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『心の社会的構成――ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点』

Coulter, Jeff 1979 The Social Construction of Mind: Studies in Ethnomethodology and Linguistic Philosophy, London: Macmillan.
=19980225 西阪仰 訳 新曜社 308p.


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しかくCoulter, Jeff 1979 The Social Construction of Mind: Studies in Ethnomethodology and Linguistic Philosophy,London:Macmillan. =199802 西阪 仰 訳,『心の社会的構成――ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点』,新曜社,p.308.ISBN-10: 4788506319 ISBN-13: 978-4788506312 3045円 [amazon]/[kinokuniya]

しかく内容(「BOOK」データベースより)
心や主観性は本質的に接近不可能ではない。心という概念の使用法を、日常の相互行為=人びとの実際のふるまいから解き明かす論理文法分析の企てをとおして、心とはいかなるものかを探究する途を明らかにし、言語学・哲学・社会学の新しい可能性を拓く。

(「MARC」データベースより)
心や主観性は本質的に接近不可能ではない。心という概念の使用法を、日常相互行為=人々の実際のふるまいから解き明かす論理文法分析の企てをとおして、心とはいかなるものかを探究する。

しかく目次

序章
1、論理文法と心
2、操作主義の限界

第一章 人間行為の規範的基盤
1、行為の帰属・行為の個別化
2、行為の因果説明
3、日常的活動へのエスノメソドロジー的関心
4、規範的描写と分析的解明
第二章 心の透明性―主観的現象の分析可能性
1、コンテクスト内のふるまい―公的なものとしての「私的」なるもの
2、言語の理解とは、規範にしたがった「心的操作」のことなのか
3、慣習上あっての当然の前提と、認知にかんする決定
4、心的述語の使用法
5、結語
第三章 基本的経験の表現
1、内部的知覚主義
2、聞くことと見ること
3、現れ[見た様]
第四章 「考え」について考えること
1、考えが公的な現象であることについて
2、「考える」という動詞について
3、思考の論理性と戦略的脈略づけ
4、「考える」「思う」の〈使用中の論理〉―経験的研究へ
第五章 感情と社会的コンテクスト
1、内的な出来事としての情緒
2、情緒の表示とその取扱い
第六章 精神病の形而上学
1、精神病はほんとうに「病気」か
2、精神科医の診断はそのつどの状況においていかに成し遂げられるか
結語

しかく引用

序章

日常言語は、規範的に組織されているのであって、決定論的なしかたでコントロールされてはいない。じっさい、もし望むなら、あるいは無知ゆえに、わたしたちはそれを乱用したり誤用したりできる。ところで、ある概念が誤用されているのかどうかを判断するとき、もちろんちょっと見ただけですぐわかるばあいもあるけれども、実際にそれがどのような情況でもちいられているのかを注意深く丹念に分析しなければならないことも、しばしばある。このことは、ごく標準的な表現のばあいにもいえる。つまり、カテゴリーや表現がどのような情況で使用されているかということ、このことは、カテゴリー・表現の論理文法の一部なのである。(pp.12-13)

心とは何か、あるいは心にかかわる他の述語は何を表わしているのか、を明らかにしようとするとき、「主観ー客観」の二元論が私たちを惑わす。この二元論を克服するために、これまでつぎのことがこころみられてきた。心や心的な述語は、日常的なことばのやりとりのなかで理解可能なことを言い合うために、実際にどのようにもちいられているのか、を示すこと。(pp.14-15)

この概念がどの概念と組み合わせて使用することができるかを吟味することであり、またそれが様々な機会で使用されるさい、そのつどどのようなコミュニケーション上の機能を果たしているかを吟味することである。(p.17)

社会学および社会心理学においてにおいて、心や主観性といった諸概念にもつわる難問・問題・混乱が生じるのは、たいがい、方法および説明の段取りについて論理上不適切な方針をたて、それを対照領域に押しつけようとするからである。〜中略〜社会科学者は、社会的行為・集合現象・歴史的発展にかんしてもっぱら一般的説明を企てようとするかぎり、意識と社会的コンテクストとの関係を考えるのに、かならずや、歪められ単純化されすぎたモデルをもちいていかざるをえない。(p.19)

