『燃えさかれいのちの火』
19800715 自治体研究社,238p.
■しかく池上 洋通 19800715 『燃えさかれいのちの火』,自治体研究社,238p. ASIN: B000J85STQ
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増補版
■しかく目次
日野市の新しい地域医療運動によせて―西三郎
序章 死と背中合わせの生を支える
1 ある青年の死
2 地域医と住民と専門職ボランティアと
3 このレポートの方法など
第1章 どのようにして難病が私たちの課題になったのか
1 ことのあこり
2 「広報ひの」の難病キャンペーン
3 難病福祉手当の制度化
4 難病患者・家族と市長との座談会
第2章 新しい方向と新しい組織がもとめられていた
1 「難病患者・在宅身障害者と家族の会」
2 難病問題の正しい位置づけ
3 医療と福祉を進める会の結成へ
第3章 医師会と住民が腕を組んだ
1 日野市医師会との出会い
2 難病集団検診―地域医療の学校
第4章 あるべき地域医療をもとめて
1 地域難病チームと地域ケア体制の発展
2 地域難病運動の到達点と問題点
3 円卓会議の思想が地域医療を進める
4 保健・医療情報をめぐっての問題と「住民参加」
5 「地域医療」から「自治体医療」へ
終章 燃えさかれ いのちの火
1 ある父親の死
2 広がる地域への運動の輪
あとがき
初版と増補版の目次はここまで同じ。増補版ではこの後「日野市の難病運動その後、そして現在」がある。
◆だいやまーく池上洋通:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E6%B4%8B%E9%80%9A
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池上 洋通(いけがみ ひろみち、1941年(昭和16年)- )は地方自治研究者。地方自治と地域社会に関する各種の分野の事項に積極的に発言・主張、創作活動を行っており、雑誌編集などのジャーナリストとしても活動してきた。静岡県清水市=現静岡市出身。
目次 [非表示]
1 略歴・業績
2 現在
3 著書 3.1 単著
3.2 共編著
3.3 共著
略歴・業績[編集]
フリーライターを経て、1974年〜1992年、東京都日野市市役所職員。秘書課、企画課、社会福祉課、市民会館などに勤務、この間、市の基本構想策定、市民意識調査、社会福祉政策、文化政策などの立案・実施に直接携わる。また、市民として、文化運動、障がい者・難病患者運動に参加、政府の難病政策の転換(施設→在宅)に寄与した。この間に、市民・自治体職員・研究者で構成する全国組織・自治体問題研究所の一員となり、地方自治・各分野の地域運動などに関わる運動・政策論などの執筆活動を開始。1992年、日野市役所を退き、自治体問題研究所の常勤役員となり、同研究所事務局長、常務理事、月刊「住民と自治」編集長などを歴任(〜2001年)。 地方自治原論、地方自治体の制度論、社会福祉・医療・教育をはじめとする政策論、自治体労働組合運動論、地域・住民運動論などにわたる積極的な主張を展開し、日本の地方自治、特に市町村(基礎自治体)がはらむ問題点を明らかにしてその打開を目指す研究活動を行っている。 いわゆる「平成の大合併」にあたっては、地方自治の本来の目的を破壊する政策であるという立場から、テレビ・新聞等において「市町村合併反対」の論陣を張り、全国各地の自治体等に招かれ、その主張を繰り広げてきた。また、同時期に、千葉大学(教育学部・社会教育概論)、自治医科大学(看護学部・地域ボランティア論)、法政大学(社会学部・自治体政策法務)その他で講師に招かれている。
現在[編集]
2006年12月、自治体問題研究所主任研究員、東京多摩自治体問題研究所理事長、日野・市民自治研究所副理事長、栃木県立衛生福祉大学校(保健学部)講師。日本社会医学会、日本社会学会、日本社会教育学会、日本文化経済学会、日本ジャーナリスト会議、各会員。日本青年団協議会助言者。その他、多くの研究組織、文化・社会活動組織に参加している。
著書[編集]
単著[編集]
市町村合併これだけの疑問(2001年刊、自治体研究社)
