「第3章 『障害がある子の親』をめぐる相互作用――親たちのナラティブ・データ」
中根 成寿 20010131 「『障害がある子の親』の自己変容作業――ダウン症の子をもつ親からのナラティブ・データから」,立命館大学大学院社会学研究科,修士論文
last update:20130718
第3章 「障害がある子の親」をめぐる相互作用−親たちナラティブ・データ−
第1節 調査対象の設定
第2節 調査の方法と分析手法
第3節 「障害がある子の親」のナラティブ・データ
第1項 佐賀さんのケース−心細さを産み出すもの−
第2項 明石さんのケース−過去の記憶におそわれること−
第3項 宮本さんのケース−親は最大の敵−
第4節 総括−「障害をもつ子の親」とはどのような存在か
第1項 共通する中核カテゴリの提示
第2項 まとめ−相反する二つの作業
第1節 調査対象の設定
障害がある子の親からのインタビュー調査は、京都を中心に活動している「京都ダウン症児を育てる親の会・トライアングル」のメンバーに対して行った。この団体は1985年11月に発足し、「染色体異常に起因した心身障害児(者)を健全に育てる上で必要な医療、療育、生活面での情報を収集し、提供すること、さらに障害者の社会的受容を促進するように働きかけることを目的(トライアングル規約より)」として活動を続けている。筆者は、当該団体の賛助会員として会の催しや総会に参加しながら、会員と個別な面識を作りつつインタビュー調査を試みた。
今回インタビュー調査を行ったのは、3人の母親たちである。いずれもダウン症の子どもを出産し、共に生活をしている。3人のフェイスシートは次の通りである。
宮本さん(仮名)。48歳。18歳になるダウン症の男性の母親である。彼は、宮本さんにとって、二人目の子どもである。彼女は親の会の発起人である。
明石さん(仮名)。48歳。7歳になるダウン症の女の子の母親。2歳上に姉がいる。パートナを含め家族4人で生活している。家の近くに仕事場があり、明石さんもそこで働いている。
佐賀さん(仮名)。24歳。3歳になるダウン症の男の子と、1歳の非障害の弟の母親である。二人の子どもは2001年1月現在、保育園に通園中である。
以上の3人のインフォーマントは、親の会の運営や催しにも積極的に関与している方々である。筆者が個人的に親の会に参加するようになったのは2000年4月からである。個別な面識がある方は調査時にはそう多くない。それに会全体に筆者の存在が認知されているわけではなく、また自発的な当事者の会であるという性格上、会員すべてが同じ目的や立場(親でない方も所属しているため)にあるわけではない。そのため、代表者の方に会全体に説明していただくよりも、筆者個人が賛助会員として参加し、会の個人的面識や対話の中で、調査の趣旨や目的に関して説明し、協力いただける方を選んだ。
インフォーマント選びの基準は、(1)子どもの年齢がばらけていること、(2)ダウン症本人以外の兄弟がいることの2点である。
(1)の条件は子どもの生活年齢により、出産時の記憶の鮮明さや現段階での課題に違いがあるだろうと判断したためである。さらに生活年齢が長くなれば、それだけ体験する出来事も比例して大きくなるためである。今回の調査でも、子どもの年齢が18歳の宮本さんと3歳の佐賀さんの話す内容には、年齢によると思われる明確な差異が見て取ることができた。
(2)の条件は、ダウン症児以外の子どもと、そうでない子どもの比較ができることが親にとってダウン症児をより理解するための手がかりとなるからである。今回の調査では、みな子どもは二人の家庭である。また初めての子どもがダウン症であったのは、佐賀さんのケースだけであり、あとの二人は次男または次女がダウン症であった。ダウン症以外の子どもとの比較ができることでダウン症の子どもの理解になにかしらの影響があると考えたためである1)。
第2節 調査の方法と分析手法
本研究における調査の方法は、筆者とインフォーマントの1対1のインタビュー調査によって行われた。宮本さんには2000年6月から7月の間に、それぞれ2時間の聞き取りを3回、計6時間の聞き取りを行った。一回の調査の間は2週間あけ、彼女の家を訪問して聞き取りを行った。彼女がこれまで書きためたものや最近の親の会の活動や、親の会とは別に行っている市民グループ(優生思想を問うネットワーク)のことなども聞きながら、彼女の話を聴いた。こちらから本を紹介させていただいたり、彼女のこれまで書きためたものも数多く見せていただいた。
明石さんには2000年9月に2時間の聞き取りを、彼女の自宅を訪問して行った。宮本さんとの聞き取り調査で得られたキーワードをもとに、質問を修正していった。佐賀さんには2000年10月に、2時間の聞き取りを1回、彼女の自宅に訪問して行った。彼女にはその後、データ分析の際に生じた疑問や追加の調査も電話でさせていただいた。
3人の聞き取りでは、質問や調査票は特別に用意することはせず、現在の子どもの様子や、出産時や小学校入学時のエピソード、パートナや親の両親の話、親の会の話を中心に聞いた。調査で得られたデータはできる限り正確にテープを起こした。
その後の分析手法には、グランディド・セオリー・アプローチの利用を試みた。グランディド・セオリー・アプローチは本研究のような質的なデータを分析する際に有効な手段とされている。数量的統計調査に比べて、科学的客観性や方法論に弱点があるとされてきた質的調査をよりデータに密着させた形で、限られた領域に適応できる理論の構築をこの手法は目的とする2)。
テープに起こした内容は、数行ごとに分け、表計算ソフトのセルに一つずつ張り付けていった。そのセルの隣には「コード」、「メモ」という項目を設定した。これはグランディッドセオリーでの「コード化」の作業を円滑に進めるためである。本稿では各コードごとの相関関係を示すために、コードとそれを包括するカテゴリを配置した図表を作成した。一人のインフォーマントごとにひとつずつ図表があるため、本文とあわせて参照されたい。
第3節 「障害がある子の親」のナラティブ・データ
第1項 佐賀さんのケース−心細さを産み出すもの−
佐賀さんは、3人のインフォーマントの中でも子どもの年齢が最も低く、分析の焦点は必然的に出生時から乳幼児期の話に集中している。二人の子ども(ともに男の子、長男は3歳でダウン症児であり、次男は1歳、非障害)は現在保育園に通い、日々の生活を送っている。この項では、佐賀さんの出産時から最初の1ヶ月に特に注目し、どのような過程を経てきたのかを見ていく。
医学モデルの先行研究の中で言われてきているように、「障害がある子を出産した親」は多かれ少なかれショックを受ける。不安に陥ることもある。だがこれは「子どもが障害を持って産まれてきたこと」というよりは、「子どもが障害を持って生まれてきたことから派生するいくつかの状況」に対してのショックや不安であり、またその状況に対して行われるいくつかの相互作用が障害がある子の親の立場を構築するのではないか。この仮説は佐賀さんのデータにラベルを貼り、それをカテゴリ化していくというグランディッド・セオリー3)の手法の過程で「浮上」したものである。
グランディッド・セオリーによって作成された各カテゴリ間の相関関係を表した図が次ページの図4である。この図4は木下式グランディッド・セオリー4)に基づいて作成したものである。
佐賀さんの事例は大きく2段階に分けて構成した。最初の段階は出産直後から子どもが新生児集中治療室(NICU)からでることができた1ヶ月間の記述である。第2段階は子どもを抱くことができた日から今日までの、価値の変化に注目したプロセスである。
1)引き離される母と子
佐賀さんの最初の出産は予定より2ヶ月早い早産であった。妊娠中は佐賀さんの貧血以外特に目立った症状はなかったが、予定よりかなり早く佐賀さんの長男は未熟児として誕生した。未熟児として産まれた子どもは生命維持のため新生児集中治療室(NICU)へと入ることになる。長男は出産後、一声だけ鳴き声をあげてその後すぐに集中治療室へと搬送された。長男は約1ヶ月間保育器の中で過ごすことになる。この「出産後すぐの母子分離」というカテゴリに分類されたのは「一声だけしか泣かない子ども」、「すぐに保育器に入れられた子ども」、「すぐに抱けない、触れない」というラベルである。佐賀さんは初めての出産での急激な展開を理解する間もないまま、長男の出産を終えることになる。そして佐賀さんは長男との直接的な接触を経ないまま、母子を取り巻く相互作用が生じる場所へと投げ出されることになる。
2)ハイリスク新生児の誕生
出産の次に起こった出来事は、ダウン症の告知である。佐賀さんはその日の朝のことをこう述べている。
その日は朝、父親と一緒に、ちょっと気になることがあるので来てくださいって。私はちっちゃいからやと思って、全然そんなもう、まさかそんな思ってへんかって、連れて行かれて、ちょっとあれやし、染色体の検査をしたいと思うんだけど、っていわはって、うーん、そのままですね。うーん。何となく思い浮かんだのは、皆似た顔の、こうかなっていうなんていうか、なんとなく直感的に、そんな気もしたんやけど、まあしっかり知ってるわけじゃないからダウン症ってどんな病気か。
彼女にとって障害の告知は突然の出来事だった。医師に呼ばれた時にも未熟児であることが原因だと予測していたが、それに加えてダウン症の可能性があるために染色体の検査をすることも同時に告げられることになる。彼女はこの時点ではダウン症に関する詳しい知識を持っていない。このため「漠然としたイメージ」、(ダウン症について)「詳しく知らない」というラベルを貼り、これを「知識の不足」として母親に向かう作用に置いた。これに付随して「早産であったこと」、「ダウン症であったこと」を「偶発的要因」として同じく母親に外部から向かう作用とした。この早産であったこととダウン症であったことは看護学的にはハイリスク新生児として特別なケアを必要とする対象となる。
3)孤立されられる母親
佐賀さんは長男の出産後1週間で退院する。しかし出産したはずの長男は未だに保育器の中で治療を受けている状態にある。この状態が佐賀さんに対して、今まで外部的な要因とは異なった影響を与えることになる。彼女自身は、退院から1ヶ月間のことを次のように述べている。
だから1ヶ月、親は先退院するでしょ。子ども産んで1週間で退院するから、私は先帰るんですよね。で帰ったら誰もいないでしょ。生まれても子どもはいないし、旦那は仕事行ってるし、だからその1ヶ月っていう、1ヶ月が一番つらかったのかな、誰もそばにいないつらさみたいな。毎日病院にはこう、母乳は出てたからね、しぼって、運んでたんですけどね。なんちゅうかな、ちょっとした物音がいらだつ。なんていうか、下が服屋さんだったんですよね、ちょうと寝てる。マンションに住んでて、二回に住んでて、1階が服屋かなんかで。音がしてくるんですよ、音楽が。それがイライラするみたいな。とりあえずこう、日の出るところにいたくない、日の当たるところにいたくないみたいな。なんていうか、こう、布団を被って寝てたいみたいな。鬱、鬱、鬱とまではいわんけど、とりあえずなんていうのか、絶望...どうしたらいいのかわからへん。打つ手がない。この先どうなるのかわからへんし、うーん、でも沈みきってしまわへんかったのは、やっぱりうちの旦那、お父さんは、まあ私の前でだけで、最近聞いたんやけど、自分もけっこうつらい思いしたけど、私の前だけでは、なんかそういう、つらい気持ちは見せたくなかったらしくって、それは私はそうやと思いこんでるから、もう、自分も訳わからんくなってるから、この人は強くて、大丈夫やしと思いこんでたから、それだけが望みやったんかな。だから一緒になってね、こういってしまったら、そのまま沈んでたかもしれんし、うーん。
佐賀さんは「1ヶ月が一番つらかった」と述べ、それを「誰もそばにいないつらさ」と表現している。パートナは仕事に行ってしまっていない、生まれたはずの子どもは集中治療室にいる。自分一人で家にいる状態を彼女は「鬱、鬱、鬱」や「絶望」と表現している。誰も彼女をこうも追い込む意志は持っていないにも関わらず、医療的措置としての母子分離がこうした状況を生みだしたことになる。筆者はこれを「母親の構造的孤立」と位置づけた。子どもが未熟児だった場合や、障害があった場合の「偶発的要因」が発生すると、「出産後すぐの母子分離」は医療現場において必然的に起こる構造になっている。
4)心細さをあおる場所
佐賀さんの子どもが出産直後から入ることになった新生児集中治療室は、医療技術の集中している場所である。そこには彼女の子どもがいるのだが、非日常的なその場の持つ空気を彼女は以下のように描写している。
なんとも独特なにおいがして、いっつも心音はかってはるから、いっつもピッピッっていうんですよ。まるでドラマの中みたいで、あんなんで。でも看護婦さんはすごい明るくって、優しい看護婦さんやったから。だからその看護婦さんなんかにもお母さんがんばってね、ってすごい励ましてくれる看護婦さんもいはって、うん、日に日に回復はしないとダメでしょ、親もやっぱり。
ここから筆者は、「治療室の消毒液のにおい」と「心音をはかる機械の音」というラベルをつけ、「集中治療室が持つ空気」というカテゴリを置いた。そこに入るためには、マスクをつけ消毒をしなければならない。そこまでしても保育器に入っている自分の子どもには指でしか触れることができない。新生児集中治療室は、物理的にも精神的にも母子が距離をとらざるを得ない構造になっている。他の事例でも未熟児室は怖いと言う声や、未熟児室に漂う緊張感に不安を感じる母親の声を見ることができる。だだし、佐賀さんの事例では「治療室での看護婦の励まし」が場所の持つ空気を緩和させたといえるのではないか。ここでの看護婦の励ましが佐賀さんに「回復への決意」をさせるきっかけになっている。
5)子どもに届こうとする母親
佐賀さんと子どもとの間には、直接的接触を妨げる保育器の壁がある。しかし母親はただ見ているだけではなく、さまざまな行為を子どもに働きかけることになる。厳重な消毒の後、保育器の穴から手を入れ「指で触るだけ」の接触は、出産直後の母と子のふれあいにしてはあまりにか細い。子どもの体には心音をはかるための線が付けられ、点滴のための針が刺さっている。母親はその「針の痛みの想像」をするしかないのだ。これらは全て「保育器から出せない」という条件により、子どもには「届かない行為」である。ただ、行為が届かないからといって母親に全く影響を与えない訳ではない。母親はなんとか子どもに届こうとする。その必至の働きかけが、佐賀さんが母親であることをつなぎ止めようとする行為ならば、その「届かない行為」は彼女が親としてのアイデンティティを満たすために重要な意味を持つ行為である。ただ、やはり「届かない行為」ゆえの満たされなさは、心細さへとつながる要因となってしまう。
