北アルプスや飛騨山地からの急流河川が幾筋も流れる富山県は戦前、水力発電が盛んなことで知られた。1935(昭和10)年の電力生産量が25万8000キロワットで全国第1位の座を占め、富山の人々は「電源王国」「水電王国」とわが郷土を誇ったものだ。険しい谷あいにダムを築き、水を治めて電気事業を興した先人たちの歴史を抜きにしては、富山県の近代史を語ることができないと言っても過言ではなかろう。
ところが、そうした資本による大規模な水力開発が進んだのとほぼ同じ時期、富山平野で「もう一つの水力開発史」があったことは、意外なほど知られていない。農村の労働力不足が深刻化し、農業機械化のニーズが高まった1920年代前半、ある野鍛冶が扇状地のわずかな落差と豊かな農業用水に注目して、低落差で回る新式水車を発明した。
斬新な螺旋形の小型水車はたちまち農家の評判となって売れ出す。これに刺激を受けて、他の野鍛冶や農機具製作業者たちも相次いで新式水車を考案し、量産を開始、新聞や雑誌で盛んに宣伝して水車ブームをつくりだした。まだ大きすぎて扱いにくかったエンジンやモーターに比べて、安くて簡便な小型水車はよく売れ、富山平野の水車は年々飛躍的に増加していった。
富山県内の水車普及台数は、1910年代にはまだ1000台に満たなかったと推定されるが、1931(昭和6)年には11730台と頂点に達し、全国総数の4分の1を占めた。1万台余りの水車群は、螺旋・在来型・タービン・ペルトン・簡易ペルトンと多種多様だったが、そのうち最も多く活躍していたのが螺旋水車だった。
初めて見聞きする人にとって螺旋水車はなかなかイメージしにくいかもしれない。ちょうど身の丈ほどの大きさ、右巻きの四重ないし五重らせんという形、鉄板に錆止めの真っ黒なコールタール塗装。50センチ前後の低落差から利用可能で、回転動力はロープで数十メートル、場合によっては数百メートルも先に伝達され、脱穀機や籾摺り機を動かした。在来型の水車が水車大工によって作られる小屋を伴ういわば「建造物」だったのに対して、螺旋水車は持ち運びできる「農機具」であった。
おそらく終戦直後ぐらいまで、稲刈り後の田園に螺旋水車が回る風景は、富山平野の秋の風物詩の一つだった。いまや、そうした風景はほとんど目にすることができない。
近年、水車をさまざまな角度からとらえ直す動きが出てきた。昔を懐かしみ後世に伝えようという郷土史家もいれば、産業考古学という学問の対象として調べている研究者もいる。地域に根差す技術として再評価し、実際水車による発電を試みる人もいる。
水車に関する出版物も近年増えている。こうした動きを念頭におきつつ、本書ではとりあえず、忘れられつつある螺旋水車の歴史を掘り起こすことに重点を置き、富山県における「もう一つの水力開発史」をできるかぎり正確に記録したいと思う。(1990年2月)
◆だいやまーく1990年に出版された『螺旋水車 富山平野の小水力全盛期』を、著者の承諾を得てWEB版に編集して再公開します。「小水力発電」「マイクロ水力発電」「小水力利用」に関心のある方の参考になればと思います。2012年から1年余り休止したことをお詫びいたします。(2013年11月19日再開)
富山県は大正から昭和の初めにかけて、水車台数全国一を誇った。最盛期の昭和6年(1931)で1万1730台、全国総数の25%である。2位が3000台強だから、突出した「水車王国」と言ってもよかろう。それらの大半は、県内で生み出された螺旋水車をはじめとする軽便水車だった。農機具業者が水車の量産にしのぎを削り、農民たちは農作業の動力源としてエンジンやモーターではなく水車を選んだ。その結果、戦前の富山県における農業機械化は、他に例を見ない早さで進んだのである。
日本水車吏に特筆される軽便水車ブーム。その生みの親が東砺波郡南般若村秋元の野鍛冶、元井豊蔵である。螺旋水車を考案したのは大正9年(1920)、豊蔵32歳の時といわれ、それから7年半後の昭和2年(1927)3月、38歳で亡くなっている。発明家としての半生は短いが、おそらく最も充実していたのは亡くなる前年、大正15年だったと思われる。他業者との販売競争が激しさを増すなかで、初めて「元祖」を冠した広告を新聞や農具専門誌に出した。11月には「北陸四県連合副業共進会」が地元の出町で開かれ、熱い注目を集めている。地元紙は「本県が生んだ天才的発明家」として、豊蔵の特集を組んでいる。
