@prefix rdf: . @prefix rdfs: . @prefix cc: . @prefix xsd: . @prefix owl: . cc:attributionName "神奈川県"@ja ; cc:attributionURL ; cc:license . "TekuTeku_Kawasaki_01"@ja, "六郷の渡し"@ja ; "慶長5年(1600年)、六郷川(多摩川)に六郷大橋がかけられましたが、貞享5年(1688年)に大洪水で流されて以来、明治7年(1874年)まで、渡し舟による渡河が続けられました。明治元年(1868年)、明治天皇の東幸の際には、舟橋を架けました。また、ここは長十郎梨のふるさとといわれています。"@ja ; "35.53597115"^^xsd:float ; "139.7085183"^^xsd:float . "TekuTeku_Kawasaki_02"@ja, "万年屋跡"@ja ; "奈良茶飯が名物だった往時の河崎万年屋の賑わいは『江戸名所図会』にも描かれています。"@ja ; "35.53555844"^^xsd:float ; "139.7077933"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Kawasaki_03"@ja, "川崎稲荷社"@ja ; "社殿の下にはいわれのあるケヤキの大木が眠っているといわれています。昔、ケヤキの大木を切ったところ、ケガ人が相次いだので、そのお祓いのために切り株の上に社殿が建てられたといわれています。享保元年(1716年)、徳川吉宗が八代将軍となるために江戸へ向かう途中、立ち寄りました。"@ja ; "35.535067"^^xsd:float ; "139.705789"^^xsd:float . "TekuTeku_Kawasaki_04"@ja, "田中本陣跡"@ja ; "当主の休愚(兵庫)は、六郷川の渡し舟の権利を譲り受け、その渡し賃を得て、傾いていた宿場財政を再建しました。享保6年(1721年)著した『民間省要』は、享保7年(1722年)八代将軍吉宗へ献上され、主張の一部は享保の改革でも取り上げられました。"@ja ; "35.53376005"^^xsd:float ; "139.7046016"^^xsd:float . "TekuTeku_Kawasaki_05"@ja, "一行寺"@ja ; "神奈川県川崎市川崎区本町1-1-5"@ja ; "川崎宿の整備が進む頃に開創し、闇魔信仰で大いに賑わいました。"@ja ; "35.53351906"^^xsd:float ; "139.702114"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Kawasaki_06"@ja, "宗三寺"@ja ; "神奈川県川崎市川崎区砂子1-4-3"@ja ; "宿内一の古剰。後北条氏の家臣であった間宮豊前守信盛が中興、その法名から宗三寺と名づけられました。"@ja ; "35.53273863"^^xsd:float ; "139.7016485"^^xsd:float . "TekuTeku_Kawasaki_07"@ja, "稲毛神社"@ja ; "神奈川県川崎市川崎区宮本町7-7"@ja ; "境内には樹齢一千年といわれる大銀杏や小土呂橋遺構、手洗石など川崎宿にまつわるものや、正岡子規、佐藤惣之助の歌碑などがあります。"@ja ; "35.531029"^^xsd:float ; "139.704592"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Kawasaki_08"@ja, "佐藤本陣跡"@ja ; "宿内の本陣の一つで、十四代将軍家茂が上京の際、宿泊したといわれています。詩人、佐藤惣之助の生家でもあります。"@ja ; "35.53014427"^^xsd:float ; "139.7009053"^^xsd:float . "TekuTeku_Kawasaki_09"@ja, "妙遠寺"@ja ; "神奈川県川崎市川崎区宮前町6-5"@ja ; "二ケ領用水を完成させた小泉次大夫と二ケ領用水を再興した中興の祖・田中休愚(兵庫)の偉業を称える「泉田二君功徳碑」があります。"@ja ; "35.527466"^^xsd:float ; "139.705091"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Kawasaki_10"@ja, "小土呂橋の親柱"@ja ; "かつて、東海道と新川堀の交差地点にあった石橋が小土呂橋。現在は暗きょとなっており、地名とこの親柱が残っています。"@ja ; "35.52810173"^^xsd:float ; "139.6999774"^^xsd:float . "TekuTeku_Kawasaki_11"@ja, "熊野神社"@ja ; "神奈川県川崎市川崎区市場東中町9-21"@ja ; "徳川家康入国に際し、武運を祈った神社。社殿は赤穂義士ゆかりの宮大工、渡辺喜右衛門及びその子孫により造営されました。境内には江戸時代の俳人加舎白雄と大島蓼太が、鶴見橋を詠んだ句碑があります。"@ja ; "35.519773"^^xsd:float ; "139.685892"^^xsd:float . "TekuTeku_Kawasaki_12"@ja, "専念寺"@ja ; "神奈川県横浜市鶴見区市場東中町3-18"@ja ; "紫式部の念持仏と伝えられる「市場観音」が奉られています。富士山から飛んできたといわれる「夜光石」「お乳石」でも有名です。"@ja ; "35.51814185"^^xsd:float ; "139.6864142"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Kawasaki_13"@ja, "市場一里塚"@ja ; "日本橋から5番目のもの。一里塚は街道をはさんだ両側にありますが、ここは南側の塚だけが残されています。"@ja ; "35.51753426"^^xsd:float ; "139.6842345"^^xsd:float . "TekuTeku_Kawasaki_14"@ja, "鶴見橋関門旧跡"@ja ; "安政6年(1859年)の横浜開港後、外国人に危害を加えることを防ぐため横浜への主要道路筋に設けられた関門の一つで、万延元年(1860年)に設けられました。"@ja ; "35.51357288"^^xsd:float ; "139.6806147"^^xsd:float . "TekuTeku_Kawasaki_15"@ja, "鶴見神社"@ja ; "神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1"@ja ; "推古天皇時代の創建と伝えられ、昔は杉山大明神とも呼ばれていました。毎年、4月29日に民俗芸能「鶴見の田祭り」が行われます。"@ja ; "35.511019"^^xsd:float ; "139.677363"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Kawasaki_16"@ja, "總持寺"@ja ; "神奈川県横浜市鶴見区鶴見2-1-1"@ja ; "曹洞宗の大本山。明治44年(1911年)に石川県の能登から移転しました。広くてなだらかな敷地内には20以上の建造物が立ち並ぶ大伽藍があり、散策にも最適。大スター・石原裕次郎の墓もあります。"@ja ; "35.506992"^^xsd:float ; "139.66996"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Kawasaki_17"@ja, "東福寺"@ja ; "神奈川県横浜市鶴見区鶴見1-3-5"@ja ; "子育て観音として、著名な寺です。寺の一角に、芭蕉の句碑も残されています。"@ja ; "35.5026595"^^xsd:float ; "139.6705997"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_01"@ja, "長延寺・見附跡(オランダ領事館跡)"@ja ; "昭和39年に移転するまで、ここに長延寺が建っていました。開港当時、オランダ領事館にあてられました。このあたりは、神奈川宿への江戸からの入口にあたります。現在は公園になっています。"@ja ; "35.48175291"^^xsd:float ; "139.6408839"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_02"@ja, "笠のぎ稲荷神社"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区東神奈川2-9-1"@ja ; "笠をかぶった人がこの神社の前を通ると、自然と笠が脱げてお参りをしたそうです。そのため笠脱稲荷と呼ばれるようになりました。その後、「笠脱」を「笠のぎ」に改めたといわれています。"