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『マクドナルド化と日本』

Ritzer, George・丸山 哲央 200312 ミネルヴァ書房 321p.


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しかくRitzer, George・丸山 哲央 200312 『マクドナルド化と日本』,ミネルヴァ書房,321p. ISBN-10: 462303867X ISBN-13: 978-4623038671 3675円 [amazon]/[kinokuniya]

しかく内容

(「BOOK」データベースより)

近年注目を集めるマクドナルド化理論。日本は、アメリカ社会と同様にマクドナルド化するのか、またはしているのか。この難問に対し、理論の提唱者G・リッツア教授のみならず、日本側の第一線の研究者が解明を試みる。

(「MARC」データベースより)

合理化過程の過度の進展は、人間にとっての非合理な状況を生み出すのではないだろうか? 日本社会もマクドナルド化しているのか? マクドナルド化理論の提唱者G.リッツアと日本の第一線の研究者が解明を試みる。

しかく著者略歴(「BOOK著者紹介情報」より)

リッツア,ジョージ
1968年コーネル大学博士号取得。現在、メリーランド大学社会学部教授
丸山 哲央
1967年大阪大学大学院文学研究科修士課程修了。現在、仏教大学社会学部教授

しかく目次

しかく引用

『マクドナルド化過程の拡張とその意味―マックス・ウェーバーの「合理化」過程の類型を手がかりにして』第2章 3、4節)(pp. 138-153)

3. ウェーバーの「合理性」類型
ウェーバーの射程
W・ヘニス (1988) がウェーバーの生涯をつらぬく関心事であったと主張する「人間性」あるいは「人間類型」の発達の概念化について理解をえることが、リッツアが提供する「超合理性」概念の意味と妥当性を検証するうえで、また日本にとってのマクドナルド化の意味、さらには「マクドナルド化」の将来を予測するうえで不可欠の予備的作業であると考えられるからである。(p. 139)

→なぜなら
リッツア自身がくりかえしいくども述べているように「マクドナルド化」ならびに「超合理性」概念は、ウェーバーの思索と成果のうちに淵源をもっているからである。

人間の基礎的事実

ウェーバーの「人類学的分析」あるいは「人間性」についての解釈の出発点とは?

テルンブック...原初的な人間の世界にたいする関係は主観的にはまったく目的合理的であること、だがそれゆえ人間にとって現実は相互に結びつかない諸事実とその時々の諸状況という多様性としてあらわれたこと、それに対して人間は個別的に立ち向かい、その結果として、このように断片化された現実では行為もやはり状況に応じただけのもので、その限りではやはり断片的でしかありえないこと、これである。それゆえこの宗教的発展はひとつの合理化である」(Tembruck,1998)

日常世界の合理化

ウェーバーは、社会的行為の四つの理念型的類型が人間の属性であり、したがって「歴史の外側」(Rossi 1987)にあるという。

→つまり
理念型としての社会的行為の類型は普遍的に適用可能な用具であると考えられているということである。

しかし、ウェーバーはこれを歴史的現実に適応する場合には、ただたんにひとりの個人の主観に志向する行為レベルで考えるのではなく、社会的行為の規則性とパターンとして探求すべきだと考えていた。

合理性の四類型

・アメリカにおけるネオ・ウェーバーリアンを代表する研究者のひとりであるスティーヴン・カルバークが1990年に執筆した、「マックス・ウェーバーの合理性の類型:歴史における合理化過程分析のための定礎」で展開した、ウェーバーの合理性についてのメタ理論的研究

メタ研究とは...既存の社会学理論の批判的自己考査あるいは自己監視に基づく高度な反照(reflexivity)を必然的にともなう研究である

リッツアは、メタ理論化の目的にしたがって3つに分類すべきことを提案する。

  1. 理論のよりいっそう深い理解(metatheorizing as a means of affaining a deeper understanding=Mu)
  2. 新しい理論開発のさきがけ(metatheorizing as a prelude to theory development=Mp)
  3. すべてに先んじ、かつ何よりも大切な視点の源泉(metatheorizing as a source of overarching theoretical perspective=Mo)