その記事によると、生い立ちは次のように記されている「農家に生まれ、幼にして父の失踪に遭い、一人の母に依って育成され、尋常科四年を卒業するや直ぐ家庭の手伝いをせねばならぬ苦しい目に陥り、十五六歳の折、僅少の資本で魚類の小売をしたけれど、訥弁にして世事に疎き性質のこととて問題にならず、致し方なく土方人夫の仲間入りをしたけれど是亦温良すぎて軽侮され、最後は鍛冶屋の弟子になって鍛冶屋の真似事をした(中略)資性淳朴、外聞を飾らず訥弁の為でもあるが、多く他と語るを欲せず、只黙々として、深き考えに沈む実情は、当に天来の発明家であるように見受けられる」(『富山日報』)。 鍛冶となった豊蔵は、農具の修理や改良を手がけるうちに、脱穀機や籾摺り機の原動力として水車が便利だと考えた。生まれ育った砺波平野には用水路が縦横に流れ、落差は小さくても豊富な水量があった。豊蔵は様々な型を研究したようだが、いわゆる在来型では落差をつくるのに導水路が大掛かりになり、回転数も作業機を動かすには小さ過ぎた。そんな時、木工用ドリルがヒントになって「螺旋」というアイデアを思い付く。
どのくらい試行錯誤の期間があったのであろうか。完成した水車は、ひねりを加えた扇形鉄板をつないで螺旋羽根を作り、4重ないし5重に回転軸に巻く仕組みだった。部品の量産ができ、扇形鉄板の枚数や螺旋のピッチを変えることで様々な水利条件に対応できた。それまで水車といえば専門大工の手による定置設備であるが、螺旋水車はちょうど等身大の農機具て、持ち運び・収納可能という特長を備えていた。
元井豊蔵の発明で重要なことは、豊蔵自身に流体力学などの理論的な知識がなかったことである。日本にはその頃、すでにフランシスタービンやペルトンといった高い効率の洋式水車が工業用・発電用に使われていた。理論から研究に入っていたなら、洋式水車を小型化・国産化していただろう。ポータブルという発想も生まれなかったに違いない。豊蔵の出発点は、あくまでも農民が容易に扱える安価な低落差用水車だったのである。
大正10年(1921)8月、上新川郡で初めて馬瀬ロ村の農家に螺旋水車が導入されている。納入業者の広瀬栄太郎(堀川村)は「そんなもんで役に立つのかと笑いものだった」と述懐した。が、コールタールで錆び止めした黒い外観は、初めて見る人には斬新に映ったに違いない。実際の能力は素晴らしく、富山県の農業専門家が新聞で紹介したほどだった。それによれば、毎秒0.01立方メートルの流量と落差約70センチで据え付けられ、作業機は製縄機が1台。1か月のうち21日間稼働して52円の副業収益となった。水車の価格が約50円だから1か月で元が取れた計算である。当時、タービン水車やエンジン、モーターは安いものでも500円前後し、故障やメンテナンスの難しさもあった。まさに、豊蔵が発明した螺旋水車の有利さは歴然としていた。
豊蔵は考案直後から数々の展覧会に螺旋水車を出品した。大正9年(1920)10月、北陸初の農機具見本市といわれた西砺波郡農会主櫨の改良農具展覧会で一躍評判となり、大正12年(1923)11月の東砺波郡物産共進会では最高賞を受けている。山形・福井・愛知・香川など県外の共進会でも独創性は高く評価された。
しかし、特許(専売特許)出願はうまくいかなかった。ネジの原理を応用した水力機械としてはすでに螺旋揚水機があったのだ。これにはアルキメデスポンプともいわれる古い歴史があり、国内の利用も江戸期に遡る。「元井式」の量産可能な構造は十分にユニークだったが認められず、豊蔵はやむなく、ベルトのたるみをなくする付帯的な装置の実用新案のみを大正9年(1920)9月に出願し、登録した。このため同業者に追随を許すことになってしまう。
大正11年(1922)11月29日に富山市太田ロ町の本江六三郎が、2日後に東砺波郡東野尻村の犀川正作が相次いで螺旋水車の実用新案を出願した。先を越された豊蔵は、およそ1か月遅れで出願し、翌年1年間で11件も立て続けに申請している。そのなかにはタービン風の水車のほか、藁打ち機や肥料粉砕機などもあり、関心が水車に留まっていなかったことをうかがわせる。本江も犀川も、豊蔵とはつながりがあったようである。本江の場合、弟の経営する高岡市金屋西町の鉄工所が「元井式」の製造販売元であり、当初は委託製作したのかもしれない。本江は後にタービン水車の製造に重点を移す。一方、犀川は「元井式」を修理したことがきっかけで豊蔵を直接訪ねており、同じ発明家として心通じるところがあったようだ。木製部分が腐りやすいという弱点を改良してオール鉄製螺旋水車を完成させたが、資金力がなく製作販売権を同村の森河慶作に譲り渡している。