@ja ; "35.48027211"^^xsd:float ; "139.6377309"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_03"@ja, "能満寺"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区東神奈川2-32-1"@ja ; "鎌倉時代の創立とされています。この地の漁師が、海中から虚空蔵菩薩を拾い上げ、これを祀ったと伝えられています。"@ja ; "35.47892899"^^xsd:float ; "139.6371059"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Kanagawa_04"@ja, "東光寺"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区東神奈川2-37-6"@ja ; "太田道灌の和歌「海山をへだつ東のお国より、放つ光はここもかわらじ」が寺号の由来だと伝えられています。"@ja ; "35.47688557"^^xsd:float ; "139.635574"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_05"@ja, "金蔵院"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区東神奈川1-4-3"@ja ; "金蔵院は、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹です。徳川家康から十石の朱印を許されました。"@ja ; "35.47615471"^^xsd:float ; "139.6335526"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_06"@ja, "熊野神社"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区東神奈川1-1-3"@ja ; "平安時代に紀伊の熊野権現を招いたといわれる神社。江戸後期には、社殿の脇で神楽が舞われたり、御輿がかつがれたりと夜宮祭礼で賑わいました。"@ja ; "35.47562662"^^xsd:float ; "139.634046"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_07"@ja, "成仏寺"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町10-10"@ja ; "開港当時、「ヘボン式ローマ字」で知られ、日本で最初の和英辞典を刊行したアメリ力人宣教師で医者でもあったヘポン博士の宿舎であった寺です。本堂の前には美しい庭が広がります。"@ja ; "35.47475887"^^xsd:float ; "139.6318363"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Kanagawa_08"@ja, "高札場の復元"@ja ; "幕府の法度や掟の書かれた札を掲げた場所が高札場です。神奈川宿では滝の川の左岸にありました。資料をもとに復元した当時の高札場を神奈川地区センター前で見ることができます。"@ja ; "35.47499903"^^xsd:float ; "139.6329981"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_09"@ja, "慶運寺(フランス領事館跡)"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町18-2"@ja ; "浦島伝説ゆかりのものが多数あることから、浦島寺とも呼ばれます。その中には、浦烏太郎が竜宮からもちかえったという観音像も含まれています。"@ja ; "35.47520994"^^xsd:float ; "139.6313421"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_10"@ja, "神奈川台場跡"@ja ; "伊予松山藩が勝海舟の技術指導を受け、完成させた開港当時の砲台跡です。現在は周囲が埋め立てられ、陸続きとなっていますが、当時は稜堡のような形で海に突き出ていました。"@ja ; "35.47062168"^^xsd:float ; "139.6349956"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Kanagawa_11"@ja, "宗興寺"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷10-6"@ja ; "開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士が、ここに施療所を開いていました。境内には、お天気井戸と呼ばれる大井戸があります。"@ja ; "35.47242923"^^xsd:float ; "139.6312845"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_12"@ja, "普門寺"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区青木町3-18"@ja ; "開港当時、イギリスの士官宿舎にあてられていました。"@ja ; "35.47121188"^^xsd:float ; "139.6284848"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_13"@ja, "甚行寺"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区青木町3-10"@ja ; "開港当時、一時フランス公使館にあてられていました。"@ja ; "35.47116525"^^xsd:float ; "139.6278189"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_14"@ja, "本覚寺(アメリカ領事館跡)"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区高島台1-2"@ja ; "開港当時はアメリカ領事館にあてられました。日米修好通商条約でアメリカ公使ハリスとの交渉にあたった全権委員の一人岩瀬忠震の顕彰碑が山門の脇に建てられています。"@ja ; "35.47208556"^^xsd:float ; "139.6265149"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Kanagawa_15"@ja, "三宝寺"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区台町7-1"@ja ; "幕末明治初期にかけて住職であった大熊弁玉は、歌人としても知られ文明開化の新事物を詠いました。"@ja ; "35.47111956"^^xsd:float ; "139.6253691"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_16"@ja, "大綱金刀比羅神社/一里塚跡"@ja ; "神奈川県横浜市神奈川区台町7-34"@ja ; "江戸時代、この神社は神奈川湊に関わる人々の厚い信仰を受けていました。神奈川宿の一里塚は日本橋より7つ目の塚で、江戸時代にはこの神社のすぐ脇、街道をはさんだ両側にありました。"@ja ; "35.47103541"^^xsd:float ; "139.624932"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Kanagawa_17"@ja, "関門の碑"@ja ; "開港後、外国人が相次いで殺傷されたため、各国領事の強い要望で横浜周辺に設けられたのが、関所である関門です。神奈川宿でも東西の2箇所につくられ、厳しい警護体制がしかれました。碑が残されているのは、西側・神奈川台の関門です。"@ja ; "35.47029952"^^xsd:float ; "139.6219289"^^xsd:float . "TekuTeku_Kanagawa_18"@ja, "浅間神社"@ja ; "神奈川県横浜市西区浅間町1-19-10"@ja ; "浅間社(現浅間神社)は、神奈川宿の西隣である芝生(しぼう)村の入口に建っています。神社には、「富士の人穴」と呼ばれる名所があり、すでに17世紀中頃の東海道名所記にその名が見えます。"@ja ; "35.46544361"^^xsd:float ; "139.6107382"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Hodogaya_01"@ja, "橘樹神社"@ja ; "神奈川県横浜市保土ヶ谷区天王町1-8-12"@ja ; "昔からの地域の氏神で、人々に「お天王様」といって崇められていました。境内には、横浜市内最古といわれる庚申塔があります。"