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「私の出会ったフィリピン(人権教育スタディツアー報告)」

松波 めぐみ

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last update: 20151221


私の出会ったフィリピン(人権教育スタディツアー報告)

松波めぐみ 1996
アムネスティ・インターナショナル日本支部「ニュースレター」1996年2月号

95年8月、アムネスティ日本支部初の試みとして、スタディツアーでフィリピンを
訪問。準備段階から加わっていた松波がツアーの概要と印象記を書きました。(筆者)

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くろまる2日目 都市貧困層のコミュニティで
開発NGO『KAPAG』の若いフィリピン人スタッフと一緒に、彼らが日頃、地
域組織化等を支援している貧困層のコミュニティを訪問した。
パラヤン地区は元は沼地だった所。板切れを敷いた上に家が建てられ、数百世帯の
人が住んでいる。狭い路地を歩くと、路上で散髪している人、洗い物や料理をしてい
る人がおり、空気や匂いまでが圧倒されるほどの生活感にあふれていた。今の日本で
は見えにくい「人間の暮らし」が濃厚に感じられる。入る前に「スラム」に対して抱
いていた緊張感がいつのまにか消えていた。第三世界の都市にスラムがあるのは当然
と思い、あえて想像力を働かせることもなかった自分に気付く。異なる世界のことを
機械的にとらえてしまうのは、恐いことだと思った。
地元の住民組織の人たちから、ここの歴史について聞く。様々な理由から「食べて
いけなくなった」人が都市に集中した結果、他の場所と同様パラヤンにも、行き場の
ない人が住みついていった。行政からは「不法占拠」として追われたが、自分たちの
権利を守るために「人間バリケード」を築くなどして闘った。そうした抵抗ゆえに投
獄される人も相次いだが屈しなかった結果、今は一定の権利を獲得しているのだとい
う。彼らの話を通して、人間として最低限の権利を守ろうとした普通の人々が政府の
弾圧の対象となり、「良心の囚人」になりえるんだと実感された。現在ここでは住民
自身による地域改善の活動が盛ん。担い手の多くは女性だが、皆自分の役目に誇りを
持っていたのが印象的だった。
質疑応答の時、一番ズキッとした質問は、若いスタッフからの「フィリピンから日
本に働きに行った女性が暴力にあっていると聞くが、どう思うか」というもの。「日
本国内で起こっている、深刻な人権の問題」との認識はあるが、いざ一人の日本人と
して向き合うと、何を話していいかわからない。とにかく必死になって日本社会の在
り方や歴史的にある蔑視感、ストレスが弱い者に向かうこと等、思いつくことを一生
懸命話す。どう受け取られるか不安だったが、フィリピン側の一人から「日本にそう
いうことを考えている人がいると知って心強く思う」との言葉を聞いた時、救われる
思いがした。

くろまる3日目 鉄格子の向こうに 〜政治囚の人びととの出会い〜
がらんとした刑務所内のホールに通された。小学校の体育館ぐらいの広さだろうか。
待っていると、オレンジ色の制服を着た20数名の男性が入って来た。自己紹介を行う。
彼らは淡々と名前と罪状と量刑を述べていく。どこ出身の誰々、殺人、終身刑。誰々、
殺人と強盗、懲役30年。誰々、殺人、終身刑。私の頭は混乱する。何とも言えない、
冷たい緊張感が流れたような気がした。「この人、本当に政治囚なんやろか」という
疑いが頭をよぎってしまう。目の前の現実に実感がついていかない。
ここはマニラ南郊のモンテンルパ刑務所。『TFDP』(政治囚への救援を行って
いるフィリピンの人権NGO)のスタッフと一緒に訪問したためか、係官からのボデ
ィチェックはあったものの、あっけないほどあっさり中に入ることができた。
話し好きなリーダー格の人が逮捕の時の状況を話してくれた。理不尽な扱い、家族
との別れ・・・。そして拷問の話が出ると、他の囚人も口を開いて自分の経験を語りは
じめた。ただ聞くことしかできない。概して、あまり英語を話さない素朴そうな人が
多かった。地方のゲリラ組織に関わって逮捕された人が多いらしい。罪状は「殺人」
が多いが、でっち上げが非常に多いとTFDPの人から聞いた。それなのに、誰も
「殺していない」等と主張しないのが、何故だかわからなかった。(今でもわからな
い。)計り知れない現実の難しさ、捕らえられている歳月の長さと重さ。そんなふう
な、自分の把握できない世界の「現実」に突然同席したような時間だった。
最初は「怖そう」だった彼らも、打ち解けてくると刑務所内での日常生活や故郷の
家族の話をしてくれた。そうしていると、相手が「囚人」であることなど忘れて来る。
突然時間が来た。出口に向かって歩き出した彼らと、まだおしゃべりを続けていた。
まるでそのまま一緒に門を出て行って、街で宴会でも催すかのように。しかし彼らは
立ち止まることなく、すーっと鉄格子の壁の扉の向こうに歩いて行った。今さっきま
で話していた人が、「向こう側」に居る。名前を呼んで鉄格子の間から手を差し出す
と、握手に応じてくれた。1回、2回と握手した後、その人は笑顔を見せたかと思う
と、あっと言う間に見えなくなった。

