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『喪失と獲得――進化心理学から見た心と体』

Humphrey, Nicholoas 2002 The Mind Made Flesh: Frontiers of Psychology and Evolution, Oxford University Press.
=20041030 垂水 雄二 訳『喪失と獲得――進化心理学から見た心と体』,紀伊国屋


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しかくHumphrey, Nicholoas 2002 The Mind Made Flesh: Frontiers of Psychology and Evolution, Oxford University Press. =20041030 垂水 雄二 訳『喪失と獲得――進化心理学から見た心と体』,紀伊国屋, 460p. ISBN-10: 4314009683 ISBN-13: 978-4314009683 [amazon]/[kinokuniya]

しかく目次
はじめに
1章 視点を変える

私のなかの<私>
2章 一つの自己――意識の単一性についての瞑想
3章 きみの実体は何で、きみは何からできているのか
4章 自己について語る――多重人格障害の評価(ダニエル・デネットとの共著)
5章 心身問題の解き方
6章 感覚の私物化

喪失と獲得
7章 洞窟絵画、自閉症、人間の心の進化
8章 奇形の変容
9章 自然における心
10章 希望――信仰療法とプラシーボ効果の進化心理学

信じる心
11章 もしもし、水瓶座さん
12章 小さなドングリが大木に化ける
13章 人間を見よ――超自然信仰
14章 法の前における虫と獣
15章 子供に何を語ればよいか

憎しみと愛の形
16章 武器と人間
17章 トリポリに死す
18章 わが指導者に従え
19章 愛の結び目
20章 獣の数
21章 さらば、きみは私の分に過ぎたる持ち物
22章 科学的なシェイクスピア
23章 さまざまな利他主義――そして、それらの共通の基盤

訳者あとがき
原注
人名索引




しかく引用
太字小見出しは作成者による
自己
生物学および人工知能研究の両方から提示されつつあるその答えは、多数のサブシステムがそれぞれのなすべきことをするだけで、中枢的な監督者などいなくとも、複雑なシステムは完全に「合目的的で統合された」ものに見える仕方で実際に機能するというものである。中枢的な管理者をもっているように見える(そして、それをもっているとして記述するのが有効な)この世のほとんどのシステムが、実はもっていないのだ。(p.44)「4章 自己について語る――多重人格障害の評価(ダニエル・デネットとの共著)」

「心の元首」のアナロジー
このアナロジーの趣旨は明快である。要するに、人類もまた内なる名目上の元首が必要なのではないか――とりわけ、人間の社会生活の複雑さを考えれば――ということだ。たとえば、ダニエル・デネットという生きた身体を考えてもらいたい。もし、私たちがデネットその人に付与しているさまざまな精神的特質のすべてをもつ元首モジュールを彼の脳の内部に探し回らなければならないということになれば、私たちはがっかりするだろう。それにもかかわらず、社会的な次元でデネットと交渉をもたなければならないときには、すぐに、私たちも彼もともに、誰か――誰か名目上の元首――を彼の代弁者、そして実際のリーダーとして認めることが不可欠であると気づくだろう。かくして一巡りして、少し弱まった形ではあるが、本来の自己という観念に戻ってきてしまう。これは、幽霊のような監督者ではなく、彼自身および世界に対してその人間を代表することにおいて、限られたものとはいえ、真の因果的(=行動や態度を生みだす)役割をもつ「心の元首」に、より近いものである。(pp.46-47)「4章 自己について語る――多重人格障害の評価(ダニエル・デネットとの共著)」

多重人格障害の「医源性」の可能性
治療が開始される以前に多重人格が存在したという証拠がいかにわずかしかないかについては、すでに述べた。何かが存在したことの証拠の欠如は、存在しないことの証拠ではないし、子供における初期多重人格と思われる症例が最近になって発見されたという報告がシカゴの学会でいくつかの論文でなされている。にもかかわらず、多重人格障害が「医源性」(すなわち、医師によってつくりだされた状態)であるという疑惑は確かに浮かび上がってくるにちがいない。(p.62)「4章 自己について語る――多重人格障害の評価(ダニエル・デネットとの共著)」

全般的なことの成り行きに関しては、単に事実を知らないというだけでなく、「性急な」判断を下すのが適切なのかどうか確信をもてないという理由で、私たちは判断を保留することしかできない。もし多重人格障害が、子供時代の状況ではなく、むしろ病院で生まれるのであれば、それは「本物」ではありえないという結論に飛びつく人々の隊列に、私たちが入りたいと思っていないのは確かである。ヒステリーとの類似性も追求に値する。シャルコー自身は非常に確信に満ちて、腕に針を刺されて痛みを感じない女性は、実際に痛みを感じていないことを示した――そして、彼女の反応の欠如を「ヒステリー症候群」と呼んだところで、とくに注目に値するものになるわけではない。同じように、現在いくつかの異なる自己の生活を生きている三〇代の女性は、実際にいくつかの異なる自己の生活を生きているのである――そして、彼女がどうしてそうなったかについて私たちがもついかなる疑問も、今やそれが彼女の生き方であるという事実から眼を背けさせるものであってはならない。(p.64)「4章 自己について語る――多重人格障害の評価(ダニエル・デネットとの共著)」

