文化的包摂と構造的排除。テロリズムへの不安、移民、暴動、厳罰化。仕事やコミュニティや家族の急速な変化。セレブリティとワーキングプア―― 『排除型社会』 で社会的排除を尖鋭に描いた社会学者が、経済的・社会的な不安定さと剥奪感をもたらす 「過剰包摂」 の問題を摘出し、新たな政治への理論基盤を提示する。
内容(「BOOK」データベースより)テロリズムへの不安、移民、暴動、厳罰化。仕事やコミュニティや家族の急速な変化。セレブリティとワーキングプア―『排除型社会』で社会的排除を尖鋭に描いた社会学者が、経済的・社会的な不安定さと剥奪感をもたらす「過剰包摂」の問題を摘出し、新たな政治への理論基盤を提示する。
デュルケムは自殺概念の不鮮明さを明快にする論及のなかで鋭く批判し、「聖人の社会」という示唆に富んだたとえを提示することで批判を明瞭化した。「聖人の社会」ではこの線引きは長期的には変化するものの、その線引き自体の自然性と示差性は同じ強度で再認識される。不明瞭さと変化、「重複」と「ズレ」といった概念はあらゆる社会にみられる特徴だが、私がこれから論じていくのは、後期近代の時代である今日にはそれがますます特徴的になっているということ、そこでは規範が日々競合にさらされ不鮮明になり、社会的寛容の水準の変動と、逸脱を規定するプロセスが日常生活の一部となったということである。つまるところ、道徳的境界は不鮮明になり、なおかつその境界線は目に見えるような速度で、その影響が充分実感されるような速度で動いているのだ(pp. 22-23)。
なぜ、アメリカで最も貧しい郡の多くが最も強固な共和党の基盤なのか。コミュニティを破壊され、大企業に世知かつを操られている貧しい人びとが、大富豪と企業国家アメリカを代表する党に投票するということがどうして起こりうるのか(p. 28)。
同じ週、機械工・航空宇宙産業労働者国際組合(ボーイング社の主要組合)は、組合員の圧倒的多数が自分を中産階級とみなしているにもかかわらず、そのうち五〇パーセントが職の不安定を感じており、雇用が保障されていると感じているのはわずか二〇パーセントにすぎないと発表した。......一九九四年末までに二八〇万人のアメリカ人が、保護観察中か執行猶予中、あるいは刑務所に入っていた。つまり実にアメリカ人の一八九人に一人が投獄されていたのであり、合計一五〇万人が連邦政府あるいは州か地方の刑務所に入っていた(pp. 35-36)。
労働市場の破綻、各産業部門での働き方が運次第だということ、多様でばらばらなユニットからなるサービス産業の興隆、外観上でたらめで断片的なキャリア、不動産市場や金融の浪費的で概して業績にもとづかない報酬。これらはすべては、報酬が業績の尺度ではなく気まぐれに配分されているという感覚をもたらす。私がいいたいのは、能力主義的価値観を大々的に教え込まれてきた世代が、この報酬相場のカオスに直面しているということである。またこれによって、フォーディズム、大量生産型の産業、黄金期の特徴だった標準的キャリアのようなわかりやすい比較参照点がなく、互いに嫉妬しあう個人主義が亢進して足の引っ張り合いが激化する相対的剥奪感が生まれているのである(p. 74)。
相対的剥奪感は、階級構造の上から見下ろしたときに、労働と自制という規律の程度に見合わない不当な報酬が見出されたときにも生じうる。さらに、貧困層の相対的剥奪感と存在論的不安が犯罪につながる可能性があるのと同じように、皮肉にもひょっとするとそれ以上に富裕層は、その剥奪感や不安感のために罰を与えられているように感じることがある(pp. 76-77)。
報酬のカオスに対する怒りの矛先は、階級構造の最上部の大金持ちか最底辺に、つまり労働の対価が明らかに多すぎる人と、働かずに報酬を得ている人に向けられる傾向がある。言い換えれば、あからさまに能力主義の原理を攪乱する者たち、すなわち大金持ちとアンダークラスに敵意が集中するのである(p. 77)。
今日の先進国は、力によって第三世界から愛を搾取しているわけではない。革のヘルメットをかぶった植民地官僚はいないし、侵略軍もいないし、植民地に向けて出航する軍艦もいない。その代わりにわれわれが目にするのは、先進国の公園で第三世界の女性が原器のよい子どものベビーカーを押しているところであり、年配のケア労働者が辛抱強く腕を組んで年配の介護者と街頭を歩いているところ、あるいはかれらのそばに座っているという心温まる場面なのである。今日、強制の操作は異なるものになっている。性の貿易や家内サービスのいくつかは大部分が容赦なく強制されいているが、新しい感情帝国主義は銃身から放たれるわけではない。女性は家事労働のために移住を選択する。しかしかれらがそれを選択するのは、ほぼ強制的な経済圧力ゆえにである。
先進国の富裕層あるいは中産階級の家族が、子どもの世話、家事労働、そして性労働をするうえで、貧しい国から供給される移民に依存することが、ますます常態化している。伝統的な性関係をそのまま反映したグローバルな関係性が生じている。先進国は家族内の古い男性像、つまり甘やかされていて、特権的で、料理も、掃除も、自分で靴下を履くこともできないような役割を、貧しい国々は家庭内で伝統的に女性が担ったような、つまり忍耐強く、子育てをして、自己否定的な役割を担っているのだ。それが「ローカル」であったときにフェミニストが批判していた労働分業は、今や比喩的にいえば「グローバル」になっているのだ(p. 188)。
一般に社会科学においては、最初に変化を説明することに関心をもち、次に安定した現象に目を向ける。だがこの事例では逆なのである。私たちは、変化していないものに対して原因の嫌疑をかけ、急速に変化しているものを等閑視してきたのだ。......中産階級の行動様式は(それがどれだけ変化しようとも)正常だとみなされ、その立場から、貧困層の行動様式は(それがどれだけ変化しないものであっても)病理的なものにされてしまうのである(p. 219)。