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私を殺してほしい!

特別手記 19620709 『週刊女性自身』5-27:41-44

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だいやまーく特別手記 19620709 「私を殺してほしい!」『週刊女性自身』5-27:41-44

頁(しろさんかく)もこの本での頁。

死はおそろしい。それなのに、若い人たちが、真剣に安楽死を考えている。ある身体障害者の人たちだ。これは、その一人が本誌に寄せた絶望の手記である。

埼玉県北足立郡大和町 土屋明子(24才)

冷たい視線をあびて

妹の洋子は、すりきれたタタミに、顔をふせたまま泣いていた。肩のあたりが、小キザミにふるえている。
今日の洋子は、ほんとうにどうかしている。会社から帰ってくると、部屋のすみへ行き、私に背をむけたまま、モノもいわないのだ。
体の不自由な私は、はって妹のそばへ行くと、あえぎながらいった。
「会社で何かあったの?」
「......」
妹は、かたくロをとざしたまま大きな悲しみをこらえているようだ。そのうち、激しい嗚咽とともに、私の背すじを凍らせるようなことをいってのけた。
「...吉村さんとの結婚の話だめになったのよ。それも、お姉さんのことだけで...」
「どうして?」
「どうしてって、きまってるじゃないの」
妹は顔をあげると、涙にぬれた目で私をジッと見た。そこには、いつもの妹の顔はなくて、見知らぬ冷ややかな女の顔があった。
「お姉さんのことを知ったら、私となんかだれも結婚してくれないわ!吉村さんだって同じなのよ。...」
私の体はひきつり、くちびるがわなわなふるえた。いいたいことが言葉にならないで、体の中をかけめぐった。(あなたはそんな人と結婚ししろさんかく41 たいの。あなたも、そんな人と同じように私をきらうのね。カタワの私なんか、いないほうがいいのね。いっそのこと、私なんか死んでしまえばいいと思っているんでしょう)
でも、私はしやぺれなくてよかった。妹は悲しみのあまり、そのやりきれな気持ちを私にぶっけてしまったのだ。
私がムキになってやりえしていたら、とり返しのつかない恐ろしいみぞができてしまったろう。
私は妹のそばをのがれるようにして、隣りの部屋へひきこもった。
一人になってみると、くやし涙があふれてでた。非情の世間がうらめしかった(脳性マヒという私の病気を、世間の人は、遺伝か伝染病のように思っている。そんなことで妹まで不幸にするなんてひどすぎるわ)
――とにかく、自分の存存が妹の心に重くのしかかっているのを、今日はハッキリと知らされたのだ。やがて帰ってくる父親だって同じだ。自分さえいなかったら、みなが幸福だったのだ。(私は、こんな苦痛を背負って、どうして生きなければならないの、希望なんかこれぽっちもないのに)
私は鏡にむかってつぶやいた。痙攣で、私の顔はみにくくゆがんでいた。
鏡の奥で、亡き母がさびしそうに私を見つめていた。私は母に呼びかけた。
(お母さん、私だけおいていってしまうなんてひどいわ!)

母の愛も断久れた

私の記憶は、母の背中のぬくもりからはじまる。
未熟児として生まれまれた私はいつも泣きつづけ、二才になっても立つことはおろか、はうことさえもできなかった。母は私を背負って、病院を次から次へとまわったという。さいごに、東大病院で脳性マヒという宣告をうけ、それから三年半、東大へのマッサージ通いがつづいた。どうにか立てるようになった。
そのあと、母のはげましで、気分がよければ十メートルぐらい歩けるようになった。
二十年たった今でも、その十メートルを歩くのがたいへんだ。たえず体中が激しい痙攣と硬直でさいなまれているために調子をとるようにしなければ歩けない。ひたいに汗をにじませ、もがくようにして歩く姿は、まったく醜悪だ。
まだやりきれないのが言葉だ。脳性マヒの患者は、ほとんどが言語障害をもっている。
私も、顔をひきつらせ、ふりしぼるようにしなけれぱ言葉がでない。それも相手にはなかなか通じない。だから、私は白痴と間違えられ、なさけない気持ちになる。
手足、言葉の不自由な私も、しきりに小学校へ行きたがったそうだ。「ガッコ、ガッコ」という私を見て、母は途方にくれていた。頼みの綱にしていた光明養護学校(肢体不自由児の学校)も、私の障害が重いというのでことわられてしまったからだ。
「さあ、これからはお母さんとお勉強よ。アキちゃんもほかの子に負けないわね」
こうして、母と子でひっそりと勉強はつづけられた。
私にとっての楽しみは、妹の洋子と人形遊びをするときだった。
「大きくなったら、おヨメちゃんになるのよ」
美しい花嫁衣装の自分を、無邪気な私は、心のなかに描いていた。
だが、成長するとともに、私の心をあきらめがおおっていった。
――女になったしるしが体にあらわれたとき、母は顔をくもらせていた。女性にとっての祝福が、私には苦しみをますものにしかならないからだ。しろさんかく42
母はそのころ、めっきりやせ細った。食事も、パンをちょっとつけただけでやめてしまう日が多くなった。
あとで知ったのだが、母は胃ガンにむしばまれていた。
母が入院してしまったあと、私はめそめそ泣いてすごす日が多かった。元気なのは、父におぶさって母に会いに行く日だけだった。
母は半年も苦しんだすえに死んでいった。息をひきとるとき、母はすっかりくぼんでしまった目で、私をいつまでも見つめていた。長いこと、まぱたきもしなかった母は、私に何かを話しかけようとしていたらしい。しかし、そのとき母はすでに死んでいた。医師が見開いている瞳を、しずかに閉じさせたのを覚えている。母は、カタワの私を残して、なかなか死にきれなかったのだろう。あのとき母は、「お前もいっしょにつれていってやりたいい」と、話しかけていたのかもしれない。
私は母にとりすがって、いつまでも泣きつづけていた。
「お母さん、死んじゃいや、死んじゃいや」