地域活動事始め(1999年刊、自治体研究社)
人間の顔をしたまちをどうつくるか(1998年刊、自治体研究社)
自己実現の時代の地域運動(1987年刊、自治体研究社)
◆だいやまーく燃えさかれいのちの火-未来型地域医療を創る日野市の難病運動(1981年刊、自治体研究社)
このほか、地方自治論、地方自治制度論、自治体政策論、教育論、社会医学・福祉論、地域文化論、その他の雑誌論文と、エッセイ、ルポルタージュ、戯曲、短歌文集などの発表作品がある。
共編著[編集]
市民立学校をつくる教育ガバナンス(2005年刊、大月書店)
無防備地域宣言で憲法9条のまちをつくる(2005年刊、自治体研究社)
共著[編集]
世界史から見た関東大震災(2004年刊、日本経済評論社)
「構造改革」と自治体再編(2003年刊、自治体研究社)
21世紀をひらく市民自治(2003年刊、自治体研究社)
学校選択の自由化をどう考えるか(2000年刊、大月書店)
教育、地方分権でどうなる(1999年刊、国土社)
非核自治体-抗議・連帯・学習(1990年刊、平和文化)
健康教育と組織(1989年刊、医学書院)
図書館があぶない(1988年刊、教育史料出版会)
共同と人間発達の地域づくり(1985年刊、自治体研究社)
地域づくり運動新時代(1984年刊、自治体研究社)
蘇る草の根運動(1982年刊、旬報社)
難病患者の自立を求めて(1981年刊、大阪府難病患者団体協議会)
地域の復権(1977年刊、学陽書房)
執筆の途中です この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
カテゴリ: 日本の地方自治
静岡市出身の人物
■しかく引用
日野市の新しい地域医療運動によせて―西三郎
序章 死と背中合わせの生を支える
1 ある青年の死
2 地域医と住民と専門職ボランティアと
3 このレポートの方法など
第1章 どのようにして難病が私たちの課題になったのか
1 ことのあこり
2 「広報ひの」の難病キャンペーン
3 難病福祉手当の制度化
「広報紙の報道で、難病への理解と関心が急速に高まっていくなかで、市議会は国に対する要望▽054 を織りこんだ難病についての決議を採択する。七四年の十二月議会であった。
こうした動きを背景に、市が打ち出した政策が、難病福祉手当の制度化である。これは国と東京都が医療費助成の対象としている疾病の患者に対して、月額三千円(現行五千円)の手当を出すという内容のものである。医療費助成が、社会保険本人を除外しているのに対し、この手当はすべての患者ということで対象を広げた。
当時、三多摩各市にはほとんど例のなかったこの制度は、七五年の四月から施行された。日野市における難病への取り組みは、こうして制度化への一歩な踏みだした。もちろんこの福祉手当の制度には欠点もある。しかし当時の時点でこの制度を生み出したことは、住民本位の立場に立とうとする日野市政の、ひとつの成果であったと確信している。」
4 難病患者・家族と市長との座談会
「広報ひの」で難病キャンペーンを続けていた私たちの胸のなかにも、漠然とではあるが、難▽060 病患者・家族を地域的に組織できないかという思いがふくらんできていた。だからこの提案は、私たちの考えとも重なり合うものであった。
座談会でこの提案をしたのは、御子柴昭治氏である。氏は日野市内の中学校教師で、障害児教育のべテランであり、自身が代表者になって「日野市障害者間題を考える会」を組織、先進的な活動を展開していた。御子柴氏とは、この後もずっと共に歩むことになる。
御子柴氏のこの提案をもとに、その年の秋、新しい市民団体がひとつ生まれた。それが私たちの「日野市医療と福祉を進める会」である。それについては次章でふれよう。
難病患者・家族と市長との座談会はこのような実りをもって成功し、その内容は、七五年八月十五日号の「広報ひの」に二面全段見開きの形で掲載された。このときはまた、第二次大戦終結三十周年に当っていた。「広報ひの」は、「戦争と私」というテーマで市民から投稿をつのり、四べージにわたる特集が組まれた。難病特集とともに「戦争と平和」をテーマにしたこの紙面づくりは、自治体広報紙のあり方としても各方面の注目を浴び、多くの人から入手希望が寄せられた。私たち広報係は、増刷をもってこの要望に応えたのたった。」
