last update: 20190113
■しかく栗原 彬 編 20000218 『証言 水俣病』(岩波新書新赤版658),岩波書店,4+206+10p. ISBN-10: 4004306582 ISBN-13: 978-4004306580 780+
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[kinokuniya] ※(注記)
■しかく内容
▼岩波書店Webサイトの本書情報ページより
https://www.iwanami.co.jp/book/b268477.html
「事件の風化が危惧されている今、わたしたちは水俣病を本当に「忘却」できるのか。家族の壮絶な死、周囲からうける差別と偏見、チッソ・行政との長き闘い、そして和解案受諾の選択―。心身を蝕む病苦を抱えながら、どのように生き、何を訴えてきたのかを、10名の患者が語る証言集。その問いかけにどう応えるのか。」
▼カバーのそでの見出し文
「親しき者たちの壮絶な死、突き刺さるような差別と偏見、チッソ・行政との長き闘い、そして和解案受諾の選択......。心身を蝕む病苦を抱えながら、水俣病患者たちは、どのように生き、何を訴えてきたのか。事件の風化が危惧されている今、10名の患者がみずからの体験や思いを語り、時代の感受性を問う証言集。」
■しかく目次
序章 死者と未生の者のほとりから――水俣病者が語るということ[栗原彬]
第1章 悲劇のはじまり
幼い妹が「奇病」に
一家全滅の淵から
第2章 隠された被害
漁を奪われて
故郷をはなれて
第3章 みずから立ち上がる
一人からの闘い
苦渋の選択
第4章 水俣病とともに
水俣の海に生きる
部落に救われて
第5章 現代を問う
故人たちとの再会
魂のゆくえ
本書の成り立ち――あとがきにかえて[石黒康]
水俣病関連文献
水俣病関連年表
■しかく書誌情報
栗原 彬 20000218 「死者と未生の者のほとりから――水俣病者が語るということ」
栗原彬編[20000218:001-026]
下田 綾子 20000218 「幼い妹が「奇病」に」
栗原彬編[20000218:029-041]
荒木 洋子 20000218 「一家全滅の淵から」
栗原彬編[20000218:042-054]
荒木 俊二 20000218 「漁を奪われて」
栗原彬編[20000218:057-070]
大村 トミエ 20000218 「故郷をはなれて」
栗原彬編[20000218:071-085]
川本 輝夫 20000218 「一人からの闘い」
栗原彬編[20000218:089-112]
佐々木 清登 20000218 「苦渋の選択」
栗原彬編[20000218:113-126]
杉本 栄子 20000218 「水俣の海に生きる」
栗原彬編[20000218:129-146]
中村 妙子 20000218 「部落に救われて」
栗原彬編[20000218:147-161]
木下 レイ子(聞き手:石牟礼道子) 20000218 「故人たちとの再会」
栗原彬編[20000218:165-181]
緒方 正人 20000218 「魂のゆくえ」
栗原彬編[20000218:182-202]
石黒 康 20000218 「本書の成り立ち――あとがきにかえて」
栗原彬編[20000218:203-206]
■しかく引用
★
▼緒方 正人「魂のゆくえ」 *引用:小林勇人
認定申請を取り下げる
一方、私自身は、一九八五年、自らが求めつづけていた患者としての認定申請を取り下げました。そう考えるようになったのは、一つには水俣病事件の本質的な責任のゆくえを自分が追っかけていたからだと思います。確かに水俣病事件の中では、チッソが加害企業であるし、国や県がそれを擁護して産業優先の政策を進めてきたのも事実です。その意味では、三者とも加害者であることは構造的な事実です。しかし、チッソや国や県にあると思っていた水俣病事件▽△しろさんかくの責任が、本質的なものなのかという疑問がずっとありました。そういう構造的な責任の奥に、人間の責任という大変大きな問題があるという気がして仕方がなかったわけです。
もう一方で、水俣病事件は私たちに何をいっているんだろうかと考えるようになりました。というのも、ずっと長い間、問われているのは加害者で、そしてそれが当たり前だと思い込んでいて、まさか自分が問われているなどとは一度も思ったことがなかったわけです。ところが、熊本県庁や環境庁や裁判所や、いろんな所に行動を起こしていく闘いの中で、その問いを受けてくれる相手がいつもコロコロ入れ替わって、相手の主体が見えないわけです。そして投げかけたものを受け取ってくれる相手がいないもんだから、逆に自分の所に跳ね返ってきてしまう。跳ね返ってきたものが、たくさん、たくさん溜まってきて、その問いに自分が押しつぶされんばかりに狂ってしまったわけです。「お前はどうなんだ」と問われたんだろうと思います。かつてチッソが毒を流しつづけて、儲かって儲かって仕方がない時代に、自分がチッソの一労働者あるいは幹部であったとしたらと考えてみると、同じことをしなかったとはいい切れない。そうした自分を初めて突きつけられたわけです。
そしてチッソとは何なんだ、私が闘っている相手は何なんだということがわからなくなって、狂って狂って考えていった先に気付いたのが、巨大な「システム社会」でした。私がいってい▽△しろさんかくる「システム社会」というのは、法律であり制度でもありますけれども、それ以上に、時代の価値観が構造的に組み込まれている、そういう世の中です。それは非常に怖い世界として見えました。狂っているときに、とんでもない恐ろしい世界だと思いました。このまま行けばその仕組みの中に取り込まれてしまうという危機感があったから、そこから身を剥がねばならないと思って認定申請を取り下げ、それ以来、他の患者の人たちにも自分なりの呼びかけ方をしてきたわけです。
チッソはもう一人の自分
チッソとは一体何だったのかということは、現在でも私たちが考えなければならない大事なことですが、唐突ないい方のようですけれども、私は、チッソというのは、もう一人の自分ではなかったかと思っています。
私はこう思うんですね。私たちの生きている時代は、たとえばお金であったり、産業であったり、便利なモノであったり、いわば「"豊かさ"に駆り立てられた時代」であるわけですけれども、私たち自身の日常的な生活が、もうすでに大きく複雑な仕組みの中にあって、そこから抜けようとしてもなかなか抜けられない。まさに水俣病を起こした時代の価値観に支配され▽△しろさんかくているような気がするわけです。
この四〇年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するようになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスチックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にもたくさんあるわけです。水道のパイプに使われている塩化ビニールの大半は、当時チッソが作っていました。最近では液晶にしてもそうですけれども、私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけれども、時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。「近代化」とか「豊かさ」を求めたこの社会は、私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱して行くのかということが、大きな問いとしてあるように思います。┃(pp.193-196)
■しかく書評・紹介
◇書評情報:
https://www.iwanami.co.jp/book/b268477.html
■しかく言及
◇立命館大学産業社会学部2018年度後期科目
《質的調査論(SB)》「石牟礼道子と社会調査」(担当:村上潔)
*作成:
小林 勇人/*増補:
村上 潔