『高群逸枝語録』
鹿野 政直・堀場 清子 編 20010116 岩波書店(岩波現代文庫),382p.
last update: 20181022
■しかく鹿野政直・堀場清子編 20010116 『高群逸枝語録』,岩波書店(岩波現代文庫),382p. ISBN-10: 4006030282 ISBN-13: 978-4006030285
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■しかく内容
◆だいやまーく岩波書店Webサイト内の情報ページ
https://www.iwanami.co.jp/book/b256277.html
"昭和初期から戦後にかけて、日本女性史学の最初の歩みを独学で築いた高群逸枝。「世間並み、この言葉、呪われてあれ」と家制度を強烈に批判し、母系制の原理の論証へと導いた彼女の学問と、詩人・アナキスト評論家としての華々しい活躍の一方、主婦としての苦悩も抱えた波瀾に富んだ人生とを語録で跡付けた、1つの女性史入門。"
◆だいやまーく著者等紹介:
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◇鹿野政直[カノマサナオ]
1931年大阪府生まれ。早稲田大学文学部卒業。元早稲田大学教授。著書に『婦人・女性・おんな』『近代日本の民間学』『資本主義形成期の秩序意識』など。
◇堀場清子[ホリバキヨコ]
1930年広島県生まれ。早稲田大学文学部卒業。詩誌『いしゅたる』主宰。著書に『わが高群逸枝』(橋本憲三と共著)『青鞜の時代』『禁じられた原爆体験』など。二人の共著に『高群逸枝』『祖母・母・娘の時代』など。
■しかく目次
1 学問
女性史の意義と目的
多祖
婿取
性の商品化
家父長制
2 人生
巻頭に(『恋愛創生』より)
新女性主義の提唱――結婚制度と強権教化
婦人戦線に立つ
性における強権主義の敗北
家庭否定論
世の醜男醜女に与う――美醜闘争論
女性から見た男性
出発の哲学
新しい女教員の立場(抄)
路地裏の気
家出の詩
誓い
■しかく引用
▼鹿野政直「(第?T部)解説」(pp.3-31)
- 『高群逸枝』(朝日新聞社、一九七七年)[...]を出すとき、すでに橋本憲三編『高群逸枝全集』全一〇巻[...]が刊行されていた。亡き妻高群逸枝(一八九四−一九六四)の仕事を、みずからの思うような姿でこの世に留めたいと、橋本はこの作業に、渾身の力を傾注したと察せられる。編集された全集は、以来、詩人・評論家・歴史家として活躍した彼女の足跡を、もっとも広く開示する著作物となってきた。(p.3)
- 結果的に私たちは、全集で省かれあるいは除かれていた部分にもはみだすことになった。高群のアナキストとしての部分と、神国思慕の部分である[...]。
- それ以来の歳月のなかで、高群逸枝はたえず"渦中"のひととして立ちつづけた。アナキスト時代の作品が、多分に渇仰の念をこめて翻刻され、また学説の批判的な継承が開始された反面、とくに十五年戦争下での言論活動が批判の対象とされ、さらに学説そのもの▽△しろさんかくに根本的な疑問が投げかけられるようにもなった。それらすべての意味で彼女は、没後三六年をへていまも、問題性に満ちた存在としてある。(pp.4-5)
- 一九三〇年の年始状で研究生活に入る決意を表明して、翌三一年、東京府荏原郡世田谷町[...]に、研究所兼住居としてのいわゆる森の家を建てて引き籠ったのち[...]生を終えるまでの足掛け三四年間に、[...]女性史固有の分野で、つぎのような書物を刊行している[...]。(p.5)
- 『婦人戦線』の主宰者としての活動から一転しての、森の家への閉じこもりは、唐突との観を呈する決断あるいは所行であった。とはいえ女性史への発心は、高群の内部では、『婦人戦線』を含むそれまでの人生の延長線上にあった。▽△しろさんかく詩人として「結婚制度の撤廃」を謳い、「世間並み、この言葉、呪はれてあれ」との言葉を突きだしていた彼女は[...]、評論家として強権否定・性の自治の論旨を展開したが、"書きちらす"そうした作業に空しさを覚えるようになっていた。眼前のさまざまの現象と闘うのでなく、その根幹を洗いだそうとの決意が、彼女を、女性解放の根拠を求めての歴史への沈潜に導いた。(pp.7-8)