くろまる4日目 『PAHRA』訪問 〜フィリピンで人権に取り組む人々〜
「傘みたいな団体です」と言って、スタッフのインダイさんは笑った。『PAHR
A』(人権擁護のためのフィリピン連合)は人権問題に取り組む数多くの個人や学校、
NGO等の民間団体のネットワークや調整を行っている人権NGOだ。当然、国内の
人権の状況をよく把握しているので、現状を解説してもらった。アキノ政権以降「政
治囚」は減ったが、超法規的処刑は増えているという。一方インダイさん自身、80年
代に土地解放などの運動に加わって二度投獄された経験を持つ。アムネスティからも
「良心の囚人」として救援を受けていた。釈放された後も、過酷な拷問による精神的
ショックは長く残ったという。
この『PAHRA』も昨日の『TFDP』もアムネスティの重要なニュースソース
(情報源)だと聞いて、あっそうかと思った。ロンドンの国際事務局がフィリピンの
津々浦々で起こる人権侵害の情報を得たり確認したりするためには、他のNGOから
の情報が不可欠なのだろう。こうした国内の人権団体と国際的なアムネスティとは、
支え合う関係なんだと思った。

くろまる最後に 〜異なる文化に触れてみて〜
以上は旅日記の中のほんの一部。50年前の歴史に遭遇したり、強制立ち退きの現場
で阪神大震災の被災地を思い出したり、書き尽くせない様々な経験をした。アムネス
ティの救援活動では「紙に英語で書かれた情報(人権侵害の事実)」に頼るため、実
感を伴うのは難しい。異なる文化や空気に触れ、いろんな人と直接出会えたのは貴重
な経験だった。貧困や開発の問題を人権の視点から見たり、日本人である自分を認識
する機会ともなった。
またフィリピン社会の多様な側面を垣間見たお陰で、一層興味深く思えたのがアム
ネスティ・フィリピン支部の活動だった。今回は紙幅の余裕がなかったが、人権教育
ワークショップは私にとって大変新鮮だった。機会を改めて報告したい。
マニラの街の喧噪と、色とりどりのジプニー(乗合自動車)を懐かしく思いつつ。
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★このツアーの趣旨・目的
?@人権教育のパイオニアであるフィリピン支部を訪ね、人権教育ワークショップを体験。
?Aフィリピン社会の実状に触れ、人権侵害の背景にある南北問題等にも理解を深める。
?B元「良心の囚人」や国内で人権活動に取り組む人と交流し、救援活動の意味を考える。

★「人権教育スタディツアー」概要
第1日 関西空港を飛び立ちマニラ到着。
第2日 都市貧困層のコミュニティを訪れ、地域改善に取り組む住民組織と交流。
第3日 政治囚救援のNGO『TFDP』と、モンテンルパ刑務所へ。政治囚と面会。
第4日 人権団体のネットワーク『PAHRA』を訪れ、国内の人権状況について聞く。
午後は現地のアムネスティ・フィリピン支部事務所で、人権教育ワークショップに参加。
第5日 マニラを離れ、開発の陰で住民の強制立ち退きが起こったバタンガスへ。交流
とホームステイ。道中、戦争中の日本軍による住民虐殺の記念碑を見学。
第6日 住居を壊された人のコミュニティを訪問、マニラに戻る。夜は大ディスコ大会。
第7日 帰国


REV: 20151221
フィリピン ◇アムネスティ・インターナショナル日本支部 http://www.amnesty.or.jp/全文掲載

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