第一章 人間行為の規範的基盤

社会学者はどんな活動であれ、それを記述しようとすれば、文化の内側からそれを記述しなければならない。つまり、その記述が行為の記述として理解可能であり適切であるためには、しかるべき行為概念がもちいられなければならないわけだけれど、たほう、その行為概念は、その行為の主体とその記述の読み手とが[記述する者と]共有している文化・自然言語のなかに、あらかじめ用意されているものでなければならないのである。(p.23-24)

行為の記述は、コンテクストをこえた基準によりその客観性が保証されることはない。記述がどこで完結するかは、恣意的決断によって決まる。つまり、記述がどこで完結しているかをみれば、その記述がどんな規範的な傾向にもとづくものかがわかる。(p.28)

因果論もしくは決定論ふうの理由づけによりあらゆる情況におけるあらゆる行為をとらえようとするならば、わたしたちの前理論的な概念枠組みのなかに大混乱が持ち込まれることになろう。選択・自由・創造性・責任・逸脱・慣習・適切さといった諸概念はいったいどうなってしまうだろう。わたしたちは、端的にこういった諸概念なしではやっていけない。(p.40)

常識的知識をもっている成員たちにとって、すべてが命題の形をとっているわけではないし、明確な表現が与えられているわけでもない。それはいわば「実践知(実際的な知識)」とでもいいうるものである。つまり「...であるという知識」にたいする「...のやり方の知識」というふうに言い表せるものにほかならない。(p.43)

第二章 心の透明性―主観的現象の分析可能性

ヴィトゲンシュタインによれば、「わたしは理解している」という発言を「心的状態の記述」と呼ぶことは、おおよそ誤解のもとである。「むしろ、それを『信号』と呼ぶのもよいかもしれない。かの発言が正しいしかたでもちいられたのかどうかは、当人がその先なにをやるかによって判断できる」(p.78)

他人が「おまえはそんな意図をもっていたはずがない」などと口を出しても、そんなことが受け入れるはずもない。なぜなら、この種の純粋に心理主義的なモデルによれば、みずからの意図を表明する当人だけしか、その意図に接近することができないからである。こんなモデルはとうてい受け入れがたい。「わたしは意図している」という表現を学習するとき、まずじっと内省して特定の経験をとらえ、しかるべき名札をその上に貼る、といった驚くべき技を学習するわけではない。(そもそも内省によってとらえられたものを一つのものとして正しく識別する術など、どうやって学びとることができるのか)。そうではなく、右の表現を学習するということは、とりもなおさず、オースティンのいう「行為拘束型(commissive)」言語行為の遂行のしかたを学習することにほかならない。みずからの意図を公表することは、ある特定の発語内行為を遂行することである。そしてその遂行にあたっては、他のすべての発語内行為と同様に、それ相応の「適切性」条件が満たされなければならない。(p.81)

意図の表明にせよ行為の記述にせよ、成員の自己記述は、それが適切に理にかなかったものと受け止められるためには、公的な情況に見合ったものでなければならない。行為記述の世界は、あくまでも、批判可能な言明、棄却可能な主張、情況内の評価の世界である。それは、剥き出しの運動・音声の集塊のうえに貼られた名札群の小宇宙に一つ、といったものではない。(p.87)

成員たちはどんなやり方で、相手が「心で思っている」ことを発見するのか。このやり方は、通常、命題のかたちでは知られていない。たとえどんなやり方があるにしても、およそ日常の組織だったやり方であるかぎり、それは、相互主観的、文化的、習慣的なものであらざるをえない。つまり、それはみんながいつももちいているやり方にほかならない。(p.107)

発話は、通常、その聞き手となるべき人物がどのような知識をもっていると考えられるか、またこの人物にとっては何が意味あるものだと考えられるか、ということを考慮しながら組み立てられる。このようなやり方をサックスは「受け手に合わせたデザイン」と呼んでいる。想起の「選択性」とは、次から次へと湧いてくるイメージをたんに切り貼りするということだけではありえない。それは、むしろ、想起の義務が生じたり、想起の不在が問題となったりするということである。もちろん、そのときには、いま話題として語るべきことは何か、当事者たちの間で共通に知られていることは何か、ということが考慮されなければならない。こういったことが、見られていても気づかれていない基礎となって、「心に思い浮かぶこと」が適切なしかたで、選択・編集されることになるのだ。(p.119)