心脳問題について
現在の認知科学者の希望は、もちろん、ニュートンのプリズムが光についてやったことを心と脳の同一性についてやってくれるようなプリズム――またしても、哲学的な懐疑論者を即座に追放するようなプリズム――が存在し、発見をまっていることである
私は彼らとともに、そうなることを希望している。しかし、同時に、哲学的な警告をまるっきり無視すれば、誤りを犯すことになるだろうと、非常に強く確信してもいる。なぜなら、マッギンやゲーテのような意見に一理があることは疑問の余地がないからである。実を言えば、彼らにあるのは一理どころではなかったのかもしれない。説明できる可能性を成り立たせるある種の最低基準に適合するような形で、私たちが、心と脳の同一性を述べることができないかぎり、そしてできるまでは、義務不履行のために、彼らが事実上正しいことになってしまうだろう。
正確に言えば、明白に通約できないような形の心の用語と脳の用語で両者の同一性を記述しているかぎり、科学的な進展を期待できないことを認識する必要がある。もし次元が対応していなければ、この難題はとりわけ顕著なものになるだろう。(p.78)「5章 心身問題の解き方」

感覚的ファンタズム・クオリア
あるいは、よく考えてみれば、両方をやるという選択肢もあるだろう。私自身の見解は、等式が一致するように両辺をいじるような試みを実際にやるべきだというものである。デネットは、あらゆる妥協が感覚の行動心理学の側からなされることを期待する。ペンローズは、すべてが脳の状態の物理学の側からなされることを期待する。こうした戦略のいずれも、おそらく私たちが望んでいるものをもたらさないだろう。しかし、もし両側が多少の譲歩を認める――つまり、感覚ファンタズムの概念と脳の状態という概念の両方を、両者が合致するまで調整しようと試みる――ときに、どれほど多くを期待できるかは驚くばかりである。(p.85)「5章 心身問題の解き方」

感覚と知覚
繰り返してみよう。感覚は、自己と、身体的な刺激と、今私に起こっていることについての感触、そして、それについて私がどう感じるかに関係しているに違いない。それに対して知覚は、外部世界の客観的な事実についての判断に関係しているに違いない。これほど性質の異なった事象は区別されるべきである。しかし区別されることはめったにない。実際、多くの人々はいまだに、知覚的な判断だけでなく、信仰や願望や思考でさえ、それぞれ独自の擬似=感覚現象学的性質をもちうると仮定している。(p.90)「5章 心身問題の解き方」

感覚を定義する五つの性質(pp.94-95)
1 所有者
2 身体的位置
3 現在性
4 質的様態
5 現象的即時性

感覚の私物化privatizationの進化論的説明の3段階(p.104)
1 刺激の部位で起こる局所的な反応
2 反応は入力感覚神経を標的とするようになる
3 反応は脳内で「私物化」されるようになる

感覚は「現在に旗印を立てるため」に必要
問いを発することができる二つのレベルが存在する。第一に、そもそも感覚をもつことの生物学的機能について問うべきである。そして第二に、ひとたび私たちがこの第一の疑問に対する答えを得れば、感覚がこのような特別な質的特徴をもつことの機能は何かというもっと厄介な問いに進むことができる。(p.109)「6章 感覚の私物化」

心理学者たちが本気でこの「なぜ感覚があるのか?」という問いの挑戦に立ち向かいはじめたのは、やっとここ数年のことにすぎない。そして、確かに、何が正しいダーウィン主義的な答えであるかについて意見の一致は存在しない。しかしながら、少なくとも今では、いくつかの可能性のある答えが、そう遠くないところにある。私と、アンソニー・マーセル、そしてリチャード・グレゴリーはいずれも、それぞれ異なったやり方で、そのなかで最も有力だと思われるものを認めている。すなわち、グレゴリーのうまい表現によれば、感覚は、「現在に旗印を立てるために」必要なのである。
ここでの発想は、感覚の主要な役割が、実質的に、知覚を正直なものに保つことにあるというものである。感覚も知覚も、出発点としては、感覚刺激を受けとる。ただし、感覚はその刺激を多少とも、所与のものとして表象することに向かうのに対して、知覚はもっとはるかに複雑でリスクのある方向へ出発する。知覚は、刺激の証拠を、文脈的な情報、記憶、規則などに結びつけ、その観察者とは無関係に存在する外部世界についての仮説的なモデル構築できるようにする。しかし、そこに危険があり、もしこの種の構築が、現在時制の現実とたえず結合されることなく、単純に暴走することがゆるされるならば、知覚者は、事実に反する仮説的な世界のなかで、迷子になってしまうかもしれない。知覚者が必要としているのは、ある種のオンライン現実性チェックを実行し、自らの知覚モデルの通用性と妥当性を検証し、とりわけ、自分がいまどこに立っているかをきちんと把握しておく能力である。議論を先に進めれば、これこそがまさに、低レベルの未処理の感覚が実際にその価値を示す場所なのである。私が以前こうまとめたように。「感覚は、世界の体験に、ここであること、今であること、私であることを添加するが、これらは、感覚を欠いた純粋な知覚にはないものである」。(pp.110-111)「6章 感覚の私物化」







*作成者:篠木 涼
UP: 20080525 REV: 20081115
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