6)母乳を届けるという行為
子どもが集中治療室に入っている1ヶ月の間、佐賀さんは病院に毎日母乳を届け続けた。この「搾乳」という行為は、看護学でも重要な母子相互作用の役割を果たすものとして位置づけられており、ハイリスク新生児の出産時には看護者は母親に「搾乳」を要求する。これは母乳を与えるという行為が母親役割を満たす重要なこととして位置づけられているためである。佐賀さんは、毎日母乳を絞って届ける行為をこう語っている。
っとね、やっぱりこう、絞るのはすごく痛いんですよね。そういうの、痛いつらさはあったけど、持っていくと、子どもに会えるんですよ。集中治療室に入れるんですね。だから、それは毎日のこう、子育てみたいな、子育ての一環みたいな感じやったと思うんですけどね。(母乳を運ぶ作業は、離れていた寂しさみたいなものを軽くする作用を果たしたんですか?)そうですね、やっぱり会える、時間ですから。子どもと。うん。
佐賀さんにとって母乳を絞って届ける行為は「痛みを伴う行為」でありながら、母乳を持っていくと「子どもに会える時間」を持つことができる子育ての一環として受け止められている。佐賀さんにとって母乳を届ける行為は唯一子どもに届く感触のあった行為だと解釈できる。母親役割を果たそうとしても果たせない中で、母乳を絞って届けることはその痛みも含めて佐賀さんにとって好ましい作用を与えていたことになる。
7)母親が傷を負うとき
子どもに障害があることで、もちろん母親はショックを受ける。それは今まで述べてきたような母子分離がもたらすものだけではなく、子どもに障害があることで行われる相互作用によっても、母親は傷ついていく。佐賀さんの場合も例外ではなく、医師にダウン症の告知をされるときや看護婦との会話の中で佐賀さんは少しずつ傷を負っていく。医療関係者やパートナ、父母の両親も母親を傷つけていく行為の進行に荷担する可能性がある。佐賀さんのケースは医療従事者がそれを行った。彼女はそれを細かに覚えており、以下のように語っている。
小児科の先生がもう説明してくれはって、子どものことやから。なんて言われたかな、あんまりこう、前向きな言葉はあんまりかけてもらってなかったのかなって今思うんやけど、例えばね、すっごい白血球の数ががって上がったんですよね、保育器に入ってる中で。だからその、白血球が上がるのはまあ白血病につながるみたいなこと言わはって、自発呼吸もできひんかったりとか、だからなんかこのまま生きていけるのかわからへんような、を言われて最初、雰囲気的に。そんでそのダウン症って言う病気は、何年単位に生きていきますとか、まあ親よりも絶対長くは生きないとか、なんかそういう、なんていうか、なかったですね。例えば、こういう会があったりとか、こういうお母さんがいたりとかそういうのがなくって、で、極めつけに看護婦さんに言われたのが、あ、病院の先生と看護婦さんどっちかに言われたのが、「若いからね、そんなことはないと思ってた。」って言い訳したんですよね。先生が。だから、そのことを聞いて、なんかすごいそれが頭に残ってて、その後看護婦さんが、「二人目の時は検査があるからね」ってすっといわはったんですよね。でそれもずっと残ってて、まあ今は二人目のこと考えるより、今前の子でしょ。だからそんな、今聞いたら、もうすごい言い返すと思うんやけど、まあその時は、うーん、みたいな流して聞いてた。
佐賀さんは医師から「前向きな言葉はかけてもらえなかった」と受け止めている。告知の段階では両親共に障害に対する明確な知識は持っていないケース多い。まず必要なのは障害の客観的な理解である。しかし佐賀さんの主観からは、突然の告知にショックを受けている親に対しての配慮はなかったようである。先行研究で見たように、トライアングルの行ったアンケートでも「病院での対応で不満に思ったことはありましたか。」の質問に65%の人が「ある」と回答しており、不満の内容の7割近くを「配慮がない(思いやりがない)」と「説明不足」が占めている5)。
また親よりも絶対長く生きないという言葉もダウン症の子どもを説明する際によく用いられる。統計的にはダウン症児の寿命は平均的に非ダウン症児より短い。しかし親より長く生きないという表現は、親に十分すぎるほど衝撃を与える。また医師はこれを肯定的な意味合いで言う可能性がある。障害がある我が子を残して死ぬことに対する不安を和らげようと思ってする発言ならば、これは「障害児」と「障害児の親」の結びつきを必要以上に求めようとする価値からの言葉である。しかし親より早く死ぬという言葉を出産直後の親に告げることは、果たして好ましい影響をもたらすことになるのだろうか。
また佐賀さんの「なんかそういう、なんていうか、なかったですね」という言葉からは、「ほしい言葉をかけてもらえなかった」ということが読みとれる。早い段階で、医療従事者の口から「そういう」言葉をかけてもらいたかったという思いがここに現れている。「こういう会があったりとか、こういうお母さんがいたりとかそういうのがなくって」という表現も、トライアングルやそこに参加している同じダウン症の子を育てているお母さんの存在が、彼女に肯定的な影響を与えたことを表している。できるだけ早い段階で佐賀さんと同じ立場で彼女を支える存在を得ることができていれば、彼女の心細さはさらに小さくなったであろうと推測される。
さらに医師とのやりとりにおいて、彼女は「極めつけ」とした上で「そんなことはないと思ってた」と医師に言われたことを強く覚えている。この場合「そんなこと」は「若いからダウン症が生まれるとは思ってなかった」という意味に彼女は解釈している。それを彼女は「言い訳」と受け取り、その言葉に心を強く握られたようである。ここでも医師の何気ない言葉に傷つく親の存在を見て取れる。医師とっては障害児出生の一例かもしれないが、親にとっては今後の人生をも左右しかねない出来事である。悪意や差別の意志はない何気ない言葉により、母親は傷を負うことになる。同じように「検査があるからね」という言葉も彼女に傷を与えている。「検査がある」とは、出生前診断のことであり看護婦はおそらく「二人目は障害のない子どもが産めるよ」という看護婦にとっての肯定的なメッセージを送ったつもりだったのかもしれない。残念ながら彼女がそう受け取ることはなかった。彼女は二人目の出産の時には長男の時とは違う病院での出産を選択している。出生前診断は行わなかった。検査をせずに出産したこと、長男の出産の時の看護婦の言葉への思いを佐賀さんは次のように述べている。
やっぱりなんでM病院で産みたくないって思ったかは、やっぱりその出産したときに、そういうことを言われて、傷ついた自分がいたからかなって。やっぱりその時点で、もう生まれてその時点で、命は大事なんやなって自分でも思ってたんかなって。例えば、絶対障害持った子なんかいやって思ってたとしたら、その看護婦さんがそういうこといわはったときに、ほんまやなって思ったと思う。何で検査しいひんかったや、二人目なんか絶対検査しなうめへんって多分そう感じてたんやろうと思う。もしそうなら。だけど、○しろまる○しろまる(長男)が生まれて、障害持ってるって言われれても、看護婦さんなんであんな事言うんやろって、思った自分がいたから、まあそれはそういう自分がずっといるんやなって思ったし、だから二人目もそういうあれも選択肢もない。産むなら産む。選択肢すらなかったって言うあれですねうちは。
援助者の善意の言葉も当事者には傷を与える言葉となる。一人の個人から「親」へと立場を変容させていく過程にある人間は傷つきやすい状態にある。そこに早産や、障害がある子どもという「偶発的要因」が絡めばなおさらである。援助者には悪意はない。いや、悪意がないからこそ援助者と当事者のずれの解消が困難であるとさえ言える。
8)母親の心細さを緩和する存在
以上のような状況にあって佐賀さんにとって好ましく働いた要因は「頼れる存在」である。佐賀さんのケースではパートナが彼女の前では頼れる存在としてある。彼女は「頼れる存在が演技上でも存在したこと」が沈みきってしまわなかった要因だと自身で分析している。もちろん佐賀さんのパートナも心細さを感じていたことは間違いないだろう。ただ、それを佐賀さんの前では表現しないパートナの配慮があったこと、またその配慮が佐賀さんのケースの場合には好ましく働いたことを指摘しておくべきである。効果的な援助をもたらすのは必ずしも専門的知識を持った援助者だけではない。
ここで、先ほどの治療室の看護婦の励ましと頼れる存在の2つを包括する「看取る人々の存在」が浮上させたい。母と子どもの外側にいて、直接的または間接的な手助け、筆者はこれを「看取り」と位置づけた。これを「援助」とすると間接的な手助けを見落としてしまうことになる。ゆえに、「援助」よりももう少し広い範囲を含む言葉「看取り」を直接的・間接的な手助けを行う存在を説明するのに使用した。またこのカテゴリの特性として「継続性」があげられる。これは医療従事者の直接的援助が一過性のものであるのに対して「看取る存在」はある程度継続的に直接的間接的な手助けを行うためである。佐賀さんの事例でも「看取る存在」は長男の退院後も継続して見ることができた。筆者はこれを「承認する周り」という上位カテゴリに昇華させ、母親に重要な作用をもたらすものとした。
9)親の心細さは作られる
以上のように佐賀さんのデータを基にいくつかのカテゴリを提示した。これらのカテゴリは大きく分けて母子の相互作用を説明するカテゴリと、母子の周りで外部から母子の相互作用に影響を与えるカテゴリの2種類があると考えられる。その2種類のカテゴリも、親に肯定的な影響をあたえるものと、消極的な影響を与えるものとに分けることができる。そして今までに述べたカテゴリは全て「作り出された親の心細さ」という中核的なカテゴリの構築に向かうことになる。これらの過程を見ることでわかるように、よく言われる「障害児の親」の不安やショックというものは、単純に子どもに障害があったからというものではなく、障害や未熟児という偶発的要因により起こるいくつかの現象により積み上がっていく比較的高次の概念である。
ここまでが佐賀さんの出産から長男が新生児集中治療室をでるまでの1ヶ月間の記述である。次の分析からは子どもの退院から今日までの彼女と子どもの価値の取り戻しや、彼女自身の変化に重点をおき、データを見ていくことにする。
10)心細さを少なくしていくこと
佐賀さんが初めて子どもと直接的にふれることができたのは、出産から約1ヶ月後のことであった。「出産後すぐの母子分離」の状態が初めて解消された段階である。
退院してきて子どもがこう前に来たら、気持ちも落ち着いてきて、やっぱり子ども抱くと違う...のね。もう、やっぱりこう...母親になるのかな。身体が、想いが。やっぱりこう抱いたときに安心して、なんか今まで1ヶ月すごい不安だった気持ちが和らぐみたいなとこがあって、まだリアクションはなくて、寝てるだけ。それでも胸に抱ける、抱けて良かったって言う、だって抱けないんだもんね、触れない...
彼女はここで明確な変化の兆しを感じている。今までの「作り出された親の心細さ」を縮小していくきっかけとして「子どもとの接触」は大きな契機となる。まだ子どもは目立った動きをするわけはない。しかし子どもの体温を感じることができ、目の前にいるだけで出産後すぐに子どもを取り上げられた彼女には十分だったようである。身体的な接触のみで今までの「心細さ」が全て解消されるわけでは決してない。しかし佐賀さん自身、一番つらかったのは最初の1ヶ月であると振り返っていることからみても、ここから彼女の本格的な「回復の過程」が始まることになる。
「回復」という言葉は一般に「受容」や「立ち直り」と混同されて用いられている。一口に「回復」や「受容」と言っても、先行研究で見たようにその内容は様々である。あきらめとしての「受容」なのか、それとも新たなスタンスを見つけだした「受容」なのかを見極めていく必要がある6)。佐賀さんの場合は「親も回復しなきゃいけないでしょ」という言葉から、「回復」という言葉を使用することにする。
佐賀さんの場合は、分析の結果浮上したカテゴリが「新しい価値のもとに生きる決意」という明確な変化への意志を見ることができる。ここで彼女の変化を説明する概念として「存在証明」を使って説明することにする。人は自らを無価値な存在として放置しておくことはできない。より望ましい自己のアイデンティティを求めて存在証明を繰り返す存在である。ここでは佐賀さんの「回復」の過程を存在証明を使って説明する。
11)自分の受けた傷を治していくこと
佐賀さんが行った存在証明のひとつに「自分が受けた傷の回復作業」がある。彼女は、出産時に以下のように言われたことに傷つき「なんであんなこというんやろ?」と思っている。
あ、病院の先生と看護婦さんどっちかに言われたのが、「若いからね、そんなことはないと思ってた。」って言い訳したんですよね。先生が。だから、そのことを聞いて、なんかすごいそれが頭に残ってて、その後看護婦さんが、「二人目の時は検査があるからね」ってすっといわはったんですよね。でそれもずっと残ってて、まあ今は二人目のこと考えるより、今前の子でしょ。だからそんな、今聞いたら、もうすごい言い返すと思うんやけど、まあその時は、うーん、みたいな流して聞いてた。まあ今から思えばそういう病院やったから、二人目は違うとこで産んだんやけど...やっぱりなんでM病院で産みたくないって思ったかは、やっぱりその出産したときに、そういうことを言われて、傷ついた自分がいたからかなって。やっぱりその時点で、もう生まれてその時点で、命は大事なんやなって自分でも思ってたんかなって。例えば、絶対障害持った子なんかいやって思ってたとしたら、その看護婦さんがそういうこといわはったときに、ほんまやなって思ったと思う。何で検査しいひんかったや、二人目なんか絶対検査しなうめへんって多分そう感じてたんやろうと思う。もしそうなら。だけど、○しろまる○しろまる(長男)が生まれて、障害持ってるって言われれても、「看護婦さんなんであんな事言うんやろ」って思った自分がいたから...
