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「立岩さんの紹介」

川口 有美子(ALS/MNDサポートセンターさくら会 副理事長)

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last update: 20231014


だいやまーく川口 有美子 20231014 「立岩さんの紹介」,介護保障を考える弁護士と障害者の会 全国ネット 11周年オンラインシンポ 於:オンライン

しかく本文

前文

当会の立ち上げ時より、多大なるご助言ご尽力をいただきました立命館大学大学院総合学術研究科教授の立岩真也先生が、悪性リンパ腫のため本年7月31日に帰らぬ人となられました。集会の冒頭ではございますが、難病や障害の研究を通して後進を大勢育成してこられた立岩真也先生の功績を称えて、ご紹介させていただきます。

1,立岩真也さんの経歴

1960年8月16日佐渡島生まれ。享年62歳。東京大学大学院社会学研究所博士課程を単位取得退学後、千葉大、信州大学医療技術短期大学部で教鞭をとり、2002年京都の立命館大学大学院先端総合学術研究科に入職。
2007年文科省グローバルCEO創生拠点の採択を受けて生存学センター(現在は研究所)を設立し、障老病異の倫理・制度政策・エスノグラフィーを領域とする「生存学」を提唱した。

2,「学者は後衛につく」ALS患者会との協働

1998年にALS協会山梨県支部支部長でALS患者の山口衛氏により招かれ、支部総会でALSにも全身性介護人派遣事業が使えることを示唆。ALS療養者に呼吸器選択と長期にわたって在宅で、家族に依存せずに生存できる道を示した。 以下引用――

「九七年の秋、ALS協会山梨県支部の山口衛[496]からファックスで連絡をもらった。「介護人派遣事業」(第10章2節)の新設を山梨県に働きかけたいので情報がほしいとのことだった。私がいくつか関係した文章を書いていることが伝わったらしい。私自身は役に立ててもらえる情報をもっていなかったが、制度について最も多く詳しい情報をもち、対行政交渉の手法にも詳しい「障害者自立生活・介護制度相談センター」(CIL,全国介護保障協議会)を知っていたから、この組織を紹介した。」
『私的所有論』(立岩[1997b])という本も、そのころ、九七年一〇月に刊行された。その年の終わりに雑誌『仏教』から原稿を依頼された。「生老病死の哲学」という特集で、私への当初の依頼は「出生前診断」だったが、私はこの主題についてその時に書けることは本に書いてしまったし(『私的所有論』第9章)、にもかかわらず煮え切らず、詰められない部分があり、なにか新しいことが書けると思えなかった。そして私は、たしかに本では生まれることに関わる技術について書いたのだが、それよりも死ぬか死なないかの方が大切だと思っていた。想像力に乏しい私には、既に生きていて、自分が死ぬことを理解できる人間が死ぬという出来事の方が大きなことに思えた。今でもそう思っている。それで安楽死のことについて書かせてもらった(立岩[1998a])。そこでスー・ロドリゲスの裁判に言及し、松本茂[45][489]の文章(松本[1994])を引いた。この文章は拙著『弱くある自由へ』(立岩[2000d])に収録された。
九八年一月、山梨県で介護人派遣事業が始まることに決まったから、ALS協会の山梨県支部の総会で講演をしてほしいという依頼があった。その返信のEメールに『仏教』に書いた文章を添付して送った。「難病患者の自己決定の意味・介護人派遣制度の可能性」という題をいただき、五月に講演した(講演までの間の山口とのEメールのやりとりについては、この講演を再録した立岩[2000e]に記した)。」
引用終わり。

川口との出会いは2003年春、当時ALSの母の介護で疲弊していた川口のもとに、聞き取り調査にいらした。その翌年立岩さんの勧誘で京都の立命館大学大学院先端総合学術研究科に進んだ。ところがしばらくすると川口は障害者運動に駆り出されることになった。早急にALSにも「使える」介護サービスを作らねばならなったからだ。ALS患者の生存のためには家族介護の負担軽減が必至で、家族以外の者のよる喀痰吸引の制度化が急がれていた。2002年には、日本ALS協会の全国運動の成果で、一時的に在宅療養のALS患者のみヘルパーによる吸引は「容認」されていたが、一般の介護事業所は実施しなかった。絶望して立岩さんに相談したら、うちの学校で研究しないかと誘われた。「社会が悪いのだから社会を変えよう」。立岩さんは理屈を捏ねる傍らで、当然のように当事者運動に加担していた。自治体交渉の場でも後衛につき運動側に情報提供し、権力を振るう者を容赦なく批判した。

