生と運命愛
水野 清志
生と運命愛
水野 清志
信州大学医療技術短期大学部平成9年度公開講座
生と死の医療──教養としての医療 part3
生と生の輝かしい終末としての死の問題を、単なる現実の事柄にとどめず、それを
哲学思想と結びつけながら考えてみたいと思う。もちろん哲学思想が現実と離れてい
るという意味ではない。むしろおよそすべての学問がそうであるように、哲学思想も
またこの現実を遊離してはありえない。哲学思想はそれがすぐれていればいるほど、
現実に生きるわれわれの直面する問題へのすぐれた解答であるといえよう。
ところで生とは常に変化のうちにあり、しかもその変化はまた常に現にあるがまま
の自己を超えていっそうの高みへと向かう。明日にはこの世を去って行こうとする者
もまたその例外ではない。たとえ一日たりとも生きている限り、その者は自己の行く
先に希望を抱いている。あるがままの自己をよりよく超えていこうとする、生のこの
ようなあり方をニーチェは「自己超克」と呼ぶ。
自己超克はまた創造の行為である。それは自己超克があらかじめ決められた自己へ
と向かうのではなく、何も無いところにまったく新たな自己を創る行為だからである
。われわれはこの世に生きてある限り、瞬間ごとにあるがままの自己を超えて新たな
自己を創造する。自己超克、これが生の本質である。
人間の生はつねに深淵の上に営まれている。人間のもつ根源的な深淵を、ヤスパー
スは「限界状況」と名づけた。限界状況とは、例えば死・苦・争・罪責といった生の
持つ運命である。では限界状況というこの避けようもない運命に、どう対処していく
のか。ヤスパースは「挫折による超越」と語る。つまりあえて挫折に徹することが、
運命を乗り超えるというのである。これは根本的には意志(意欲)の問題である。挫
折による超越という場合、ここには或るものに徹することがそれを超克することにな
るという論理がある。
挫折に徹するとは自己の運命を潔く引き受けること、言い換えれば「運命を愛する
」行為である。オイディプスは潔く運命を引き受けて贖罪の旅に出た。ツァラトゥス
トラは「これが生であったか、よしもう一度」と運命愛を決意した。しかし彼は、そ
の運命のあまりの重さに意識を失った。
ユウェナーリスが語るように、生が自然からの賜物だとすれば、生が不可避的に宿
す運命としての死もまた賜物である。ここでは運命愛の行為は、ニヒリズムを潔く自
己に引き受けるとともに、また死を最も輝かしいものとして剛毅に引き受けることに
おいて現実的となる。