カルバーグのウェーバーの4つの合理性に関する研究=Muに属しているといえる。
(テンブルックの評価によって知る事ができる)
カルバーグは、ウェーバーの意図を汲みつつ、彼のオリジナルなテクストを対象にした精緻なメタ分析をくわだて、その結果として4つの「合理性」の類型を推論的に導出した。
(p. 145 表1)

4. マクドナルド化の世界と「超合理性」の世界
近代西洋の合理化
カリスマによる世俗内禁欲の宗教倫理の理論合理的な教義の確立と、これを実質的な価値として受け止め、生活の仕方と態度の根本的な変革をとおして実現した特定の社会層、すなわちプロテスタントたちが、結果的に、西洋に「合理化された社会」の礎を築いた。(p. 147)

→やがて

資本主義がそれ自体の「固有法則」に則って自動運動をはじめると、「宗教倫理」のみならず、「資本主義の精神」そのものが資本主義における計算合理性を阻害する非合理的要因とみなされるようになり、かつて、みずからを生み出した実質的価値が「近代化」過程において置き忘れられ、やがて崩壊(すなわち「神の死」(Gene,2002,Nietzscheからの引用)する結末にたどりつく。(p. 147)
世俗化と重量型資本主義

「神の死」後、神に代わって、世俗的な権力と科学・技術が人間ならびに世界を支配することになった。近代資本主義の加速的な発展は、資本蓄積と合理的資本計算、そして合理的経済市場の確立、そして合理的な労働管理を徹底的にシステム化するために、行政および産業の形式合理化―これを代表するものが合理的な法の整備と「官僚制化」であった―を推進した。こうして「重量型資本主義」(Bauman,2000)が生まれた。

ピューリタンの移民によって建国されたアメリカ合衆国は、ヨーロッパ的伝統の足かせをもたないところで、生活の倫理的行動は公的な場に参加することから進化するという独自な個人主義的倫理観を打ち立てながら、資本主義企業と巨大市場を立ち上げ、二十世紀初頭にはすでに世界経済をリードする地位を確立した(Munch,2001)

官僚制化からマクドナルド化へ

アメリカ産業を代表する自動車メーカーはその拡張期においてつねに熟練労働者の不足、労働者確保という難問をかかえていた。

→いわいる、フォーディズムや科学的管理法の導入の必要は、労働者不足の解消と労務管理の合理化にねざしていた。

リッツアによれば「マクドナルド化」は形式合理性における計算可能性、効率性、予測可能性、制御という要素の徹底的な実現をめざす。

(ex,もし、伝統的な高級料理店にいるシェフ(気難しい)のような存在は最初から存在しない)
日本の超合理性

・リッツアによれば、戦後日本の経済復興、とりわけ自動車産業の躍進と革新は、国家の形式合理的な政策誘導と実践によるところが大きいと主張する。

リッツアの考えでは、日本では固有の形式合理性の考えとその具体化が終戦以前に存在したかもしれないが、しかし日本は、おもに戦後になってアメリカから学んだ経済制度や生産過程、あるいは社会政治制度の「形式合理化」によって旧来の日本型の合理化(実質合理化を基軸とし、適当に実践合理性と理論合理性を組み合わせた、ある一面で非合理的な性格をふくむ合理化過程)に形式合理化をとりいれ、これを旧来型にくみいれて、彼のいう「超合理性」の通産産業省や自動車産業を創造したという(p. 152 一部改変)

→トヨタ方式、トヨティズムを代表する「ジャスト・イン・システム」はもともと当時、消費の末端の前進基地であった「コンビ」―「家族的世帯」の「共産主義的扶養」と「近隣共同態」と「倫理的な兄弟愛による助け合い」(Weber 1923)の解体/代替物―で取得されたアイディアから出発している(pp152-153)

☆つまり、消費の最先端の「ノウ・ハウ」が大規模な生産工程の最新の方式をうみだしたのである。(ex,ゼロ・エミッション、賞味期限)

『プログラムとしてのマクドナルド化』第4章 1、2節(pp. 138-153)

