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『「人間嫌い」のルール』

中島 義道 20070727 PHP研究所,200p.


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しかく中島 義道 20070727 『「人間嫌い」のルール』,PHP研究所,200p. ISBN-10: 4106035731 ISBN-13: 978-06035739 1050 [amazon]

しかく内容紹介
「人はひとりでは生きていけない」。
その言葉を錦の御旗に、表向きうまくやるのが「おとな」、できない人は病気と蔑む―他人を傷つけないという名目の下に、嘘やおもねりも正当化されるのが日 本社会である。
そんな「思いやり」の押しつけを「善意」と疑わない鈍感さ。
「人間嫌い」は、そこに途方もない息苦しさを感じてしまう人なのだ。
したくないことはしない、心にもないことは語らない。
世間の掟に縛られずとも、豊かで居心地のよい人間関係は築ける。
自分をごまかさず、本音で生きる勇気と心構えを与えてくれる一冊。

しかく著者紹介
中島義道[ナカジマヨシミチ]
1946年福岡県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了、ウィーン大学基礎総合学部修了。哲学博士。電気通信大学教授。専門は時間論、自我 論、コミュニケーション論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

しかく目次
1 さまざまな人間嫌い
2 共感ゲームから降りる
3 ひとりでできる仕事を見つける
4 他人に何も期待しない
5 家族を遠ざける
6 人間嫌いの共同体

しかく引用(安部彰)

まず確認しておかねばならないことは、「感情教育」は言葉の習得と並行しているということである。幼児は言葉を習得する過程で、同時に言葉にまとわりつく 感情をも学ぶのだ。......ジャック・ラカンの言葉を使えば、まさに「欲望は他者の欲望」なのであり、大人が「いい」と呼ぶものを「いい」と感ずるほかはな く、大人が「きれい」と呼ぶものを「きれい」と感ずるほかはなく、大人が「かわいそう」と呼ぶものを「かわいそう」と感ずるほかないのである。
したがって、はじめからナマの個人的感受性があるわけではなく、個人の感受性は、人生の開始から社会によって徹底的に調教される。その調教は、道徳的感情 と美学的感情とにおいて複雑に絡み合って進行する。(中島 2007: 56)

小学校の国語の時間以来、いやそれよりずっと前から、両親も教師たちも必死になって子供に感じるべきことを感じるように教育する。そして、こうした感情に 関する最も基本的な(ヴィトゲンシュタイン言うところの)「言語ゲーム」を完全に習得した後に、やっとさまざまな感情の個人差が生まれる。さらなる複雑な 言語ゲームを習得していく過程で、次第に他人との細かい差異に気がついていくわけである。
だから、共感にも、大まかに言って二段階ある。その第一段階は、言語を習得する段階において調教される人間にとって最も基本的な「共通感覚 (sensus communis)」の形成である。この段階における共感能力は言語を学ぶと同時にわれわれのからだに刷り込まれるのであるから、個人が拒否することはで きない。......
そして、その第二段階は、基本的な感情の文法をマスターした後に、個々の子供が、自分の感情の他人との(わずかな)違いに気付くことによって形成される 段階である。子供たちは感情教育の成果をからだにすっかり取り込んでしまってから、はじめて「きれい」とか「汚い」とか「おいしい」とか「いい」とかに関 して、自分と他人の差異に気づくようになる。......「共感すべきこと」と「自分が現に共感していること」とのあいだに広がる溝に気づきはじめるのだ。(中島 2007: 57-58)

共感に関しては、......大まかに言って、共感をも自己利益の追求のうちに取り入れてしまう見解と、共感は他の感情からの派生物ではなく、独特の感情である ことを認める見解とに分かれる。本来、人間を徹底的に利己的な動物と見るか、それとも他人に対する共感をもった動物とみなすかの違いである。西洋近代哲学 における前者の教祖はホッブズであり、彼に対するさまざまな異論の提起が、その後の共感思想を形成してきたと言っていい。それは、自己利益と並んで、広く 非利己的な他者への感情を認めるという思想であり、バトラー、ハチソン、シャフツベリ、ヒューム、ルソーなどが、さまざまな形で共感を肯定し、とりわけア ダム・スミスは、共感を最も基本的な人間の能力とみなしている。(中島 2007: 58-59)

マックス・シェーラーは、共感を現象学の立場から詳細に研究し(『同情の本質と諸形式』シェーラー著作集8、飯島宗享訳、白水社)、それが感情伝播や相 互感得や一体感などと異なり、共感される人と共感する人とのあいだの「距離」と「本質的差異」に基づいていることを強調する。私がある人に(真に)共感す るとき、私は彼(女)との本質的差異を完全に保ったまま、共感するのでなければならない。シェーラーは、共感と愛とを後者が前者を基礎づけるという形で区 別しているが、それでも彼の共感モデルは限りなく「アガペー」に近いものである(アガペーも普通の意味での愛ではない)。(中島 2007: 59)

哲学者以外にも、フロイトをはじめとする精神分析学者やロジャーズなどの心理学者たちは共感という感情に興味を抱き、科学的に研究しはじめた。『共感の 心理学』(澤田瑞也、世界思想社)を参照して、重要な論点を指摘すると、まず、共感は他者を認知する過程であるか、他者との感情の共有であるかという問い があるが、こうした問いを立てるのなら、当然後者となろう。シェーラーの共感論が共感から感情伝播や相互感得を一掃してしまったので、共感はいわばアガ ペー=知的愛といった独特の認知的色彩を帯びてしまう。だが、当然のことながら、感情の共有には最も基礎的な認知が成立していなければならない。しかも、 このことからは、共感が生理的なレベルのものであることは導かれない。澤田が言うように、「感情の表出行動はしばしば社会的・文化的表示規則の影響を受 け」るのみならず、感情自体がすでに社会的・文化的規則に従って形成されているからである。
ロジャーズ以降、共感は相手の話に聞き入るスキル、感情を反映するスキルであるのか、それとも他者と共にあるあり方(=態度)かという議論がなされてい るが(『カウンセリングと共感』澤田瑞也、世界思想社)、ロジャーズは精神分析医のクライアントに対する共感をモデルにしているからこうした二者選択にな るのであって、一般的に共感とは両者とも含むと言えよう。すなわち、いかにスキルを具えていても共感的態度は形成されていなければダメであり、共感的態度 にはかなりのスキルが必要だということである。このことは、共感の有する演技的性格を指し示す。共感とは、ナマの感情の吐露というより、共感すべきことを 共感するように自分を仕向けている意志なのである。
こうした観点から見ると、以上の科学的共感理論において踏み込みが足りないのは、共感とは個々の局在的場面で要求されるのみならず、広く人間の「あるべ き」倫理的態度としてあらかじめ共同体において要求されているということである。(中島 2007: 59-60)


*作成:橋口 昌治(立命館大学大学院先端総合 学術研究科)

UP:20071105
哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学
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