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立ヶ畑ダム
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2011年10月17日 Monday 12:16
堤高33.3m
G/W 1905年 神戸市営
フェアレディ。
石井神殿を後に立ヶ畑ダムを目指します。
立ヶ畑ダムは布引五本松ダムと並び、神戸の近代水道を築いた上水道用ダムの名堤です。
石井ダムから下流の道は六甲山の遊歩道になっていて、自然の中で軽く汗をかくには絶好のルートとなっています。
この日も、お弁当片手のファミリーをはじめ、ハイキングの団体さんから山ガールまで沢山の人と出会いました。(徒歩で向かうダムって、誰一人で合わない事が普通なのですが)
大金鶏菊が綺麗に咲いた初夏の遊歩道。
おせっかいなのか、心配性なのか、手書きの注意書きが微笑ましいです。
烏原川に沿って、遊歩道をガシガシ進みます。
心地の良い森です。
神戸の街のすぐ裏山なのに、自然がいっぱいです。
森の中に突如石積のダム関連施設が現れました。
立ヶ畑ダムの上流施設です。
写真右奥にチラッと見えるのは取水堰堤。
烏原川からダムに必要な量の水を取水し、立ヶ畑ダムに水が送られています。
立ヶ畑は1901年着工、1905年竣工の日本で4番目に古いコンクリートダムです。
これら関連の施設も同時に造られ、100年以上も前のものです。
堰堤だけでなく水路の河床も全て石貼で出来ています。
とても丁寧な施工は、100年を超えるものには見えません。
正面の暗渠から出ている水は石井川の水で、取水堰堤で立ヶ畑ダムに送られずに余った烏原川の水と合流し、ダムを迂回して下流へ向かう水路に導かれます。
多連アーチ橋を思わせるするデザインが美しい締切堰堤。
締切堰堤はその名の通り、立ヶ畑ダムのインレットで烏原川を締め切っている堰堤です。
上水道用のダムなので、大雨で烏原川が濁った場合は水を貯水池に入れずに下流へパスする役目があるのかなと思います(推測です)。
また、ダム建設時の流転工の役目もあったと思われます(これも推測です)。
装飾的なリブが見応えのある鋼製ゲート。
気品と風格のある表情は、一世紀を経た者の証です。
締切堰堤の脇にある暗渠の入口。
重厚かつ緻密な仕上げが印象的。
暗渠を示すアーチ状の装飾が、本当に装飾だけの用途しかありません。
様式美と言うのは、礼儀作法に近いですよね。
締切堰堤を過ぎると、立ヶ畑の貯水池はすぐそこです。
遊歩道は貯水池をぐるっと一周しています。
左岸を歩いてダム本体に近づく事にしました。
ここでも多くの人とすれ違います。
しっとりとした森の匂い。
少しひんやりした空気が清々しい道。
静かな立ヶ畑の貯水池が見えて来ました。
想像していたよりも大きな貯水池で、ちょっと驚きました。
タケノコ堀りのグループとすれ違い、そろそろかな?と思っていたら、樹木の間に見えて来ました。
立ヶ畑ダムです!。
美しい弧を描く石積の堤体。
穏やかな銀面にそのシルエットがゆらいでいます。
緻密に積み上げられた石積は寸分の狂いもなく、その丁寧な仕事の一つ一つが、大きな堰堤の美しさの源となっています。
湖畔から天端へ向かうアプローチ、手摺は上品なカーブを描いています。
立ヶ畑ダムへのエントランスに相応しい優美なライン。
重厚な上流側の高欄、下流側の高欄が対照的に華奢なのは古いダムではスタンダードな様式です。
転落防止の為、フェンスが張巡らせてありますが、シンプルな柵で明るい塗装が施されていて、雰囲気を壊すような感じはありません。
天端がカーブしているので、フェンスで対岸が見えない所もなんだがワクワクしてしまいます。
フェンスの隙間から下流を見下ろします。
不思議な壁が立体迷路の様に並んでいます。
これは沈澄池と言う施設で、水の水質改善の施設だったそうです。
現在は、近代的な浄水場が出来ていますので使われていません。
壁の中ほどに、ダム本体のカーブに合わせた副ダムの様に見える厚い壁が見えます。沈澄池は上下2段になっていたのかな?と、思います。
クレストやや左岸寄りにある取水塔建屋。
上部まで全て石造りの荘厳な姿をしています。
神殿のような丸い柱。
全体のデザインは西洋建築を思わせるのですが、漢字のレリーフが妙にマッチしています。
中央の白いドアーには金色の「水」マーク。
教会のような宗教施設を思わせますが、日本では水もまた神の一つです。