筆者はこのデータから「『そういう病院』だったという位置づけ」と「看護婦の発言に疑問を持つ自分への気づき」というラベルを貼った。そしてこの二つのラベルを包括する概念として「自分が受けた傷の回復作業」と置いた。これは石川准による存在証明の4つの方法7)によれば「価値の奪い取り」にあたる。自分と子どもが受けた傷を相手への認識の整理により回復する方法は、新しい価値を見つけていく過程の中で絶対的に必要となるものである。
保健婦さんが来てくれはって、そういう会があるし、一度お母さんとお話ししてみたら?すごいプラス、大切だったと思う。そういうまず第一歩、外に出なあかん。トライアングルとの関わり...(生まれて)1ヶ月くらいかな。もう今から思えば立ち直り早かったんちゃうかなって自分でもおもてんのやけど、もう2ヶ月の頃から児福センター通ってたし、まあその頃通ってたのは、多分自分のために通ってたんだろうと思う。子どもの療育のためとかじゃなくて、まず自分の心を広げたいっていうか、誰かに聞いてもらいたい。
佐賀さんが、自分自身の変化に目を向け始めたのも子どもが退院した1ヶ月頃だった。彼女が親の会や児童福祉センターでの療育教室に参加を始めたのは、彼女が「自分の変化が必要だった」と認識しているためであり、また子どもの機能的な訓練よりも自分の心を広げ、それを誰かに承認してもらいたいための参加である。筆者はこの行為に「自分の価値を育てたい」、「誰かに認めてほしい」というラベルを貼り付けた。そしてこれらのラベルを包括するカテゴリを「自分の価値を育てる」と置いた。彼女は子どもとの生活を進めていくためには、過去に自分が受けた傷の回復と自分自身の変化が必要だと感じていた。これは「存在証明」の3番目の「開き直り」、「解放」にあたる。「存在証明」の循環から自由になる、という意味であるがこれは4つの方法の中でも一番難しいものであるとされる。佐賀さんが自分の変化が必要だったと思うのは彼女が存在証明の必要性を強く感じる状況に置かれたことの自覚に他ならない。ここに存在証明のパラドクスが存在してしまうことになる。
12)周りを味方につけること
存在証明の第3の方法である「開き直り」、「解放」は自分一人の思考で成功するものではない。このプロセスをうまく進めるために必要なのは、彼女自身の努力もさることながら、彼女の育てようとする価値を承認し周りから支える存在である。存在証明を支えるには、彼女の意志ある行動や発言を周りの人に承認してもらうことが欠かせない。そのことを彼女自身も認識している。
私ばっかり思っててもダメやと思う。相手がいて、子どもってできるから。だからパートナも私...はいいパートナを持ったのかなって思ったりしけど。のろけじゃないですよ。だからそういった面では、良かったかなって。お互いにそう思ってたから。いろいろ友達の話聞いてると、義理のお母さんが、(出生前)検査しなさいって言うとか、私には「なんですんの!」とかいう権利もないし、聞いて、で、やっぱりお母さんがとか、身内がとか旦那がとか。それを押しのけて産む人は産むかもしれないし、私はたまたまそんな必要ないっていう周りがいっぱいいて、自分にとってほっとした。
佐賀さん自身、「私ばっかり思っててもダメ」と語っているように一人では価値は貫けないと感じている。彼女は「パートナが共通の価値を持つこと」の必要性も語っており、また義理の両親からも傷つけられることはなかったことを「自分にとってほっとした」と表現している。
先生も一応聞いたんですよね、やっぱり一人目障害持ってたりすると、二人目どうしますか、検査はありますけどっていって。A病院ではそう先生聞かはって、うちはしませんっていうたら、なんかこう、ほっとしたんですよね、私から見たら。あ、この先生には心を開けると思って、そこでそんな「検査しなさい!」って言われるかもしれへんでしょ。病院の先生によっては。でもそうなったら多分違う病院で産んでたかなって思うんやけど、否定されることも経験していかないと、大きくなれないので、まあその病院ではたまたま私の想いと同じ想いの先生がいて、ほっとした自分がいたんやけど、まあそこで、楽に産めましたよ。気持ち的に。やっぱりなんでB病院で産みたくないって思ったかは、やっぱりその出産したときに、そういうことを言われて、傷ついた自分がいたからかなって。
二人目の出産の時に、佐賀さんは出生前診断を行うかどうかの確認を受けている。彼女が「しません」と答えたときの医者の様子を、彼女は「(私から見たら)ほっとしたように見えた」と語っている。人はいままでの自分の価値を再構築しなおすときは慎重である。彼女が二人目の出産の時に病院を変えたのも、出生前診断を断ったときの医者の態度を「ほっとしたように見えた」のも全て彼女の存在証明の方法であるといえないか。もし彼女が同じ病院で二人目の出産を行うことになり、出生前診断を勧められそれを断った際に、医師がそれを素直に受け入れなかった場合、彼女はまたその傷を自分の努力で回復しなければならない。彼女はそれを未然に避ける戦略をとったのである。また彼女の周りには、彼女を支持するパートナ、両親や親の会の人々がいた。佐賀さんは一人目の出産の経験から「看取る人々の存在」を重要視したと思われる。それは「たまたま同じ想いの先生がいてほっとした」と言う発言からもうかがえる。「看取る人々の存在」は「承認してくれる周り」に継続性を持って変化したことになる。佐賀さんは自らの努力と、ある程度の運により「承認してくれる周り」を作り上げたのである。
13)兄と弟を見るまなざし
さらに日常生活の中においてゆっくりと成長を続ける長男の存在も彼女に変化を迫る。ダウン症という障害は非障害児と比べて、身体的発達もゆったりとしている。佐賀さんは兄と弟の身体的発達の違いに関して以下のように述べている。
(母親の目から見て、二人はどんなところが違いますか?)上の子と下の子とって意味で?うーん。まあ年齢による発達って言ったらまったく違う。だから兄が2歳で歩いたんが、弟は1歳にならずにやってる。もう倍のスピードでどんどん大きくなっていくから、年齢的なことで言うと、まったく手のかかりようが違うでしょ。長いから、兄なんかは。例えば、ハイハイしだしたなって思ったらずーっとハイハイでしょ。弟なんかはハイハイしたなって思ったら、立つ、立ったら歩くみたいな。そのスピードの違いは親から見ても全然、うん、違うけど、違いますけど、だからどうっていうあれはないんですよね。親って。(多分初めての子どもで、どんな風に育つか...)わかんないしね、最初は。だから下の子ができて、こんなに早くこんな事もできるもんなんやなって。まあ保育園に入って、同じ年数の子が、あ、こんな事してんのやなっていう。保育園に入ってそういう思いもあったけど、下の子ができるとまさにね、日常そうやから。そんな感じかな。
佐賀さんは日常生活の中で長男の弟や保育園で出会う同じ年齢の子どもとの発達の違いを経験している。「違う、違いますけど、だからどうっていうあれはない」と彼女は自分へ言い聞かせるように語っている。ここから筆者は「能力の差を認めざるを得ない」というラベルをあてた。発達の遅れが母子の相互作用に肯定的に働くのか否定的に働くのかは一概にいうことはできないが、彼女の「(親は)どうっていうあれはない」という言葉には「違いがあってもなくても私はこの子と共に生きるという決意」を見ることができる。もしここで彼女が「発達の遅れている子どもを私は愛することができない」と感じてしまったら、彼女が病院を変えることにより行ってきた彼女の「親としての存在証明」が揺らいでしまうことになる。
14)他者からの視線への対応
存在証明は本人の努力と共に、周りからどのように扱われるかが成否の分かれ目となる。いや存在証明の成否が自分ではなく周りにゆだねられていることをよく知っているからこそ、人は存在証明に躍起になる。しかも周りすべてから同じ評価を得ることができるとは限らない。突然町で出会う他者から、出産時に受けたような傷を受ける可能性は消え去ることはない。彼女はある程度の他者からのまなざしを想定して日々を送らねばならない。他者からの「障害児の親」というまなざしを受ける可能性は常に存在している。彼女がもっとも恐れるそのまなざしに正面から立ち向かったりはしない。それよりもそのまなざしをしなやかに避けるための努力をしている。
「差別?...区別はあると思いますよ。自分で。例えば、保育園に行って、やっぱり障害を持った子どものお母さんとして、見られるっていうか、子どもにもやっぱりそういう接し方してくれてる保母さんがいて、子どもたちがいて、だからこう、障害を認めあうような気持ちがないと、やっぱり踏み込めへんし、誰もが。」
15)意志ある言葉とその裏側に見える感情
これまで、長男が退院してからのデータを「存在証明」という概念を使って分析してきた。そこから見えてきたのは、彼女の強い意志とその裏にある恐れの感情である。彼女の存在証明の結果に浮上してきたカテゴリは「意志ある言葉」である。
先行研究で見た要田洋江のまとめによれば「親の障害児受容過程」は明確に3段階に分かれていた。しかし筆者は親が「障害がある子ども」を理解していく過程は、要田のまとめのようにリニアなものではなく、自分や他者のちょっとした働きかけにより簡単に崩れるようなぎりぎりの作業であるように思える。
佐賀さんが子どもとの生活を語る際に、なぜ「意志ある言葉」に含まれるような強い意志を感じさせる言葉を選んだのか。それは彼女が要田のいう第3段階に達したからではなく、達したいと思っているからではないか。油断していては引き戻されてしまう、自分が出産の時に感じた不安や恐れが現実化してしまうことを防ぐために、彼女は意志ある言葉を語ったのではないか。
その意志の裏にあるのは出産の時から積み重なっている「心細い」という感情である。図4にも「意志ある言葉」の裏に「心細さ」を置いた。出産時から継続している「心細さ」は簡単には消え去らないはずである。常に日常の奥底に潜んでいて、いつ顔を出してもおかしくない。だから彼女は意志ある言葉を選ばなくてはならないのだ。
人が新しい価値を身につけようとすればするほど、人は存在証明のために意志ある言葉を語ることになる。意志とは変化の願望である。ならば、彼女は「心細い」と思ってしまう自分に対しても「心細さ」を感じているのかもしれない。意志ある言葉から力強さが抜けた時、佐賀さんは少しだけその「心細さ」から遠ざかることになるのかもしれない。
第2項 明石さんのケース−過去の記憶におそわれること−
明石さんは現在48歳であり、二人の女の子の母親である。長女は10歳(非障害)、次女は8歳(ダウン症)である。次女は小学校の普通学級の2年生として通学している。
彼女が他の二人の親と異なるのは、助産院で出産していることである。また彼女には、障害をもった妹(明石さんが18歳の時に死去、脳性麻痺)がいたこともあり、障害に関して無縁というわけではなかった。
明石さんのデータに共通して見られる特徴は、「感情を表現した言葉」8)である。「恐れ」であったり「怒り」であったり、「驚き」であったりする。これは佐賀さんや次項で紹介する宮本さんとは明らかに異なる特徴である。彼女に話を聞くとき、彼女が自らの感情が
激しく変化する出来事について語る際に涙をこぼす場面があった。正直な感想として、いつも会を取り仕切る元気な明石さんのイメージとの違いに筆者自身戸惑いを覚えた。しかしデータと向き合い、彼女が語っていた言葉は感情に関するものであることに気づき、感情をデータの切り口とすることで、涙の意味を見いだすことができた。おそらく彼女自身も筆者に語ることで、忘れていた、押し込めていた感情を再び思い出すことになったはずである。そうした感情に関する言葉にラベルを貼り、カテゴリ化していく作業は非常に難しい作業であった。
感情の社会学を専門とする研究者は、感情が生じるときの条件として「現実の状態と期待する状態との『ずれ』を認知すること9」」をあげている。感情と一般に呼ばれるものにも二つのタイプがあり、怒り・驚き・嫌悪など急激に生じるも感情を一時的感情と呼び、嫉妬・愛情・罪意識などのように慢性的に存在するものを二次的感情と呼び区別している10)。前項の佐賀さんの事例からも「心細さ」という感情は一次的に存在するものではなく、相互作用の結果現れるものだということが実証された。この感情という分析視角を中心に据えて明石さんの事例を見ていくことにする。
1)過去の記憶が生み出す恐れ
明石さんが長女を生んだのは38歳の時、次女を生んだのは40歳の時である。一般的にいえば高齢出産とされる年齢での出産であり、明石さんに体力的な面でも不安を与えた。彼女は長女を助産院で生んだとき、助産婦に「先生この子ダウン症じゃないですか?」と聞いている。助産婦はすぐにダウン症ではないことを明石さんに伝えている。そして次女の妊娠・出産の時にも高齢出産であることの不安は残っていた。
(障害があったらって考えてました?)全然...あ、考えなくはなかったな、私ね、長女の時にね、生後1ヶ月で助産婦さんが訪ねてくださるんですよ、1ヶ月検診で。で、なんにもなかったんだけど、全然順調に1ヶ月育ってたんだけど、あの、「先生この子ダウン症じゃないんですか?」って聞いたんですよ。長女の時に。高齢っていうのが...上の子は38で産んで、下の子40だったし、高齢だったいう思いはあったね。「ダウン症じゃないですか?」ってすごく軽く聞いたんですよ。なにいってんの、ダウン症だったらね、猿線っていうの?手の線が(あるよ)。違うわよ、って言って帰った。で、そうなのかって。で、だから2番目が生まれたときに、産んで、2時間して、ここ(手のひら)見たら、猿線がだって、やっぱし...って。産んでね、変な顔だなって思った。ダウン症っていうのはわからなかった。あの、上の子はものすごくかわいかったんですよ。で、横にいた夫も「○しろまる○しろまる(長女)のがかわいいなあ」って。うん。この子口ゆがんでるなって。なんか、今は大丈夫なんだけど、なんだか、上の子と違うっていう感じはありました。
明石さんが「なにかが違う」と感じたこと、そしてパートナの「お姉ちゃんの方がかわいかったな」という発言が、彼女の恐れを補強していくことになる。次女が生まれてすぐに猿線を確認してしまう行為は、彼女がダウン症を恐れている証明である。しかし、なぜ彼女は執拗にダウン症を恐れるのか。高齢出産であることを差し引いても彼女の恐れ方は徹底している。そこには彼女の過去の記憶と経験が見え隠れする。
明石さんにはかつて妹がいた。その妹には障害があった。起きることはできず、ずっと寝たきりであったそうである。明石さんの記憶にあるのは、妹とその世話をする母親の姿である。それと同時に彼女は育成学級についての記憶も語っている。
あのね、でもね、その子は、妹は、ここで寝たきりな訳ですよ、私のそばでね。この子が起きて歩いてしゃべっててっていうことは、連想...この子は怖くも気持ち悪くもなんともない、私にとってはかわいい。夜泣くし困ったなとか思うけど、あやせば笑うしっていう、...他の子よりは育成学級のことを見てたかもしれないね、私。小学校の時ね。ああ、あの子は障害児だけどあんなにハーモニカがうまいんだ、劇でこんなに一生懸命するんだっていうのは少し他の子より一生懸命見てたかもしれない。妹がいることでね。だから矛盾しないんだよね、矛盾...それはね、何だろうね...だから一緒に遊びなさいって先生が言えば、一緒に遊んだと思うよ。でも、そんな風になってなかった。だってその、(教室も)端っこの方にあったしね、そんな今みたいに交流とかなかったしね。で、そんなことにさほど矛盾を感じない幼稚な私がいた、そういうこともなかったね。違う人たち...。
明石さんは妹のことを「かわいい」と思い、「怖くとも何ともない」と思っていた。それと同時に彼女は育成学級の記憶も呼び起こしている。「端っこの方にあったな」という記憶や「違う人たち...」という記憶は、一見妹への想いと矛盾しそうにも思える。しかしここには矛盾はないと彼女は語っている。「矛盾しないんだよね、矛盾...それはね、なんだろうね...」という彼女自身も言葉にしかねていると思われることは、彼女の「障害児の姉」としての視点と生活者としての視点の「一貫しなさ」である。明石さんは目の前にいた「妹と母親」と「社会で生活する障害児一般」を同じ目で見つつも、異なる想いを感じている。
(じゃあ目の前にいた妹さんと、世間一般のいわゆる障害者ってつながっているわけでもない?)