@ja ; "35.455574"^^xsd:float ; "139.603591"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Hodogaya_02"@ja, "旧帷子橋跡"@ja ; "安藤広重の浮世絵で新町橋として有名。河川改修により川の流れが変わったため、天王町駅前公園内にモニュメントとして残されています。"@ja ; "35.45348419"^^xsd:float ; "139.6029049"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_03"@ja, "香象院"@ja ; "神奈川県横浜市保土ヶ谷区岩間町2-153"@ja ; "江戸時代末期、保土ヶ谷で最も大きい寺子屋があり、明治6年(1873年)に保土ヶ谷小学校の分校となりました。"@ja ; "35.45110979"^^xsd:float ; "139.6005334"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_04"@ja, "神明社"@ja ; "神奈川県横浜市保土ヶ谷区神戸町107"@ja ; "天禄元年(970年)の創建と伝えられ、その後、裏山から現在の場所へ移動しました。伊勢神宮の御領地として寄進され「榛谷御厨(はんがやみくりや)」と呼ばれました。この「はんがや」が「ほどがや」の地名の由来ともされています。"@ja ; "35.45263073"^^xsd:float ; "139.5981766"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Hodogaya_05"@ja, "大蓮寺"@ja ; "神奈川県横浜市保土ヶ谷区神戸町98"@ja ; "徳川家康の側室「お万の方」お手植えといわれるざくろの木があります。"@ja ; "35.45029905"^^xsd:float ; "139.5984032"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_06"@ja, "遍照寺"@ja ; "神奈川県横浜市保土ヶ谷区月見台38-31"@ja ; "本尊の薬師如来坐像は、京都仁和寺喜多院の本尊と同木、同作の尊像と伝えられています。また、江戸時代の狂歌師朱楽菅江の「念仏百万遍供養塔」があります。(文化6年(1809年)建立)"@ja ; "35.449526"^^xsd:float ; "139.598447"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_07"@ja, "金沢横丁道標"@ja ; "金沢・鎌倉へ行く分岐点。「円海山之道」をはじめ、其爪の句碑があります。"@ja ; "35.44541544"^^xsd:float ; "139.5966945"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_08"@ja, "御所台の井戸"@ja ; "鎌倉への道中、北条政子がこの井戸の水を飲み、休んだとされており、明治天皇が本陣でご休憩された際にもこの井戸の水が使われたといわれています。"@ja ; "35.44341768"^^xsd:float ; "139.5983206"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_09"@ja, "北向地蔵"@ja ; "金沢道の道しるべを兼ねて北向きに建立されたといわれる地蔵尊です。"@ja ; "35.44113498"^^xsd:float ; "139.5991991"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_10"@ja, "本陣跡"@ja ; "本陣は代々苅部家(明治初年に軽部家に改姓)がつとめました。現在は当時を偲ばせる通用門や土蔵が残っています。"@ja ; "35.44396111"^^xsd:float ; "139.5954274"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_11"@ja, "大仙寺"@ja ; "神奈川県横浜市保土ヶ谷区霞台15-16"@ja ; "創建は平安中期と伝えられ、本陣を勤めた軽部家の菩提寺であり、保土ヶ谷区内で最も古い寺のひとつです。"@ja ; "35.445501"^^xsd:float ; "139.594021"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_12"@ja, "旅籠本金子屋跡"@ja ; "明治2年(1869年)に建てなおされましたが、江戸時代の旅籠のたたずまいをしのばせる建物です。"@ja ; "35.44441026"^^xsd:float ; "139.593046"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_13"@ja, "外川神社"@ja ; "神奈川県横浜市保土ヶ谷区瀬戸ケ谷町196-1"@ja ; "「お仙人様」の名で親しまれ、子供の虫封じに効き目があるといわれています。"@ja ; "35.44493588"^^xsd:float ; "139.5894382"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_14"@ja, "松並木"@ja ; "平成18年12月、市民と行政の協働で、黒松32本が植樹され、松並木がよみがえりました。この付近には一里塚と上方見附があったことから、一里塚のミニチュアも復元されています。"@ja ; "35.44514411"^^xsd:float ; "139.5897981"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_15"@ja, "樹源寺"@ja ; "神奈川県横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷町3-172"@ja ; "鎌倉時代に建てられた医王寺が焼失した後、江戸時代初期に軽部家により身延山久遠寺の末寺として開山されました。"@ja ; "35.44625427"^^xsd:float ; "139.5833172"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Hodogaya_16"@ja, "帝釈天堂"@ja ; "お堂の中に「庚申講」や「地神講」の祭事に使われた掛け軸が祀られています。また、堂外には多くの石仏、石塔が安置されています。"@ja ; "35.44613103"^^xsd:float ; "139.5818708"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_17"@ja, "武相国境モニュメント"@ja ; "この地が武蔵国と相模国の境であり、昔は木の杭が立てられていたので境木といいます。このモニュメントは平成17年に設置されました。"@ja ; "35.43670108"^^xsd:float ; "139.5668993"^^xsd:float . "TekuTeku_Hodogaya_18"@ja, "境木地蔵尊"@ja ; "万治2年(1659年)の建立といわれ、江戸からの講中や道中の安全を祈る旅人が多く参拝しました。現在のお堂は関東大震災後に再建されました。"@ja ; "35.43696522"^^xsd:float ; "139.5669053"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Totsuka_01"@ja, "萩原代官屋敷跡"@ja ; "萩原家は代々旗本杉浦氏の代官をつとめ、幕末にはこの場所に道場を開きました。現在は武家屋敷門と蔵が残っています。"@ja ; "35.43552564"^^xsd:float ; "139.5676647"^^xsd:float . "TekuTeku_Totsuka_02"@ja, "品濃一里塚"@ja ; "県内でほぼ完全な形で残っている、唯一の一里塚。"@ja ; "35.43247245"^^xsd:float ; "139.5645144"^^xsd:float . "TekuTeku_Totsuka_03"@ja, "王子神社"@ja ; "神奈川県横浜市戸塚区柏尾町939"@ja ; "護良親王は後醍醐天皇の皇子でその御首が本殿の下に葬られたという伝説があります。"@ja ; "35.41593068"^^xsd:float ; "139.5464662"^^xsd:float . "TekuTeku_Totsuka_04"@ja, "大山道道標"@ja ; "大山道は各地と大山を結ぶ道で、江戸時代に大山詣をする人で賑わいました。国道1号不動坂交差点に近いこの地は、当時の大山道への入口となった場所です。"@ja ; "35.41521687"^^xsd:float ; "139.5430211"^^xsd:float . "TekuTeku_Totsuka_05"@ja, "護良親王首洗井戸"@ja ; "護良親王の御首を洗ったといわれる井戸です。"