河川学者安藝皎一とTVAの精神:戦後
敗戦直後の昭和21年、内務省土木試験所(現土木研究所)所長となる。「今後における土木事業遂行に就(つい)ての構想」で強調する。
「国土は疲弊しきっているが、土木技術者は民主国家設立のために率先して事業を展開し、同時に事業内容を極力国民に公開する努力をしなければならない」。敗戦後の日本列島は大型台風に次々に襲われ国土は疲弊した。国土復興への優先課題のひとつが大洪水対策だった。昭和23年、氏はGHQ天然資源局の要請を受けて経済安定本部資源委員会事務局長に就任した。
GHQ資源局の年下の顧問エドワード・アッカーマン博士との巡り会いは氏にとって「第二の衝撃」であった。同氏はニューディール政策信奉者の進歩的地理学者で、「日本は資源の有効な活用を図れば敗戦の貧困から脱出できる」と提唱し、安藝に資源活用の方法、中でも水資源活用に積極的に取組むよう働きかけた。それはTVAをモデルとしたダム建設と総合的な地域開発を目指すよう求めたものだったが、資源を水資源のみに限定せず、土地資源、エネルギー資源などにも適用した概念であった。いずれも敗戦国の緊急課題ばかりであった。
安藝はTVAの現場を是非視察したいと考えた。米軍占領下の25年5月から4カ月間、氏はアメリカを訪問する機会に恵まれた。現場を視察して「TVA方式」が敗戦後の日本を救うカギであると確信するようになった。英会話の得意な氏には通訳は必要なかった。
帰国後、TVAや土壌保全事業などについて視察談を刊行した。27年『河川工学序説』を刊行した。「我々は技術者に与えられた任務は河川をして我々の生活環境の向上に資せしめなければならぬものであり、国家資源としての水の最大利用を企てるにあると言える」。大洪水対策から水資源確保へ、さらには資源の総合利用へと、氏の専門分野は大きく広がっていく。ここに敗戦国日本を救い民主化を促進する公共事業としてダム建設が進められることになり、大小河川の渓谷ではダム建設の槌音が響くのである。
30年ジュネーブでの国連第一回原子力平和利用国際会議に出席した氏は、資源小国日本のエネルギー問題と原子力開発の関係を深刻に考慮する立場に立たされた。
敗戦国のエネルギー問題は、電源開発ブームが最高潮に達した頃から石炭から石油へのエネルギー革命が進む。新しいエネルギー源として原子力開発が台頭する。氏は原発問題にも取組む。昭和35年、国連のエカフェ(ECAFE,アジア極東経済委員会)治水水資源開発局長としてバンコクに夫人同伴で赴(おもむ)いた。
日本人技術官僚としては国連高級スタッフの最高ポストである。その後もメコン河などアジアの国際河川に強い関心を持ち、メコン委員会では開発計画へ助言を続けた。タイでは水資源開発や地域開発を助言した。日本大学・関東学院大などで教鞭をとるかたわら40年代以降はユネスコ水文学10年計画、世界動力会議などの国際会議に精力的に参加し、時に議長を務めた。60年4月27日他界。享年83歳。
総合的地域開発と民主主義の進展
アメリカ・TVAの影響を受けて出発した日本の戦後大ダム建設の歴史(政策と実践)を検証するにあたって、私の論点は、リリエンソールに倣(なら)って言えば「戦後のダム建設は総合的な地域開発と地域・流域の民主化に寄与したか?」ということになる。ダム建設は、流域住民の心も暮らしも豊かに出来たか、との問いである。大ダム建設の計画から竣工までの経過を追うことにより、その歴史的現実を描いていきたい。技術論は私の任ではないが、必要に応じて私見を述べることにする。
私は、安藝の足跡確認調査に歩調を合せるようにこの2年間、国内各地でダム取材を続けてきた。国土交通省や各電力会社・電源開発株式会社それに(独)土木研究所などの多くの機関や関係者にご協力をいただいたが、様々な理由により原稿執筆が大幅に遅れてしまった。ここで紙面を借りてお礼と共にお詫びを申し上げ、今回の連載を読んでいただくことで、私の「ダム論」を改めて理解していただければと念ずる次第である。今日流行の「脱ダム宣言」との「流行作家的パフォーマンス」とは、スタンスを異にすることも書き添えておく。次回9月号から連載を始める。