そんなストレートにつながっているわけでもないですね。(外にでれば、障害者のイメージ...)かわいそう?(...持ちながら)かわいそうは思ってたかもしれないね。妹に関しても、周りの家族に対しても、うん。(それが今度親の立場に立ったらだいぶ変わりましたか?多分兄弟よりも...)責任があるからね、妹の時は責任なかったからね。かわいそうだなって。
明石さんがダウン症という障害を恐れたのは、高齢であること以上に彼女の過去の記憶が原因なのかもしれない。彼女はダウン症という障害に関しての医学的な知識は持っていなかったが、障害児とその親が周りからどう思われるかについて知りすぎていた。その記憶は長女が生まれたときも、彼女に強い恐れを抱かせた。次女の出産では明石さんは次女の猿線11)を確認してしまう。それと同時に彼女の恐れは現実化していくことになる。
2)恐れていた予感が現実化していくこと
助産院での出産後、彼女は次女がダウン症ではないかという疑いの気持ちを持ったまま生活をすることになる。生まれたばかりなのに泣かない、ミルクを飲まない子どもに明石さんは不安を抱き続けた。そして往診に来た助産婦に子どものことを訪ねている。
で、往診に来たS先生に聞いたら、「そんなのわかんないよ」って一喝されたんで、「あ、この人聞いても教えてくれないんだな」って思って、ずっと1週間不安を胸に抱えてたからね、で飲みも悪いし、泣かないし、それでもまあね、そうかな?違うかな?みたいな。ずっと1週間。それがあった。で、病院行きなさいって、心臓がひょっとして悪いかもしれないって言い方で、Sさんは「国立病院行きなさい」って。
病院ではすぐに「ダウン症の疑いが強い」との診断で検査のための入院処置が施された。明石さんは生まれたばかりの子どもと離れることがいやで、入院を拒否したようであるが生命の危険が強いということでその願いは退けられた。染色体検査の結果は「ダウン症」の診断であった。明石さんが次女の出産、いやそれよりはるか以前から抱いていた恐れは現実化し、事態は進行を始めてしまった。
でも私は1週間、そうかな、そうかな違うかな?って思ってたんで、それはすごいショック。聞いたときは自分がそうかなって思っるのと、多分そうだろうから検査するって言われたのね、全然それは違ったので、とてもショックでしたけど、(ダウン症)かなって思いで1週間抱いてたので、踏ん切れた。覚えてるんですよ、それ(検査)が半日仕事だって、2時か3時頃病院から子ども置いて出て、とにかくなんか食べよう、朝食べたきりだったから、亭主もそうだったから、私は「おっぱいださなきゃ」みたいな感じで食べたんだけど、亭主はすごくお腹がすいたけど、なんにも食べられなかった。亭主はその時、予想はしてなかったですよね。私もそういう危惧を、その、亭主に言うだけの、かもしれないということをよういわんかったからね。あの人は全然予想してなかった。
あのね、告知のショックよりね、あの、1週間?あゆみ助産院に行った1週間はね、そうかな違うかなって。私、昔、芝居をしてたんですよ。だからね、夢かうつつかよくわかんないけどね、緞帳が降りるんですよ。本当に緞帳が降りるんですよ。目の前に。フェードアウトっていう感じで、だから人生が終わったって、なんかこう、終わったって。すっごいその時緞帳がだーって降りていくのが見える、それが夢だったのかね、うつつでも見えたのかもよくわかんないけどね、それは今でも忘れない。閉まってしまう、閉まってなにか全部終わったって、人並みなショックでしたそれは。
明石さんは、告知のショックよりも確定していない恐れの方が強かったと感じていた。そして告知の時には、目の前に緞帳が降りてきて「終わった」という表現をしている。彼女が母親になる以前から抱えてきた予感はついに現実化していくことになった。しかし次に彼女が直面する事態は、こうした感情のやりとりさえ生じさせないような厳しい現実であった。
3)不安が生じ得ないほどの日々
ダウン症という障害を抱えた次女は、まず生きることから始めなければならなかった。吸う力が極端に弱いため、母乳を飲むことができない。生まれたときより体重が減っていく次女にとってはまず生きること、明石さんにとっては生かすことが全てだった。
それはね、おっぱいを飲まなかった。飲みが悪い。それはね、2月の26日に産んで、夏まで、2グラム単位の体重計、一番細かいやつね、それを借りて、できる限り母乳で育てたいと思ってたんで、飲ます前と飲ました後、体重測って、あ、15cc飲んだなとか、半年はそれの日々、おっぱいが飲めない。で、鼻チューをしてたんです。国立病院で鼻チューをさせられて、鼻チューしてたんですけど、どれくらいしてたかな、3週間位してたかな?少しづつ飲めるようになってきたんですけど、健常児だったら夜中に起きて泣くんですよ、お腹空けば。それがない。ほっておけば朝まで寝てる。そんな事したら死ぬんじゃないか、やらなきゃ死ぬんじゃないかと思ってね。で、夜中も3時間おきに起きて、えっと、自分でおっぱいしぼって、こう鼻に管通して、っていうのを3週間位してて...
細かい体重計を用意し、3時間ごとに起きて痛みを我慢しながら母乳を絞り、次女の鼻にチューブを通す仕事が、明石さんにとっては「怖い」作業だった。「死ぬんじゃないか」と思う恐怖が彼女をぎゅっとつかんで離さなかった。目の前でか細く生きている子どもは彼女に「悩む余裕すら与えてくれなかった」のである。
死なさないことが全てだった。だからマタニティブルーとか言う段階ではない。そんなに余裕はない。必死。だからね、逆にね、楽だったかなって今になって。いらん事考えてる余裕がなかった。ぴりぴりどうしようこの子これからどうしよう?とかそんな先のことは、今、今日何cc飲むかが全てみたいな。体重がどんだけのびるかって。普通の子どもが100ccとか飲むところを、15cc飲むのに1時間かかったり、そんなんで。とにかく亭主が帰ってきたら、「今日は15ccだった」って。「35ccだった」ってとか、「45ccも飲んだ」とか、そういうこと。
その日飲むミルクの量が生死を決めるような切迫した状況では、「子どもが障害児だから」と悩み考えることはできない。「死んでしまうかもしれない怖さ」は親に「不安」という気持ちすら抱かせてくれないのである。佐賀さんの事例でも確認できたように、いわゆる「障害児の親の不安」はアプリオリにあるものではなく、相互作用より構築されるものであることがわかる。切迫した状況の中では「不安」という気持ちは構築されにくい。そんな彼女の恐怖の日々を少し和らげたのは、既にダウン症の親として生活する「同じ立場の人の存在」だった。
そのころ、宮本さん(仮名)と連絡が取れまして、そしたら笑って「死なないよ」って言ったんです。で、そっかって思って死なないのかって思って、あまりそういうこと長く続けない方がいいよって言ってもらって、やっぱり口から飲む、ほうがいいって。であれ(鼻チューブ)ってとれるんですよ。赤ん坊で手でよければ。そうしたらもう1回入れてやらなきゃいけないて・・・これってものすごい苦しいと思うんですよね。で、少しづつ子どもにも甲斐性ができてくると、こう、避けるんですよね。で、とれたときにいつか、プチって切れてわたしも。もう入れないでおこうって、勝手に決めたんですよ。国立の先生が入れろって何度かいれたんだけど、もうやーめたって思って、宮本さんのそれを聞いてたから...
いやがる子どもに鼻チューブを入れ、母乳を流し込む作業は母子共につらいものであった。そのさなか、同じ経験をした人から「大丈夫だよ」と言ってもらえることは明石さんに「若干の余裕」を与えた。切迫した状況の人を救うのはなにも専門家ばかりではない。がんばってと励ます存在でもなく、ただ「大丈夫」と言ってくれる同じ立場の人であることもある。宮本さんは親の会の発起人であり、数多くの子どもを見てきたいわば「長老的」な存在である。彼女の存在が明石さんにどれほどの安心感を与えたかは計り知れないものがある。宮本さんの紹介で明石さんが親の会に出入りする頃には、次女も生きるか死ぬかの段階をようやく乗り越えるまでに成長していた。
4)子どもを愛せないかもしれない恐れ
明石さんが宮本さんの紹介で親の会に顔を出すようになったのは、次女の生後2ヶ月を過ぎた頃だった。会の行事に出席すれば、ほかのダウン症児たちとも会うことができる。生まれたばかりの子どもを抱いて会に参加した彼女がそこで抱いた想いは、「周りのダウン症の子がかわいく思えない」というものだった。
まわりもダウンの子がいっぱいいて、あ、こんなふうになるのか...それは何とも言えない思いでした。あのね...やっぱり、あの、今でも思い出すんだけど、今度合宿があるでしょ?初めての合宿からずーっと皆勤賞なんですよ、最初は9月だから半年の子ども連れて行った時はね、やっぱりね、周りの子を受け入れられなかったですね。自分の子はかわいかった。自分の子は最初からかわいかった、でもかわいいとか何とかいうもんじゃないですね、これはもうかわいいとかいやとかいうもんじゃなくって、そのここにいるわけだから。もちろんかわいいんですけど、周りの子はかわいくなかった。最初の年。やっぱり知恵遅れ?っていうそういうことですね。あのしっかりしてる子見れば、うれしいけど、ぼーっとしてる子見れば、切ない。切ない...いやだ、こんな子にならないでほしいっていうのが、あったですね、最初の年はそれは何とも言えない思いでした。
この頃明石さんは、周りの子どもをかわいく思えないと感じていた。ひょっとしたらこの段階ではまだ自分の子どもすら本心からかわいいとは思えていなかったのではないか。彼女の「これはもうかわいいとかいやとかいうもんじゃなくって、そのここにいるわけだから」という言葉からそんな予測もできる。「何ともいえない多層的な思い」を彼女は説明しかねていた。そして彼女が語った「自分の子にはこんな子にならないでほしい」という言葉は、親として正直すぎる思いを表現している。彼女はまた恐れている。近い将来の自分の子どもの姿を、周りのダウン症児の中に想像することができたのだろう。
いまだ子どもを愛し育てていく自信がもてない段階で、その想像に恐れの感情を抱いてしまうのは無理のないことである。彼女が恐れているのは、障害がある子ども自身というよりも、自分が子どもを受け入れられないかもしれない恐れである。もしこの恐れが現実化したままだと、彼女は親としてのアイデンティティをもつことが難しくなる。子どもを受け入れられない自分を想像することを彼女は恐れたのではないか。親としてのアイデンティティは、子どもを出産しただけでは完成しない。明石さんは子どもに障害があった故に親であることを痛切に意識せざるを得なかったのである。
しかしその恐れは現実化せず、「周りのダウン症の子がかわいく思えない」という思いは次第に消えていく。明石さんは理由を「実際に自分の子がかわいくなったこと」と挙げている。
次の年からは周りの子もかわいくなりました。(その一年で何が?)実際に多分ね、自分の子がかわいくなってきた。だから、笑うようになる、お座りするようになる、遊ぶようになる、リアクションがある。リアクションがない時の子どもと、四畳半で向かい合っている親っていうのは健常児でもつらいですよ。なにか声かけたら笑いかけるとかね、そういうことの反応が多くなってくると、それはね、健常児でも障害児でも一緒だけど、かわいくなってくる。それがないのは、つらいですね。
「笑うこと、お座りすること」という子どもらしい仕草が母親と子どもの間に愛着を生み出したことになる。母子間の愛着は最初から親子の間に存在するものではない。親子の相互行為が十分に行われないうちには、子どもをかわいいと思うのは当たり前ではない。相互行為の結果、自分の子どもをかわいいと思うようになることで、彼女は子どもを愛していける自信を得ることになった。その自信が「周りの子どももかわいくなった」という余裕につながっていく。
また、次女が1歳1ヶ月で通い始めた母子通園施設での療育活動が順調に進み、周りから承認されることにより明石さんも喜びを感じるようになっていく。次女は周りが驚くほどの成長をし、それを周りの人に共に喜んでもらえることが、明石さんにとっても「得意気」になれるうれしい瞬間であったと述べている。同時に親と子が二人きりの空間に閉じこもらず、「違う場所に行き、違う人と話せること」が親子両方によい刺激になっていた。こうして親子の相互行為を中心として、それを「承認する周り」の存在が加わって明石さんはしだいに子どもを育てる自信をつかんでいったようである。
5)育成学級の記憶と普通学級への期待
次女が小学校に入学する年齢になったとき、普通学級にはいるのかそれとも育成学級にはいるのかという選択をすることになる。明石さんはまずダウン症の子どもが「普通学級に入れること自体を驚いた」ようである。彼女に「障害がある子の普通学級への可能性」を示したのは宮本さんだった。宮本さんの長男は小学校、中学校と普通学級に通い無事卒業をしている。宮本さんの長男の試みは、明石さんに普通学級への期待を抱かせた。障害がある子どもが「普通学級にいたらいじめられるのではないか」という明石さんの懸念も、宮本さんの一言で和らいだ。
最初はね、宮本さんとこの○しろまる○しろまるちゃんも普通学級に行ってるって、ええーっつって。初めてお宅に伺った時にそれを聞いてね、ええーっつ、いじめられないのそんなことして?っていうのが私の最初の...大丈夫だよって。一つ言ったのは、「ちょっとできない子って言うのはいじめられる」。ボーダーの。○しろまる○しろまるはそんなんじゃなくて、グンとできないから、いじめない。そんなもんかなって。