第三章 基本的経験の表現

モノすなわち「対象」は、感覚概念の教授や意味にとって、どうでもよい。内部知覚は、感覚概念を学ぶのに、なんの役にもたたない。(p.129)

ライルはつぎのようにいう。ある人が、自分の痛みは、刺すようだ、錐で揉まれるようだ、焼けるようだ、と主張する。そのとき、その人は、ほんとうにかれの痛みが、短刀や錐や熱い火箸のせいだ、と思ってはいない。その人は、自分の痛みがどのようなものかをのべるために、その痛みを、そのようなモノのせいで生じる痛みになぞらえているのだ。このいみで、「痛み」という概念と一緒にもちいられる記述カテゴリーは、「純粋な」現象学的記述ではない。だから、痛みの現象学的記述がどのようにして通常の痛みの行動を代替するといえるのか、などということは、そもそもヴィトゲンシュタインにとって問題にならない。かの記述カテゴリーが感覚記述子であるのは、あくまでも、ありきたりの〔共通の・公的〕モノが通常どういうふうにもちいられるか(あるいはどう見えるか、あるいはどういう音をだすか)にもとづいてにほかならない〔つまり、その感覚そのものの「純粋な」現象学的特徴にもとづいて、ではない〕。そして、かの記述カテゴリーの適切な使用が習得されるのは、基本的な感覚の初歩的概念が使用が、ヴィトゲンシュタインの示唆しているようなしかたで可能になったあとである。そのあとではじめて、様々な訓練と経験をとおして、それは習得されるのだ。(pp.133-134)

「痛い」という表現の指示的効力は、内部知覚によって与えられているわけでもなければ、自分のふるまいを観察すること(からの推論)により与えられているわけでもない。それは、その表現が、現実の状況内で他の一連の行為・反応にたいしてどのような位置関係におかれているか、に懸っている。つまり、こういうことだ。痛みを適切なしかたで自己帰属(表明)できるためには、その当人は、他の人たちが要求する適切さ・有意味さの規準に則ったしかたで、みずからのふるまいとその環境を整えなければならない。(pp.135-136)

なにか確固たる規則がまずあって、それにしたがって痛みを〔他人〕に帰属するやり方を学習する、というわけではない。たしかに、わたしたちは、どういうばあいに、帰属が不可能になったり変更を余儀なくされたりするか、を識別できるけれども。そもそもこのようなことを可能にする能力をもっていること、これはいわば原現象である。つまり、人間の生の形式にかかわる事実である。あらゆる訓練および言語習得においてそれは引き受けられる。それ自体は、言語習得において習得されるものではない。それはあくまでも、一つの能力として、言語習得の基盤にある。(pp.140-141)

音には二つのことなる領域が、つまり現象的領域と客観的領域とがある、というわけではない。〜中略〜内面で音を「測定する」などという主張に、いかなり意味を与えることもできないからだ。音にかんするわたしたちの判断は、性能の悪い測定ではない。なぜなら、それそもそも測定ではないからだ。経験表現の何ものなるかを理解しようとすれば、内側ではなく、外側をみなければならない。経験表現は、どのような情況において実際に通用するものとなるのか、これをみなければならない。(p.145)

一切を現われと現実の二つに区別したうえで、それにもとづいて「主観的現実」について云々するなど、まったく危ういことである。〜中略〜わたしたちは言語を共有しているし、また異なる言語も相互に翻訳可能だからだ。すでに強調しておいたように、共通の言語は、世界の物事にかんする基本的な判断の一致を、前提としている。(p.150)

第四章 「考え」について考えること

「考える」も、(心的状態の)ある特定の(行動上の)現れ(動作であれ状態であれ)の名前ではない。「考える」という概念は、むしろ、かかる現れをそのコンテクストにしかるべく関係づけることで、その現れに一定の性格を与える働きをする。〜中略〜「考える」というのは関係概念だからである。それどころか、それは多形体なのだ。いいかえれば、考えることは様々な形態をとりうるけれども、そのうちどれ一つとして、考えることにとってなくてはならない、というものではない。もしわたしが、いま考えている最中だと答えるならば、そのときわたしは、じつに様々なことのうちのいずれかをやっているはずだ。(p.164)