@ja ; "35.41396845"^^xsd:float ; "139.5436903"^^xsd:float . "TekuTeku_Totsuka_06"@ja, "五太夫橋"@ja ; "小田原北条氏の家臣であった石巻五太夫が、小田原北条氏滅亡後に江戸へ移る徳川家康をこのあたりで出迎えたことから名付けられたと伝えられています。"@ja ; "35.41075635"^^xsd:float ; "139.5398751"^^xsd:float . "TekuTeku_Totsuka_07"@ja, "宝蔵院"@ja ; "神奈川県横浜市戸塚区吉田町935"@ja ; "本尊は不動明王。木食観正(もくじきかんしょう)碑や徳本上人名号碑などがあります。"@ja ; "35.40949473"^^xsd:float ; "139.5402028"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Totsuka_08"@ja, "大橋"@ja ; "歌川広重が描いた『東海道五十三次戸塚』は、この大橋のたもとです。昭和61年に改修。大名行列が持つ長柄のバレンを模した街灯や橋の両側の4枚の浮世絵の模写など、東海道をイメージした橋です。"@ja ; "35.405691"^^xsd:float ; "139.536927"^^xsd:float . "TekuTeku_Totsuka_09"@ja, "善了寺"@ja ; "神奈川県横浜市戸塚区矢部町125"@ja ; "モダンな本堂と歴史ある浄土真宗本願寺派のお寺です。明治には、自由民権運動の仲間が坂の道をあがってきたことがあるとか。正面に親鸞聖人像があります。"@ja ; "35.40397887"^^xsd:float ; "139.5362605"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Totsuka_10"@ja, "清源院・芭蕉句碑"@ja ; "神奈川県横浜市戸塚区戸塚町4907"@ja ; "徳川家康の死後、側室であった「お万の方」が尼となり、当寺に入りました。境内には芭蕉句碑など貴重な碑が数多く残っています。"@ja ; "35.40190826"^^xsd:float ; "139.5318653"^^xsd:float . "TekuTeku_Totsuka_11"@ja, "澤邊本陣跡"@ja ; "戸塚宿開設に尽力した澤邊家が勤めた本陣跡。街道に沿って、明治天皇行在所の碑が建っています。"@ja ; "35.3976211"^^xsd:float ; "139.5305318"^^xsd:float . "TekuTeku_Totsuka_12"@ja, "海蔵院"@ja ; "神奈川県横浜市戸塚区戸塚町4213"@ja ; "墓地には俳人で有名な志行の墓があります。"@ja ; "35.396863"^^xsd:float ; "139.529659"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Totsuka_13"@ja, "八坂神社"@ja ; "神奈川県横浜市戸塚区戸塚町4168"@ja ; "通称「お天王さま」と呼び親しまれている神社。境内には明治天皇東幸碑などがあります。横浜市指定無形民俗文化財「お札まき」が有名。"@ja ; "35.39525996"^^xsd:float ; "139.5297514"^^xsd:float . "TekuTeku_Totsuka_14"@ja, "冨塚八幡宮・芭蕉句碑"@ja ; "神奈川県横浜市戸塚区戸塚町3827"@ja ; "源頼義・義家父子が社殿を創建したと伝えられ、戸塚の総鎮守となっています。山頂の古墳を冨塚と呼び、戸塚の地名の起こりの一つに数えられています。"@ja ; "35.393658"^^xsd:float ; "139.528666"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Totsuka_15"@ja, "浅間神社"@ja ; "神奈川県横浜市戸塚区原宿3-17-8"@ja ; "鳥居横や境内には庚申塔や富士講碑があります。"@ja ; "35.38058142"^^xsd:float ; "139.5113378"^^xsd:float . "TekuTeku_Fujisawa_01"@ja, "遊行寺"@ja ; "神奈川県藤沢市西富1-8-1"@ja ; "鎌倉時代後期、四代呑海(どんかい)上人が開山され代々藤沢上人が住んでいました。戦国期には焼失し江戸時代になって時宗総本山となりました。"@ja ; "35.348424"^^xsd:float ; "139.488648"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Fujisawa_02"@ja, "諏訪神社"@ja ; "神奈川県藤沢市大鋸3-7-2"@ja ; "遊行寺を創建した呑海上人が諸国遊行の際に信州諏訪から勧請した鎮守の社。祭礼で演奏される西富ばやしは市指定無形民俗文化財です。"@ja ; "35.34831"^^xsd:float ; "139.489742"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Fujisawa_03"@ja, "遊行寺橋"@ja ; "歌川広重の浮世絵でしられる藤沢宿の風景にある橋(当時、大鋸橋)が、この位置です。江ノ島道一の鳥居がこの写真の手前左側にありました。"@ja ; "35.346293"^^xsd:float ; "139.486711"^^xsd:float . "TekuTeku_Fujisawa_04"@ja, "小川泰堂笑宿庵跡"@ja ; "江戸時代後期の知識人、小川泰堂は16歳で、藤沢の郷土史『我棲里(わがすむさと)』を著し、また医業のかたわら晩年、この庵で日蓮聖人の『高祖遺文録・日蓮大士真実伝』の労作を残しました。"@ja ; "35.34673198"^^xsd:float ; "139.4833882"^^xsd:float . "TekuTeku_Fujisawa_05"@ja, "常光寺"@ja ; "神奈川県藤沢市本町4-5-21"@ja ; "山門の脇には藤沢警察署発祥の地の石碑、本堂左手には国際的詩人の野口米次郎の記念墓碑、裏山には弁慶塚が庚申塔とともにあります。境内の樹林は藤沢市指定の天然記念物となっており、中でも高さ25メートルで樹齢300〜400年のカヤの巨木は見ものです。"@ja ; "35.34692307"^^xsd:float ; "139.4814485"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Fujisawa_06"@ja, "荘厳寺"@ja ; "神奈川県藤沢市本町4-6-12"@ja ; "寺伝では創建元暦元年(1184年)と伝えられ、藤沢宿で古い寺院の一つです。境内には相模国準四国八十八箇所のうち四番と十番の弘法大師像が安置されています。"@ja ; "35.34720276"^^xsd:float ; "139.4803679"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Fujisawa_07"@ja, "妙善寺"@ja ; "神奈川県藤沢市藤沢1-5-3"@ja ; "宿場有力者の墓地が多く、その中で本陣職を勤めた蒔田家の墓があります。"@ja ; "35.348865"^^xsd:float ; "139.481529"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Fujisawa_08"@ja, "源義経首洗い井戸"@ja ; "本町交番の横道を入ると、本町公園の一角にあります。文治5年(1189年)奥州平泉で自害した源義経の首は、腰越の浜で首実検されたといわれています。首は境川を遡り、この井戸で里人により、洗い清められたと伝えられています。"@ja ; "35.34814038"^^xsd:float ; "139.4789107"^^xsd:float . "TekuTeku_Fujisawa_09"@ja, "白旗神社"@ja ; "神奈川県藤沢市藤沢2-4-7"@ja ; "もともとは寒川比古命を祭っていましたが、源義経の霊を弔い、祭神としました。7月の夏祭りは義経・弁慶神輿が練り歩きます。10月の湯立神楽は、藤沢市の無形民俗文化財に指定されています。"@ja ; "35.3504904"^^xsd:float ; "139.4786364"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Fujisawa_10"@ja, "真源寺"@ja ; "神奈川県藤沢市本町3-17-19"@ja ; "本堂右手には時宗遊行上人の無縁塔があります。また相模国準四国八十八箇所の弘法大師像が安置されています。"@ja ; "35.346761"^^xsd:float ; "139.476374"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Fujisawa_11"@ja, "本願寺"@ja ; "神奈川県藤沢市稲荷1-2-3"@ja ; "明暦2年(1656年)の創建と伝えられています。