書評:『離婚後300日問題 無戸籍児を救え!』
栄井 香代子 2008年10月01日 『解放新聞京都市版』204:3
「離婚後300日以内に出生した子どもは、前夫の子と推定する」とした民法772条により、現夫を父とした出生届が不受理となり、戸籍に登載されずに生活している子ども達、あるいは成人した人々がいる。その事実を、多くの人々に知らしめたキャンペーンを毎日新聞社会部が2006年12月から開始した。この本は、その一連のキャンペーン報道の記録である。実際、一連の報道によって、戸籍に登載されないケースが、非常に多く存在していることが明るみに出たのは、やはり大新聞の力だと言わざるを得ない。そして記者は、自分たちの力によって、何百人もの苦しんでいる人が「救われ」、根本的な解決ではないが法的にも徐々に改善されたのだと自負しているのであるが、実はこの問題と向き合うときの報道姿勢には大いに疑問を感じるのである。
まず、本の帯にもある一つの言い方として、「戸籍のない人間は、公的には存在していない」という、その視線である。昨年、戸籍の添付ができずにパスポートを取得できず、修学旅行を断念した女子高生は、署名活動で「戸籍がなくても私はここにいます!」と訴えた。また、「私はかわいそうな子ではありません!」とも。
1970年代以降、女性たちが取り組んできたこの問題は、「戸籍がない」ことを問題にするのではなく、「戸籍そのもの」を問題にしてきた。むしろ、戸籍に登載されることによって生じる様々な差別や分断を追及してきたし、婚姻によって「入籍」し、あたかもその家と男に従属するかのような記載のされようを拒否してきたのだ。むしろ女性たちの運動は、事実婚を選択した場合に生じる婚外子差別問題から派生し、戸籍への登載そのものを意識的に拒否する運動でさえあった。その上で、戸籍などがなくても、当然に市民として生じている権利を一つ一つ勝ち取っていったのであり、パスポート問題は最後の権利獲得にして、最大の難関として取り組まれ続けてきたのだった。昨年この問題を一気に浮上させたのは、東京の報道に先行して実際に行われた、滋賀の女子高生のパスポート申請であることもまた明らかだ。
それらの一切を捨象し、あたかも自分たちのキャンペーンによって始めて問題が前進したかのように語ることは、報道の傲慢というものだろう。そして、キャンペーンのもう一つの問題は、「戸籍がない」ということが、いかに悲惨で苦悩に満ちたものかということを振りまいたことである。その悲惨と苦悩をあえて拾い上げることによって、結果的に戸籍の「ありがたみ」が強調される結果となってしまったのだ。
そもそも明治民法は1870年からその編纂がはじめられたが、当初はフランス法学者ボアソナードによって、個人の権利を尊重するスタンダードな家族制度を基準とした民法制定が構想されていたところ、東大教授、穂積八束(ほづみやつか)を筆頭とする保守的な法学者が、「民法出でて忠孝亡ぶ」とし、日本は天皇制家族国家であり、欧米の家族制度を取り入れることは日本の美風をそこなうと異議を唱え、有名な「民法典論争」が巻き起こった。結局ボアソナード民法は大幅な修正を余儀なくされ、1896年、個人ではなく戸主に従属した「家=戸=氏」単位で管理登録する戸籍制度と、それに連動し現在も問題を多く残す明治民法が成立した。
しかし、穂積などは当時の明治思想界においてもかたよった国家主義者とみなされ、その考え方が広く共有されていたわけではなく、多くの批判があったという。また、政府の保守層さえもがこの制度を「命脈50年」と言い、個人としての人権をあまりに踏みにじる制度だから、やがて廃止せざるを得ないだろうと考えられていたのだ。
ところが、大日本帝国憲法が廃止され、民主主義をうたう「日本国憲法」となっても、戸籍も民法もほとんど無傷で残ってしまったのである。第二次大戦末期「国体の護持」だけを目的に、東京大空襲も広島・長崎の原爆投下も甘んじて許し、敗戦の時期を見計らっていた当時の権力者にとって、天皇・戸籍・家制度はセットとしてなんとしてでも守らなければならなかった。その人権意識は、戦争遂行のための全体主義に犯され、むしろ明治初頭の為政者や知識人にも遠く及ばなかったのだろう。
そして、現在、戸籍のありがたみを、それこそ充分に知り尽くしている「政府・権力」は戸籍・民法に支えられる家制度を決して手放そうとはしない。彼らにとって、戸籍に登載できない(しない)人間が生じることは、制度の崩壊に繋がりかねない問題であり、すべからく登載させるためには、民法改正もふくみ制度への手当が必要と考える。しかし、政府自民党の中でもさらに保守とされる議員たちは、たとえ戸籍に登載されない子どもがいたとしても、民法改正は不倫を奨励し、妻の陳述を先行させるという意味で父系を脅かすと、それに反対する。著者は前者を善意のリベラルと規定し、また自身もその立場で語るが、実は、両者が共に保守だとしかいいようがない。
「婚姻制度」に従順な人々への救済がこの間わずかに行われつつ、そもそも制度からはみ出した、「非婚」で子どもを生んだ女性や、婚外子差別については不問にされ、7月に出された総務省通知では「出生届の提出に至らない子に係わる住民票の記載について」772条問題に特化されてしまった。痛恨の出来事である。病院・助産師などの出生証明書がある限り、少なくとも母との関係でその自治体に新しい市民(赤ちゃん)が誕生したことを確認された限り、住民表作成は本来、市町村長の義務と定められているというのに。そして、その法的根拠により京都市においても、戸籍の登載を経ることなく住民票が作成された市民が、過去には何人も存在しているのも事実だというのに。「基準」を求めるキャンペーンが、従来あったはずの権利を剥奪する通知を許してしまったのだ(しかし、通知よりも本来の法が優先されるべきであって、出生届の不備が別の理由であっても、当然住民票は作成されなければならないはず)。
いずれにしても「国民主権」と言われながら、「家=戸=氏」の体制を護持するためには、個人(特に女性・子ども)の尊厳があらかじめ奪われ、むしろその体制に従属するべく定められている日本という国に、民主主義はいまだ存在しないというべきだろう。
そして、付け加えるならば、人間よりも「家」が優先されるこの強固な法システムこそが、結婚差別に端的に表れる部落差別を温存させる根拠ともなり、それを支える人々の意識を形成していると言える。
◆だいやまーく毎日新聞社会部 20080825 『離婚後300日問題 無戸籍児を救え!』,明石書店,209p. ISBN-10: 4750328383 ISBN-13: 9784750328386 1680
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