ヴィトゲンシュタインがしばしば警告しているように、どんなばあいにも「名詞があれば、それに対応する事物」をみいだそうとするかぎり、それはとんだ過ちを犯すことになりかねない。「考え」とか「考える」といったことばは、そのつど実際にどうもちいられるかが決まっている(そしてこのもちいられ方が、その当のことばに生命を与え、意味を与えているのだ)。(p.168)

同じひとつの発言が、ある一定の脈絡づけによっては、自己矛盾したものと分析可能となるにもかかわらず、別の脈絡づけがなされれば、無矛盾と分析されるようにもなることも、ありうる。〜中略〜論理性の帰属は、聞き手がもっている様々な志向に依存しているのであって、論理規則だけを頼りになされているわけではない。(p.178)

ある人の思考が論理的であるという判断は、一つの判断としてそのつど成し遂げられなければならない。ある人の思考が論理的かどうかは、論理規則によってあらかじめ一義的に決まっているわけではない。同様に、ある人の考えが混乱している(臨床的にみて障害がある)という判断も、もっぱら論理形式に違反しているかどうかにかんする判断に還元することはできない。このような判断を実際に下すことが正当化されているかどうか、またその判断がそのつどどのように下されるかは、あくまでもつぎのことに懸っている。すなわち、知識・信念が社会的にどう分配されているか、その当のケースが当の状況のなかでどう分析されているか、戦略的脈絡づけという手立てや、それにともなう節約の慣習的規約がどうもちいられるか、に懸っているのである。(p.180)

第五章 感情と社会的コンテクスト

わたしたちは、自分たちがいまどの情緒のことを言っているのかを識別しようとすれば、当人がものごとをどう評価しているのかを無視することはできないのだ。わたしたちは、ときとして、なんといっても本人が自分の情緒についてだれよりも知っている、と言うことがある。しかしながら、これが、実生活のなかで他人について判断するさいの不変の原理であるかのように考えてはならない。〜中略〜むしろこう考えるべきだ。つまり、どのような事情のもとで自分は怒ったり、嫉妬したり悲しんだりといった感情をもちえたのかについて、たいてい本人は(他人はいざ知らず)なにがしかのことを知っている。もし誰かが怒りをかんじるとみずから告げるならば、それは、不可欠の、ではないにしても、強力な証言として取り扱われるかもしれない。しかし、怒りの〔他人への〕帰属が正当であるか否かは、そのような表明が〔本人から〕なされるかどうかには、必ずしも依存していないし、顕にされた怒りに特定の感情状態がともなっているかどうかとも、無関係である。(pp.189-190)

「わたしは怒りを感じる」といった自己報告は、内的な出来事・状態の記述ではなく、むしろ怒りの表出ととらえてみたらどうだろうか。そのような表出は、その報告がどのような情況のもとでなされたかに応じて正当化されたりされなかったりするものである。(p.191)

わたしたちが、自分の、もしくは他人の情緒状態を知るのは、けっして、一定の感覚ゆえにその情緒状態があるのがわかるという〔当人の〕認識を受け入れることによってではない。何人も自分の裁判の最終審たりえない。(p.193)

シャクターとシンガーの実験→単なる生物学的興奮を被験者に起こしてみても、それだけでは、被験者は、ある特定の情緒を経験していると報告するにいたらない(p.196)

同様の現象ベッカー→(薬物の使用が)望ましいものだと、いった定義のし直しをしてくれる人が)一緒にいてくれないならば、かの常用者も激しく同様するかもしれない。使用者と一緒にいてくれる人がいるならば、その人が、知覚の歪みをどう補正すればよいのか指図し、そして状況を正常化してくれるかもしれない、というわけだ。(p.198)

第六章 精神病の形而上学

「病気」という概念は、人が能力を失っていることを示す信号のようなものだ。(p.221)

本章で取り上げたいのは、精神病理学でも向精神薬の開発でもない。むしろ、精神科医が診断を下すという仕事を、精神医療の組織的な仕事全体の一部として日々実際にどのように成し遂げているか、ということである。(p.222)

