、自己や自己と社会の関係を再構築する条件の確立だろう。(p. 106)
荻野は、自らが誰であるかを判定し、表象することが許される心的・道徳的空間として、コーネルが提示した「イマジナリーな領域」の議論を参照し、「メタ・ライフ・ポリティクス」の必要性を論じている。(p. 106)
コーネルの「イマジナリーな領域」の議論とは、ラカンの「イマジナリー」の議論によっている。人は、自分が何者であるかを自由に想像しうる空間(イマジナリーな空間)がなければ自己アイデンティティを確立できず、自己決定能力をもてない。(p. 106)
ギデンズの議論は、健全な主体を前提としており、傷ついた主体がひきこもってしまう事態を逸脱例としか見ないこれについて、荻野が依拠するホネットは現在、健全な主体の維持に必要なのは、社会や他者からの「承認」であるとする。(p. 108)
*作成:中田喜一
UP: 20091013 REV:
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