第2章 新しい方向と新しい組織がもとめられていた
「1 「難病患者・在宅身障害者と家族の会」
市長との座談会のあと、私たちはさっそく新しい組織づくりにとりかかった。これに加わった主な顔ぶれは、次のとおりである。
▽高沢タケさん(神経性難病の娘をもつ母親)
▽岩野弘氏(惨原病系難病の娘をもつ父親)
▽志村清子さん(脳性小児マヒの後遺症で車イスの生活をしている娘をもつ母親)
▽福田勝美氏(血友病の患者)
▽山本涼三郎氏(人工透析を必要とする慢性じん炎の患者)
▽石川左門氏(進行性筋萎縮症の息子をもつ父親。東京進行性筋萎縮症協会の理事長)
▽御子柴昭治氏(中学校教師。障害児訪問学級の担任)
これらの人々と、私たち市役所の職員とが組織づくりを準備したのである。
準備会では、新しくつくる組織の名称を「日野市難病患者・在宅身障者と家族の会」とするこ▽063 とにし、次のような呼びかけ文を作成した。
「日野市難病患者・在宅身障者と家族の会」を
先日、市主催による「難病患者・家族と市長との座談会」が開かれました。座談会では日頃、いろいろな面でお互いのっながりが必要ではないかと話し合われました。
在宅患者、身障者やその家族の方々は、心身ともに閉じこもりがちです。しかし、それではいつまでたっても希望のある生活を切り開くことはできません。
難病患者・在宅身障者やその家族の悩みをもちょり、その実態を市や市民にも理解してもらい、国や都にも働きかけて、間題解決のために運動をすすめてゆくことがぜひとも必要となっています。
そこで、日野市に「難病患者・在宅身障者と家族の会」をつくり、お互いに悩みを話し合い、はげまし合って生きていくカにしたらと考えます。
同じ悩みをお持ちの方、また、この会に賛同される方は、どうぞ次の発起人までご連絡くたさい。
(以下発起人連名)」
「ニ 難病問題の正しい位置づけ
1 難病、難病問題とは何か
(1) 難病についての二つの考え方
まず私たちは、「難病のとらえ方」を改めて学んだ。
いったい「難病」とは何だろうか。実は、この点をめぐって、すでに国=厚生省と私たちのあいだに意見の相違がある。これについては、東京都神経科学研究所の木下安子氏がわかりやすく説明しているので、使わせていたたく(木下安子『在宅看護への出発』勁草書房書房)。
まず厚生省の四つの基準。
?@原因不明。
?A治療法もわからず治癒しにくい。
?B一生闘病を続ける。
▽067 ?Cときに軽快しても、視力障害、手足の運動障害で、社会や職場復帰が困難。
厚生省は、この基準にあてはまる疾病を特定し、「難病」→「特定疾患」としてきた。そこから疾患を指定して、その疾患にかかった者に対して健康保険の自己負担分を公的に助成する政策が生まれたのである。
こうした厚生省の考えとは異なる立場に立つ人に白木博次前東大教授がいる。白木教授の難病概念は次の通りである。
?@原因の明、不明を問わない。
?A状態像の深刻さ。
?B社会復帰が極度に困難であるか不可能であること。
?C医療・福祉・社会から疎外されている。
つまり白木氏の考えでは、難病とは病気の種類ではなくて、その患者の身体的・社会的状況の深刻さを物差しとして定義づけるべきだというのである。さらに国立公衆衛生院疫学部の芦沢正見室長は「どんな病気でも、それが慢性の経過をとり、予後不良が予想される場合は、そのことごとくが難病指定に相当する」と述べている。
私たちは、もともと医療問題についてはシロウトであるし、難病をどう定義するかについてなどまったくわからなかった。しかし何人もの患者・家族に出会って生活の実態にふれてみると、▽068 問題は病気の種類にあるのではなく、生活の状態像にあるのだということぐらいは実感できていた。」
3 医療と福祉を進める会の結成へ
(1) 難病患者の運動から学ぶ
私たちに難病患者運動の経験を教えてくれたのは、石川左門氏であった。石川氏はこのレポートの序章に出てくる石川正一君の父親であり、東京進行性筋萎縮症協会の理事長をつとめ、薄給のもと十数年にわたって難病団体の専従者として活動してこられた方である。石川氏が日野市民であったことは、私たちの運動に大きなカをあたえてくれた。まず、このことを記しておきたい。▽097 先にのべた「難病をどう見るか」についても、同氏から学んだ点が多いのである。
