『われわれのあいだで――「他者に向けて思考すること」をめぐる試論』(叢書・ウニベルシタス)
Levinas, Emmanuel 1991 Entre nous : essais sur le penser-・l'autr,B. Grasset,268p.
=19931220 合田 正人・谷口 博史 訳,法政大学出版局,365p.
■しかくLevinas, Emmanuel 1991
Entre nous : essais sur le penser-・l'autr,B. Grasset,268p.
=19931220 合田 正人・谷口 博史 訳 『われわれのあいだで――「他者に向けて思考すること」をめぐる試論』(叢書・ウニベルシタス),法政大学出版局,365p. ISBN-10: 4588004158 ISBN-13: 978-4588004155 4200
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■しかく内容(「MARC」データベースより)
フッサール、ハイデガー、ベルクソンらの思想との格闘をつうじて混迷する現代社会の道徳と政治に一条の希望の光をもたらす。1950-80年代におけるレヴィナスの思索を集成する。*
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
レヴィナス,エマニュエル
1906年リトアニアに生まれる。1923年から30年までフランスのストラスブール大学で哲学を学ぶ。この間、1928年から29年にかけてドイツのフライブルクに滞在、フッサールおよびハイデガーの下で現象学を研究、1930年フランスに帰化、第二次大戦中はナチの捕虜収容所にフランス解放まで抑留される。戦後、ポワチエ大学、パリ・ナンテール大学、ソルボンヌ大学教授を歴任。タルムード研究に取り組む一方、ハイデガー哲学との対決を通して倫理にもとづく独自の哲学を展開する。1983年カール・ヤスパース賞を受賞。現代フランス思想界を代表する哲学者の一人。1995年12月25日パリで死去
訳者紹介
合田 正人
1957年生まれ。一橋大学社会学部卒業。東京都立大学人文学部助教授
谷口 博史
1962年生まれ。一橋大学法学部卒業。東京都立大学大学院博士課程中退(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■しかく目次
序言
存在論は根源的か
自我と全体性
レヴィ=ブリュールと現代哲学
神人?
ある新たな合理性―ガブリエル・マルセルについて
解釈学と彼方
哲学と目覚め
無用の苦しみ
哲学、正義、愛
非志向的意識
一者から他者へ 超越と時間
隔時性と再現前化
文化の観念の哲学的規定
唯一性について
「~の代わりに死ぬこと」
人間の権利と善なる意思
「他者に向けて思考すること」についての対話
われわれのうちなる無限の観念について
『全体性と無限』、ドイツ語訳への序文
他者、ユートピア、正義
■しかく言及
◆だいやまーく鷲田清一, 20061129, 「〈顔〉、この所有しえないもの」鷲田清一編《夢みる身体 (身体をめぐるレッスン1)》岩波書店:221-248.
(pp231-232)
この裸のまなざしの接触は、真正面からは起こらない。一方がまなざしを向けるやいなや他方が消え入るか、一方が他方を押しのけるというかたちでしか起こらない。ときに、双方が眼を伏せた瞬間に、その瞬間にのみ、〈顔〉のかりそめの深い接触が奇蹟のように起こるということも、たぶんある。
他者の顔はわたしに切迫してくる。こちらに眼を向けよと、わたしのまなざしを、いや、わたしの〈顔〉を召喚しにくる。それほどの強度を〈顔〉の現われはもつ。〈顔〉は執拗なものだ。眼を伏せても追いかけてくる。
けれども、〈顔〉はまた儚いものである。すぐに消え入るような脆いもの、傷つきやすいものである。E・レヴィナスの言葉を引けば、それはむしろ「羞じらい」としてある。
顔は切迫してくる(simposer)が、それを見つめる視線を前にしてすぐに身を退ける。これをレヴィナスは〈顔〉の撤退(retrait)と呼んだ。それは対象となることを拒む。〈顔〉は壊れやすいものだからだ。視線が、見返す眼が、〈顔〉を壊し、歪める。顔面として現われているときに〈顔〉は消失する。かぎりなく近くにありながら、まさにそのときにもっとも遠ざかり、もっとも隔てられているというこのもどかしさを経験したことのないひとなど、たぶんいまい。とすれば、レヴィナスのいう「羞じらい」としての〈顔〉とは、消え入ることそのことで現われるものだということになるのだろうか。あるいは、消え入ることそのことの現われだということになるのだろうか。
そのレヴィナスに、〈顔〉について書かれたある決定的な言葉がある。「顔は内容となることを拒むことで現前する。この意味において、顔は了解し内包することのできないものである」(レヴィナス 一九八九)。〈顔〉は何かとして理解しうるものではほんらいないというのである。わたしが何かとして理解するようなものではそれはなく、むしろわたしではない何かが、その存在を押しつけてくる、あるいは切迫してくる、その〈外〉の経験そのものが〈顔〉だというのである。
「隣人の顔は表象から逃れる。隣人の顔は現象性の欠損にほかならない。とはいえ、隣人の顔が現われないのは、隣人の顔があまりにも不意に、あまりにも乱暴に到来するからではない。ある意味では、現われることさえできないほど薄弱な非現象であるがゆえに、現象「以下」のものであるがゆえに、隣人の顔は、現われることなき現象性の欠損にほかならないのだ。」(レヴィナス 一九九〇)
「〈顔〉は肖像のような形あるものではまったくありません。〈顔〉との連関は、絶対的に弱きものとの連関であると同時に、絶対的な仕方で外に曝されたものとの連関です。」(レヴィナス 一九九三)
〈顔〉は、見える形、読まれる形という媒介なしに、それの彼方からみずからを突きつけてくる。が、その突きつけてくるものはあまりに薄弱なものである。いいかえると、それは現われすらしない。現われかけては撤退してしまうものである。それは、はすかいに、ちらちら、ほの見えるしかない。じっとまなざすことのできないものなのだ。
*作成:
植村要 追加者: