<表紙> 点字図書館運動勃興期における「姉崎文庫」の設立と郵送貸出による事業展開 −柏崎の姉崎惣十郎と新潟県盲人協会による情報保障の実践の歴史的意義− 栗川 治 社会事業史研究 2022 Vol.62 (編集・発行 社会事業史学会 2022年12月31日発行) <p75> 投稿論文 点字図書館運動勃興期における「姉崎文庫」の設立と郵送貸出による事業展開 −柏崎の姉崎惣十郎と新潟県盲人協会による情報保障の実践の歴史的意義− 立命館大学大学院 先端総合学術研究科一貫制博士課程/ 日本学術振興会特別研究員 栗川 治 ?T.序論 1.問題の背景 2019年6月28日に「視覚障害者等の読書環境の整備の推進に関する法律(読書バリアフリー法)」が「障害の有無にかかわらず全ての国民が等しく読書を通じて文字・活字文化の恵沢を享受することができる社会の実現に寄与することを目的」として公布、施行された。これは「視覚障害者等......の読書環境の整備を総合的かつ計画的に推進」し、「アクセシブルな書籍(点字図書・拡大図書等)が提供されること」をめざしたものである(厚生労働省2019)。では翻って、近代日本における視覚障害者に対する情報保障の歴史はいつ頃にさかのぼれるだろうか。 日本において、視覚障害者が自ら読み書きできる文字としての点字を獲得したのは1890(明治23)年に、東京盲唖学校の教職員及び生徒代表からなる「点字撰定会」で、ブライユ式6点点字を仮名に適用した同校教員の石川倉次の点字案が採用されたときであり、その後、1901(明治34)年には日本訓盲点字として官報に告示され、わが国の正式な視覚障害者用文字となった(野口2007:28)。これ以降、新たな技術の開発によって、点字図書、録音図書、電子書籍など、媒体や機器の変化はあるものの、視覚障害者は、自らアクセス(読解)可能な情報保障を求めて活動し、点字図書館等の事業を興してきた。 障害者に対する権利保障の一つである情報保障であるが、当該領域の歴史研究はこれまで概説やアウトラインが示されてこず、社会事業史研究のなかでもほとんど着目されてこなかった。社会事業史の研究では、一般の生活困窮者を対象とするものが研究の中核にあり(吉田1979; 一番ケ瀬1994)、障害者に関するものでは、障害児施設、特に視覚障害者に関しては盲唖院・盲学校をめぐっておこなわれてきた(加藤1972; 中村2018; 岸2019)。点字図書館等の歴史に関しては、多様な運動や実践があったものの、それらの一部が研究対象となってきたにすぎなかった。今後、社会が多様性を認め合い、インクルージョンを推進していく上でも、障害者やマイノリティに対する「権利保障の歴史研究」といった研究領域の創生が重要な学術的・社会的必要性をもつようになると考えられる。その意味で、本稿における点字図書館についての研究も、「権利保障の歴史研究」の一部たる「情報保障の歴史研究」として、その歴史が跡付けられていくことが重要である。 <p76> 2.先行研究 1)点字図書館事業史に関する先行研究 日本の点字図書館事業史の研究は、これまで主に東京の日本点字図書館(1940[昭和15]年設立、当初の名称は「日本盲人図書館」)とその設立者・本間一夫に関して進められてきた(斉藤1962; 谷合1996; 1998; マースメ・河内2011; 西脇2014; 立花・山田2018; 2019)。それは、本間が「点字図書館の開拓者」(谷合1996:135)であり、日本点字図書館が「独立図書館としての機能を備え、開館とほぼ同時に点訳奉仕運動にも力を入れることで点字図書の充実を図り全国に普及させたことで、日本で最初の点字図書館だと一般に言われている」(高橋2014:103)からであろう。 一方で、日本点字図書館設立以前に活動を始めた点字図書館や、盲人(点字)図書館開設を求めて運動した視覚障害者たちに関する研究も進展してきている。矢野暉雄と田中章治は1916年に開設された東京市立本郷図書館点字文庫の存在を資料によって明らかにし、黎明期における日本の点字図書館事業の一端を示した(矢野・田中1984)。また、野口武悟は明治時代から日本盲人図書館設立までの東京における点字図書館運動の歴史を新資料の発掘などにより明らかにしてきている(野口2007)。これらの研究により、日本点字図書館をはじめとする東京の点字図書館運動の展開については、その概要が浮かび上がってきた。 また、東京の日本点字図書館と並んで、日本の視覚障害者情報提供施設の中心的存在としてとらえられてきた大阪の日本ライトハウス(1935[昭和10]年開館、前身の点字文庫は1922[大正11]年設立)については、その設立者・岩橋武夫の盲人運動リーダーとしての多方面での活躍もあり、広く知られ、研究もされてきた(世界盲人百科事典編集委員会編[1972]2004; 谷合1996; 1998; 日本ライトハウス21世紀研究会2002; 高橋2014)。 東京や京阪神の大都市圏には、日本点字図書館設立以前にも、大阪府のライトハウスをふくめ、東京府の桜雲会、東京盲人会館、日刊東洋点字新聞社、京都府の京都仏眼協会、兵庫県の盲女子保護協会、神戸盲唖院の各団体が点字図書館を開設していたこともわかっている(野口2005:83)。 しかし、それら都市部にある施設以外の地方の点字図書館については、その名は知られていたものの、各館の設立経過や活動内容などの詳細は不明なままであった。戦前期に、地方の公立図書館に点字文庫(盲人閲覧室)が開設された事例としては、新潟、石川、徳島、鹿児島、名古屋、長野などの県(市)立図書館があったことは知られていた(間宮1930:2; 竹林編1955:218-222; 高橋2014:103)。また、地方では、各地の視覚障害者の当事者団体により点字文庫(点字図書館)が設立されていき、1940(昭和15)年の時点で、北海道、秋田県、岩手県、群馬県、埼玉県、新潟県、福井県敦賀、岐阜県、愛知県名古屋、三重県、徳島県、鹿児島県、朝鮮の13盲人協会運営のものがあったことがわかってきている(野口2005:83)。 ただ、これらの初期の点字図書館の試みについては、「現在公開図書館にして、點字文庫を有するものは十指に足らぬ、而も盲人図書館として眞に活動せるものは、二三に過ぎぬ」(竹林1933:50)という記録もあり、「当時は盲人側の要望と熱意はあっても、点字図書供給の道がまだ開けなかったため、いずれも活発な図書館活動をなし得なかった」(世界盲人百科事典編集委員会編[1972]2004:489)という評価や、「点字図書館事業をはじめた盲人は、新潟県柏崎市の姉崎惣十郎をはじめ何人かの先駆者がいたが、発展・継続しなか <p77> った」(谷合1996:137)という見方が大勢であった。 2)姉崎惣十郎、姉崎文庫に関する先行研究 このように低迷していたとみられていた初期の、しかも地方の点字図書館のなかで、「特筆すべきは1920(大正9)年に始まった新潟県柏崎市の点字巡回文庫で、積極的な取り組みによって一定の利用があったことである。その後、この文庫は......元中越盲学校内に置かれた新潟県盲人図書館に移設された。これは現在の新潟県点字図書館の前身であり、日本における点字図書貸出事業の萌芽ともいえよう」(日本ライトハウス21世紀研究会2002:165)と、新潟県柏崎での動きに注目し、評価する見方が提出された。これについては、のちに「姉崎文庫」と呼ばれるようになる新潟県柏崎の点字図書館を継承した新潟県視覚障害者福祉協会が、「新潟県盲人協会の役員姉崎総十郎氏(ママ)は、大正9年12月23日に柏崎市の自宅に姉崎文庫を設け、全国に先駆けて郵送による点字図書の無料貸出を始めました。......本会は点字が盲人の文化啓発上重要な役割を持つことを考えて、大正14年(ママ)10月17日に姉崎文庫を引き継ぎました。そして、姉崎総十郎氏を館長とし広く全国の盲人を対象に点字図書の貸し出し業務を開始しています。」(新潟県視覚障害者福祉協会1999:5)と記してもいる。 これまで、姉崎によって新潟県柏崎に設立された点字文庫(姉崎文庫)に関しては、前述の2文献(新潟県視覚障害者福祉協会1999; 日本ライトハウス21世紀研究会2002)の記述があるのみで、他の文献もこれに依拠している(高橋2014)。しかしこれらの文献が、どのような一次資料をもとに書かれたか、その資料の所在もこれまで不明であった。また、姉崎個人については、姉崎が教員として働いていた中越盲唖学校とその創設者・宮川文平に関する研究のなかで、その名が散見されるが、姉崎の人物像や活動内容を示すものはない(高橋1998; 2004; 佐藤2003; 大塚2019)。姉崎文庫を引き継いだ新潟県盲人協会点字図書館は、昭和前期において「日本の3大点字図書館」(他は名古屋市立図書館点字文庫、社団法人桜雲会点字図書館)の筆頭に数えられ、視覚障害者の間ではその名が知られていたことがわかっているが(齋藤1934; 中村1938; 立花・山田2019)、その実態は明らかになっていなかった。 地方の町である柏崎で姉崎が始めた姉崎文庫と、それを継承した新潟県盲人協会点字図書館は、どのようなものであったのか、また、この新潟での点字図書館運動は発展・継続しなかったのか、それとも、全国的にも広がりをみせるものとして展開していったのか、明らかにされる必要がある。そして、なぜ地方の小都市で、そのような点字図書事業の実践が成立したのかについて、探究される意義はある。 3.目的と方法 1)研究の目的 日本の障害者に対する権利保障の一部である情報保障の歴史研究は、今後、多角的・重層的におこなわれる必要がある。そのなかで、情報保障を求める視覚障害当事者による運動や、点字図書館事業の研究において、これまで地方の動きはほとんど注目されずにきた。これらの地方における障害当事者による実践を明らかにすることは、障害者の情報保障の歴史研究において意義あることと考えられる。その一人として姉崎を詳しく見ていくことも意味があるはずである。姉崎の注目すべき点は、点字図書の貸出事業を、新潟県柏崎という地方の町でおこなったことである。 <p78> そこには、どのような経緯があり、また、姉崎の実践が、その後の点字図書館運動、障害者の情報保障に何をもたらし、どのような意義があったのだろうか。それらを明らかにすることは、障害者の情報保障の歴史研究において重要なことと考える。 本稿の目的は、日本の障害者に対する情報保障の歴史、特に点字図書館運動の勃興期において、新潟県柏崎という地方都市に障害当事者によって設立された「姉崎文庫」(のちの新潟県盲人協会点字図書館)に関して、設立者である姉崎の生涯、設立の経過と背景を明らかにし、地方における点字図書館事業発展の要因と意義を考察することである。 2)研究の方法 本稿では、これまで詳細が知られていなかった姉崎と姉崎文庫の足跡を跡付けつつ、その点字事業がなぜ新潟県柏崎という地方都市において成立・継続しえたのかについて、姉崎文庫が展開した「郵送宅配方式」に着目してその歴史的諸要因を考察した。そのため、二次文献の整理と共に新規に発掘した一次資料を重要文献として参照し、一部関係者へのインタビュー調査も用いて分析を行った。 以下では、本稿における新規資料に関して概略を述べる。 まず、そもそもこれまで姉崎および姉崎文庫に関する学術研究はなされずにきた。姉崎文庫を継承した新潟県視覚障害者福祉協会・新潟県視覚障害者情報センター(点字図書館)で資料探索を試みたが、協会創立50周年記念誌(新潟県視覚障害者福祉協会1999)はあったものの、その記述の論拠となる一次資料は移転に伴い廃棄されたとのことで発見できなかった。同記念誌は点字から墨字に変換する際のものと考えられる誤記が散見されるため、一次資料による検証が必要である。次いで、新潟県立図書館で姉崎に関する文献を検索し、姉崎が教員をしていた中越盲唖学校や新潟県立図書館盲人閲覧室などに関する二次文献が多く見つかったが、ここにも一次資料はなかった。 柏崎市立図書館で資料を探索したところ、古文書「盲人協会61-3」のなかから、姉崎の鍼治営業許可証が発見され、姉崎の生年月日等が判明した1)。同図書館所蔵の地元新聞『柏崎日報』『越後タイムス』にも、これまで未発見であった姉崎に関する記事が複数掲載されていることがわかり、また、姉崎の人物紹介(肖像写真をふくむ)が載った新聞社発行の冊子も発見された。これらの資料には、これまで知られていなかった姉崎に関する新事実が多数掲載されていて貴重であるが、年月日等に不正確な場合が散見され、他の資料との照合による補正が必要である。柏崎市の浄願寺では過去帳を閲覧し、これまで不明であった姉崎の没年月日を確認することができた。 また、柏崎ふるさと人物館に、中越盲唖学校設立者・宮川文平関連の一次資料が所蔵されていたことは、大塚(2019)で明らかとなっていたが、同館の閉館と資料の柏崎市立博物館への移管のなかで一時不明となっていた。今回、遺族である宮川久子氏に返却されていることがわかり、全資料を一旦借り受け、複写とテキスト化をおこなった。本調査終了後、当該資料は柏崎市立図書館に寄託されることになっている。 さらに、日本盲教育史研究会の岸博実氏の知遇を得て、岸氏が資料室の整理を担当している大阪府立大阪北視覚支援学校、京都府立盲学校所蔵の資料のなかから、姉崎文庫設立の詳細な経過等が書かれている『新潟県盲人協会概覧』、姉崎に関する『東京日日新聞』などの記事、妻リヨの『点字大阪毎日』への <p79> 投稿などの貴重な一次資料が発見され、それらの複写データの提供を受けた。 そして、姉崎の孫・寛氏や、中越盲唖学校で姉崎の教え子であった人の遺族などからも調査への協力が得られ、電話インタビューにより貴重な証言を得ることができた。インタビューデータは、ネット非接続のパソコン内にパスワードをかけて厳重に管理し、それを研究に利用し公開することについては、調査協力者から承諾を得ている。 なお、昭和初期以前の文献では旧漢字、旧仮名遣い、カタカナ表記が散見されるが、それらは常用漢字、現代仮名遣い、ひらがな表記に改めた。ただし、文献から直接引用した内容は、資料的価値を尊重し極力原文のままの記載とした。また、用語も「盲人」など、今日では「視覚障害者」といった表記に改められているものがあるが、歴史的記述を尊重し、そのまま引用した。 ?U.姉崎惣十郎の生涯と「姉崎文庫」・新潟県盲人協会点字図書館の事業展開 1.生い立ち 姉崎は、1886(明治19)年1月20日新潟県刈羽郡刈羽村の姉崎惣圓の長男として生まれた。6歳の時に母が亡くなり、7歳の秋に眼を患って失明したが、塙保己一や米山検校2)などのような視覚障害のある学者の存在は広く知られており、学問に志した。10歳のときから同村の漢学者・豊澤俊才に就いて漢学を学ぶとともに、柏崎町に出て三島元輔に就いて鍼按を習得した。三島と親交のある眼科医・宮川文平からは生理学や解剖学といった西洋医学を習った(新潟県1906; 長谷川1916:12; 柏崎日報1936)3)。宮川は内村鑑三と親交のあるキリスト教信者であり(鈴木1984:115-152; 宮川2013:5)、姉崎に信仰面でも影響を与えたと考えられる。 姉崎は、16歳になった1902(明治35)年に上京し20歳で柏崎に戻るまでの4年間東京で生活し学問に励んだと考えられるが、東京時代の姉崎に関する資料は、入学したという記事もある東京盲唖学校、吉見英受鍼按学校の在学・卒業を証するものも含め見つかっていない4)。正式在籍はしていなかったにしても、姉崎が何らかの形で東京盲唖学校において研究してきたと考えることはできるかもしれない。すくなくとも柏崎では、姉崎が「東京盲唖学校に単独入学」し、「東京盲唖学校を卒へて柏崎に帰る」(柏崎日報1936)とみなされていたし、中越盲唖学校も「東京盲唖学校にて研究せし姉崎惣十郎」を招聘したと言明していた(中越盲唖学校1909)。 2.中越盲唖学校教員として 1906(明治39)年5月30日、姉崎に新潟県より鍼治営業免許が発行された(註1)参照)。そして、10月1日には宮川を中心とする刈羽鍼灸治組合が柏崎鍼按講習所(2年後に中越盲唖学校と改称)を開設し、20歳の姉崎が招聘された。以後1923(大正12)年の中越盲唖学校閉校まで同校で鍼按科教員として働いた(高橋1998:70; 2004:66-69)。 教師としての姉崎の姿を知ることができる資料はこれまでなかったが、「彼が盲人の特殊性や習性に就て常に研究し、これを其自分の生徒の薫育の上に、應用して居るのは、盲唖學校を參觀して彼の教授振りを見ても知れる。......彼は常に修養を怠らぬ」と評されていたことがわかった(長谷川1916:14)。姉崎は1920(大正9)年11月には名古屋で開催された第7回全国盲唖教育大会に参加しており(名古屋市立盲唖學校1921:12)、常に修養を怠らぬその姿がうかがえる。 また、姉崎は恩師・宮川の影響でキリスト <p80> 教信者となっていたと考えられ、「日曜の夜基督教會へ行く人は何時でも姉崎君が謹ましやかに座つて、點字の讃美歌を指頭で撫でながら唱ひ、聖書の講議を熱心に傾聽して居るを見受けるであろう」(長谷川1916:14)と、その姿が描かれてもいる。姉崎のキリスト教精神は、中越盲唖学校の教え子にも伝わっていたようだ5)。 3.結婚生活 姉崎の結婚や家庭生活についても、これまで不明であったが、新資料によりその一端が垣間見えるようになった。 姉崎は、東京から柏崎に戻って間もない22歳のころに、宮川の下で看護師として働いていた9歳年上のリヨと結婚した。「夫君惣十郎氏が東京盲唖学校を卒えて柏崎に帰るや当時宮川文平医師に看護師として働く中この向学心に燃ゆる不遇な青年に心を引かれ遂に恩師宮川氏の前で『惣十郎氏を立派な男にしてやりたい』と語って」(柏崎日報1936)のことであった。姉崎夫妻は2男1女をもうけ、3人とも教員になっている6)。 当時、姉崎の住宅は中越盲唖学校と廊下続きで、柏崎神社の大門付近にあった7)。1920(大正9)年7月に、盲詩人エロシェンコ8)が柏崎を訪れたときには、姉崎の家(または盲唖学校)に泊まっている(川埼1984:14-18)。姉崎が「晴眼者も近づけない茨の戦士であり、生ける日本のエルシンコではないか」(柏崎日報1936)と言われるようになったのも、このときのことが柏崎で評判になったからであろう。 姉崎リヨは「主人は、つねに失明とゆう不幸な境遇にあることすら感じておりませず、いつも『神の御業の現れんためなり』のお言葉にそむかぬよう生きていきたいと申しております。......私といたしましてわ、子どもの養育をはじめ、家事万端にとらわれまして、主人に対し文献の代読や代筆が意に任せませぬので、いまなおたえず、こころもとのう思うほかはございません」と述べている(姉崎1934)。 4.新潟県下各盲唖学校協議会 大正期、新潟県内には5校の盲唖学校(高田盲学校、長岡盲唖学校、中越盲唖学校、新潟盲唖学校、新発田訓盲院)があったが、いずれも私立であり経済的な基礎の確立は困難で、年を重ねると共に経営難におびやかされるようになっていった(新潟県教育百年史編さん委員会1973:358)。1923(大正12)年の盲学校及聾唖学校令までの時期における日本の盲学校と聾唖学校の共通項は、経営困難と盲唖学校形態にあった(中村・岡2012:33)。そこで5校は新潟県下各盲唖学校協議会を結成し、校長や教員が盲唖教育の進展や経営、県立移管等に関して協議を重ねていった(高橋2004:64)。 この盲唖学校協議会には、中越盲唖学校長の宮川、新潟盲唖学校長の山中樵9)のほか、各校の鍼按科の視覚障害教員たちが参集していた。「高橋幸三郎、姉崎惣十郎、渡邊豊治、立川六藏、八島權三郎の諸氏大正6年より本會[新潟県盲人協会]を組織せんと企て時々協議を重ねつつありしが同8年5月高田盲學校に開催の第7回県下盲唖學校協議會に提出其援助を得て第8回盲唖學校協議會を期し県下盲唖學校出身者聯合会を開催して之が協議をなすに決す」(新潟県盲人協会1931:1)こととなった。すなわち、県下盲唖学校協議会の集まりは盲唖教育だけをテーマとするのでなく、新潟県内の視覚障害当事者の協議の場にもなり、新潟県盲人協会を組織するための「県下盲唖學校出身者聯合会」を開催することになったのである。 <p81> 5.新潟県盲人協会と「姉崎文庫」の設立 姉崎は、1920(大正9)年に、新潟県内の盲唖学校の教員を中心とする視覚障害者たちとともに、2つの社会運動・事業を起こした。 1つは、全県的視覚障害者の統一団体としての新潟県盲人協会を結成したことである。「6月19日午後1時より中越盲唖學校に於て盲唖學校出身者聯合會を開催本会組織に關する協議をなす、来会者44名、同校教員姉崎惣十郎氏を座長におし会則を制定し役員選挙の結果、会長高橋幸三郎、副会長姉崎惣十郎......ノ諸氏当選す」(新潟県盲人協会1931:1)との記録があり、姉崎が設立の会議で座長を務め、初代の副会長となったことがわかる。 もう1つは、柏崎の自宅に「姉崎文庫」と呼ばれるようになる点字文庫を設立したことである。姉崎文庫の設立そのものは知られていたが(新潟県視覚障害者福祉協会1999)、その経過は不明であった。これも『新潟県盲人協会概覧』や当時の新聞記事により、その概要がわかってきた。新潟県盲人協会は1920(大正9)年11月7日「役員会を開き......