クラシックな額縁を思わせるプレートには、立ヶ畑ダムの建設に携わった、吉村長策、佐野藤次郎の名前が刻まれています。
吉村長策は、日本初の上水道専用ダム 本河内高部ダムを長崎で手掛け、その後も、神戸、佐世保、呉等で多くの水道水源ダムを建設、日本近代水道の父とも呼ばれる一方で、海軍技師として軍港設備の建設に従事し、後に海軍省建築局長に就任します。
また、佐野藤次郎は、布引五本松ダムを設計、千苅ダムなど神戸の水道に深く携わった後、日本で最初のダム水道コンサルタント会社を設立、大井ダムや豊稔池など数々の名堤の建設に携わり、台湾の烏山頭ダムにも関与してゆきます。
まさに、当時のビッグネームがタッグを組んで建設されたのがこの立ヶ畑ダムなのです。
腰壁部分の細工も立体的で素晴らしい装飾が施されています。
これがダム施設の外壁なんて、とても思えませんが、しかし、これもまたダムなのです。
取水塔から堤体の中央辺りは、貯水池側の高欄にクレストゲートに関する構造物が並びます。
高欄の裏側(貯水池側)を覗くと、全体が真っ赤に錆びたウォームギヤがありました。カバーの一部は、錆び落ちています。
同じ部分を天端通路から観ると、高欄がくり貫かれ、鋼製の台座が残っています。
高欄の石材に切欠きがあり、かつてシャフトが貫通していた事が伺えます。
その昔は天端の上にゲート操作の機械が鎮座していたのかもしれません。
天端を歩いて右岸に来ました。
緻密な石積の曲線美。
他のダムとは一味も二味も違う甘美な気品が薫ります。
親柱に刻まれるのは、「大正三年拡張」の文字。
立ヶ畑ダムは、1914年に2.7mの嵩上工事が行われ、現在の姿になりました。
クレストを飾る帯状の装飾。
天端からおよそ2〜3m下に延びる2本のラインは、嵩上以前の天端の痕跡かもしれません。
そうなると気になるのは堤体中央のクレストゲートの存在です。
ゲートの越流部の高さは、帯状の装飾の位置とほとんど変わりません。
帯状の装飾は貯水池側にも同じ高さにあしらわれています。
この装飾が竣工当初の天端を指すのであれば、満水位の水位は竣工当初も、現在もほとんど変わらない様に思えます。
つまり、1914年の嵩上工事は、貯水容量の増加目的ではなく、クレストにゲートを設ける為の工事だったのではないかと思うのです(仮説、かなり大胆)。
では、1904年の竣工当時の立ヶ畑ダムは、どの様な姿だったのでしょうか?。
当時既に竣工していた、長崎の本河内低部ダム、西山ダム、そして同じ神戸の布引五本松ダム。
これら、立ヶ畑とほぼ同時期に建設された名堤に共通するのは、佐野藤次郎、もしくは吉村長策と言う二人の技師、そして、クレストにゲートを持たない非越流式の堤体という設計です。
嵩上前の立ヶ畑のオリジナルは、設計者と時代背景から察すると、これらと同じ非越流式であったのではないかと僕は推測しています。
その裏付けとして、堤体の真下の施設が減勢工ではなく沈澄池である事や、洪水が取水堰堤と締切堰堤で流入部分で制御可能であり、貯水池には他に主立った流入も無い為、本格的な余水吐を必要としなかったのではないかと思うのです。
ちょっと大胆すぎる推測ですが、全く余水吐を持たないのも不自然なので、クレストには砂防堰堤の水通し程度の越流部があったとも思えます。
後に何故クレストゲートが必要になったのかについては不明な点もありますが、今現在ではそのクレストゲートも使われている感じはなく、いかに1904年当時のダム設計が優れた物であったかを物語ります。
美しい姿を見ながらそんな妄想にしばしふけってしまいましたが、例の帯状の装飾がアーチ状の天端を強調し、より美しいエレガントな姿に魅せている事は確かな事実です。
アーチ状のダムのベストビューは、やや俯瞰ぎみに見下ろしたアングルと言えます。
最後にダムサイトの右岸にある階段を上がり、なるべく高い位置から眺めてみる事にしました。
ウエッジウッドブルーのペイントが爽やかな木製の門、細部まで神戸流。
滑らかなラインが美しい旋律を奏でます。
天端に美しいアーチラインを持ったダムは、時々女性にたとえられます。
曲線重力式の立ヶ畑ダム。
日本で初めてアーチ状の天端を採用したこのダムは、日本ダム史のファーストレディとして、気品溢れる姿で、次の百年も人々を魅了し続けるのでしょう。
神戸を見下ろす魅惑の貴婦人。
フェアレディ・立ヶ畑ダム
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