明石さんはもともと育成学級に自分の子どもが通うことを避けたいと思っていた。それは彼女に育成学級という場所がもつ雰囲気や彼女自身の記憶による「育成学級との距離」があったためである。
で、やっぱり私、うちの小学校もあの、特殊学級ありましたからね。あたしらの時は。今はないけど。ダウン症の子何人も知ってました。で、とってもハーモニカのうまい子とか...でもやっぱりよう近づいていかんかった。集団で7、8人だったのかな?なんか、それこそダウン症の子が2,3人いたのかな?同じような顔した子が何人もいて、近づけようともしなかった、あの頃の先生たちも。一生懸命やってる先生みたいだったけど、だってその、(教室も)端っこの方にあったしね、そんな今みたいに交流とかなかったしね。「やだな」っていう想いは...学芸会の時の劇も、運動会の時も全部別。あ、うちの子がそこへ入るのやだな...って。腰が引ける?やだなっていうのはなくはなかった。(「やだな」っていう感覚をもう少し聞きたいのですが)なんか、哀れみとかね。かわいそうとか、こわいとか。そんなですね。自分の子は怖くもないし、かわいそうじゃないと、なんかだから、特殊学級というところがいやだな...でもそれしかないかなって思ってたんだけどね、宮本さんの話聞くまではね。だから、ええーっそんなんあるんだって。
「端っこの方にあったという記憶」、「やだなという思いがある場所」、明石さん自身にそういった記憶が残る場所に、「自分の子どもが入ることの怖さ」が彼女に降りかかることになった。その場所に入れば、「哀れみ」や「かわいそう」という「ネガティブな感情を向けられてしまうことの怖さ」を知っている。それはそこにいる一人一人に向けられる視線というよりも場所そのものに向けられるものであることを、明石さんは自分の経験から知っていた。だからこそ「特殊学級というところがいやだな」という思いは消えることはなかった。自分の子どももそこに入れば、個人に関係なくネガティブな感情を受けることを恐れていた。しかし宮本さんから普通学級に通う可能性を聞いてからは、育成学級をいやだと思いつつも、あきらめていた普通学級入学を模索することになる。
6)引き戻そうとする力とそれに逆らおうとする決意
(入学時のやりとりは?)それはもう、全然平行線。「かわそうじゃないですかって。○しろまる○しろまるちゃん。お宅のお子さんが。あれもできないし、これもできない、1時間なにしてるんですかって(中略)かわいそうじゃないですか、なんでおかあさんそんなに無理するんですか?」って言った。で私には、もっと他のちゃんとあの子たちにあった場所が確保されているじゃないですか、特殊学級育成学級?無理しないで、そこへ入れればいいじゃないですか。
現在京都市では、一応は親の希望を尊重することになっている。しかし教育の現場では、障害がある子は育成学級へという考え方がまだ根強く残っている。学校側は「場所を確保して対応すること」、また「子どもの幸せを代わりに語ること」など、さまざまな言葉で明石さんの普通学級へ気持ちを「引き戻そうとする」。教育の現場ではひとりひとりに教師が責任を持たねばならない、という自覚があるために、障害がある子へは対応が及び腰になるのであろうか。しかし明石さんが望んだのは「配慮のある特別な場所」ではなく「特別ではない共にある場所」であった。過去の自分の記憶から同じ場所にいないことのネガティブな影響は教師が思っている以上に大きいものであることを彼女は知っていた。だから彼女は簡単には引き下がらなかった。
「いやな先生だけど、いやなばっかりじゃなくて、フェアなとこは、フェアであってね、最初っから、お母さんの選択で決まりますっていうにはおっしゃったんですよ。選ぶ権利は最終的にはありますって。それを最初におっしゃったから、これはえらいなって今でも思ってるんですけど。でも、『かわいそうじゃないですか』っていう。私は最初から、『この日のために鍛えてきた』みたいなところがあったから。」
彼女の「力に従わない決意」を支えていたのは、「過去の記憶による恐れ」だった。この日のために鍛えてきたという思いを支えるのも、自分の経験から自分の子どもが特別なまなざしを受けることを恐れたからである。
明石さんは、自分や子どもが「被害者」として扱われることには怒りをあらわにする。自身や子どもに同情の目が向くことを極端に嫌う。それはおそらく彼女の性格のせいでもあり、また過去の記憶の影響でもあるはずである。もう一つ彼女の怒りを呼んだエピソードがある。
これは、保育療育をよくする会に行ったときの話ですよ。全障研のあれに行ったときの話ですよ。暗いんですよ。1回行ってもうぞっとして、だってみんなこれもん(ハンカチを口にくわえるポーズ)。それはまあね、そんな簡単に言えませんよ。それは寝たきりで鼻チューしてる子とかね、いるからね。でも、あそこには専門家もいる。専門家が引っ張ってってるんですよ。言ったのは、「障害を持つ子の親になって一度は、みんな一緒に死のうかと思ったでしょう」みたいなことを棚橋さんが言ったんですよ、「思ってへんわい!」っていう感じで、決めるな!っていう感じ。そういう規定、で8割方が「ふんふん」みたいな感じで頷いてるように私には見えた。反吐が出る。でますよ、それこそ一緒にしないでほしいって思いますよ。でもなんかね、そういう風にまとめちゃう、そういう人ばっかりじゃないですよ、絶対に。ここにいる人は一人一人、何とかちゃんの親であり...それをそういう風にまとめる棚橋さんっていう男が許せなかったあの時は。そういう言い方するな!って。
明石さんは、ここで「『「障害児の親』の暗さにぞっとして」いる。また「『障害児の親』として涙ながらに子どもを育てる」役割を押しつけられることに激しい怒りを感じている。彼女はそれを「もちろんそんなに簡単にいえない」とおいた上で、講演した棚橋啓一氏を批判する。普通学級入学のやりとりの中であったように、彼女を「引き戻そうとする力」はいろいろなところで彼女を襲う。彼女が恐れる「障害児」というラベルや「障害児の親」として扱われることに、彼女は非常に敏感である。「障害児の親」や子どもを「障害児」として扱れるとき、その恐れを払拭するために彼女は反発する。強い反発の後ろ側には、彼女の恐れが見え隠れする。
7)残ってしまうやりきれなさと迷い
明石さんが感情をあらわにして、決意を語ったり怒ったりするのには過去の記憶が影響していると指摘してきた。そして彼女はいつ自分が恐れに捕まるかがわからないからこそ、自分と子どもを守ろうとするのである。筆者はこれを「『障害児の親』としての思い」と名づけた。「私しかいないと思う責任」も「強引な立ち直り方」も彼女が「障害児の親」としての責任を感じ続ける限り存在する。
その子の命そのものから全部私にかかってる、え...ちっともかわいそうじゃない。力みもありますよ。それは。なんかあのね、力み...「障害児の親になったんだ!」みたいなね、あの力み。「私は今日から障害児の親」、うれしいとか、悲しいとか、楽しいとかじゃなくて、もう「なったんだ!」みたいなね。初めて宮本さんの所に行ったときに、本当にがんがんでこのへん、肩(いからせて)行ったらね、宮本さんのおばあちゃんがね、「これからがかわいくなるわよ」って。「えええーっ!」って感じでしたよ。当たり前の子に言うようにね、「そっか」って。この力みはそんなにいらないものなのかってびっくりした。こうやって生きていくんだみたいな、ショックの後の立ち直り、こういう風(胸を張るポーズ)に立ち直った。腹くくった立ち直り、武将のような立ち直り方をしたような気がしますね。
ただ、そんな力みをふっと軽くしてくれるような人の存在も、明石さんは既に手に入れている。肩をいからせて「武将のように」立ち直らなくても、長い経験を重ねていけばいつか力を抜いて「障害がある子の親」に脱皮することができるかもしれない。それにはまだまだ時間がかかるであろうし、周りの協力も必要である。そして消え去らない恐れともつきあい続けなければならない。最後に筆者は、多少酷だと思いながら明石さんに次のように質問をしてみた。
筆者「○しろまる○しろまるさんの障害がなくなるとしたら、なくしますか?」
...これはわかんないな、私ね。宮本さんはいらないって言ったんだけどね、あの人はいらないって。...わかんない。私何度も考えたけどね、わっかんない...。(意地悪な質問でした?)そうですね、意地悪...でも私も思ったことありますよ。宮本さんはああいう風にね、直る薬ができてもいらないって言い切るけどね、私そのこととね、私は次の子を産むときに、出生前診断受けないかっていう問いには、答えがないままですね。その二つは答えがでない。わかんない。
どんなに感情を管理したところで、「少しのやりきれなさ」は残ってしまう。人間はそんなに強くはなりきれない。筆者は答えが返ってくるとは思わずにこの質問をぶつけてみた。そして「わからない」と答えてくれたところに多少のやりきれなさと納得できる感覚を感じた。彼女に強くあってほしい、と思う筆者の思いは、筆者の恐れの証明でもある。「わからない」と素直に迷うことがより実状に近いように筆者には思える。
明石さんは「多少のやせ我慢」や「見栄を張ったり」しながら、自分の恐れとも折り合いをつけながら生活をしていることになる。確かにその感情の原因には子どもの障害という個別の事実がある。しかし彼女自身の感情は、子どもとは離れたところで発生し変化している。過去の記憶にまでさかのぼって自分の感情を変化させるほど親の感情は個別的である。
佐賀さんの事例でも確認できたように、障害がある子の親の不安は、子どもの障害という限定的な事実によってだけ構成されるものではなく、子どもの障害から派生する様々な感情や状況により構成されるものであることが言えるのではないか。
第3項 宮本さんのケース−親は最大の敵−
宮本さんは、親の会の発起人である。ダウン症の子どもの年齢が18歳であることもあり、障害がある子の親としての生活経験も3人のインフォーマントの中でも一番豊富である。なにより宮本さんの最大の特徴は彼女が活動家として実践を続けてきたということである。宮本さんには、二人の子どもがいる。長女(24歳、既に家を出て独立)、長男(18歳、ダウン症、現在は週2回ほど働きにでて、また通信制高校において就学中でもある)の二人である。
活動家である宮本さんの語る言葉には、意志がある。しかしその意志も自らの経験や戸惑いに根ざしている。佐賀さんの意志ある言葉が恐れや心細さを封じ込めるための荒削りな石斧だとしたら、宮本さんのそれは経験により研ぎ澄まされた日本刀である。変わらない現実も認識し、そして子どもと自らの距離をも模索続ける、迷いの中にある鋭さである。
1)障害がある我が子と出会うこと、感情を往復すること
宮本さんが長男を出産したときにまず感じたのは、「障害がある子どもへの驚き」である。同時に、「障害について知らない自分への驚き」とまた「障害について教えてくれなかった社会」に愕然とするという経験をしている。彼女は、出産するまで障害ということに対して知る機会がなかった。自分の子どもに驚くと同時に、自分が経験してきた社会にも驚いたのである。
長男が生まれた1980年代はじめといえば、国際的には世界保健機構(WHO)がICIDH(International Classification of impairments disabilities handicaps)を発表し、1981年を国際障害者年として宣言した頃である。しかし、それは違う世界で起こっているような出来事であり、個人の日常生活にはまだ障害の社会的理解はそれほど届いてはいなかったであろう。その中において宮本さんが障害について詳しく知らなくても無理はない。そしてそれは医療従事者にも言えることである。宮本さんは医者の行為や言葉に様々な想いをめぐらせることになる。宮本さんは長男が医療を拒否されたことをこう語る。
生まれてすぐのダウン症の子って言うのは、すごい医療制度と切り離せへんでしょ?例えば、うちの子は心臓の手術してへんのやけど、なかなか心臓の手術してくれへんとか、それから、すごいたくさん合併症抱えて、医療を拒否されていくっていう場面がね、17年前はすごくあったのよ。うちの子が耳がダメになったのはね、結局京大で耳がね、あの、ダウンの子って管がみんな細いのね。例えば涙腺も詰まるし、それから鼻の管とか食道もね、細いのね。でね、耳の穴も細いわけ。で、そやし、あのすごく中が見にくいわけ。耳掃除とか。本当は耳を見るって言うのは、耳垢とか中耳炎とかじゃなくて、鼓膜がね、きちっと正常に張り付いてるかっていうのを見る訳よ。耳って言うのは本来そこまでみなあかんのよね。そうしたら「見えへん」っていっておこんのやんか。「こんな耳見えへん」っていうて。すっごい腹たつやろ?。ほんで、あたしはすごいショック受けて、まだ2歳くらいやん。で医者に向かって「なんですか?その言い方?」って今なら言えるけど、言われへんかった。
生まれてすぐのダウン症児には医療が必要なのに、医療を拒否される場面があったようである。しかし医者に反論することはなかなか難しく、結局長男は聴覚に障害を負うことになる。また医者に「親より長く生きないと言われること」にも大きな戸惑いを表している。
私はね、ある時期から最初ほら、決して私より先に死なへんっていう医者の言葉に、むちゃむちゃとまどうて、むちゃむちゃへんやと思いながら、ある意味よかったんかもしれへん、って一瞬思ったんだけど...