各區に巡回文庫を設置して読書の便を計ること」(新潟県盲人協会1931:1-2)を決議し、「同[1920=大正9年]12月23日点字巡回文庫を設置す」(新潟県盲人協会1936:2)と記録しており、その後、柏崎の地元新聞が1926(大正15)年に「新潟県盲人協会では従来新潟 長岡 高田 柏崎 新発田の5ケ所に点字巡回文庫を経営してをつたが、こんど時世の新運動と盲人文化の発達に鑑み之が統一を行ひ柏崎町元中越盲唖学校の校舎を利用して点字図書館を設立し広く県下の盲人に貸出すこととなつた」(柏崎日報1926)と報じている。 これらから、新潟県柏崎の「姉崎文庫」は、1920(大正9)年に新潟県盲人協会が県内5か所に設置した点字巡回文庫の1つとして開設されたものと考えられる。この「巡回文庫」の実態は不明であるが、新潟県立図書館が開館準備段階の1915(大正4)年8月から図書41箱、4千冊を巡回文庫として、各郡役所、県立学校を対象に回付を開始したという記録がある(春山編2018:76)。同館長は新潟盲唖学校長を兼務する山中であり、盲人協会設立にも深く関わったことから、県民の身近な所に図書を配置する県立図書館の巡回文庫のアイデアが、盲人協会の点字文庫においても採用された可能性はある。5か所の点字巡回文庫が、5校の盲唖学校のある所に設置されたのも、盲学生の利用の便を考慮したものと推察できる。 一方、姉崎文庫について、「自分の住居を無償提供してここに図書館を開設したのであった。然し最初は僅か100冊しかなかった書籍さへ喜んで見てくれる人もなく、幾度か消極的になり易い自分に鞭うち、書籍郵送を自ら引受け凡ゆる機会を捉へて読書欲の喚起に努めた」(柏崎日報1936)との記事がある。この記事から、柏崎の点字文庫は、盲人協会の巡回文庫の1つではあったが、実質的には姉崎個人の努力により運営されていたことと、点字図書の借覧者の来訪を待つだけでは利用者は増えなかったことがわかる。重要なのは、この来訪者の少なさということが、逆に姉崎にとって視覚障害者一人一人に点字図書を届ける郵送貸出を開始するきっかけになったということである。 そして、1926(大正15)年に柏崎の元中越盲唖学校校舎を利用して県盲人協会点字図書館が設立され、他の4か所の巡回文庫と統一された。ただし、新潟県盲人協会点字図書館の「蔵書類別表」(1936[昭和11]年9月現在)をみると、合計1035部・1769冊のうちに「姉崎文庫125部・202冊」(新潟県盲人協会1936:16-17)という記述があり、柏崎の巡回 <p82> 文庫が「姉崎文庫」との名で当時から呼ばれ、他の蔵書から区別されていたことがわかる。 6.新潟県盲人協会点字図書館長への就任と郵送貸出 1923(大正12)年に政府より盲聾学校令が発令されて、新潟県内にあった5つの盲唖学校のうち、長岡盲唖学校、新潟盲唖学校の2校が県立に移管され、高田盲学校は私立として存続、中越盲唖学校と新発田訓盲院は廃校となった(柏崎市2002:157)。 中越盲唖学校閉校以後、姉崎は点字図書館事業に専念することになる。柏崎の点字巡回文庫(姉崎文庫)は、蔵書数、貸し出し数が増加するなかで、新潟県盲人協会点字図書館へと統合される。新潟県視覚障害者福祉協会の『結成50周年誌』では、1926(大正15)年10月17日に本会は「姉崎文庫を引き継ぎ......姉崎惣十郎氏を館長とし広く全国の盲人を対象に点字図書の貸し出し業務を開始している」と記している。つまり、1920年に巡回文庫として始まった新潟の点字図書事業だが、1926年の時点で姉崎文庫はすでに全国的な郵送宅配方式を実践していたこととなる。 中越盲唖学校が閉校となり、その校舎が図書館として使えるようになったこと(越後タイムス1926)、点字図書館事業に熱心な姉崎が教職を辞し、館長職に専念できるようになったことが、新潟県内の他の大きな都市(新潟、長岡)でなく、柏崎に県内の5巡回文庫を統一する点字図書館が設置された理由であると考えられる。また、姉崎が既に郵送による点字図書の貸出しを開始していたことも、広域の新潟県内の来館困難な利用者の便を確保できる条件となり、他の4か所の巡回文庫を廃止し柏崎に統一する上で、抵抗感を軽減する要因となったと推察できる。5か所に分散していた蔵書も集約され、新潟県盲人協会点字図書館は一躍、全国有数の蔵書数の点字図書館になり、県内のみならず全国への郵送貸出しを行っていたと言えるであろう。点字郵便の郵便税の減額は1917(大正6)年に制度化されており(大澤2012:80)、郵送貸し出しの制度的基盤は整い始めていた。 当時の新聞記事にも「今では冊数において2千、県内は勿論、遠く東京、奈良方面から借覧者が舞込むなど1ケ年の延人員は2千に達し、全国に全く類のない解放された図書館を継続した」(柏崎日報1936)、「現在全国一の点字図書館として約1800冊の点字図書、文学、宗教、娯楽書を揃へ県内に止まらず関東関西北海道方面まで不幸な同志の文化機関として利用され郵送貸出が行はれるまでの生立ちには館長姉崎氏の犠牲的努力が染み込んでゐる」(東京日日新聞1936)と評されてもいた。 7.