「昭和44年7月補償基準が発表されたが、連合会で独自の計算によって作った補償基準書を提出して、要求書による補償を強く求めた。白川ダム補償交渉に入って掲げた標語は「善意と信頼」であった。補償は難航した。............10月に入ってようやく一致点に到達して、45年10月25日、山形市農業会館で調印が終わり、ダムの実現に大きく踏み出した。」(白川ダム20年のあゆみ)と述べている。男鹿会長の補償交渉の原則に「善意と信頼」を掲げたことは特筆に値する。この補償の精神を貫いたことが、交渉は難航したものの起業者と地権者との合意に達することになったのではなかろうか。