山門のそばに双体道祖神塔や馬頭観世音菩薩像などがあります。"@ja ; "35.349841"^^xsd:float ; "139.464755"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Fujisawa_12"@ja, "養命寺"@ja ; "神奈川県藤沢市城南4-10-35"@ja ; "御本尊の木造薬師如来坐像は国の重要文化財です。ほかにも日光・月光菩薩像や十二神将など仏像や石造物が数多く残っています。"@ja ; "35.34742345"^^xsd:float ; "139.4647841"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Fujisawa_13"@ja, "耕余塾跡"@ja ; "漢学者の小笠原東陽は読書(とくしょ)院を設立し、塾教育を進め、明治10年(1877年)、塾名を耕余塾と改めました。県下有数の中等教育機関で、後の首相吉田茂などを輩出し、現在は勝海舟筆の「小笠原先生碑」が立っています。"@ja ; "35.34428404"^^xsd:float ; "139.4595592"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Fujisawa_14"@ja, "大山道道標"@ja ; "東海道が藤沢バイパスと合流する地点は四ッ谷といい、立場茶屋がありました。小堂があり石造の不動明王が安置されています。右に大山道の‐の鳥居が立っています。"@ja ; "35.34630804"^^xsd:float ; "139.4491739"^^xsd:float . "TekuTeku_Chigasaki_01"@ja, "千手院"@ja ; "神奈川県茅ヶ崎市代官町1-4"@ja ; "本尊千手観音が有名で、境内には稲荷明神堂が建立されています。浜降祭では御輿が境内を練り浄める祭事も行われています。"@ja ; "35.3376427"^^xsd:float ; "139.4334377"^^xsd:float . "TekuTeku_Chigasaki_02"@ja, "熊野神社"@ja ; "神奈川県茅ヶ崎市小和田2-3-66"@ja ; "旧小和田村の鎮守で、京都の高位の公家が東下り中に菱沼にあった牡丹餅茶屋で休憩し「相模なる小和田の浦の姥島は誰をまつやらひとり寝をする」と詠んだ歌碑があり、姥島(烏帽子岩)の帰属をめぐる伝説が残っています。"@ja ; "35.33972156"^^xsd:float ; "139.4319524"^^xsd:float . "TekuTeku_Chigasaki_03"@ja, "海前寺"@ja ; "神奈川県茅ヶ崎市本村4-21-34"@ja ; "藤沢市大庭・宗賢院の記録では、天正19年(1591年)創建。江戸初期の茅ヶ崎村領主で旗本、丸毛家の菩提寺となりました。"@ja ; "35.337322"^^xsd:float ; "139.415021"^^xsd:float . "TekuTeku_Chigasaki_04"@ja, "円蔵寺"@ja ; "神奈川県茅ヶ崎市十間坂1-3-39"@ja ; "慶安2年(1649年)、徳川家光から朱印状が与えられており、江戸時代には13の末寺を持つ中本山。"@ja ; "35.331734"^^xsd:float ; "139.402232"^^xsd:float . "TekuTeku_Chigasaki_05"@ja, "鶴嶺八幡宮"@ja ; "神奈川県茅ヶ崎市浜之郷462"@ja ; "伝説では平安時代後期に、矢畑に源頼義が創建。その後、現在地に遷座したといわれています。市内最古の神社で、境内にあった佐塚明神社では、江戸時代旧暦6月29日には、南湖の浜へ御輿の浜降りが行われていました。"@ja ; "35.338421"^^xsd:float ; "139.391203"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Chigasaki_06"@ja, "梅雲寺"@ja ; "神奈川県茅ヶ崎市下町屋2-14-15"@ja ; "明治19年(1886年)の『皇国地誌』には、慶長4年(1599年)に、寺名の由来となった広誉梅雲という僧が開いたと伝えられています。"@ja ; "35.33372309"^^xsd:float ; "139.3863137"^^xsd:float . "TekuTeku_Chigasaki_07"@ja, "上国寺"@ja ; "神奈川県茅ヶ崎市今宿488"@ja ; "江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』には、鎌倉後期の応永4年(1397年)に没した大乗院日経という僧がこの寺を開いたと記されています。本尊の日蓮上人木像は永正11年(1514年)の銘を持っています。"@ja ; "35.333594"^^xsd:float ; "139.381054"^^xsd:float . "TekuTeku_Chigasaki_08"@ja, "信隆寺"@ja ; "神奈川県茅ヶ崎市今宿841"@ja ; "寛永元年(1624年)、甲斐武田氏の流れを汲む武田信就が先祖の菩提を弔うため創建しました。出家した信就は信隆院日閑と名乗り、寺名としました。寛永元年の銘が刻まれた鰐口が伝わっています。"@ja ; "35.33331265"^^xsd:float ; "139.3782084"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Hiratsuka_01"@ja, "平塚八幡宮"@ja ; "神奈川県平塚市浅間町1-6"@ja ; "かつては相模国八幡庄の総鎮守で、今は平塚新宿・馬入・八幡地区の鎮守です。祭神は応神天早、神功皇后、武内宿禰命の三柱。"@ja ; "35.333983"^^xsd:float ; "139.349141"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Hiratsuka_02"@ja, "お菊塚"@ja ; "紅谷町公園の一角にあります。怪談「番町皿屋敷」に登場する菊女の墓跡に、昭和27年、有志によって建碑されました。"@ja ; "35.32836374"^^xsd:float ; "139.3469535"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Hiratsuka_03"@ja, "江戸口見附の跡"@ja ; "慶長6年(1601年)、東西の入口の街道を挟んだ両側に見附が構築され、東側の入口のものを江戸口見附といいました。"@ja ; "35.32896115"^^xsd:float ; "139.343904"^^xsd:float . "TekuTeku_Hiratsuka_04"@ja, "平塚の里歌碑"@ja ; "市民センター中庭に、文明12年(1480年)『平安紀行』の作者が上洛の途次、平塚の地を詠じた平家の里歌碑があります。昭和32年に束京都から江戸城の石垣と井戸枠を贈られ、平塚の里歌碑はこの石垣でできています。"@ja ; "35.32899791"^^xsd:float ; "139.3435307"^^xsd:float . "TekuTeku_Hiratsuka_05"@ja, "脇本陣跡"@ja ; "天保年間に、西仲町にあった脇本陣が二十四軒町北側の地に移りました。宿内唯一の脇本陣です。"@ja ; "35.32812747"^^xsd:float ; "139.3402293"^^xsd:float . "TekuTeku_Hiratsuka_06"@ja, "高札場跡"@ja ; "二十四軒町にあった平塚宿公用の掲示板が置かれた場所です。日本橋からの 距離を測るポイントとされていました。"@ja ; "35.32784378"^^xsd:float ; "139.3390927"^^xsd:float . "TekuTeku_Hiratsuka_07"@ja, "東組問屋場跡"@ja ; "慶安4年(1651年)に八幡新宿が加宿されたときに、八幡新宿の二十四軒町に増設された問屋場で、八幡新宿(後の平塚新宿)が経営にあたりました。"@ja ; "35.32766995"^^xsd:float ; "139.3390955"^^xsd:float . "TekuTeku_Hiratsuka_08"@ja, "本陣旧跡"@ja ; "天保14年(1843年)当時の本陣は総ケヤキ造りで建坪は163坪、座敷数が20もあり、門は乗馬したまま出入りができるよう、高くできていました。"@ja ; "35.32752232"^^xsd:float ; "139.3377773"^^xsd:float . "TekuTeku_Hiratsuka_09"@ja, "西組問屋場跡"@ja ; "慶長6年(1601年)、伝馬制度がはじまった時、西仲町北側に置かれた平塚宿の問屋場です。参勤交代が定められ、次第に人と物資の往来が多くなり、慶安4年(1651年)に東組問屋場が設立され、交互に伝馬業務を勤めるようになりました。"