介護サービスの内容が貧弱だと重度障害者は安楽死や治療停止を求めるようになる。海外のALS協会等ではそれらの合法化は容認しても、家族以外の者による完全他人介護を求める運動はほぼしていない。それ(日本のALS患者のほうが欧米よりも待遇がよいこと、生きる選択ができることなど)を教えてくれたのも立岩さんだった。
当時の日本ALS協会会長、橋本操さんの後ろ盾もあり、川口は橋本さんの任意団体であったさくら会を法人化し、ヘルパー養成研修事業「進化する介護」を企画した。ファイザーなどから助成金をもらって各地でヘルパーに吸引と経管栄養を教え広めた。法的根拠のない草の根運動だったので真面目な専門職から見たらアウトローだったが、それを嬉しそうに鼓舞していたのも立岩さんだった。すると今度は国会議員が尊厳死法を検討しだした。満足な介護保障も制度もできていないのに「死ぬ権利」が必要などといってきた。
2006年障害者自立支援法が成立。時の政権は社会保障費の削減を目指して「痛みわけ」と言っていたが、もとより支援が不十分であった社会的弱者の生存は危機にさらされることになった。与野党から安定的な財源確保のために、100%税金によって運用されてきた障害者施策の介護保険統合案が出された。しかし、障害者から見れば自己資産をもつ健常な高齢者と就労できない障害者とを同じ制度で扱うと言う提案は納得がいかない。自立支援法案は制度改悪で措置のほうがましだったと言う者もいた。全額税負担による完全他人介護による24時間介護保障を求める障害者運動が激化した。厚労省を二重三重に取り巻くデモ行進。ストーブを抱えての座り込み。立岩さんは『こちら"ちくま"』の連載を大学のサイトに転載するなどして、運動を扇情し起きたことを記録した。

障害者の生存が危うくなるたびに障害者団体は結束したが、いつも立岩さんや大野さんらが、私たち患者会や障害者運動の後陣にいてくれた。難病を併せ持つ重度の身体障害者ALSを病者とみることにより、もっとも身近な理解者であるはずの職種の人びとが生存の障壁となってしまったこともしばしばあった。たとえば人工呼吸器の取り外しを患者の権利(患者の自己決定権を尊重する)と主張する専門医たち、喀痰吸引や経管栄養を医療職の独占事業と唱える職能団体、事前指示書やリビングウィルを法制化しようとしていた超党派議員連盟。障害者殺人事件の裏側に巣くう優生思想など、誰かが弱者切り捨てを語るたびに立岩さんが出てきて叱ってくれた。公平性や中立性を標榜することはなく、追いつめられた者の側にとにかく最初に立つことをした。余人をもって替えがたい人。弱っている者にとっては菩薩のような人だった。

3,実践家としての顔

ALS患者の在宅独居支援、筋ジス病棟からの地域移行支援など、各地のリーダーのインタビューのためにも足を運んだ。地元の京都では障害を持つ単身者の借家の保証人になったり、難しい現場を抱えた看護師やヘルパーの相談に乗ったり、論文執筆を励ましたり、大学院生に声をかけてALSの自薦ヘルパーを募ったり、事業所設立の資金援助をしたりしていた。そうやって亡くなる直前まで、個人的につながりのあるALS患者や筋ジストロフィ―患者の療養現場に足しげく出向くなど、力を尽くした。立岩さんは自らの支援活動についてはほとんど語ることはなかったが、実践家としても尊い仕事を積み重ねておられた。

写真は昨年の12月10日土曜日23時21分。お茶の水駅ホームで別れ際におどけて撮影。藤岡さんとはこれが今生の別れになった。





*作成:中井 良平
UP: 20231014 REV:
川口 有美子全文掲載
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