親より長く生きないと言われることで、宮本さんは「戸惑い、一瞬よかったと思いつつ、やはり変だと思う」、という複雑な想いを述べている。出産直後、それと子どもがまだ合併症等の不安を抱えている時期には医療の手助けは絶対的に必要である。医療の現場では親は「怒り」、「恐れ」、「戸惑い」と実に様々な感情をわき上がらせることになる。「怒り」は医者への怒りであると同時に、反論できない自分の無力さへの「怒り」でもある。「恐れ」は医者の言葉への「恐れ」であると同時に、自分が子どもを愛することができるか、自分がいなくなったときへの「恐れ」でもある。
2)能力獲得による存在証明とその挫折
宮本さんが様々な感情の揺れの結果まずたどり着いたのは、能力獲得による存在証明であった。これは石川准の存在証明の4つの分類の中の「補償努力」にあたる。社会的威信の高い集団への所属、またはその集団がもつ能力を獲得することでアイデンティティを獲得しようとする方法である12)。彼女は長男の早期療育に取り組んだ。「3歳でIQ100に!」や普通学級に入る際の「就学時検診をクリアする」ために、特訓ともいえる療育を行った。彼女はこれを「出産以前の障害者観」に従ったと述べている。
で、自分の中にある障害者観なんていうたら、やっぱりこうやったって思うし、だからこそ、スパルタである時期超早期療育に走って、いわゆるそのIQ100に!一年間くらいがんばったんやもん。で、○しろまる○しろまるにこっぴどく積み木投げつけられてやね、で、あの、そう「私がおかしいんや」って...(中略)であたし最後就学時検診もクリアしたる!って思うくらいやったからね。あの、その頃は。クリアして、あの、引っかからんと普通学級に入ってみよーとかおもとったもん。うん。で、それが健常児指向って言うのか、そのね、...就検(就学時検診)を健常児並ではいるって言うのはね、これはね、ある意味見返してやりたいっていう感じ。いつも障害っていうくくり方でそのー、こう、「障害、ダウン症」っていうようなくくり方ではねていくってことに対して反発やったと思うねん。いまのそれ、言い方はね。あの、クリアしたるっていうのは。うん。障害を理由に、障害って言うくくりで、うん、そやな、そういうことやな。でそれは、IQ100っていう意味じゃなくって、そういうくくりに対する反発やってんけど、最後はそんなこと全然思ってへんかったけどな。もう、最後は「私はこれでええねん」って感じやったけど。(中略)療育は失敗するし、うまいこといってくれへんし、反発ばっかり買うし。
宮本さんの試みは、子どもの猛烈な反発により挫折する。「私がおかしいんや」と思うと同時に、「決めつけられることへの反発」という思いがある。「障害を理由にはねていくことへの反発」、「属性にくくられることへの反発」が早期療育へ向かったことになる。
自分や子どもの存在を貶められたままでは、人は生きることにすら困難を感じる。宮本さんが採った手法は子どもの反発により挫折を迎えたが、自分や子どもの存在証明をし続けることからは逃れることはできない。彼女は次の方法を考え続けることになる。その最中、彼女は自分の一生を左右する言葉と出会う。
3)自分の立場を問い直させられる出来事
で、(医療を考える会に)行ったんや。その時に初めて脳性マヒの人、全身不随運動や言語障害がある人、に会えると思って、楽しみっていうかね、何いわはるかとおもってね、どんな話が聞けるやろって思って。そうしたら、その人が、私に向かって「親は障害者の最大の敵やねん」っていいよってん。もう私、あの時忘れられへんわ。私はあの言葉でね、私ね、生かされてんねん、今。ちょっとオーバーやけど。でもね、私その時ね、すごい「え、なに言うてんの!?私これから無茶無茶がんばろうおもてんのにから、なんで、なんで私が敵になんねん?」ってすごい思ってん。でもね、その人がね、あの、自分はそのままの自分を認めてほしかったのに、親は僕らのことを健常者に近づけるために手術はせいっていう、施設に入れって言う、でも施設なんかはいりたない。家におりたいのに、施設に入って訓練してこいっていう。もうあんな自分らの生き方を疎外っていうか、足引っ張る親、親が最大の敵やねんっていうてね、それが1歳前後やってん。あたしはその言葉にしがみついて生きてんのやんね。あのそうならんようにって。もう常にそうならんようにって。でもね、それは正しいと思うねん。絶対的に正しいと思って、反発よりね、なんとなく妙にね、そうかもしれんって頭下げながら帰った覚えがあんねん。ほんまに、あの時あれを言うてもらえへんかったら...でもね、それでも私、あの時も療育に失敗しかけてたからかなあ。
自分の思うような療育の結果が得られずに悩んでいた宮本さんに追い打ちをかけるように当事者である障害がある人々からの意外な「親は最大の敵」という言葉に、宮本さんは大きな衝撃を受けている。「私これからむちゃむちゃがんばろうっておもてんのに」と「子どものためにがんばろうとしていた自分」に対して、敵と言われることは驚きだったようである。しかし彼らの言い分を聞くうちに宮本さんは「親は最大の敵」という言葉に「絶対的な正しさ」を感じるようになる。そしてこの言葉にしがみついて、宮本さんは違う自らのあり方を模索するようになる。
しかし、宮本さんがいくら自覚的でも自分の中にある価値観や常識は、言葉ひとつだけではなかなか壊れない。彼女は生活の中で自分の中にある「差別意識と直面させられること」も経験している。
...その障害の人がこう、言ったら、あの、言い方ちょっと悪いけど、障害の人ががんばって運動会をしている場面でがーっとすごい涙を流している自分の不思議とかね、私の(こと)ね。つまり自分の中にある障害者差別、すごい、障害者差別って、そりゃ障害者だけじゃないね、自分の中にある差別にね、いつも結局は向かい合うことになったんよ。それはね、あの人が、あの親は最大の敵やと言った人がね、あの辺からか、それとも重度の障害の子をみながら何となく違和感を感じている自分に対する違和感とかね、だから、○しろまる○しろまる(長男)がどうのこうのというよりも、いつもいつもなんで私はここで立ち止まるんだろうとか、何でここで違和感を感じるんだろう、何でここで涙をながすんやろう、なんでここで、あの、どんなんかな...抱けへんやろう、触れへんのやろう、涎垂らしている人の手が握れへんのやろうとか、そういうこと。だからあえてそういう場面に入っていった訳やね。あえてそういう場面に入っていって...
障害がある人と接していて違和感をもってしまうという経験に、宮本さんはその都度立ち止まる。彼女は自分の中にある差別意識にも敏感である。それは彼女が障害がある子の親として、そうでない親よりも親と子の関係に対して考えざるを得なかったことの結果である13)。「違和感を感じる自分への違和感」という感覚を大切にしながら、彼女は自分の立場を模索し続けることになる。
ほんまにあの子が無茶無茶ちっさいころから自己を主張する中で、あの...こういう活動をしながらいろんな人と出会う中で、あの...人はそんなに、悪い人ばっかりやないな、と思うこともたくさんあって、だってすごく支えられたしその助けてもらってるわけやから、そういう中で私が死んでも何とかなるんちゃうかっていう、すっごいね、それとあの子の知恵のつきかたっていうかね、そう思ったからこそ普通学級入れて、あの...一般ていう中での知恵の付け方をこうあの子なりにさせてきて、今現在大変うまいこといってると思ってんのやんか。だから、どれくらいからかな、あの、学校行き始めて私の手に負えへんっていうか、学校行っている間はなにがあるかわからへん、多分いじめられたしいやな思いもあったやろうけど、かばえへんやんか。かばえへんって思って、あの子に、結構面と向かってね、もう自分のことは自分引き受けてっていうたことがあんねん。小学校の一年か二年かそのぐらいに、言ったことがあんねん。もう...つまりそれは私の中の整理のつけかたやってんで。なんでかって、私がいっつもいっつもそれが気になって気になって気になってね、何とか手だそう何とか手だそうって、で、手だそうとすればするほどその、手出すって言うことは、あの子をコントロールしようと思うことやから、あの子から反発くらうやん、で、すごい疲れちゃって、もう、あの、自分でやってんかって言ったとたんに、あの子はさ、さささささってうまいこと行き始めて、そういう経験があんねん。
障害がない子とその親ならば、ほとんど気にもとめないような早い段階での親と子の関係について、宮本さんは模索してきた。宮本さんは「手を出したい誘惑」と、「手を出したい自分への反省」を繰り返している。そして小学校入学時に「子どものことは子ども自身に対処させる決意」をしている。それを「親の子に対する援助の限界」と考えている。こうしたやりとりは長男が障害を持っているということから端を発している。障害がない子と親なら、小学校入学時という早い段階で「親と子の関係の模索」という大きなテーマに取り組まないであろう。しかし手を貸し続けること、制御し続けることを宮本さんは「親が敵になる」という障害を持った人の言葉から学んでいる。「私がいなくてもこの子が生きていけるように」という願いが、早い段階で親と子の関係を再構築していくことになる。その結果、彼女は自分が「純粋な当事者でないこと」を常に頭に置いて行動するようになった。よく言われる「障害児の側に立って」という言葉は親が当事者であるかのように聞こえる。残念ながら、親は障害に関する問題の当事者ではない14)。あくまで「似非の当事者」である。その点を勘違いすると親はとたんに「最大の敵」に変貌する。子どもが1歳の時にその言葉に出会った宮本さんは、自らの立場を「中途半端な当事者」と位置づけ、「親と子の関係の模索」を続けていく。
4)世間に働きかけていくこと
子どもとの関係を再構築していくと同時に、社会に、いやもっと具体的な世間にも宮本さんは働きかけていった。宮本さんの場合、最初の壁となったのは小学校への入学である。普通学級への入学を希望する宮本さんは、学校と何度も議論を重ねる。京都で初めてというダウン症児の普通学級入学はやはり困難な道のりであったようである。
だから一番の壁は小学校はいるときやったね。普通学級にいれるって。地域の中で権利の主張として当たり前やんか、っていうのんで。あの、仲間づくりをしていく中で、まわりがみんな、あの、けっこう反原発とか、それから水問題環境問題やってるメンバーが、こうね、そばにいてて、あの共に生きるって当たり前やんかって。それがすごいすとんと落ちてんけど、で、私が具体的に、その、障害児学級行け!っていう学校に向かって、だってあたしがやるわけやからね、なんぼ理想論にいうたって、やんのはわたしやんか。文句いわれんのも、なんかいわれるのもわたしやんか。
宮本さんのこうしたエネルギーは彼女自身の「決めつけられることへの反発」に根ざしている。障害を理由にはねていくことへの反発が普通学級入学という形で実践されていく。彼女自身、教育の文脈に支配され学校というた空間に疑問を感じていくようになったと話している。
体制って、学校って言う体制はいややなあ...。それって私本当におかしいと思うよ。保障されるべき場所が、なぜあんなに壁になっていくのかね、教育問題ってね、取り組みたいとおもうんよね、すごくね。
同時に宮本さんは既存の体制の限界を感じたからか、新しい道を造る方法を考え始める。もちろんこれは地域の小学校へ行かないという意味ではない。障害があるこの普通学級への入学は、地域の小学校が当たり前としてきた分離教育へ一石を投じる試みであった。地域の小学校へ行かない、という選択をしてしまえば分離教育と何ら変わりがない。あえて分離しない統合された教育の場へ飛び込んでいくことで、「場に居座わり、共に在る」ことを認めさせることから始める。「共に生きる」という「共生」はまず「共に在る」こと、「共在」から始まる。その上で宮本さんは、世間という大きな力と障害という個別の現象の間をこう語る。
障害って言うのは、明らかにね、社会がひいたレールからはずれているわけやん。あの外れかたってね、いいよ。いいよって...無茶無茶楽って、おもったら、もうええんやって思ったら、ぜんぜん乗らんでええねんもん。乗らんでいいどころか、まあはっきり言ったら乗れへんわけやけど、乗れへんってことが無茶無茶ありがたいのやんか。だって、変な話、乗せてって頼んでも、乗せたらへんってよんねんからね。ほな、あれよ、私ら別にかまへん、あんたらとなんか一緒にせんでもええねんし、あたしらはあたしらでやれるし、自分で別の線路ひいたらええねんし、こんな線路が良いわけないんやし、かえっていいわっていう感じ。っていう楽さがあるやん。すっごく気楽やん。あそこ乗ろうと思ったら大変やで。
「レールをはずされる」ならあえてはずれる。「乗せて」と頼んでも乗せてくれないレールなら、そのレールではない新たな「レールを造ること」を彼女は選んでいる。もちろん子どもの望む範囲で。機能的な障害があるなら、どんなにがんばってもいつかは振り落とされるだろう。ならばそのレールを降りて「自分たちでレールを作る」という彼女の言葉には、ふっと力が抜けるような安心感とその中にある強さを感じ取ることができる。
5)理想を実践するしんどさ、逃げたいと思うこと
しかし、自分でレールを作ると言うことは口で言うほど簡単ではない。石川准の指摘を待つまでもなく15)、いかに正当性のある行動といえど、逸脱とみなされることはその行動の正しさには関係がない。具体的な教育の現場において拒否されることや非難されることは避けて通れない。宮本さんも「実践することのしんどさ」を経験している。
でそれをはたして私は、どうしていくんやとか、ある部分は逃げたいやん。障害児学級はいった方が楽やねんから、すっごく楽やねんから。○しろまる○しろまる(長男)はともかく、私は楽やんか、でそやけど、どっかでさ、それを否定する自分もあるわけやん。で、ほんまにそういう仲間の中でね、自分自身その、いややっぱりしんどいから障害児学級いくわっていえへんような状態を、自ら作らなかったら、あの、楽な方へ逃げてしまいそうな現実ってあってんて。ほんまに私、どないかな、抜き差しならぬ状態で、普通学級ははいったんだから、自分を追い込んで。
それはかたっぽうでは、もちろん自分の中で、絶対権利やし、あたりまえの主張としてやるべきやっていう正論があるやん、でも、そのすごい現実、自分が行動としてやること、実際行動起こすことのギャップってあったで、すっごい背中をがっとだれかに押してもらわへんかったら、なかなかやりにくいっていうか、ダウン症が普通学級にはいったの京都で初めてって言われているくらいだし、うん、それは校長とのやり合いもね、すごかったもん。
そんなふうに、押してもらわな、とか、そういう風な状況に追い込んで、でその中でね、○しろまる○しろまるもしんどなる場面があったりとか、実際ほんまにええのやろかってすごい悩んだ場面もあったし、でもね、途中からはね、ある意味運動かもしれへんって、権利の主張?ここでひいてなるものかっていう、ここで障害児やさかいに障害児学級へというような、こんな理論に屈してたまるか、みたいにはなってきた。
「理想を実践することのしんどさ」や「やせ我慢を実践するしんどさ」からは逃れられようもない。その中で「
○しろまる○しろまるはともかく、私は楽」という気持ちもでてしまう。そしてそれが果たして子どもの利益のためによいものかと悩んでいる。ひょっとしたら分離された配慮のある学級での生活の方が子どもの短期的な幸福には近いのかもしれない。しかし宮本さんを支えてきた「親は最大の敵」という言葉に象徴されるように、配慮あることが必ずしも子どもに最前の利益をもたらすかはわからない。 普通学級に入る、ということにはいずれ離れて暮らさねばならない日のための関係の模索の一環だったはずである。「親は最大の敵」という言葉を聞いた日から、親と子の関係を考え続けてきた宮本さんは普通学級で「一般の中での知恵」を子どもに学んでほしいと望んでいた。
6)価値を育てる人を支える人々の存在
佐賀さんや明石さんの事例でも見たように、ある人が今までの自分の考えとは違う考え方、価値を生み出そうとしたときにそこにはその考えや価値を支える人たちの存在があった。このことは、人間が自らが望むアイデンティティを自給自足することはできないという構造から生まれている。人間は他者に承認されて初めて新しい価値を身につけることができる。共にレールを歩む人が必要となる。明石さんが宮本さんに支えられたように、宮本さんもまた市民活動家の人々に支えられてきた。
つまりその誰かに押してもらわへんかったら、できひんとか、ひっぱってもらわなね、できひんとか。それこそ赤信号をわたるみたいな感じで、そういう仲間づくりはすごい幸せやったね。最初に出会ったメンバーがそういうメンバーやったから、そういうメンバーやったら、そうよねってすぐに思えた。でも、まあまあ、最初から元気であったことは元気であったかもしれへんね。模索はしたよ。で、あの、例えばそのおもちゃライブラリーの中で、使い捨て時代を考える会の人たちは、障害児育てたわけじゃなかったけど、健常児育てている人たちの中にも、そんなん○しろまる○しろまるが普通学級行くなんて当たり前やんかっていう、そうすごいサラリと言う訳よ。そやけど...って(私が)言うやん。もし困ったらいくらでも助けてくれる人が周りにいるんやもん、そのための会なんやもんって、こうすごいいとも簡単に、人の手を借りるのは当たり前みたいな、人はそんな一人で生きてないっていうのを、早い段階で、そういう人たちに出会った事かな、で、療育者だけにしがみついてなかったもん。
「赤信号をみんなでわたるみたいな感じ」という表現を宮本さんはする。今ある規則には反しているが、赤信号で止まることで別の弊害が生じてきたり、渡ることで得られるものがあると宮本さんは信じている。だが一人では渡れない、そんな時に手をかしてくれる人々の人々の存在、手をかりることを許してくれる人々の存在は新しく価値を開こうとする人間にとって絶対的に必要となる。そこを歩いた人間は、次にその道をあるこうとする人たちにとってもなによりの支えとなる。こうした経験が親の会の運営にも役立ってきた。
だからその、6年では人に背中を押してもらわなかったら、普通学級行けなかったんかもしれへんし、あの、ほんまそれはあの場で、障害児学級行くって言ったら袋叩きにされそうなまわりやったわ最初から強かったわけじゃないよ。違う違う。だから多分ね、わたし人の前に話に行ったって受け入れられるんちゃうんかなって。だってそんなに抜けた人の話聞いたってやっぱりギャップがあるじゃないですか?