石川氏と私たちは、「広報ひの」で難病キヤソべーンを始めたころからつながりをもちはじめていた。そして「難病患者・家族と市長との座談会」にも出席、その後の組織づくりにも初めからかかわってくれた。その石川氏は私たちにこんなことな語ったのである。
「いままでの難病運動は、疾病別に専門医などと結びついて、行政への要求をかかげてきた。これも大切だが、それだけでは、患者な一個の人間として、医療、福祉、教育などの全般にわたってフォローすることはできないし、地域社会での位置づけもあいまいになってしまう。疾病や障害の種類をこえ、さらに広く市民と結びつくことが、これからの課題だと思う。」
石川左門氏のことばには、長期にわたって難病運動をしてきた者の重味があった。
同氏によればこれまでの難病運動には、大きく分けて三つの段階があったという。
第一は、運動の創立期であり、疾病ごとに患者会や友の会がつくられ、会員同志が励まし合いながら、それぞれの会が独自に行政機関や医療機関に働きかけを行う段階である。
第二は、連合の段階ともいうぺき時期であり、それまでバラバラだった各運動体が、都のレベル、あるいは国のレベルで連合し、統一した要求のもとに活動を展開する段階である。
そして第三は、いま始まりつつある地域運動との結びつきの段階である。
第一の段階、第二の段階は、いうまでもなくそれぞれ大きな成果を収めてきた。だが、どうし▽098 てもつき破れないカべが二つある、と石川氏ほいう。
そのひとつは、いわゆる「疾病エゴ」とでもいうべきものであって、患者団体が疾病別に組織されていることから、どうしても自分の関係する疾病に対する施策の要求を中心に、運動を組みたてることになる。これは連合体を組んでもなかなか打破できない。行政側もそれを知っていて、まず人年度ごとの予算のワクを示し、あとは各団体で分配せよ、ということになる。すると、あの団体はたくさん予算をとりすぎだ、といったような問題がどうしても出てくるというのである。
ふたつめは、先にもちよっとふれた、患者の地域社会における位置づけのあいまいさである。患者も一個の人間である以上、あたり前の社会生活を求めている。そして実際の社会生活とは地域で▽099 の生活のことだ。ところが疾病別に全国1東京都1支部というふうに、タテ割りにつくられた組織だけに頼っていると、地域社会のなかで孤立してしまう。地域生活を送るためには、難病患者とつきあうだけでなく、一般市民の誰とでもつきあい、一人の住民としての権利が実現しなければならない。しかし疾病別や障害別の運動では、地域の人々に向かって「私たちの疾病はこんなふうにたいへんなのだ。わかってほしい」という提起しかできない。これでは地域の人々の同情をかうことはできても、間題はますます特殊視されるようになり、地域の人々と共に歩むということにはならない。
「だから、疾病や障害の種類をこえることはもちろん健康な人たちとも共に歩むこと。そして地域づくり、まちづくりの仕事に、一人の市民として自らも参加し、そのひとつとして難病や障害の問題を位置づけることです。たとえば医療についてなら、日野市の医療全体がどうなっているかを知って、それを豊かにするなかで、自分たちの願いをかなえるようにするのです。」
石川氏が語ったことは、おおよそこのようなことであった。
誤解されるといけないのでことわっておくが、石川氏は疾病別の運動が全く無意味だといったのではない。また私たちもそう思っていない。
第3章 医師会と住民が腕を組んだ
1 日野市医師会との出会い
2 難病集団検診―地域医療の学校
第4章 あるべき地域医療をもとめて
1 地域難病チームと地域ケア体制の発展
2 地域難病運動の到達点と問題点
(1) 障害児問題への取り組み
障害児の問題が難病チームで初めて提起されたのは、一九七七年の秋であった。つまり難病集団検診が始まって、一年半ほどたったころである。
これを提起したのは、小児科医の宮本恭輔氏であった。氏は、市内の小児科医が自主的につくっている「智愛会」という研究会の一員である。その智愛会で、最近、先天異常児が増加している、ということがしばしぱ話題になると話した。そして難病のように、なんとか地域的なカでこ▽173 の問題と取り組めないものだろうかと言ったのである。