大正12年(1923)に入って螺旋水車は爆発的にヒットする。豊蔵は同年2月、「マル元」の商標を出願して「元井商会」を設立し量産を始めた。同村の河原長次郎、理吉の兄弟が右腕となって支えた。豊蔵らは県内ばかりでなく東北、北関東へも精力的にまわり、実演会を開くなどして特約店を広げた。当然のように類似品も出回ったが、豊蔵にとって有利だったのは、大正12年(1923)6月から富山県農会が「元井式」の共同購入を1割引で斡旋したことだった。価格競争が激しくなったためか、8月には平均35%も値下げした。定価表には55円から100円まで10機種が掲載されている。大正15年(1926)の新聞特集記事は記している。「発売以来注文殺到し売れゆき飛ぶが如く県下山野の水流これを動かさざるところなく名声高く国内に及び遠く朝鮮方面よりの注文も年次多きを加えつつある」(『北陸タイムス』)。同年3月、豊蔵は「県産米功労者」9人の中に選ばれ表彰された。
県内で螺旋水車は年間2000台という勢いで増え続け、昭和6年(1931)までに8719台を数えている。全国では39府県で1万2960台が普及した。特許権が設けられず業者が競い合った結果起きたブームだったが、その頂点を見ずに豊蔵は亡くなったことになる。もともと体が弱く、結核を患ったという。元井商会は株式会社となり、弟の助太郎が継いだが10年足らずで行き詰まった。
富山県農政課長は昭和11年(1936)、労力不足の農村に螺旋水車がどれほど貢献しているかを農業専門誌に報告し、豊蔵を次のようにねぎらった。「辛酸を嘗めて漸く完成した本機も未だ特許も得るに至らざるに早くも他に於いて模倣され(中略)発明家の薄幸言うに忍びざるものありしは当時の事情を知る程の者の等しく同情に堪えない所である」。
その後、元井家には不運が続いた。豊蔵が他界したとき子供5人が残されたが、わずか3日後に次女が、次男は20歳で、四男と五男は太平洋戦争で命を落としている。一世を風靡した螺旋水車も、戦後はモーターの普及と用水路改修でその姿を消し、長い水車史の中では約40年という短命に終わった。
略歴【元井豊蔵 もとい ぶんぞう】
■しかく明治21年(1888)5月30日、砺波郡西部金屋村秋元村の農家に長男として生まれる。父臭蔵、母むと。
■しかく大正3年(1914)3月、嶋ふさと結婚。
■しかく大正9年(1920)「螺旋水車」を考案。同年9月、螺旋水車に関連した「調帯緊張装置」の実用新案を出願。同年11月、西砺波郡農会主催の改良農具展覧会に出品。
■しかく大正11年(1922)4月、富山県農会動力農具展覧会に出品。同年12月、螺旋水車本体の実用新案を出願。以後、亡くなるまで15件を出願。
■しかく大正12年(1923)2月、商標「マル元」を出願し、元井商会を設立。同年4月、山形県で実演会。
■しかく大正14年(1925)5月、大日本農会主櫨の発明懸賞(藁打ち機)で3等受賞。
■しかく大正15年(1926)3月、県産米改良功労者表彰を受ける。同年3月、北毒道農業試験場が使用奨励農具に「元井式螺旋水車」を指定する。
■しかく昭和2年(1927)3月3日逝去。38歳。
(出典:『越中人譚』第7号「発明」1999年、チューリップテレビ発行)
序章 まえがき
第1章 螺旋水車とは
木胴型と鉄心型の2タイプ/可搬性とロープによる動力伝達/動力性能/新旧水車の中間的存在
第2章 製作業者の盛衰 元井豊蔵
ドリルをヒント?に発明/大正9年に発明が完成/得られなかった特許権/アルキメデスポンプに抵触/注文殺到し売れゆき飛ぶが如し/軌道にのった矢先に死去/株式会社で再出発/代金回収できず倒産へ/わずかな面影を訪ねて
第3章 製作業者の盛衰 犀川と森河
犀川正作の改良/譲渡された新案特許権/全国へ出荷された森河式/外交員、東北地方を回る/戦時中の鉄不足のなかで/柴田式、立山号、友井式...