7)用意されている楽な道
しかし、引き戻そうとする力もまた根強く残る。いくら正論や理想を持っていてもそれを誰もが実践していけるとは限らない。周りに支えてくれる人がいなかったり、親自身が自らの価値を変更できない場合、また親自身がそこに居座り続けることを望んだ場合、レールは変更されずに残ることになる。
ダウン症の子ができて、この生まれてよかったわっていうのと、片っぽではレールに乗せようと、きょうだいをね、あんただけはがんばり、みたいなのが強く、私ねそれを対比させたらね、絶対的にしんどいやん。乗らない子は。うちなんか乗らないことによってさ、よかったなあって。でもそうじゃないねんね、やっぱり。どうしても健常の子を、健常の子はレールに乗せたいみたいなんが。片っぽではノーマライゼーションとか統合とか言葉がね、言葉だけがぽろぽろとでてきてるのに現場は本当にきついよ。きつくなっててね、だから出生前診断がこれの最たるもの。
一方では能力主義のレールからおろし、もう一方はレールに乗せ続ける。彼女がこうした例を出して批判しているのは、ノーマライゼーションや統合という大きな理念を語る一方で、出生前診断や分離教育が未だに残ってしまう現状を実感しているからである。
(「障害児の親」らしくっていうのは)それは楽だわな。楽やで、楽々。それは障害児学級いってみ、それはね、楽やで。それは社会が与えてくれる楽さやねん。その中で確実に出生前診断はOKが出ていくんやで。でも、それって逃げやねんで。ただ、「障害児の親」ほど逃げ込める立場ってないねんで。そうしたらお終いなんや。でもみんな往々にしてそうすんねん。」
「社会が認めるがんばり方」や「『障害児の親』の立場に逃げ込むこと」が楽なのはアイデンティティを自分で供給しなくてもすむ点にある。障害児のために献身的に尽くす親というアイデンティティは「無償の愛」を表現するためには効果的な装置である。1970年の自立生活運動において障害がある人々が敏感に反応したのもこの装置だった。
社会の価値に見合う有り様をしたら、優遇されんねんで。でも社会の価値と違う有り様をしたら、非難されんねんで。社会が認めるがんばり方、全ての価値観に社会的な背景が言い方が存在していくやろ?私なんかさ、ずっと違う事してたんかな?私な、違う事してたんやんか。で、「あんたわかってっか?あんたはマイノリティなんやで」って言われんねん。でもな、私会う人みんないい人ばっかりやったな、世間は本当にいい人がたくさんおる、世間も捨てたもんじゃないと思いながら、育てて来てんけどなーっていったら、「あんたしらんだけや」って言うねん。
宮本さんのがんばり方は、既成の枠組みにはないがんばりかた、またはがんばらなさだったのだろう。周りに「障害児の親」として見られること、扱われることを極端に嫌っているように見える。
8)「障害児の親」とつきあうしんどさ、普通学級の親とつきあう楽さ
宮本さんの語りを分析していくと、「障害児の親」という立場と単に「子どもを産んだ親」という立場を明確に区別していることに気づく。おそらく彼女は長男を育てることで、自分で自分をどう規定するかについて考えてきたのだろう。ここ数年間、彼女は市民グループ「優生思想を問うネットワーク」での活動を始めている。この団体は当事者も多く参加しており、彼女に団体と関わるときの自分をどのように規定するか考えている。
わたしはね、できるだけ真ん中におらなあかんってものすごい意識してんのやんか。そのためには、当事者でないと言うこともものすごく頭にたたき込んでおかなきゃあかんし、かといって健常者なんだけど、優生思想を問うネットワークにいったときに、私もどんな立場でおったらいいかさっぱりわからへんかって、障害児の親の立場だけでは、ネットでは位置がつかめなくて、あの、障害児を産んだ、ある意味社会から非常に差別されている障害児を産んだ女、の立場に立とうとものすごい努力してん。でもね、わからへんねん。これなんでわたしわからへんのやろ?障害児を産んだ女の役割なんてはっきり言って私の中にはないんやな。私は単純に子ども産んだ親でしかないっていう、障害児を産んだ女の立場なんかね、それがどうした?みたいな。私の中では、これがなかなかね、すぐ作られへんって言うかね、がんばらなつくれないし、がんばりかたがわからなくって...演じ方がわからへんねん。その、罪の意識もなければ、自分を責める意識もない。全然ないねん、わたし最初からなかったから、だから演じられへんねん、言われても。ええねんな、別に演じんでも。
「『障害児の親』の役割なんて私の中にはない」と宮本さんはいう。しかし、これは彼女が「親は最大の敵」という言葉を背負って生きてきたためである。彼女は努力して「障害児の親」の立場を拒否し続けてきたはずである。だから多少の摩擦にめげずに普通学級へ長男を入学させたし、親と子の関係も模索してきた。子どもが障害児学級へ入ることは自らは「障害児の親」として教師にも他の保護者たちからも見られ扱われる。宮本さんはそれをもっとも恐れた。「障害児の親」の立場を得てしまうことで、立場にふさわしく振る舞ってしまう自分を恐れた。
普通学級にはいると、普通学級の親とつきあっていくやん?それはそれなりに楽なんやで。障害児の親とつきあうよりずっと。だって、ぐずぐずがないもん。障害児の親ってぐじゅぐじゅあるやろ?あたしね、親の被害者意識ってすごい嫌いなのね。うん。障害児学級にはやっぱりいるやん?障害児学級のがもめるっていうしね。普通学級もめへんもんね。うまくきゃあね。親が堂々としとればね。何が悪いっていうような顔しとったら誰もなにも文句いわへんもんね。
9)世間と子どもと自分と
彼女が「堂々と」していれば、誰も彼女を「障害児の親」としては扱わない。だが宮本さんは今のスタイルにたどり着くために18年間かかり、なおその作業は完結していない。18年間に渡って宮本さんが作り上げ続けてきたものは、世間との格闘と子どもとの関係の模索、そしてなにより自分自身の価値観である。
そこまでしても世間には「変わらない現実」が残ってしまう。「医療の堅さ」、「価値観の違う人」、ノーマライゼーションと出生前診断を同じ頭で考えてしまう社会の不思議さは残る。能力主義はとりあえず支持されている考え方であり、実際これを否定しきる根拠は人権というきわめて高度な概念に頼らざるを得ない。そして人権が個人の側にゆだねられている限り結局は個人の価値観に左右されてしまう。
本当に価値観やと思う。障害者観でしかない。で、出生前診断っていう良い機会を与えられたんだけど、あれ極論やってんな。極端ななんかこう、おもわえん?あれはすごいいいきっかけやと思ってんけどなー。でも漠然としてるやんか。たとえばダウン症を持つっていったらね、なんぼ若いったって23かそこらでしょ?今までの生活でしかないわけやん。だからね、もうかなり確立された上に、ダウン症っていうぼこっと出てくる訳ね。そっからこう、価値観を変えていける人っていうのはね、やっぱりそれなりにね、もともとね、なんとなく素養があった人なんやで。あかん人はどこまで行ってもあかん。そういってしまったらあかんけど、でもそういうことあるでしょ?
だが、これは個人が孤立していることを意味しない。佐賀さんも明石さんも宮本さんも強い自己を持ち、決定をしていくような様子はない。目の前の現状に際して、恐れとまどい、周りの協力を得てなんとかその場をしのいできた。それでよいのだと思う。
子どもとの関係の模索の答えは「純粋な当事者ではないこと」、「子どもの決定に従うこと」である。宮本さんにとって子どもとはいつかは離れなければならない存在であり、そして自分とは異なる「他者」であるけれども最も気になってしまう存在である。そして子どもは宮本さんにいろいろなことをあきらめることを要求する。彼一人でできることには限界があり、その度に少しづつ手をかすことが求められる。その手をかすのは必ずしも親でなくてもよいのだ。「私がいなくても何とかなる」、という親と子が離れたとき、「障害児の親」というスティグマは完全に解消されることになる。
そして彼女自身、子どもを通して社会を見、子どもを通して自身を変化させていた。彼女の人生に突然舞い降りた偶然は、彼女の問題意識を一挙につなげる役目を果たした。
だから、一気にね、私の中では全部つながっていたからね。環境問題も教育問題も、全部こう私の中ではつながってたから、一気に入ってきたって、だから、すごい疑問に思ってて鬱々してたことが、ジグソーパズルをはめ込むように私の中ではめ込まれていった感じ。なにかが違う、どっかがおかしい教育も行政も社会的な動きも、絶対なんかおかしいって思ってたことが、ほんまに、3年間でジグソーパズルが見事に気持ちいいくらいに私の中ではめ込まれていったっていう感じやわ。だから、もちろん周りは迷惑な。私の作業にみんなが振り回されて、元は利用されて。だから、興味持ちのジグソーパズルをはめ込むために、元がおったみたいな感じするけど。あの子が産まれへんかったら私は一生鬱々してるわ。きっかけがわからなくって、だからどっかでまたきっかけ見つけたかもわらかへんけど、でも、ものすごい的確なきっかけやってね。もうベストのきっかけやってね。
障害がある子どもを、自分の人生の転機と位置づけてしまう彼女は実にたくましい存在に一見見える。しかし彼女自身「最初から強かったわけではない」述べるように、最初から強い人間はいない。突然現れる子どもの障害に動揺しない人はいないだろう。しかし、人はただ嘆き悲しむだけの存在でもなければ、差別に力強く立ち向かえる存在でもない。宮本さんが長い時間をかけて出しつつある答えは、「障害児と障害児の親」という枠組みに収まるものではない。
彼女が徹底的にこだわっていたのは、自分と子どもとの関係、そして自分自身の自己規定の問題であった。自分と子どもとの関係を深く考えるには、まず自身と子どもが全く別の存在であることを納得しなければならない。「親は最大の敵」という言葉をきっかけにして彼女は自分が子どもの敵にならないために、どのように関係を作っていくか、さらに自分自身がどうあればよいのか、どうありたいのか。それを考えてきたことになる。
第4節 総括−「障害をもつ子の親」とはどのような存在か
第1項 共通する中核カテゴリ
これまで3人の「障害がある子の親16)」のナラティブ・データ分析を見てきた。3人ともさまざまな言葉を与えてくれた。親たちの言葉に付き従い、それをグランディッド・セオリーという方法論でみることにより、個別性の強いカテゴリが提示することができたと思う。しかしここではあえて個別性を離れて3人に共通する中核カテゴリを見つけだしていきたいと思う。佐賀さんの分析により浮上したカテゴリは「心細さ」と「意志ある言葉」と「承認してくれる周り」である。また明石さんの分析では「恐れ」と「おそれから逃げるための怒り」、「少しのやりきれなさ」、宮本さんの分析で浮上した中核カテゴリは「親と子の関係の模索」と「実践することのしんどさ」、「価値を育てる人を支える人々の存在」である。これらの中核カテゴリとその周りでみることのできたカテゴリを見渡して、「障害がある子の親」とはどのような存在かをまとめていくことにする。
1)「恐れること、心細く思うこと」
まず「障害がある子の親」が共通して経験するのは「恐れること」と「心細く思うこと」である。ダウン症児の出生に驚き、また子どもの障害を原因として起こる出来事一つ一つに揺さぶられることは、共通の経験として見ることができる。医者や看護婦の言葉一つに敏感に反応したり、子どもの生命の危険に脅える姿は間違いなく存在する。しかしこれは「障害がある子の親」が弱いことを意味しない。親たちが揺れ動く存在であることは、親たちが自分の納得できるアイデンティティをもっていないことに端を発している。子どもの障害という予想外、予感こそしていても予想外の状況でのアイデンティティの不在が彼女たちの恐れや心細さを呼ぶ。そこで親たちは医師や看護婦たちが用意する「障害児の親」というアイデンティティをいったん、引き受けるのだ。おかしい、と思いながらもいったん引き受け、「障害児の親」というアイデンティティからだんだんと自らを離脱させていくこと、そこに「恐れや心細さ」を説明できる分析がある。
精神医学者のレイン(Laing,Ronald David)によるアイデンティティの定義は「自分が自分に語って聞かせるストーリー」という明確なものである。この定義によれば、自分で自分に語って聞かせるアイデンティティをもたないの人は、非常に傷つきやすい。ちょうど生物が脱皮の直後に最も弱くなるように、人は自らのアイデンティティの揺らぎに対して繊細である。その繊細さ故に親は弱い状態におかれるのである。
2)「自分のアイデンティティを再構成していくこと」
親は「障害児の親」というアイデンティティをいったん引き受けた上で、次第に自分のアイデンティティを自分の納得できるものに変容していこうとする。要田洋江が「受容」と呼び、石川准が「存在証明」と呼んだプロセスである。レインの定義に従うならば、親たちは自分に自分で物語を語り始める。佐賀さんのケースで言えば「自分の受けた傷の回復行為」であるし、宮本さんの「レールを自分たちで作ること」も自分のアイデンティティの再構成の方法である。
3)「誰かがいてくれると言うこと」
親が自らのアイデンティティを再構成していく際に、どうしても必要となるのが周りに承認してもらうことである。3人に共通して見られたのも、親の周りにいた存在が親がアイデンティティを再構築していく手助けをしていたという点である。佐賀さんのケースでいえば「承認してくれる周り」であり、明石さんのケースでは「同じ立場の人の存在」である。明石さんを助けた宮本さんも、「価値を育てることを支える人々の存在」に支えられていた。「誰か」は必ずしも専門的な知識をもった人ではなかった。まず話を聴いてくれることが、親たちのアイデンティティの再構成に重要な役割を果たしていた。もちろん子ども自身の存在も同じ役割を果たしている。誰かがまわりにいてくれることの重要性は、哲学者の鷲田清一も指摘している17)。望ましいアイデンティティはやはり自給自足はできない。「親」の周りにいる人々に承認されてこそ、そのアイデンティティは初めて「親」が自分を語るストーリーとなる。
4)「障害児の親」というラベルを拒否していくこと