しかしこの当時は、難病運動も具体的なシステムづくりの最中であったし、小児科医のほうでも、まだ十分に煮つめられていない段階であった。その後も何回かチームの会合で話題になったが、実践への計画づくりということには、なかなかならなかった。
この問題がはっきりと「今年の課題」とされたのは、七九年の一月に開かれた難病チームの会議である。この席上で改めて宮本医師からの提起があり、難病集団検診をモデルとした検診を実施しようということになった。もちろん宮本医師も日野市医師会の会員であり、役員でもある。医師会としての提起であった。
実施目標を秋に定め、準備を十分にして、というのが、そのときの確認である。
先天異常児の集団検診に私たちが賛成したのは、障害の早期発見、早期養育という一般的な意昧もあるが、同時に「障害児全員就学1養護学校義務化」という情勢に直面していたからでもある。
障害児全員就学は、序章で紹介した石川正一君の例にもあるように、私たちの強い願いであつた。しかし先天異常児を放っておいて、学齢期になってから教育委員会に親子を呼び、子どもの教育コースを振り分けるというのでは、障害の固定化をうながし、ある意昧では"差別"の準備をすることになるのではないか、というおそれもあった。ではどうすれば良いか。それは結局、▽174 なるべく早い時期に異常を発見し、適切な養育環境を確保することにつきる。
もし先天異常児の集団検診が行われれば、そうした体制をつくる上での突破口になるかも知れない。しかも今回は、医師会のほうから私たちに問題が提起されているのだ。私たちはうれしかった。」
「3 当面する運動の課題
日野市の地域難病運動は、ここまで述べてきたような成果を収めてきたが、同時に残されている課題もまた多い。何しろ進める会の結成から四年半、難病チームの出発から四年しか経ってい▽181 ないのであるから課題が多いのは当然であり、これからが本番である。
当面する課題のなかには、行政とのかかわりのように、今日の医療・福祉の根本にふれるような課題もあれば、運動の努力によって解決できるようなこともある。だがここでは、そうしたことにこだわらずに課題を列挙しておくことにしたい。
(1) 地域的ケアの量的拡大
最大の課題は、すべての難病患者に対しての地域的ケアが確立したとは言えない状態にあるここだ。序章で紹介した石川正一君のような例は、まだ少いのである。この理由はニつある。
第一に、難病患者・家族が地域に目を開き、そこに住む人達と共に生きようとする点で、不十分な面をもっているということがある。これは家庭医になった医師や、進める会の会員でもある患者・家族などの努力でずいぶん打開されてはいるが、まだ家のなかに閉じこもっているタィブの患者が少くない。そのため地域的ケア――専門医・家庭医というだけでなく保健所・市役所とそれに加えてのボラソティア活動などの住民運動――の対象になりにくいという問題がでてくる。
第二は、地域的ケアの体制が量的に不十分な面をもっている点である。これは行政について著しい。保健所の保健婦不足は"常識"であるし、市の保健衛生課には保健婦が一名しかおらず、職員は予防接種その他の業務に追われっぱなしである。福祉事務所のケースワーカーも似たよう▽182 なもので、百件ものケースをかかえたケースワーカーがいるありさまである。
ボランテイアの数もまだまだ足りず、特に訓練されたボランティア、専門職ボランティアの体制づくりは手をつけたばかりである。
(2) 行政の組織的・体制的立遅れ
保健所、市役所の量的な体制づくりの遅れの根底には、難病に対する国の施策上の立遅れがあり、いちがいに自治体行政を責められない。
しかし同時に指摘しなければならないことに、相変らずのタテ割主義の横行がある。
保健所は保健所、福祉事務所は福祉事務といった具合に、なかなか有機的な関係の確立といらところまで進まない。その結果、いわゆる「保健医療行政」と「福祉行政」とが血の通ったものとして結合しにくい状態が生まれ、福祉のケースワーカーが「医療のことはよくわからないから」ということで、難病患者への訪問をためらうという場合がでてきたりする。」
3 円卓会議の思想が地域医療を進める
