『社会』
市野川 容孝 20061026 岩波書店,237p.
■しかく市野川 容孝 20061026 『社会』,岩波書店,237p. ISBN-10:4000270060 ISBN-13: 978-4000270069 1680円
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■しかく内容
内容(「BOOK」データベースより)
今日の社会科学にとって重要な問いは、「社会とは何か」「それはいかにして可能か」という抽象的な問いではない。ある歴史性をもって誕生し、この問い自身が不可視にしてしまう「社会的」という概念を問題化することである。本書では、この概念の形成過程を辿り直し、福祉国家の現在を照射することから、「社会的なもの」の再編を試みる。
内容(「MARC」データベースより)
今日の社会科学にとって重要なことは、「社会的」という概念を問題化することである。この概念の形成過程を辿り直し、福祉国家の現在を照射することから、「社会的なもの」の再編を試みる。
■しかく目次
はじめに
I 社会的なものの現在
第1章 日本の戦後政治と社会的なもの
第2章 冷戦以後と社会的なもの
第3章 社会学と社会的なもの
第4章 社会民主主義
II 社会的なものの系譜とその批判
第1章 ルソー
第2章 社会科学の誕生
第3章 批判と展望
III 基本文献案内
あとがき
■しかく引用
より正確に言うなら、本書が扱うのは「社会」という言葉ではない。「社会的」という言葉である。その意味では、本書の英語タイトルの方が、より正確な表現である。つまり、何らかの実態を想定させる「社会」という名詞ではなく、ある種の様相や様態、さらには運動を表現する「社会的 social 」という形容(動)詞と、そこから派生する「社会的なものthe social 」という概念が、本書のテーマである。C.シュミットの『政治的なものの概念』に対抗して言え< iv <ば‖本書の最も徒切なタツトルは「社会妬なものの閣俳」である|この「社会妬」という言葉が‖これまで何を意味し‖何を意味しなかったのか‖また‖この言葉とともに‖どのような現実や実蘇が構築され‖また逆に構築されなかったのかを‖歴史妬にふりかえること‖本書の課題の一つは‖そうした考い意味での文献学妬(フツロロヘニル)な作業である|(iv-v)
第一は、ギリシア語の「ピュシス」と「ノモス」の弁別に重ねられるような、「自然」の対立項として理解される「社会的なもの」である。[...]
第二は、「個人」に対置される「社会的なもの」であり、その典型は、E.デュルケームの提示した「社会的事実(フエ・ソシアル)」だろう。(v)
第三は、第一や第二のものよりも具体的で、「国家」との対比で語られる「社会的なもの」である。その典型は、「国家」と「市民社会」という問題構制だろう。[...]国家と社会という対立軸は、これまで社会思想の一つの基本線を形成してきたと言ってよい。
しかしながら、焦点を「社会」という名詞(実体)ではなく、「社会的」という形容(動)詞に絞るならば、国家か社会かという軸とは< vi <ずれた第四の意味‖おそらく日本で最も見落とされている意味が浮かび上がってくる|(vi-vii)
[...]ドイツやフランスの「社会的な国家」にほぼ相当する日本語は、「福祉国家」である。[...]「社会的な国家」の近似物として、私たちが即座に「福祉国家」を思い浮かべることができないのは、 一体なぜなのか、である。
その延長線上で、私たちが気づくべきなのは、「社会的」という日本語をめぐる、ある欠落である。つまり、「 social 」「 sozial 」とい< vii <う仏語や独語に込められてきた何かが‖しかし「社会妬」という日本語では‖少なくとも今日‖幌却され(かけ)ており‖さらに‖その幌却自体が‖幌却されているという事態である|(iv-v)
[...]批判的省察を加えつつ、社会的なものの概念を今一度、鍛え上げること、それが本書の最終的な目標である。(xi)
■しかく書評・紹介
◇市野川『社会』読書ノート
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/ichinokawa.htm
*塩川伸明のホームページ(
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/)による
■しかく言及
*作成:
篠木 涼 *増補:
北村 健太郎