姉崎の晩年と点字図書館のその後 姉崎の活動は新潟県内外各地に及んでいたようで、『新潟県盲人協会概覧』には「[1929=昭和4年8月]28日午後1時より[佐渡郡]相川町分妙寺に於て講習修了式並に講演会を開催、姉崎圖書館長、高橋協会長の講演ありき」「[1930=昭和5年]6月16日新潟盲學校落成式に当たり本会を代表し姉崎惣十郎祝辞を叙ぶ」「同[1930=昭和5年]11月30日神戸市に開催の全国盲人大会に立川副會長、姉崎圖書館長出席す」「[1931=昭和6年]9月20日本会創立功勞者宮川文平氏の葬儀に際し本会を代表し姉崎惣十郎花輪一基並に弔辞を呈す」(新潟県盲人協会1936:6-7)などの記録が残っている。また、1940(昭和15)年8月に奈良県橿原で開かれた全日本盲人大会では、姉崎が第4分科会(交通問題)の委員長として、汽車運賃の割引、車内拡声器による駅発着予告実 <p83> 施等を請願する旨の議論を取りまとめている(ライトハウス1940:17)。 しかし、1942(昭和17)年以降、姉崎館長が病気のため新潟県盲人協会点字図書館は貸出を一時中止し、のちに休館に至った(新潟県視覚障害者福祉協会1999:5)。そして、1944(昭和19)年1月23日、姉崎は死去した。享年59歳であった。 姉崎館長亡き後、新潟県点字図書館は新潟盲学校へ移管され、その後、現在の新潟市江南区の新潟県視覚障害者情報センターへと引き継がれ、現在も続いているのである(新潟県視覚障害者福祉協会2020)。 ?V.地方における点字図書館事業発展の要因と意義の考察 今回の調査で発見された新資料などから、姉崎の生涯と姉崎文庫・新潟県盲人協会点字図書館が新潟県柏崎で事業を開始し、戦前期には「全国一」と呼ばれるほどに発展し、戦後も事業を継続してきたことがわかった。 なぜ地方で、このような点字図書館事業が成立し、発展することができたのであろうか。その要因を分析し、その分析から得られる実践的、研究史上の意義を考察する。 1.点字図書、視覚障害の特性に伴う困難 視覚障害がない人の場合、本を読みたければ、書店で購入するなり、近くの図書館に行って借りるなりすることにより、比較的容易に本を入手し、読書することができる。しかし、視覚障害があって、点字で読書しようとする場合、幾重にも障壁、困難が立ちはだかることになる。 日本点字が考案されて間もない20世紀初頭に、英国の点字図書館を日本に初めて紹介した好本督は「図書館の必要はめあきよりも一層盲人に感ぜらるゝのである。第一、点字書などの出版さるゝものは皆無である。第二、点字書を作らんとすれば高価のものとなり、一般盲人の需要に応ずることができない、第三、点字書は非常に嵩が高い、殆んど普通の書物の十数倍もある、これを各自の書室に備へおくことは頗る困難である」(好本1906:48)と、点字図書が稀少、高価、嵩高であることを指摘して、日本における点字図書館の設立の必要を訴えた。 また、視覚障害者は一般に歩行、移動に困難があり、仮に遠方に点字図書館ができたとしても、そこで閲覧・借入するに至らず、その前に、来館そのものが難しい。この点は各種のバリアフリー対策がなされるようになった今日とは異なり、姉崎の時代においては非常に大きな障壁であった。そのため、できるだけ身近な所に点字図書館ができることを望むことになる。地方の視覚障害当事者団体(盲人協会)が自らの手で地元に点字図書館を設立していったのも、そのためであろう。姉崎をはじめとする新潟県盲人協会の動きも、その1つに数えることができる。 2.来館方式から郵送宅配方式への転換 地方の各県内に1か所の点字図書館ができても、そこまでの距離や交通の不便があれば、やはり来館はむずかしい。新潟県は面積も広く、佐渡等の離島を除く本土側の海岸線延長は330kmにも及ぶ。新潟県盲人協会は当初、県内5校の盲唖学校所在地に巡回文庫を配置し、より身近な所で点字図書の利用ができるようにと工夫した。それでも来館利用者は増えない。特に柏崎のような小都市では、人口も当時1万人弱であり、視覚障害者の数も少ない。地方に行けば行くほど、障害者の少数散在の状況は深刻化するし、交通も不便で、来館利用を前提としたサービス提供 <p84> には、不利な条件が重なる。姉崎も「最初は僅か100冊しかなかった書籍さへ喜んで見てくれる人もなく、幾度か消極的になり易」くなったという。いくら視覚障害者にとって読解可能な点字図書を用意して来館者を待っていても、利用者は来ない。来られないのである。 この「地方・障害者・少数散在」という不利な条件を転換させたのが、点字書籍の郵送貸出であった。利用者が図書館に来られなければ、こちらから本を届ければよい。姉崎は「自分に鞭うち、書籍郵送を自ら引受け凡ゆる機会を捉へて読書欲の喚起に努めた」のである。一人一人の利用者に点字図書を郵送宅配で届ける方式を採用することで、利用者の便は飛躍的に高まる。地方で利用者が散在していること、視覚障害者で来館が困難なことといった、これまでの不利な条件は問題にならなくなる。それどころか、柏崎近辺の人だけでなく、郵送であれば県内各地、さらには全国のどこへでも点字図書を届けることができる。発送地の柏崎が辺鄙な所にあっても問題ないし、不利な状況にあったからこそ、既存のシステムの問題点が集中的に現れ、より利便性の高い方式への転換が迫られたとも言える。 そもそも点字本は重量がかさみ、郵送費用も高かった。点字が視覚障害者の間に普及していくなかで、この高価な郵送料に対して、点字郵便の減額化を逓信省等に求める請願運動が、東京の視覚障害者らを中心に行われていった。