◆だいやまーく 2. 江合川の洪水
有史以来、北上川の洪水に関する記述のある最も古い史書は『日本後記』であり、その中には平安初期(811年)大和政権による陸奥開拓の前進基地であった志波城(盛岡市)が降雨のために兵糧の輸送が停滞していること、また河川(往時の雫石川)に近いため、たびたび洪水による被害を受けていることなどが記されている。
明治期における最大の洪水は、明治43年8月から9月にかけての長雨によるもので、また、昭和22年のカスリン台風などで、北上川流域は甚大な水害の被害をうけた。
江合川の水害の様子について、鳴子ダムのパンフレットより追ってみたい。
?@ 明治43年8月の水害
「バシャバシャと屋根に音を立てて降る雨。夕方からは青白い光とともに、バリバリと大地を引き裂くような不気味な雷も鳴り始めました。「川は大丈夫だろうか。」川をよく見てみると、少しずつ水が増えています。ゴウゴウとうなりながら、勢いよく流れる川。いつ堤防が崩れるか、人々は不安を抱きながら見守っていました。
日が暮れていくにしたがって、雨はますます強くなり、雷と一緒になって地響きのような音を立てます。さらに裏の山までがゴーッと鳴り始め、まったく生きた心地がしませんでした。「山崩れだ!逃げろーっ。」低い所では水が出て危ないからと、山の上に避難していたのに、その山が崩れ落ちて沢山の人々が土砂にのみ込まれてしまいました。「助けてー。」「助けてくれー。」倒れた家の下から、かすかに声が聞こえます。人々は急いで駆けつけて屋根を壊し、下敷きになっている人を助け出しました。どこかで火事が起きたらしく、大きな炎が夜空に向って吹き上げています。あちらこちらから、逃げ遅れた人の叫び声が聞こえてきました。
この水害により、鳴子・川渡地区だけでも110人が死亡、行方不明28人、水に流された家173戸、雨や風などで倒れてしまった家158戸などこれまでにないほどの被害となりました。」
?A 昭和22年から4年間の洪水
「昭和22年、日本各地で大きな被害をもたらしたカスリン台風。鳴子地区でも9月3日から雨が降り始め、大きな爪あとを残しました。川の堤防が次々と決壊し、あふれ出した水で、町はまるで湖のようになってしまいました。それでも雨は降り止まず、15日の朝には鬼首(おにこうべ)にある荒雄川大橋が流されました。鳴子温泉では激しい流れと山崩れで、たくさんの旅館や家が流されたり押しつぶされたりしました。
江合川のそばにあった鳴子分院は、川からあふれた激しい水を正面から受け、あっという間に流れにのまれてしまいました。あまりに急な出来事に、鳴子分院にいた人々は逃げ出すことができず、水の中に取り残されて危険な状態でした。しかし、消防署の人たちが駆けつけ、危険な状況の中、必死になって救助にとりかかり、全員の無事が確かめられました。
カスリン台風による被害の復旧作業が進んでいた昭和23年9月12日、再び大きなアイオン台風が町を襲い、人々の大切な財産を奪っていきました。翌年の8月末、そしてさらに翌年の8月初めにも台風や大豪雨が町を襲い、普通の暮らしができなくなるほどの大きな被害をもたらしたのです。4年連続で起きたこの水害で、町の人々は「安心して生活できるよう、しっかりと川を治める工事をしてほしい」と県や国にお願いしました。」