狂気もしくは精神病であるという決定は、いかなるものであれ、問題になっている人物の発言・ふるまいの「不適格さ」についての判断で始ま(り、通常はそれで終わ)る。その決定にさいし、その人物の身近で最近観察されたり報告された社会的出来事が背景になっている。しかも、その当人が自分のふるまいを認知しているかどうか、すなわちそのふるまいの何たるかを「わきまえている」かどうかも評価されなければならない。(pp.223-224)

精神病にかんする決定は、それを取り巻く当該組織においてどのようなものの見方・判断のしかたが可能となっているか、に依存している。当該組織におけるものの見方・判断のしかたのうちには、その組織においては患者候補者がどのように提示され、患者候補者のことがどのように説明されることになっているか、ということも含まれている。(p.228)

精神科医が診断を実際に下すにあたり、定義はなんの役にもたっていない。診断の内容および診断の下される可能性がコンテクストに応じて様々であるのは、精神障害の定義が「流動的」だからではない。精神医療の分類方法は「不確定的」だという主張がなされるとき、なんらかの「確定性」の基準が前提とされている。しかしながら精神医療の場合には、身体にかかわる医療のばあいと違って、不変の基準はありえない。(p.232)

「精神病」の概念の誤用・濫用が立証されているからといって、精神病概念には弁別力がないとか精神病は存在しないなどという結論を導き出すことはできない。それは、たんなる気晴らしの、しかし潜在的には有害な形而上学をもてあそぶことにほかならない。〜中略〜精神科の診断は、むしろ、ふるまいや信念の評価をともなう帰属実践のひとつである。(p.233)

最初の帰属は、素人によってなされる。たいていは、家族のだれか、仲間内のだれか、開業医、ソーシャルワーカーなど、患者になるかもしれない当該人物の周囲にいる者たちが、ときには一緒になって、最初の帰属をおこなう。また多くのばあい、精神科医に診察してもらうべきかどうかを決めるのは、本人ではない。むしろ、他人が、その当人のなにか動揺したり不可解な行動したりするのに気づいて、専門家に診てもらう必要があると決めるのだ。しかも、それはふつう最後の手段なのである。(pp.233-234)

素人であっても、診断にとって有意義なやり方で、患者の症状についてのべることはできる。精神科医がしかるべき理由づけをもって(機能性)の精神病があるかないかを断じていくやり方は素人の心理学的な理由づけと本質的に変りない。機能的精神病の諸カテゴリーは、あくまでも社会的道徳的に要請されたものであって、なにか深遠難解な知識が発展した結果ではない。(p.235)

結語

成員たちにとって合理性とは何か。また、成員たちにとって物事はどのように有意味に関連しあっているのか。このことを顧みないならば、一方的な決めつけがなされるだけである。そのような決めつけは分析的反省からはほど遠い。わたしが何を考え、何を思い、どんな理由づけを導くことができるかは、わたしがいま現在どのような社会的に共有された概念や理由づけのやり方を利用できるかによって、(そのつど)制限されている。〜中略〜わたしの行為や発話は、匿名の社会的プログラムにもとづいて出力されたものではないのだ。(pp.245-246)

組織された日常生活において心的述語がどうもちいられ、主観性についての決定が実際にどう下されるかについて、記号論的こころみが展望できよう。行為や社会的関係に実質的・内容的な説明を与えようとすれば、それはかならずや、独自の言説上の基準にしたがって規範的もしくはイデオロギー的な企てとならざるをえない。このような企ては、いまわたしたちの展望している社会学にとって、それ自体研究なされる対象でありうる。(p.247)

文法的に正しいこと、意味が理解できること、知的であること等の客観的基準を定式化しようとしても、あるいは一定の心的述語をだれかに帰属するための客観的基準を定式化しようとしても、そのような企ては、規範的な「壁」に阻まれてしまうのだ。にもかかわらず、この心的述語の対応物を脳の働きのうちに探し出すことが、かくも熱心にこころみられているのである。(p.248)

しかく書評・紹介


しかく言及



*作成:中田 喜一
UP: 20090818 REV: 20110824
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