その結果、1917(大正6)年5月23日付けの郵便規則改正で、同年7月15日より点字郵便の減額化が施行されることになった(大澤2012:80)。こうした点字図書の送料の減額が制度的に行われたことも、郵送貸出を実行する制度的・経済的基盤となったと考えられる。 姉崎文庫以前に郵送貸出をした点字図書館の記録は見つかっていないが、東京の桜雲会点字図書館が1930(昭和5)年ころから郵便貸出をおこなっており、「公共図書館の点字文庫や盲学校の図書室が一般に来館貸出を行っていたことに比すれば、画期的なことであった」(野口2007:39)と評されていることからしても、1920年代から郵送貸出を開始した姉崎文庫の先駆性についてはより着目されてよいはずである。 郵送貸出方式は、戦後の日本の点字図書館利用の基本方式となり、全国の各点字図書館から利用者個々へ点字(録音)図書が郵送宅配されている。なお、点字等の郵便料金が無料化されるのは1961(昭和36)年のことである。 3.情報アクセスの二重の意味 これまでの点字図書館運動史研究においては、東京などの大都市部の点字図書館、特に日本点字図書館と日本ライトハウスという2大施設を中心に研究が進められてきた。それは「点訳奉仕運動にも力を入れることで点字図書の充実を図り全国に普及させたこと」(高橋2014:103)、すなわち視覚障害者にとって読解可能な図書の製作や蔵書数の拡充が大きな課題であると考えられていたためであろう。確かに一般の活字書籍の数に比して、点字や録音の書籍数は圧倒的に少ない。点字等の蔵書、すなわち視覚障害者にとって読解可能(アクセシブル)なコンテンツを充実させていくことが、視覚障害者の情報保障を進めていくうえで重要であることは間違いない。 しかし一方で、いくら点字や音声化して視覚障害者向けのコンテンツが存在していても、それに接近・接続できなければ、結局のところ利用できない。障害者に対する情報保障を考えるうえでは、情報へのアクセスが困 <p85> 難であることが、根本的な障壁になる。ここでの「情報アクセス」という言葉には、情報のコンテンツそのものが点字化や音声化等の変換がなされて障害者自身で読むことができるという「読解性」と、実際にその情報に接近し入手できるという「接近性」との二重の意味がある。障害者の情報保障の歴史研究において、姉崎文庫が示した「身近な所で図書を利用できるようにする」、「書籍を一人一人に届ける」ことは、後者(接近性)の意味での情報アクセスを保障する実践に当たるものであり、ここに着目する視座は重要である。本研究によって、情報アクセスの二重の意味を明確に区分したうえでの考察が必要であることが示されたと考える。 ICT化が進む現代社会において、情報を伝達する手段は、郵送からインターネットを通じてのものに大きく変化してきている。高齢者や障害者などが「情報弱者」と呼ばれ、情報取得における格差がデジタル・デバイドとして社会問題化もしている。そこには、情報のコンテンツの「読解可能性」としてのアクセシビリティの課題とともに、情報への「接近可能性」としてのアクセシビリティの課題も存在する。この意味でも姉崎と新潟県盲人協会が、点字巡回文庫から郵送宅配方式へと点字図書の貸出の方法を改善し、利用困難な一人一人の障害者に情報を届けようとした実践には、情報アクセスの保証の二重の意味のなかでも、とりわけ「接近性」としての情報アクセスに着目した取り組みとして、現代的で普遍的な意義が見出せる。 ?W.結論 本稿において、障害者に対する「権利保障の歴史研究」の一部たる「情報保障の歴史研究」の一端が明らかにされ、日本の点字図書館運動の勃興期の諸相が提示されたと考える。特に1920(大正9)年に新潟県柏崎に設立された「姉崎文庫」(のちの新潟県盲人協会点字図書館)に関して、設立者・姉崎の生涯と、その設立の経過や背景が明らかとなった。 そのうえで、なぜ地方で、このような点字図書館事業が成立し、発展することができたのか、その要因を分析した。まず、点字図書が稀少、高価、嵩高であり、視覚障害者は歩行・移動に困難があるため、身近な所に点字図書館を設立しようという障害当事者の動きが地方において起こりやすかったことがある。また、来館利用を前提としたときには不利な条件となってきた「地方・障害者・少数散在」ということが、従来のやり方の限界を露呈させることになり、郵送宅配方式への転換が促された。その結果、「地方・障害者・少数散在」が問題とならないばかりか、「一人一人に書籍を届ける」ことが、近隣の人だけでなく、県内全域、さらには全国各地の利用者にまで可能となり、より利便性の高いサービスを生み出すことにつながり、新潟の点字図書館が「全国一」と称されるまでに発展した要因となったと考えられる。 これらの分析から、障害者の情報保障の歴史研究において、点字化等による「読解性」としての情報アクセスとは区別して「接近性」としての情報アクセスを保障する実践に着目する視座が重要であることが示された。 本稿は、これまでの点字図書館史研究において、着目されてこなかった地方における障害当事者による取り組みの事例を示すことにより、東京の施設を中心とする従来の見方や、コンテンツの「読解性」に重点を置く視座に修正を加え、より多元的で重層的な「情報保障の歴史研究」の進展に寄与するものである。 <p86> 本稿は、障害者の「情報保障の歴史研究」、特にそのなかの姉崎研究の最初のものであり、まだその端緒に就いたばかりである。姉崎に関わる文献の発掘が当面の大きな課題である。また、本稿で紹介はしたものの、論述できなかった新潟県立図書館盲人閲覧室設置(1919=大正8年)と「姉崎文庫」設立(1920=大正9年)との関係については、その要となる新潟県立図書館長と新潟盲唖学校長を兼務していた山中樵を中心に、地方での点字図書館運動の先駆として、今後も研究を進めていく必要がある 障害者の「権利保障の歴史研究」、「情報保障の歴史研究」は今後、社会的意義においても学術的意義においても領域として発展することが望ましいものであり、本稿に続く点字図書館運動史研究を通じて、社会事業史研究の重層的な展開に貢献していきたい。 謝辞 本稿執筆にあたり、日本盲教育史研究会の岸博実氏、中越盲亜学校設立者宮川文平遺族の宮川久子氏、柏崎市議会の飯塚寿之氏、立命館大学生存学研究所の仲尾謙二氏、新潟県立図書館、柏崎市立図書館、新潟県視覚障害者情報センター、立命館大学障害学生支援室の職員の方々から、資料探索及び文字情報のテキスト化等の面で多大なるご協力をいただいた。また、本研究はJSPS科研費 20J20406の助成を受けたものである。記して感謝の意を表する。 註 1)姉崎の鍼治営業許可証には「死亡及轉住者 鑑札寫/刈羽郡鍼灸按組合会/割印/第一七二二號/新潟縣平民/姉崎惣十郎/明治十九年一月二十日生/鍼治營業ヲ免許ス/明治三十九年五月三〇日/新潟縣」と記載されている。 2)米山検校は柏崎(現柏崎市東長鳥)出身の盲人指導者で、1754(宝暦4)年に江戸中橋上慎町に私財を投じて鍼道学校を設立し、盲人教育の先鞭をつけた人とされている(丸山・小杉2007:13)。 3)これらの事実は今回の調査で発見された資料によって初めてわかったことである。 4)姉崎が「上京して東京盲唖學校に入り、又吉見英受の鍼按学校に入つて」(長谷川1916:12)いたという記事があるが、姉崎の東京盲唖学校在学、卒業について、東京盲唖学校を継承する筑波大学附属視覚特別支援学校資料室に照会したところ、「東京盲唖学校要覧 明治42年」、各年度の「東京盲学校一覧」(巻末に卒業生一覧あり)、「生徒年次在籍一覧」(中退者も含めた1916[大正5]年までの在籍者の一覧)のいずれにも「姉崎惣十郎」の名はなかったとのことである(2021年1月15日)。筆者が国立国会図書館デジタルコレクションの「東京盲学校一覧」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941224)でも確認したが、姉崎の名はなかった。また、吉見英受の鍼按講習所を継承する東京都立文京盲学校にも姉崎の在籍等を問い合わせたが、当時の資料そのものがないとの回答を受けた(2021年2月12日)。 5)田村陸男氏インタビュー(2021年1月21日)によると、田村氏の父・阿倍武夫氏は中越盲唖学校に1920(大正9)年ころから在籍し、姉崎から鍼灸の指導を受けたという。「姉崎さんという名前はよく父親から話の中で聞いてました......うちの父親もキリスト教の信者でしてね、たぶん、その姉崎さんの影響を受けてキリスト教の信者になったんだろうと、今になって思ってます」とのことである。 6)姉崎リヨが1973年12月20日に老衰で死去(96歳?)した際の新聞記事によると、長男・基文は柏崎一中教頭、次男・俊雄は上越市 <p87> 教育委員会指導主事、長女・幸子は六日町小学校教諭を務めた(柏崎日報1973; 1985)。 7)姉崎の孫・姉崎寛氏(静岡県在住)への電話でのインタビュー(2021年2月11日) 8)ロシアから来日した盲目の詩人ワシリー・エロシェンコは、エスペラントの普及とともに、岩橋武夫、鳥居篤治郎などの日本の視覚障害指導者に大きな影響を与えた(日本ライトハウス21世紀研究会編2002:8-9)。 9)山中樵は、1917(大正6)年から新潟盲唖学校長を務めるとともに、新潟県立図書館の開設に尽力し、初代専任館長となり、その後、新潟市社会課長、台湾総督府図書館長に就任している(春山編2018:73-96)。新潟県立図書館は1919(大正8)年に、県立図書館としては全国で最初の盲人閲覧室を設置している(新潟県立新潟図書館1965:5; 春山編2018:87)。 文献 ・姉崎リヨ(1934)「世間なみにいろんなことに遭遇したが」『点字大阪毎日』611(1934年1月25日)京都府立盲学校所蔵 ・中越盲唖学校(1909)「明治42年 私立中越盲唖学校記事創立の動機」宮川久子氏所蔵 ・越後タイムス(1926)「点字の図書館 柏崎町元中越盲唖学校の校舎を利用して」『越後タイムス1926年10月17日』柏崎市立図書館所蔵(以下、「柏崎図蔵」) ・春山明哲編(2018)『台湾総督府図書館長・山中樵─事跡と回想録』金沢文圃閣 ・長谷川貞次(1916)『新人物』(越後タイムス社)柏崎図蔵 ・一番ケ瀬康子(1994)『社会福祉の歴史研究』労働旬報社 ・浄願寺(1944)「姉崎惣十郎過去帳」柏崎市浄願寺所蔵 ・柏崎市(2002)『柏崎の先人たち 柏崎・刈羽人物誌』柏崎市 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