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喫茶喫飯
10月のお茶会のテーマは「食」。
収穫の秋、食欲の秋、紅葉の秋、と自然の恵みを感じつつ、読書で夜なべの秋。
読書は最近、活字不足で、日経新聞の文化欄のみは新聞で。10回シリーズの絵画の解説面白い。将棋が平安の昔から行われ、擬人化した江戸期の絵など。
「喫茶喫飯」はお茶を飲むときはお茶だけのことを頭において飲む。そう言えば茶かぶきと言う茶道の遊び?にお茶の味を比べるてあてる、というのがある。お茶だけのことに集中せねば比べられない。
喫飯も粗食であっても、食べられることに感謝もしつつの意味があるのではないか。
ある店でランチしていると、頭の中はいろいろな予定の日をどうしよう?という構図。この言葉をふと思い出して、魚の骨から身をほぐす。
さっと、食べて、さっと飲んで、仕事仕事の現代。
ものごとに集中することもなく、ただ時間に流されている。
お茶会に来て、携帯電話をずっと見てる人がいたので注意して、まさにぴったりんの言葉だった。
ちょっと、立ち止まり。
まあ、予定びっしりで忙しくないと、我慢できない習慣が日本人にはできてしまったのではあるが。
清風払名月
毎月、お茶会を主催している(お点前する人は別)が、そのテーマはこれまでいろいろだった。
お茶とお菓子の後にスピーカーの話を聞くなど。
だが、最近気がついた。
月見をテーマにしたときに「清風払名月」という禅語。
茶掛けになっているのを発見。
お月さまは2500年以上も前に中国ではその存在を愛で、天体系で貴重だった。
この禅語は真っ暗な中での月の光、お月さまはこの上なく美しく、最上の美であるという意味。同時に「名月払清風」というのもあり、自然に対する古代の人達の感性は偉大なり。
今後はテーマに関する禅語を紹介していくことに。
一瞬でもふと、立ち止まる。
現代には必要!
そのことを思いついたのは、中国歴史ドラマ「少林聞道」にも関連がある。
とても面白く、いい言葉がたくさん出て来る。
最終章まで録画してるが、観終わるのが惜しい。
句会
今日は俳句の会・旬の会だ。
始めてから2年は経つけど、全然風情のない句ばかりで。
毎日作ればいいということだが、それもできない。
年齢層は高いので、それなりの句が披露される。
句会は年齢層で評価が決まるように思う。
と言っても似たような年齢だが。
自分がこれいんじゃない、と思っても評価は低い。
また、同じところに興味がないと。
昔を偲ぶとかは好きではないが、そういうの人気。
なので、毎日作るのはやめて、句会が終わって
数日間だけテーマについて作るのみ。
楽しみなのは、食事なので。
亥年
あっという間に戌年が行ってしまった。
お寺で豆まきして、次に豆まきする時はこんな気持でやろうと思うところがあったので、次回に持ち越したい。
日本好きなポーランドの版画家がいて、亥の画があるのでそれを観て今年は暮らそう。
彼は買った頃は若かったけど、今何歳だろう。
1回しか刷らないとのことだった。
「楢山節考」というのもあって、なぜか好きだったので買った。
お正月に食べるもの。
黒豆、お雑煮。
黒豆は玄米炊き電気釜でスイッチオン。
お雑煮は牡蠣と鶏肉。
日頃観ないテレビで歌舞伎など鑑賞。
でも、中国歴史ドラマが面白い。
着物ファッションをこの歴史ドラマから考案中。
帯など簡単に。
能の衣裳も似たようなもの。
何かわくわくしてきた。
了
クリスマス・イブ
今日はその日である。
23日からクリスマスと言われているのは天皇誕生日の休日ゆえ。
来年からはどうなるのか。
12月9日にすぐ近くの教会で、バリトンとソプラノの夫婦がクリスマスコンサートをするというチラシが入っていて、行ってきたのでクリスマス気分はもう味わった。
しばらく、クリスマスの歌を歌っていた。
祖母が寺の出身だったので、お寺の行事にはよく行った。
しかし、母がミッションスクール卒だったためか小学生の頃は歩いて15分位の教会の日曜学校に行かされて、行きたくない日も多かったが。
クリスマスはキリスト誕生劇などをして、賛美歌を歌い、プレゼントももらった。
その頃、ケーキは珍しくて、とてもおいしい食べ物だった。
日曜学校に行ったおかげで、クリスマスの代表的な賛美歌は歌える。
賛美歌は16世紀宗教改革のマルチン・ルターがキリスト教広報のために作られたとか。
バロック音楽のルーツでもある。
小学生の頃の環境は和も洋も基本的路線が耳に入った1個人である。
今日は苺のショートケーキが食べたい気がしてきた。
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心地いい音
能を習っているわけではないが、能楽堂の公演には行く。
能2曲、狂言1曲
最近の狂言は若い役者がキンキン声で張り合う傾向にあるので、役者によっては観ないで休憩。
能の話もわかったようなわからないような話で、理解などしているわけではない。
では、なぜ4時間近くもその場にいることができるのか。
それは、発する音が心地いいからだと気づいた。
テレビは全然観ないので、静かな生活。
日中は出入り多く、パソコンに向かっているが、夜は気に入ったドラマ(中国歴史)や昔の日本映画を観て過ごす。昔の映画はうるさくない。
この心地よい音は昔隣に謡の師匠がいたので聞きなれているためだろうか。
年取ったからだろうか。
携帯の音? 電話の音?
とかく音に敏感な時代。
そして、騒がしい。
そんなことを気にすることもなく、能舞台の音は心地いい。
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