第4章 爆発的な普及と農業機械化
普及期の台数推移/最盛期の富山県内分布/作業機との相乗的普及/地理的条件と水利権の問題/二万石用水水利組合の場合
第5章 富山県外の普及状況
北海道/岩手・山形・福島/栃木・新潟・石川・長野・鳥取
第6章 タービン水車と簡易ペルトン水車
国策としての小水力奨励/全国の主なタービン製作所/富山県内のタービン普及/本江鉄工所の盛衰/本江鉄工所のその後/縦軸水車「簡易ペルトン」/城川鉄工所の開業十周年/長野県に残る縦軸水車
第7章 機械的な限界と衰退過程
戦後の激減とモーター導入/用水改修をきっかけに廃止選択/間野技師の指摘した問題点
第8章 最近の動き
ある水車場の取り壊し/30年ぶりの復元に感慨/高屋共同作業場を訪ねて/螺旋水車で藁打ち再現/県立技術短大による性能測定/ワラカチバから何がみえるか
参考文献
螺旋水車に関するもの/水車全般に関するもの/水車統計類/最近の主な水車関係書籍/
各種資料
富山県内の水車に関する年表/道府県別螺旋水車台数推移/道府県別農業用水車台数推移/水車製作事業者による実用新案出願/
補遺
1920-30年代水車統計の問題点/
あとがき
振り返ってみれば
実用新案出願に思う1/実用新案出願に思う2/螺旋水車をつくってみたら
水車雑話
揚水水車の底力1/ 揚水水車の底力2/ 揚水水車の底力3/ 揚水水車の底力4/ 揚水水車の底力5/ 揚水水車の底力6
螺旋水車には、木胴型と鉄心型の2種類がある。(富山県農機具工業組合『農機具規格統一案』1940年)。
前者は、回転シャフトの周りに木製円筒(木胴)を作り、それに螺旋羽根を釘で巻き付けるタイプ。木胴は直径約30センチ、松材などの板を張り合わせたもので、中は空洞だ。1920年ごろ、南般若村秋元(現砺波市)の鍛冶職、元井豊蔵(もとい・ぶんぞう、1888-1927)が実用化させ、「元井式」として売り出した。しかし、特許権が設定されなかったために、のちに数多くの業者がこのタイプを「本江式」「友井式」「柴田式」「立山号」「御器谷式」などの商標で量産している。
後者は、螺旋羽根と回転軸を特殊金具で連結したオール鉄製のタイプで、1922年ごろ東野尻村苗加(現砺波市)の鍛冶職、犀川正作(さいかわ・しょうさく、1884-1951)が、木胴型の腐りやすい欠点を改良したものである。こちらは農具商の森河慶作(もりかわ・けいさく、1889-1952)が犀川から新案特許権を譲り受け、「森河式」としてほぼ独占的に製作販売した。このほかの鉄心型としては「長谷川式」がある。
2つのタイプは当初、「木胴型の方が回転軸のすきまから水が漏れず力が出る」とか「鉄心型の方が軽くて腐らない」とかというふうに、利用者の間では評判が分かれていたようだが、おおまかに言って1920年代は木胴型、1930年代に入って鉄心型がよく普及したものとみられる。
螺旋羽根は、巻き数によって3重・4重・5重の3種類が知られるが、4重螺旋が多かったようだ。この螺旋羽根は、微妙なねじりと強度を増すための溝のついた扇形鉄板を基本単位とし、それをリベットやボルトで5〜8枚程度をつなぎ合わせてある。量産メーカーでは、大・中・小の扇形鉄板があって、その連結枚数や巻き数を変えて多様な機種が製作された。
螺旋水車はふつう羽根車とそれを収める導水樋が一体になっている。導水樋は、薄い鉄板かトタン板と木枠で構成された半円筒形で、木胴型も鉄心型もそれほど違いがない。軸受は、羽根車と導水樋とのすき間を左右する重要な部分だが、当時は耐水性のある鋳造メタルが多用され、ボールベアリングはほとんど使われなかったようだ。元井式では、バビットメタル(錫合金メタル)が使用されている。