@ja ; "35.3270647"^^xsd:float ; "139.3360742"^^xsd:float . "TekuTeku_Hiratsuka_10"@ja, "平塚の塚"@ja ; "桓武天皇の孫・高見王の子、平政子が東国へおもむく途中、この地で亡くなったため、塚がつくられ、それがいつしか平らになったために「平塚」と呼ばれるようになったといわれています。"@ja ; "35.32838201"^^xsd:float ; "139.335224"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Hiratsuka_11"@ja, "お初の墓"@ja ; "旧廣蔵寺墓地にあります。歌舞伎「加賀見山旧錦絵」の義女「お初」のモデルといわれる「松田たつ」の墓。かたわらに昭和10年に建立された顕彰碑があります。"@ja ; "35.3286428"^^xsd:float ; "139.3347144"^^xsd:float . "TekuTeku_Hiratsuka_12"@ja, "春日神社"@ja ; "神奈川県平塚市平塚4-18-1"@ja ; "平塚本宿の鎮守。祭神は天児屋根命で、建久2年(1191年)に源頼朝が勧請し、もとは「黒部宮」といい、海岸近くにありましたが、津波の被告を受け、柳町の地に移ったといわれています。"@ja ; "35.328263"^^xsd:float ; "139.334029"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Hiratsuka_13"@ja, "教善寺"@ja ; "神奈川県平塚市平塚3-13-18"@ja ; "本尊の聖観世音立像は祈願すると、眼病平癒に効果ありといわれています。"@ja ; "35.325795"^^xsd:float ; "139.335145"^^xsd:float . "TekuTeku_Hiratsuka_14"@ja, "薬師院"@ja ; "神奈川県平塚市平塚3-14-18"@ja ; "弘法大師がこの地で、喉が渇き、村人から恵んでもらった水のお礼に、地面を突いたところ、清水が湧き出たといわれています。その地に建立されたことから薬師院は「清水の寺」とも呼ばれています。"@ja ; "35.324718"^^xsd:float ; "139.335236"^^xsd:float . "TekuTeku_Oiso_01"@ja, "高来神社"@ja ; "神奈川県中郡大磯町高麗577"@ja ; "明治以前には高麓寺山頂に高麗権現社が祀られていました。下社には本地仏として定められた千手観音が祀られ、神仏習合の地でした。明治以後、神仏分離により、神は高来神社に、仏は慶覚院に納められています。"@ja ; "35.322162"^^xsd:float ; "139.324513"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Oiso_02"@ja, "化粧井戸"@ja ; "化粧坂付近に住んでいた虎御前(曽我十郎の妻)が、朝夕この井戸の水を汲んで化粧していたことから、この名がついたといわれています。"@ja ; "35.31848376"^^xsd:float ; "139.3226383"^^xsd:float . "TekuTeku_Oiso_03"@ja, "小島本陣跡"@ja ; "大磯宿の代表的本陣で、明治元年(1868年)の東幸にあたり、明治天皇の御宿泊所となりました。"@ja ; "35.30951578"^^xsd:float ; "139.3154614"^^xsd:float . "TekuTeku_Oiso_04"@ja, "延台寺"@ja ; "神奈川県中郡大磯町大磯1054"@ja ; "元は法虎庵と称した虎御前の草庵。日道上人が旅の途中に一夜の宿をとられ、この庵の荒廃を嘆き、開山しました。寺には、曽我十郎の「身代わり石」とされる「虎御石」があります。"@ja ; "35.310173"^^xsd:float ; "139.316493"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Oiso_05"@ja, "地福寺"@ja ; "神奈川県中郡大磯町大磯1135"@ja ; "弘法大師坐像や地福寺文書があります。境内には島崎藤村の墓があり、その隣には静子夫人の墓があります。"@ja ; "35.30950337"^^xsd:float ; "139.3143725"^^xsd:float . "TekuTeku_Oiso_06"@ja, "新島襄終焉の地"@ja ; "明治の三大教育家と知られる同志社の新島襄は、大磯の旅館百足屋で47歳の生涯を閉じました。徳富蘇峰の筆による碑が、かつて百足屋の玄関だったところに門下生によって建てられています。"@ja ; "35.307472"^^xsd:float ; "139.314106"^^xsd:float . "TekuTeku_Oiso_07"@ja, "鴫立庵"@ja ; "神奈川県中郡大磯町大磯1289"@ja ; "西行法師が詠んだ「心なき身にもあわれは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」という名歌はここからの風景を詠んだものといわれています。後に崇雪が西行を慕い訪れ、「湘南清絶の地」と絶賛し、草庵を結びました。"@ja ; "35.3073664"^^xsd:float ; "139.3119041"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Oiso_08"@ja, "旧島崎藤村邸"@ja ; "神奈川県中郡大磯町東小磯88-9"@ja ; "「破戒」などの名作を残した文豪島崎藤村が左義長を見て、大磯を気に入り、71歳で永眠するまでの2年半をこの場所で過ごしました。"@ja ; "35.30887012"^^xsd:float ; "139.3089878"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Oiso_09"@ja, "城山公園"@ja ; "神奈川県中郡大磯町国府本郷 551-1"@ja ; "もとは三井総領家三井高棟の別荘地でした。高棟は昭和9年に「城山荘本館」を山頂に築き、大雄殿をはじめとして、国宝茶室「如庵」などがありました。現在は、県立公園となり、憩いの場となっています。"@ja ; "35.304455"^^xsd:float ; "139.290583"^^xsd:float . "TekuTeku_Oiso_10"@ja, "西長院"@ja ; "神奈川県中郡大磯町国府本郷513"@ja ; "「身代わり地蔵尊」を安置するため1689年(元禄2年)に建立され、昭和の初めに国道の拡幅工事により現在地へ移転しました。この身代わり地蔵尊、信仰する者の危難を身代わりとなって救うと言われ、身体には刀傷のような痕が残っています。(大磯町指定重要文化財)(注記)平時は公開していません。"@ja ; "35.30416097"^^xsd:float ; "139.2891473"^^xsd:float . "TekuTeku_Oiso_11"@ja, "六所神社"@ja ; "神奈川県中郡大磯町国府本郷935"@ja ; "もとは石神台の地に置かれていましたが、大化改新後、現在地に移りました。その後、相模国府がこの地に移り、相模の六社の分霊が六所神社に祀られ、相模の総社となりました。"@ja ; "35.30678"^^xsd:float ; "139.274318"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Ninomiya_01"@ja, "吾妻神社"@ja ; "神奈川県中郡二宮町山西吾妻山1117"@ja ; "この神社は日本武尊の妻、弟橘媛命が夫の武運を祈り、海に身を投げ、その後、海辺に流れ着いた櫛を吾妻山山頂に埋めた場所だと伝えられています。また、役場横の階段を登った山の頂上には公園があり、相模湾を見下ろせて、眺めは格別です。"@ja ; "35.298291"^^xsd:float ; "139.250349"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Ninomiya_02"@ja, "等覚院"@ja ; "神奈川県中郡二宮町山西793"@ja ; "別名、藤巻寺と呼ばれ、薬師堂の前には町の天然記念物に指定されている古いフジの木があります。もとは吾妻神社の別当坊千手院にあったと伝えられる梵鐘は町指定の重要文化財です。"@ja ; "35.295244"^^xsd:float ; "139.24727"^^xsd:float . "TekuTeku_Ninomiya_03"@ja, "川勾神社"@ja ; "神奈川県中郡二宮町山西宮山2122"@ja ; "相模国の二の宮として、源頼朝をはじめ多くの武将に崇敬されました。"@ja ; "35.3001298"^^xsd:float ; "139.2380976"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Ninomiya_04"@ja, "一里塚の跡"@ja ; "「江戸より十八里」の一里塚のあった箇所に、昭和57年、一里塚の跡の碑が築かれました。"