女のいのちを奪われて

母を失ったあと、私の手足は、ひどく自由がきかなくなってしまった。大きな、ショックのためだろう。
私が困ったのは、月々のものの処置に、他人をわずらわさなければならないことだった。これから先のことを思うと前から医者や亡き母にすすめられていたように、女であることを捨てるしかないように思われた。どらせ結婚もできないのだからと、断崖からとびおりるような気持ちで子宮摘出にふみきった。
手術は桜の花が咲くころだったが、その日はすべてがうつろに見えた。私を背負って病院へ行く父も、うちしおれていた。
手足をゆわえられて、手術のあいだ、私の頭だけは冴えていた。
手術がおわったとき、女を失った悲しみが奔流のようによみがえってきた。
(こんなにしてまで、なぜ、生きなければならないのか)
そう思ったとき、こらえていた涙がどっとあふれた。
麻酔がきれたあと、痛みと同時に、すさまじい痙攣が襲ってきた。見えない力で、私の五体はかきむしられた。これが二日二晩もつづき、医者もおろおろするばかりだったとか。...
(あの手術のあと、私は死んそしまえばよかった)
そんな考えをもつほど、このごろの私には、なんの希望もない。収入の道を得たくても、私にできるものはなにもない。妹の編み物の機械にそっと手をふれては、ため息をつくばかりだ。まして妹の結婚が、私のために破談となったと聞いては、身のおきどころがないようなものだ。
私が満足な体をしていいれば父だってゆとりのある生活をしていたものを。私のために、いまだに貧乏ぐらしをつづけている。私は余計者として無くてもいい存在なのだ。
妹のところへ、ある日、女友だちがたずねてきていた。彼女は男にだまされた話をしきりにしていた。
「......いいぐさがしゃくにさわるじゃないの。おれと泊まって、お前だって楽しんだろうって」
くだらない話しだと、私は冷ややかに聞いていた。だが、もう一人の私は、たった一度でも情熱を燃やす相手があったらと、小さな乳をおさえてもんもんとした。女を捨てたはずの私の体なのに、女の情しろさんかく43 感はまだ脈うっているのだ。

安楽死を願う

身体障害者でつくっている雑誌"しののめ"を、ふとしたことから私は手に入れた。そこには私のような患者が、悩みを訴えていた。そうだ、私もなんか書いてみよう。その日から、一字一字、全身をひきつらせながら、私の思いを、つづりはじめた。
そんなときに、また新しい"しののめ"がとどけられた。この号では「安楽死」の問題をとりあげていた。私自身、なんとなく考えていたことなので、むさぼるように読んだ
激しい苦痛で死期をのぞんでいるときに、楽に死なせてやるのが安楽死だが、法律では許されていない。その問題をあえてとりあげたのは、国から見放されている患者たちの悲痛な訴えなのだ。生きていく希望がないとすれば、あるのは安楽死だけではないかといっているようだ。......
私は近所の安川さんの坊やのことを思いだした。ノリちゃんというその子は、難産のすえに生まれた。一日中泣きつづけ、飲んだ乳もはきだしてしまう。ノリちゃんに私が会ったのは、生後四ヵ月めのころだった。首はすわらず、瞳も見ひらいたままだ。私はひと目みるなり、胸がいっぱいになってしまった。たしかに脳性マヒの症状だからだ。
安川さんの奥さんは、青い顔をしていった。
「お医者さんの診断では、短命だというんですよ」
ノリちやんは、半年後に余病を併発して短い人生をおえた。私はこの知らせを聞いたとき、自分のことのようにほっとした。(これで、私と同じような運命をたどる子が一人少なくなってよかった)

亡き母を慕って

ノリちやんの死を願っていた私は、冷酷かもしれない。が、自分の歩んできた道をふりかえるとき、それがもっともよいことのように思われた
いま、安川さんの奥さんは、元気に生まれた二番めの子と幸福に暮らしている。
私のような子供がいたら、安川さんの生活は、生涯、のろわれたろうに。
国からやさしい手がのべられないうちは、私たちは生きていても、自分を、まわりを苦しめるばかりだ。

私は、久しぷりにそとへ出た。少し歩くと、全身汗ばんで、苦しくなった。私は遠い空へむかってつぶやいた。「お母さん、いつかは私もおそばへ行けるのね、待っていてくだささい!」

(本人のご希望により、名前は仮名にいたしました。)

再録:安田 智博
UP:20150514 REV:
脳性マヒ全文掲載
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