- 解放をめざす先人たちは、大抵の場合、家父長的な家制度を標的とした。いや、それがもつ抑圧性・抑圧感が、しばしば彼女たちを、解放へと向わせる動機を作った。こころみに青鞜社の人びとを見ると、家制度への抵抗感は随処に表明されている。平塚らいてうは、結婚制度を「一生涯に亙る権力服従の関係」といい切り、妻の無能力規定と姦通についての男女の不平等規定を指摘した。[...]伊藤野枝は、家制度とその通念を突き崩す意志を、「習俗打破」の四字に凝縮して示した。高群の場合は、その歴史的根拠を問うての挑戦であった。(p.9)
- 「原始的」な一体の愛への渇仰を基底として、彼女にとっては、中国の「封建」も西洋の「近代」も、ともに抑圧性で手を結ぶ障害物、したがって乗り越えられるべき対象にほかならなかった。そして、愛が十全に実現する世界を求めての思索が最高潮に達し、「新女性主義」の提唱に至った。その時期、彼女の心はそれだけに激しく日本、それも儒教主義や個人主義によって"汚染"されるまえの日本へと傾いた。(p.10)
- 高群の場合、女性史への発心と原日本への傾倒は、分離ないし背反したものでなく、二にして一としてあった。(p.11)
- これらの文章〔『大日本女性史 母系制の研究』:「例言」・「女性史の目的」・「跋」〕において私たちは、女性史誕生の瞬間に立ちあうことになる[...]。(p.11)
- いうまでもなく女性史は、「ほとんど全歴史の大鉱脈中に没している」女性史的事実の掘り起こしを基礎作業とする。が、高群の意図は、それによる既成の歴史への補完にはなかった。「女性の立場」からの、歴史研究全体への問い直しを求めるものとしてあった。(p.12)
- 『母系制の研究』での彼女の方法の特質は、そうした立場〔特記なき場合は子を母と同居する者と見なす、逆転の発想〕に拠りつつ、父祖を戴くとされる氏のなかから、母系の痕跡を取りだし、父系的系譜の作為性を指摘しようとした箇所に、もっともよく示されている。(p.15)
- 母系の論証は、家父長的家族制度についての通念を突き崩すための、歴史的根拠を求めて発起された。その基底には、原日本への傾倒があった。それゆえに、あるいは、にもかかわらず、研究は、家族制度を固有の美風とする国体論の論拠を揺さぶる論議の提起とならざるをえなかった。その意味では、国体論との衝突を不可避とする性質をもっていた。(p.15)
- 家父長制を固有でないとしたこの研究は、こうして、母系より父系への移行を必然、いや発展とする方向へ軸足を移してゆく。(p.16)
- 森の家にこもりながら高群は、時局への関心を鎖したわけではなかった。[...]その彼女が総力戦体制に呑みこまれてゆく。|この点は、[...]近年、女性の戦争協力の代表例の一つと位置づけられ、探求のまととなってきた。私はこの問題を、前著で高群の「神国思慕」のゆえと考えた。その見解はいまも変わらない。|高群は、それまでの立場を放擲して翼賛へと馳せ参じたわけではない。(p.17)
- しかし原日本の絶対化に連なるこの〔古代女性の地位の高さを称え、鎌倉時代以後女性の地位が漸次低下したとする〕思想は、それゆえに、戦局の激化・悪化とともに、急速に大東亜共栄圏・八紘一宇の世界像に同化していった。(p.18)
- 新しい時代が、女性史研究者としての高群に登場を促したこともおそらくは一因となって、戦争への加担について、彼女は徹底的に自己を追いつめたとはいい難い。とはいえ、反省をこめての再出発の決意は、たとえば一九四七年の、「愛」と題するこんな即興詩に見ることができる。「わたしは了解する/幼時から/わたしがもとめつづけたのが/正▽△しろさんかく義ではなく/より多く/愛であったことを。/正義は概念で、/愛は具象だ[...]」。(pp.19-20)
- この研究〔『招婿婚の研究』〕を通じて、高群が最大の標的としたのは柳田国男であった。(p.22)
- 高群は、柳田に"男性原理"を嗅ぎとり、"女性原理"を対置したということができる。(p.23)
- 当初の無視に近い取扱いから一転して、大枠として画期的な仕事との評価が定まりつつあった『招婿婚の研究』の研究に、根本的な疑義を呈する仕事が、一九八〇年代後半以後にあらわれた。栗原弘の一連の研究である[...]。(p.24)
- ただ高群は、みずから虚構を作為するとの自覚をもって、その体系を創りあげたかどうか。学問について語った、接しうる彼女のあらゆる文章は、真実への心底からの渇仰に満ちており、隠すという息遣いでなく、虚構への意図を片鱗も示していない。(p.25)