@ja ; "35.29191694"^^xsd:float ; "139.241368"^^xsd:float . "TekuTeku_Ninomiya_05"@ja, "松屋本陣跡"@ja ; "大磯宿と小田原宿との間(あい)の宿にあった松屋本陣は、将軍や大名、旗本、門跡などの休憩所として利用されました。"@ja ; "35.29103886"^^xsd:float ; "139.2397125"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_01"@ja, "長泉寺"@ja ; "神奈川県小田原市前川998-1"@ja ; "近代文学の先駆者、北村透谷が一時期、生活した寺です。親友の島崎藤村はここに透谷を訪ね、前川の海で遊んだことを小説「春」に書きました。"@ja ; "35.2851122"^^xsd:float ; "139.2224762"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_02"@ja, "宝金剛寺"@ja ; "神奈川県小田原市国府津2038"@ja ; "古義真言宗の近郷三十一ケ寺の本山。かつて小田原北条氏の祈願所として、厚い信仰と保護を受けていました。"@ja ; "35.28538268"^^xsd:float ; "139.208094"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Odawara_03"@ja, "眞楽寺"@ja ; "神奈川県小田原市国府津3-2-22"@ja ; "親鸞上人が命名した寺。上人が石に指頭で名字を書かれたといわれる、2メートルほどの帰命石と呼ばれる石があります。"@ja ; "35.2802692"^^xsd:float ; "139.2100064"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Odawara_04"@ja, "新田義貞の首塚"@ja ; "越前藤島で討死した新田義貞の首を、故郷に葬ろうとした家臣宇都宮泰藤がここで病で没した際、義貞の首をいっしょに埋葬したといわれています。"@ja ; "35.2591107"^^xsd:float ; "139.1778115"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_05"@ja, "上杉龍若丸墓"@ja ; "天文21年(1552年)、北条氏康によって殺害された龍若丸らの墓です。"@ja ; "35.25788189"^^xsd:float ; "139.1757538"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_06"@ja, "篠曲輪跡"@ja ; "天正18年(1590年)の小田原城攻防戦で一番戦闘の激しかった場所です。"@ja ; "35.256036"^^xsd:float ; "139.169988"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_07"@ja, "江戸口見附と一里塚"@ja ; "大きな松の老木が、小田原宿の東の玄関口、江戸口見附跡です。"@ja ; "35.25472758"^^xsd:float ; "139.1678116"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_08"@ja, "北条稲荷と蛙石"@ja ; "北条氏康の死去を老狐の崇りと考えた、その子氏政が社を建てて、その老狐を祀り、守護神として崇めました。また、神社の境内にある蛙に似た蛙石は、天正18年(1590年)の小田原城落城前夜、夜泣きしたと伝えられています。"@ja ; "35.25384079"^^xsd:float ; "139.1684926"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_09"@ja, "小田原城蓮上院土塁"@ja ; "小田原北条氏時代の小田原城の総構遺構。低地に残るものは早川遺構とこの土塁だけで貴重な遺跡です。"@ja ; "35.25504162"^^xsd:float ; "139.1659652"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_10"@ja, "松原神社"@ja ; "神奈川県小田原市本町2-10-16"@ja ; "小田原宿の総鎮守で、祭神は日本武尊。小田原北条氏の深い庇護により、隆昌しました。"@ja ; "35.249434"^^xsd:float ; "139.159881"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Odawara_11"@ja, "徳常院"@ja ; "神奈川県小田原市本町3-13-11"@ja ; "曹洞宗の寺院。境内には、江戸時代、箱根の賽の河原にあり、明治時代に移された地蔵菩薩が安置されています。像は青銅製で、高さ5メートルにおよぶ大仏です。"@ja ; "35.24695419"^^xsd:float ; "139.1596082"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_12"@ja, "北村透谷の碑"@ja ; "近代文学の先駆者、北村透谷の碑です。碑文ならびに書は島崎藤村が、碑のデザインは日本美術院同人牧雅雄氏が手がけました。"@ja ; "35.2448493"^^xsd:float ; "139.1540493"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_13"@ja, "小田原城"@ja ; "神奈川県小田原市城内6-1"@ja ; "前身は、室町時代に大森氏が築いた山城。その後、戦国大名小田原北条氏、譜代大名大久保氏等、城主は変わりましたが、大いに栄えました。現在、城址公園である本丸・二の丸は国指定史跡として、銅門(あかがねもん)や馬出門(うまだしもん)などの復元整備も進み、当時の様子を伝えています。"@ja ; "35.251047"^^xsd:float ; "139.153417"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Odawara_14"@ja, "報徳二宮神社/報徳博物館"@ja ; "神奈川県小田原市城内8-10"@ja ; "報徳二宮神社は小田原の生んだ農聖、二宮尊徳(金治郎)翁を祀るため、明治27年(1894年)に創建されました。また、報徳博物館は幕末の疲弊した社会の再建人・尊徳二宮金次郎の、「報徳」と呼ばれる人づくり、国づくりの思想とその業績を伝える博物館です。 (注記)毎週水曜日定休日"@ja ; "35.24996"^^xsd:float ; "139.152752"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Odawara_15"@ja, "清閑亭"@ja ; "神奈川県小田原市南町1-5-73"@ja ; "清閑亭は、明治末期から大正初期にかけて黒田長成侯爵の別邸としてつくられた邸園(建物と庭園)です。建物は国の登録有形文化財となっています。"@ja ; "35.248252"^^xsd:float ; "139.152511"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Odawara_16"@ja, "居神神社"@ja ; "神奈川県小田原市城山4-23-29"@ja ; "板橋と山角町の氏神。境内には鎌倉末期の古碑群が残されています。"@ja ; "35.24705475"^^xsd:float ; "139.1481586"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_17"@ja, "傳肇寺"@ja ; "神奈川県小田原市城山4-19-8"@ja ; "浄土宗の寺。創建は1300年代。詩人の北原白秋が境内に「みみづくの家」を建て、大正7年から15年まで、ここでたくさんの童謡を発表した。山田耕筰作曲の「かやの木山の」のモデルの木が境内に立っている。"@ja ; "35.248568"^^xsd:float ; "139.147849"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Odawara_18"@ja, "光円寺"@ja ; "神奈川県小田原市城山4-23-32"@ja ; "寛永年間に、三代将軍家光の乳母である春日の局が開基した寺です。"@ja ; "35.24654432"^^xsd:float ; "139.1478557"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Odawara_19"@ja, "大久寺"@ja ; "神奈川県小田原市城山4-24-7"@ja ; "日蓮宗で、小田原大久保氏の氏寺。