錆止めとして表面には真っ黒のコールタールが塗られた。これによって、機種や使用頻度にもよるが、5年ないし10年間の利用に耐えられた。ただ木製部分の導水樋や木胴が腐りやすく、3、4年で修繕を必要とすることもしばしばだった。
螺旋水車の据え付けは簡単だ。多くの農家は、脱穀・調製のシーズンになると、水量のある農業用水を選んで、川底に杭を打ち込んだり三又という用具をおき、そこに螺旋水車を据え付けた。落差が50センチほどになるようにせき止め、羽根車を水平から約30度に傾けるのが理想的とされた。
重量は、羽根車と導水樋あわせて20貫〜30貫(75キロ〜110キロ)。2、3人がかりで持ち運びできる重さだ。この可搬性は、水車は定置動力という常識を破るもので、在来水車にも水力タービンにもみられない、簡易水車ならではの特徴である。ほとんどの農家は、脱穀・調製シーズンの9月上旬から11月中旬にかけて設置し、使用しない時期には取り外して納屋などにしまった。現在でも、福野町八塚の神林明郎さん方や砺波市高波の西野利晴さん方では、使わなくなって40年余りたつ螺旋水車が、納屋や蔵の天井に釣り下げられたままだ。
もっとも持ち運びは面倒なため、納屋に水路を引き込んでコンクリート製の導水樋をつくり、定置動力として利用する農家も少ないながらあった。
螺旋水車の利用で最も目を引く特徴は、ロープによる動力伝達だろう。
雑誌『現代農業』1937年2月号には、富山県内の簡易水車の利用状況についてこんな記述がある。
「其の設備たるや甚だ簡単で、しかも水車の不便とされる移動利用上の欠陥を考慮し、水車の設置場所は仕方がないから、伝動装置に工夫を凝らし、『ロープ』あるいは『ワイヤ』等で、原動機の位置からはるかに隔たった位置(普通百間内外、時に三百間にも及ぶものがある)に設けられた各種の作業機に伝動して作業し、移動の出来ない不便をある程度まで有効に利用しつつあることは、其の現状を視察したものの等しく驚いている所である」(「水車の選び方と使い方」)
100間といえば約180メートル、300間なら何と約540メートル。この距離はすこし誇張ぎみのようにも思えるが、決しておおげさでない。筆者が調査した井波町山野地区では、多くの場合、5メートルほどの間隔で木の滑車を置いて数10メートルから約200メートル伝達していて、プーリーを2枚重ねた分配器によって複数の農家が共同利用していた例などもあった。
「縄は乾くとゆるんで動力がうまく伝わらないもの。ひしゃくで水を縄にかけて回るのが、子供の私の仕事だった」と懐かしそうに語る人もいた。縄の場合、藁縄だけだと伝達ロスが大きいため、木綿や麻をまぜたり弾力性に富む早生藁を使ったり、耐久性を増す工夫がなされた。縄は各農家が自給できる道具であり、雪で野良仕事ができない冬期の仕事としてなえるという点で都合が良かったのだという。
中央から派遣されて1938年から2年間、富山県知事を務めた矢野兼三は、富山県内を行脚して綴った随筆『村を廻る』の中で、こう書いている。「主として東部地方に盛んな螺旋式水車は、さすが急流の水を畦畔にまで持つところとして実にうまくやっているものと珍らしく感心して立ち止って眺めたのであった」
動力はさまざまな用途に使われた。「富山県に於ける簡易水車の利用」(1936年)などによれば、脱穀や籾摺りをはじめ、精米、藁打ち、製縄、製材、肥料粉砕、織機などが用途としてあげられている。中でも最も利用されたのは、回転式の脱穀機と籾摺り機、それに藁打ち機だった。
螺旋水車は、県西部の砺波地方で「らせん」「ぼーと」「ねじねじ」「たにし」、県東部の新川地方では「だいろ」「ばいぐるま」「たにし」などと、親しみある俗称で呼ばれた。