- 高群逸枝の女性史から、いま何を汲みとることができるだろうか。彼女を終始一貫駆りたてたのは、家父長制打倒を核心とする女性解放への意思であった。その原点から彼女を見つめ直すことであろう。(p.26)
- 発見したキーワード〔「多祖」・「婿取」・「性の商品化」〕への一体化によって、高群逸枝は仕事を達成していった。[...]キーワードへの一体化ゆえに、彼女の心理では、キーワードに齟齬する事実はなきに等しいのであった。(p.29)
▼堀場清子「(第?U部)解説」(pp.209-233)
- それら〔評伝『高群逸枝』・『わが高群逸枝』(橋本憲三・堀場清子)・『娘巡礼記』(堀場清子校訂)〕を通じて浮かびあがる逸枝像は、愛と思索の人であった。(p.210)
- 小学校と高等小学校を通じて、成績は抜群で、ほとんど主席を通した。しかし"高群逸枝"を育てたものは、そればかりではない。[...]移り住んだ、白石野、寄田[よつた]、守富[もりとみ]などの、農山村の風土や、農山村の風土や、農民たちの姿を抜きにしては考えられない。|夕日の美しさや、稲の匂い、木原山に吹く風などを、後年の彼女はなんとしばしば記し、▽△しろさんかくかつ歌うことか。農民自治の主張にしても、そこに働く人々に親しんだ、野と山との育ちなしには理解できない。(pp.211-212)
- 『十三才集』[...]などと題された、手造りの愛らしい小冊子が数冊あった。そこには、はるか後年の思想の芽吹きが、すでに現れていることに驚かされる。そればかりか、成人の後までも、それらは心の底に生き続けていた。|[...]「姫君達」への憧れは、貞操主義をともない、少女時代の小冊子に一再ならず語られる。|その「古の操高き姫君達」の婚姻制と、彼女は後半生をかけて取組むことになる。外見からは急転回とみえる歴史学への踏み入りだが、内面からみれば地続きの、むしろ必然的な展開とも言いうるのではなかろうか。|「姫君達」へのあこがれとは反対に、村の集団婚の名残りのような風習に、小冊子は反感と嫌悪を書きつける。(p.212)
- 「新女性主義の提唱――結婚制度と強権教化――」(『解放』一九二六年六月)で、新女性主義はさらに展開をみせる。[...]つづめていえば"恋愛は私事ではない"――ひいては女性の性的負担の一切が、私事でない、と主張する大胆な論理の提出だった。|逸枝はしばしば、この論理によって闘った。[...]「婦人戦線に立つ」(『婦人戦線』一九三〇年三月)にいう。「強権社会が婦人に対して為す第一の悪は、婦人の特殊的事実(月経、妊娠、出産、育児)に対する無価値視である。強権社会にあっては、これらの特殊的事実は私事と見做され、いわゆる公事によってのみ各人の地位が評価される」。|さらに彼女は、「性における強権主義の敗北」(『解放戦線』一九三〇年一一月)を、この論理で締めくくった。「もし、妊娠、出産、扶養が、全然に社会の支持のもとに確保される社会であるならば、ことさらに「性を私事なり」などと取り立てて主張する必要はないのである。性が私事ならば、食も私事であるからである。否、正しき社会および社会思想にお▽△しろさんかくいては、私事なるものはなく、私事が直ちに公事で、公事また私事であるべきである」。|新女性主義の理念は、現行のフェミニズム――利潤と効率を追い求める社会と、折れ合っているフェミニズムの頭上を、はるかに超えて、価値意識と制度とを転覆させる内容をもっている。(pp.228-229)
- 憲三は、彼女のための研究所を用意していた。[...]延べ三〇坪の家だった。一九三一年七月一日、夫妻はこの研究所(森の家)に入り、彼女は二階の書斎に座って、門外不出、面会謝絶、一日一〇時間以上の勉学という、伝説的精進の日々が始まったのだった。|[...]一九三五年一〇月、[...]平凡社は破産処置をとり、憲三は退社した。彼は二人会議を開いて、「彼女は今後一切炊事家事に関与してはならない」と取りきめた。そればかりか、図書館へ行くのも、古書店を廻って資料を集めるのも、ノート整理や、表の作成までも彼の分担だったと察せられる。それが終焉に至るまでの、生活の型となった。(p.231)
■しかく書評・紹介
■しかく言及
◆だいやまーく立命館大学産業社会学部2018年度後期科目
《質的調査論(SB)》「石牟礼道子と社会調査」(担当:村上潔)
*作成:
村上 潔