自身のアイデンティティの再構成を再構成していく際に、子どもの年齢が上の二人に共通してみられたのは「障害児の親」というラベルの拒否であった。かつてはいったん引き受けた「障害児の親」というアイデンティティを、だんだんと自分から遠ざけていく作業も同時に行っていく。明石さんは子どもの小学校入学の時に「自分の過去の記憶」から育成学級へ子どもを通わせることを強く拒否した。明石さんのデータから見ると自分の子どもが「障害児」として周りから見られることを拒否していることがわかる。そして自分自身も「障害児の親」として扱われるときに、激しく抵抗している。また、「障害児の親と決めつけられることのへ反発」や他の「障害児の親」の暗さにぞっとする経験から、「障害児の親」というラベルを拒否していた。また宮本さんは、「親は最大の敵」という言葉に出会った経験から「障害児の親」らしくならないように、常に心がけて生活を送ってきたと述べている。子どもの普通学級への入学後も「『障害児の親』とつきあうしんどさ」や「普通学級の親とつきあう楽さ」に明確な違いを見出しているように、宮本さんも「障害児の親」というアイデンティティを自分から意識して引き離している。
子どもの年齢が高い方の二人からこの「障害児の親」のラベルの拒否という中核カテゴリが生まれたのには、おそらく次のような理由があると思われる。子どもの生活年齢が上がるに従って子どもや親たちが生活する社会がだんだんと広がっていくと、周りからの評価や視線も自分の望むようにならなくなる。意に添わないアイデンティティを用意される事態も発生してきたときに、明石さんや宮本さんは「障害児の親」として対応されること、見られることを徹底的に拒否した。
5)「親であるアイデンティティ」から離れていくこと
そして宮本さんが現在行っているアイデンティティ管理が「親であるアイデンティティ」から離れていくことである。宮本さんは現在、18歳になった子どもと離れて暮らす方策を模索している最中である。これがうまくいけば「障害がある子」と「障害がある子の親」は物理的に分離することになり、「障害がある子の親」というアイデンティティ、ひいては「親であることを中核に据えるアイデンティティ」は消滅に向かうことになる。宮本さんが常に行ってきた「自分の立場の自覚」は、最終的には「親としてのアイデンティティ」の脱構築をもたらすことになりそうである。彼女は常々「障害児の親」というラベルを拒否し続けて、単なる一人の親であることを主張し続けてきた。そしてついには「親であること」を脱構築することで、その主張は貫徹することになる。
第2項 まとめ−相反する二つの作業
なぜ彼女たちはこれほどまでに「自分」と「子ども」について言葉や感情を費やさねばならないのか。恐れたり反発したり開き直ったりしながら彼女たちがしようとしていることは何なのか。
親たちがしようとしていることを大きく二つあげることができるならば、「他者を理解しようとすること」と「望ましい自己の提示」である。これまでに使ってきた概念を使えば「存在証明」ということもできる。石川准が「差別は人を否応なく存在証明にくくり付ける」18)といったように、アイデンティティ問題に瀕した人は自己と他者との関係を少しずつ変化させながら、望ましい自己提示と他者理解を実践していく。
親たちを存在証明や自己提示・他者理解に向かわせたのは、「障害児の親」というラベルである。彼女たちが一貫して拒否してきたこのラベルこそ、彼女たちの存在証明の根底にあるものである。先行研究でもみたとおり「障害児の親」という言説自体は多く語られてきた。そしてその言説こそが、社会で生活する「障害を持った子の親」を存在証明に走らせ、一方では個別の「障害を持った子の親」の理解を阻害してきた原因ではないか。個別な存在の日常の生活を見ずにその存在を語りすぎてしまったこと、そこに「障害児の親」という「障害児」に付随した存在と、「障害を持った子の親」という存在とのずれが生じてしまったのではないか。
障害がある子をもった親たちはまずいったん「障害児の親」というアイデンティティを引き受ける。「障害児の親」という立場が含んでいるものは徹底的に子どもに対して愛情と保護を提供する純化された親の役割を果たす存在である。自立生活運動の中で批判されたのは、この役割に沿って行動する親たちであった。
しかし本稿で見てきた親たちは、その段階でとどまってはいなかった。いったんは引き受けた「障害児の親」の役割がもつ自分や子どもへの抑圧の仕掛けを敏感に察知し、「障害児の親」から自分を引き離していく作業を行っていた。ここで親たちが行っている作業は、「障害児の親」を語る言説の中にはなかった。いったん引き受けたアイデンティティを、脱構築していくという複雑な作業は、新しい価値を創造するために必要となる。
たとえば障害学もこれと同じプロセスをなぞっている。障害をかけがえのない個性として受け止めるという思想は、すでに社会で用意された「障害」というカテゴリ化をいったん引き受けておいて、負の価値を与えられているそのカテゴリに価値を与え直す試みであった。これはすでにある存在証明の方法をいったん行っておいて、だんだんと存在証明の方法をオリジナルなものにしていく、または存在証明そのものから自由になるというプロセスである。
「障害がある子の親」に当てはめると、子どもへの愛情によって存在証明を満たそうとすることをしておいて、だんだんと子どもに頼らない存在証明の方法を見つける、または存在証明そのものから自由になることを意味する。子どもへの愛情に頼る存在証明は、既存の社会から容易に正当性を与えられる。しかし、子どもへの愛情に頼らない存在証明、「障害児の親」らしく生きない存在証明が困難さは本稿でも実証することができた。石川准は、
価値を増殖しようとする営みと価値から自由になろうとする営み、あるいはアイデンティティへの自由(アイデンティティの自己管理、自己執行)とアイデンティティからの自由(自尊心なき自愛心、癒し)とは、アイデンティティ問題を解決するための手段という意味をはるかに越えて「生きる様式」へと昇華する。価値の取り戻しと存在証明からの自由には、既成の存在証明のシステムの「静的再帰性」を脱出して、共生と多様性の祝福へと社会を向かわせる変動の契機−存在証明の「動的再帰性」−がはらまれている19)。
と述べている。障害をもたない子と親が見過ごしてしまうような「生きる様式」を「障害がある子」と「障害がある子の親」は見つける作業を行っているのではないか。もちろん、生活を送る当事者たちはその作業を全身全霊で行うために、このようには感じることはないかもしれない。しかし存在証明との格闘を、生きる様式へと昇華させていくことは、他者と自分をより理解していくプロセスでもある。社会的に周辺に追いやられていきやすい人々にこそ、新たな「生きる様式」を得るチャンスを持っているのではないかと思う。
1) また、是非父親にも話を聞くことをしたかったのであるが、残念ながらテープレコーダを挟んで話を聞くという機会には恵まれなかった。しかし、泊まりがけで参加したキャンプで父親たちと交わした短い会話の中にも、母親とは決定的に違う男性としての悩みを話してくれた人もいたことを付け加えておく。
2) グランディド・セオリー・アプローチに関する文献は、Glaser,B.and A.L.strauss 1967 The Discovery of Grounded Theory : Strategies for Qualitative Research,Aldine Publishing Company,Chicago.(=後藤隆、大出春江、水野節夫訳,1996,『データ対話型理論の発見』,新曜社.またはStrauss,A.L. and J.Corbin,1990 Basics of Qualitative Research: Grounded Theory Procedures and Techinique. Sage Publications,New York.(=南祐子監訳、操華子、森岡崇、志自岐康子、竹崎久美子訳,1999,『質的研究の基礎−グランディド・セオリーの技法と手順』,医学書院に詳しい。
3) グランティッド・セオリーアプローチの大まかな流れとしては「データにラベルを貼る」、「ラベル群を概念ごとにカテゴリ化していく」、「中核となるカテゴリを設定し」、「各カテゴリ間の相関関係を見つけだす」というようになる。もちろん、グランティッド・セオリーにはいくつかの手段があり細かな差異は手引書ごとに異なる。本稿において筆者は木下康仁著,1999,『グランデッド・セオリー・アプローチ−質的実証研究の再生』,弘文堂.を参考とした。
4) これは木下の指摘(木下1999,p269)に従ったものである。「どれかひとつのカテゴリを敢えてコア・カテゴリーとせずにカテゴリー間関係としてまとめることである。(中略)理論的飽和化の準拠点をコア・カテゴリーではなく、"大きな流れ"すなわちプロセスにおくという考え方である。」
5) 京都ダウン症児を育てる親の会編,1996,『出生前診断』及び、『母体血清によるスクリーニング検査』に関するアンケート調査の結果報告書(1996年6月実施),京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル),協力:京都大学医学研究科放射線遺伝学教室,p23.
6) 障害学もこの「障害の受容」というテーマを突きつけられている。障害の「受容」にはあきらめさせるというネガティブな受容と、これとは異なる積極的な変化をともなう「受容」とがあるという議論がなされる。これは医学のリハビリテーションがあくまでも中途障害者にあきらめさせる意味での受容しか行ってこなかった事への批判、また先天的障害をあきらめることへの矛盾という議論を経て、このような流れを産み出している。
7) 存在証明の4つの方法については、自分の不利を隠すために演技する「印象操作」、社会的威信の高い集団や属性への所属を達成する「補償努力」、マイナスとされてきた価値をプラスへと転換する「開き直り」あるいは「解放」、自分の価値を高めるのではなく他者の価値を奪い取ろうとする「価値の奪い取り」がある。詳しくは石川准,1992,『アイデンティティ・ゲーム−存在証明の社会学』,新評論,p27.
8) 感情という非常に一般的でありながら実体がつかみにくい概念に対して、社会学は長く強い関心を払ってはこなかった。「感情」という言葉は専門用語と言うよりは日常的に、そして多義的な使われ方をしている。その感情を社会学により分析使用する立場が、感情社会学である。この「感情社会学」は大きく二つの立場、生理学的な変化を重視する立場と相互作用論的な変化を重視する立場とに別れ、それぞれの主張を繰り返している。感情は身体の生理的変化を重視するのに対して、相互作用論的な立場は感情は言語や思考などの具体的な行為によって構成されるものだとしている。
9) 岡原正幸他,1997,『感情の社会学−エモーション・コンシャスな時代−』,世界思想社,p58.
10) 岡原、前掲書、p59.
11) 飯沼和三はダウン症児の50%以上に認められる身体症状として、(1)短頭、(2)扁平な後頭、(3)蒙古人様眼裂、(4)内眼角贅皮、(5)小さな耳介、(6)耳輪内転、(7)落ち込んだ平坦な鼻背、(8)舌皸裂、(9)舌乱頭肥大、(10)高口蓋、(11)短く太い指、(12)第5指短小、(13)第5指内彎、(14)第5指単一屈曲線、(15)猿線、(16)第1〜2趾間の開大、(17)筋緊張低下の17の症状をあげている。飯沼和三,1983,『症候と診断.日暮真・飯沼和三・池田由紀江.ダウン症(小児メディカル・ケア・シリーズ29)』,医歯薬出版.
12) 石川准は「補償努力」を「一番普通であり社会的にも評価されている」としながらも、「存在証明のために人生を犠牲にしてしまいかねない」と批判する。それで得られるものは「アイデンティティの差引勘定をどうにかゼロ点に戻すことなのだから、投入したコストに見合うほどの戦果とはいえない」としている。この場合、療育がどんなに成功したとしても宮本さんの長男が得られる評価は「ダウン症の子にしては、あれもできるこれもできる」ところで止まる。石川、前掲書、p32.
13) 宮本さんはこれを「差別」という言葉で表現している。しかし筆者はこれを差別とはいえないのではないか、と思う。考えて考え抜いた末に残る違和感はもはや「差別」という言葉には回収されえない、もっと高い次元の感情なのではないか。残念ながら今の段階では、適切な言葉を当てはめることができない。一番近い説明ができていると思われるのが岡原正幸、1998、『ホモ・アフェクトス−感情社会学的に自己表現する』、世界思想社、p230にある。
14) この親の当事者性の剥奪は障害を持った人の市民運動において顕著である。知的障害者の自立支援組織「ピープルファースト」でも徹底的に「親は支援者である」と打ち出している。
15) これは、新しい価値を生み出すことが難しい、という以上に人間が価値(この場合はレール)の上しか歩けないという意味で困難があるということである。石川の「存在証明に没頭するのをやめて、存在証明から自由になることに価値を見いだそうとするのも、解放の一種、存在証明の方法であることに変わりはないのである。」という指摘がこれに当たる。
16) WHOの障害の定義が変わるにつれて、「障害者 disabled person」という呼び方から「障害を持つ人 person with a disability」という呼称へと変化してきた。これを親に当てはめると「障害児(者)の親 parent of a disabled child (person)」から「障害を持つ子(人)の親 parent of child(person) with a disability」となる。
17) 鷲田は、浜田寿美男との対談において次のように述べている。「...ただ一緒にいるだけ、そのことの意味を、今日のテーマである自己との関係で考えてみたいと思ってるんです。何故、そんなことを考えるかというと、誰に向かってであれ、あなたがいること、そのことだけで価値があると心の底から言えるというのは、そういうco-presenceの力、誰かがただいるということだけで有り難いという気持ちがなかったら、障害者の自己、あるいは胎児や乳児の自己に対する本当の意味での敬意というのはでてこないんじゃないか。私のco-presence、そのことの意味を認めてくれる人がいることが、最終的に我々が支え合うということの一番根っこにあるのだと思います。」鷲田清一・浜田寿美男、1998、「自己の余白に」、『現代思想』1998-7、vol.26-8、青土社.
18) 石川、前掲書、p31.
19) 石川准、「障害児の親と新しい『親性』の誕生」、井上真理子・大村英昭編、1995、『ファミリズムの再発見』世界思想社、p54.
*更新:
小川 浩史