グローバル化とマクドナルド化

マクドナルド化の概念とマクドナルド・プログラム

リッツアのいうマクドナリゼーションの2つの意味
狭義では...マクドナルド社の世界的拡大と、類似の他の外食レストランがマクドナルド社の方式を採用すること
広義では...「ファーストフード・レストランの諸原理が、アメリカのみならず世界の国々の、ますます多くの部門で優位を占めるようになる過程」(Ritzer,1993,邦訳,17-18)
(外食産業以外への拡大適用)

合理性の非合理性

・リッツアは4つの形式合理性の次元に5つめの「合理性のもつ非合理性(脱人間化)」という第5の次元を加える。

→ウェーバーの官僚制化やテイラーの科学的管理法でも脱人間化傾向があることは指摘されてきたが、「マクドナルド化」はどのような事情を意味するか?

プログラムの諸相

マクドナルド・プログラムの伝播とローカルな反応

創発的なグローバルな資源・情報の動きが流動する状況の検討

→狭義の「マクドナルド化」...GPAの仕組みやプログラムによって世界各国で共通の事業を営むことが可能

広義の「マクドナルド化」...マクドナルドのクローンの社会のいたるところで繁殖する「社会のマクドナルド化」と、そのプログラム自体がグローバルに伝播し様々に変容・応用される運命にある。

マクドナルド方式という条件プログラムによる徹底化は、このプログラムの伝播とともに、各国ごとの反応や修正を受けることになる(p.197 一部改変)

トヨタプログラムの伝播の場合

マクドナルド→【フォーディズム】+【トヨタのプログラム】+【ディズニーランドのプログラム】

『グローカル化とマクドナルド化』第5章 3-4節)(p. 240-250)

3. 現代社会の非合理性

主張=主合理性の徹底が、非人間的結果をもたらすという意味で非合理的であるということ。そしてその非合理的な側面が拡大してきているということ。

ウェーバーと非合理性問題

ウェーバーにおいて、「価値合理性」は極端に言えば非合理性に近く、それの個人の内的価値を信じていないものは非合理的でしかありえない何かであった

→つまり
ウェーバーは、合理性と非合理性は双方ともつねに存在するものであり、その転化や非合理的なものが合理性をすすめると考えていた。

非合理性とポスト・モダン

「目的合理的」な行為やリッツァのいう「形式合理的」な行為に完全に吸収されつくされているわけでも、統合しつくされているわけでもなく、常に「価値合理的」な行為が現在でも一方で存在する。

日本の伝統社会と非合理性

丸山は、日本の徳川時代は社会のトップレベルから底辺にいたるまでウェーバーのいう呪術性が根強く存在していると主張している。これとは逆に、ベラーは合理的な社会であるという。

ジハド対マックワールド

ジハド(聖戦)という価値合理的な行為が、マックワールドという形式合理的な世界と並存している。(例:ジハドを試みる者たちは、CNNやインターネットを通して自らの主張を世界に訴える)

→このような現代社会の問題は
ウェーバーのいう「神々の闘争」という側面が現代社会にはある。

4. 「文明の衝突」かグローカル・シヴィル・レリジョンか

「神々の闘争」と「形式合理性・目的合理性」の併存から何が生まれるか

トライブ(共同体)と形式合理性の相互浸透

シナリオ2の可能性
B. バーバーもいうとおり、トライバリズムやジハドがなくならないのは基本的に私たちが「生きがい」つまり生の実感を得ることなしには生存していけないからである。

→しかしこれを、形式合理性の世界から得ることは、難しいものである

理想的な形態→神々の共同体の相互交渉

市民宗教のグローカル化

結論...神々の共同体は内側から解体ないし開放されていって、より普遍的なもの、宗教的な用語でいうとエキュメニカル(世界主義・普遍主義)なものになっていく。

合理化に対して非合理性の重要性、マクドナルド化に対してはグローカル化現象の重要性を指摘しつつ、2つのシナリオの可能性を提言。(つまり、「文明の衝突」か「グローカル・シヴィル・レリジョン」かというシナリオである)

しかく書評・紹介


しかく言及


*作成:中田 喜一
UP: 20091019 REV:
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