寺内の墓所には開基忠世をはじめ大久保氏の墓があります。"@ja ; "35.2457446"^^xsd:float ; "139.1483689"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_20"@ja, "古稀庵"@ja ; "明治の元勲山縣有朋が、明治40年(1907年)に構えた別荘で、「古稀庵」と命名されました。残念ながら当時の建物はありませんが、近代日本庭園の傑作といわれる庭園は毎週日曜日に参観できます。"@ja ; "35.24896856"^^xsd:float ; "139.1437796"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Odawara_21"@ja, "板橋の地蔵尊"@ja ; "神奈川県小田原市板橋566"@ja ; "「板橋のお地蔵さん」と地元で親しまれています。永禄12年(1569年)香林寺九世の文察和尚が、湯本宿の古堂に祀られていたものを現在地に移転しました。"@ja ; "35.24779528"^^xsd:float ; "139.1409321"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_22"@ja, "小田原用水(板橋上水)取水口"@ja ; "小田原北条氏時代に小田原では古水道がつくられ、城下での飲用水として使われていました。この地は、その際の取入口で早川の水を取り入れていました。"@ja ; "35.2467389"^^xsd:float ; "139.1396648"^^xsd:float . "TekuTeku_Odawara_23"@ja, "萬松院"@ja ; "神奈川県小田原市風祭863"@ja ; "徳川家康の嫡男松平信康供養のために文禄元年(1592年)、小田原城主大久保忠世が開基しました。"@ja ; "35.24804816"^^xsd:float ; "139.1256684"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Odawara_24"@ja, "長興山紹太寺"@ja ; "神奈川県小田原市入生田303"@ja ; "黄檗宗の名僧鉄牛和尚が開山。小田原藩主稲葉正則は寛文9年(1669年)、城下の山角町(南町)にあった菩提寺を入生田村に移し、長興山紹太寺を建立しました。稲葉一族の墓所や鉄牛和尚の寿塔があります。"@ja ; "35.2427342"^^xsd:float ; "139.1205979"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Hakone_01"@ja, "早雲寺"@ja ; "神奈川県足柄下郡箱根町湯本405"@ja ; "大永元年(1521年)、伊勢宗瑞(北条早雲)の遺命によりその子、北条氏綱が建てた京都紫野大徳寺派の名刹です。この寺には小田原北条文化の香りを伝える数多くの文化財が残されており、小田原北条文化を語るのに欠くことのできない寺です。"@ja ; "35.23010293"^^xsd:float ; "139.103671"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Hakone_02"@ja, "正眼寺"@ja ; "神奈川県足柄下郡箱根町湯本562"@ja ; "建立は鎌倉時代まで遡ります。江戸時代には、東海道を挟んで反対側に地蔵堂もありました。慶応4年(1868年)、戊辰戦争の「箱根山崎の戦い」において敗走する遊撃隊の放火により、焼失しました。現在の本堂は、昭和7年に別荘を移築したものです。"@ja ; "35.22848545"^^xsd:float ; "139.100131"^^xsd:float . "TekuTeku_Hakone_03"@ja, "鎖雲寺"@ja ; "神奈川県足柄下郡箱根町須雲川147"@ja ; "夫唱婦随で見事仇討ちの本懐を遂げた物語「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)」の主人公、勝五郎とその妻初花の墓があります。"@ja ; "35.2205249"^^xsd:float ; "139.0742624"^^xsd:float . "TekuTeku_Hakone_04"@ja, "芦之湯への道標"@ja ; "箱根七湯のひとつ、芦之湯へ向かう「滝坂道」を示す道標です。箱根八里から芦之湯へ向かう近道として江戸時代から湯冶客が足を運んでいますが、急坂で困難な道です。"@ja ; "35.21280268"^^xsd:float ; "139.0625707"^^xsd:float . "TekuTeku_Hakone_05"@ja, "畑宿一里塚"@ja ; "江戸日本橋から数えて、23番目にあたる一里塚。平成10年、復元整備が完成し、現在はどこか昔ながらの趣のあるくつろぎスポットです。"@ja ; "35.21136124"^^xsd:float ; "139.0622788"^^xsd:float . "TekuTeku_Hakone_06"@ja, "甘酒茶屋"@ja ; "神奈川県足柄下郡箱根町畑宿二子山395-1"@ja ; "江戸時代、箱根八里には13箇所に「甘酒茶屋」がありました。ここには3、4軒の甘酒茶屋が軒を並べていました。"@ja ; "35.202249"^^xsd:float ; "139.04872"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Hakone_07"@ja, "お玉ヶ池"@ja ; "関所破りをした玉という娘が処刑されたのが、この池の近くだったことから名付けられました。その由来となる石碑が池のほとりにあります。"@ja ; "35.206036"^^xsd:float ; "139.041381"^^xsd:float ; . "TekuTeku_Hakone_08"@ja, "六道地蔵への道標"@ja ; "箱根八里から六道地蔵(鎌倉時代に建立された磨崖仏:国指定重要文化財)を経て、箱根七湯へと向かう道の分岐点を示す道標です。享保年間に江戸の人によって建立されたものです。"@ja ; "35.20408907"^^xsd:float ; "139.0358246"^^xsd:float . "TekuTeku_Hakone_09"@ja, "権現坂"@ja ; "芦ノ湖が見えてくる、一番景色のよい下り坂です。坂の長さが8町(約870メートル)あるので、八町坂ともいわれます。"@ja ; "35.20374501"^^xsd:float ; "139.034661"^^xsd:float . "TekuTeku_Hakone_10"@ja, "ケンペル・バーニーの碑"@ja ; "およそ300年前来日したドイツ人医師である博物学者のケンペルが、日本の山々や自然の美しさなどを称え、記したのが『日本誌』です。その後、イギリス人貿易商バーニーは、ケンペルの書いた『日本誌』に感激し、箱根の自然保護を訴えました。この2人の功績を称える石碑が、箱根旧街道の杉並木の入口に立っています。毎年4月12日には、ケンペル・バーニー祭が行われます。"@ja ; "35.20303427"^^xsd:float ; "139.0331108"^^xsd:float . "TekuTeku_Hakone_11"@ja, "箱根神社"@ja ; "神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1"@ja ; "関東総鎮守として、源頼朝をはじめ後北条氏など代々の武将の信仰を集めていました。紅葉の時期、芦ノ湖の対岸からみる箱根神社はオススメの写真撮影スポットです。"@ja ; "35.20475412"^^xsd:float ; "139.0253713"^^xsd:float ; ; . "TekuTeku_Hakone_12"@ja, "賽の河原"@ja ; "地蔵信仰の霊地として、参拝者を集めていたところで、箱根町の指定史跡となっています。江戸時代には、芦ノ湖のほとりに沿って広く、石仏・石塔が並んでいましたが、明治に入って廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の際、多くの石仏が失われ、また、芦ノ湖の整備などにより徐々に規模が縮小され、現在にいたっています。"@ja ; "35.20113631"^^xsd:float ; "139.0308131"^^xsd:float . "TekuTeku_Hakone_13"@ja, "箱根関所"@ja ; "神奈川県足柄下郡箱根町箱根1"@ja ; "主として諸大名の謀反防止のために開設されたといわれ、「出女」を厳重に取り締まりました。平成19年3月に足掛け9年の歳月をかけて、幕末の関所の姿が復元されました。それは江川文庫(静岡県伊豆の国市)に残っていた史料を基に忠実に当時の姿に復元したものです。"@ja ; "35.19236399"^^xsd:float ; "139.0262353"^^xsd:float ; ; .

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