「第三章で紹介したように、進める会が結成されたとき、日野市の医師会は「患者の立場で医療の主導権をにぎろうとするもの」として、その動きに同調しなかった。私たちは、そんなことを露ほども思っていなかったからこの誤解はやがて解けたが、実際の問題として、民主勢力を自称する人々のなかに「医療の主人公は患者である」とか「患者中心の医療」とかを声高に叫ぶ人々がいる。たしかに医療サービスは何より患者に向けなけれぱならないし、このことを否定する医療関係者は誰もいないたろう。そして、この当り前のことをわざわざ叫ばなければならない現実があることも、知らないわけではない。
しかしそうした叫びが一面化すると、とんでもないことになっていく。それはしばしば医師不信(もっとはっきり言えぱ、多くの場合「医師会不信」である)をあふり、結果的にこんにちの▽193 医療体制そのものが持つ本質的欠陥をおおいかくす役割を果たす。私は、巨大マスコミの一部にそうした傾きがあることを、率直に指摘しておきたいし、民主勢力の一部にもその風潮に乗っている人々がいることも言っておきたい。これは誤りである。
私たちが難病運動や医療運動に取り組むのは、患者が中心であったり、「住民」が中心であったりする医療体制をつくるためではない。私たちは誰の生命も、人間のそれとして尊ばれるような、そしてそのことによって本来の使命を果たし得るような、そうした医療体制がほしいのである。
私たちのまちで進められてきた難病運動は、まさにそれである。「難病患者へのケアのために、医師会・住民・行政が手をつないだ」というだけでは、私たちの運動を全面的に語ったことにはならない。私たちは、この運動のなかに、患者自身、家族自身を加えてチームをっくってきているのである。だから患者・家族が受け身で、ただ医療サービスを受けるものというような発想は、私たちにはない。患者・家族にも応分の責任が課せられ、病気とたたかい、生活困難とたたかう強い姿勢が求められている。もし患者・家族が単に医療サービスを受ける者として位置づけされるなら、十分なサービスがないと、たちまち単純な「医療・医師不信」に落ち込むだろうが、患者が医療関係者と共に歩むということになると、事情はまるで変ってくる。
ここに、医師をはじめとする医療関係者と患者・家族とが「同じ生活圏にいる」地域医療の重要な特質のひとつがあると、私は思う。「患者中心の医療」を一面的に叫ぶ人達は実は、患者=▽195 弱者論に立ち、結果的に患者の努力を低くみているのではないだろうか。だが、序章に紹介した石川正一君を含め、難病患者や家族の多くは、全力をあげて真剣な闘病生活を送り、そのことによって、医学的にも貴重なデータを数多く提供してきたのである。患者と医療関係者の協同作業それが私たちのめざす医療でなければならない。そして「地域」でこそ、それが実現できるはすである。」
4 保健・医療情報をめぐっての問題と「住民参加」
5 「地域医療」から「自治体医療」へ
終章 燃えさかれ いのちの火
1 ある父親の死
2 広がる地域への運動の輪
「▽234あとがき
この本の由来から記すことにします。
ここにまとめた報告は、自治体問題研究所が一九七八年に、第二十回自治体学校と『住民と自治』誌発刊十五周年を記念して、「地域と職場からの手記・記録・ルポ募集」を行ったさい、これに応募したものです。
もともと日野市の難病運動の全体経過についてのレポートが必要なことを、おりあるごと私は痛感していました。特に日野市の運動が外部に知られるようになり、しだいに全国的な集会などで報告されるようになると、住民団体と医師会との関係について、強い関心をもつ人々がふえてきました。そして「日野市の場合は、特別な例ではないか」という声が聞かれるようになってきました。私は、これではいけない、と思いました。日野市の例が当り前のことのように普及されるようでなければ、難病患者の苦しみは解けないだろうし、地域医と共に地域医療を切り開く道もっくれないでしょう。だから私は、日野市で起きていることが正確に伝えられるよう望んでいました。」
初版と増補版の目次はここまで同じ。増補版ではこの後「日野市の難病運動その後、そして現在」がある。
■しかく書評・紹介
■しかく言及
◆だいやまーく立岩 真也 2018
『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社