'13-14-7 東海道歩き(四日市〜亀山まで)

『嬉しいご案内』
或る会社のHPに私のこのブログをリンクさせて頂けることになりました
会社のHPと言っても、その中にある1つのカテゴリーなのですが、そこに書かれているのが 『元気の出るブログ・愉快満載の百科店」 となっていて、内容は「いつだって街歩き」「パソコンよろずマニュアル」「満点デジカメライフ」「錦町世情研究所」などがあって、ここの私のブログを転載させて頂けることになったのです

その名は 『サンキyou広場

どうぞ この広場にもお越し下さいますようお願い致します

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Photo
歌川広重 東海道五十三次 「四日市」の図

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'13/5/13
今日の行程は 1時方向の四日市から8時方向の亀山まで
天気も昨日に比べると雲が少しあり、風も少しですが身体に感じます

ただ、昨夜は寝付きが悪く と言うよりは殆ど寝られませんでした
原因は 枕 なにしろ固い フロントへ行けば他の枕と取り替えてくれる となってますが、いいオッサンが枕を担いでフロントへ行けますか(笑)
これが祟っているようで、この日は何しろ疲れました

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左・右 0:00 日永(ヒナガ)追分
日永の追分は、京(右方向)に向かう東海道と、伊勢(左方向)に向かう伊勢街道の分岐点にあたります。
ここには桑名の一の鳥居に対する二の鳥居が建てられました

右の道標には
「右京大坂道 左いせ参宮道」「すく江戸道」「嘉永二(1849)年己酉春二月」 と刻まれているそうですが、達筆すぎて私にはよく読めません

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左: 9:00 曲がり角や、軒先にこのような「案内板」が提げられています が、幅が3〜40センチくらいなのでウッカリすると見落としてしまいそうです

右: 9:00 「町角博物館」となっていますが、どのような物が展示されているのでしょうか?
ここ以外にもこのような小さな資料館がありましたが、その多くはオープンしている雰囲気ではなかったような・・・

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左・右: 10:10 杖突坂
解説によると・・・日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体で大和帰還を目指して剣を杖代わりにしてこの急坂を登り、 『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)
-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた --『古事記』
と言ったとされる。
これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれてるで ナ〜ルホド

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左: 10:10 杖突坂にある「芭蕉句碑」
貞享4年(1687年)松尾芭蕉が江戸から伊賀への帰途、この急坂で落馬してしまい、早速俳句を詠んでいる。
「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」

右: 10]10 坂のイメージ
高低差はそれほどありませんが、ちょっとした勾配。それでも軽トラは楽々と登り下りしてました

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左・右: 「血塚社(チヅカシャ)」
杖突坂を登りきると左にあったのが「血塚社」
鳥居の奥に石柱が見えますが、これをズームアップしたのが 右の写真で「日本武尊御血塚」の石碑です
日本武尊はここで足の出血の手当てをした と言われているそうです

この周辺には日本武尊にまつわる伝説が多いのだそうです

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左: 11:10 石薬師宿に入ってきました
ここは歌人の佐々木信綱の出身地だそうで、街道筋に「信綱かるた」が貼られていますが、チョット押し付けがましいな と私は感じてしまいました

右: 12:25 石薬師一里塚跡
余談・・・この一里塚全景の写真を撮ろうとしてファインダーを覗きながらバック、縁石に足を取られてそのまま仰向けに転倒 尻?腰?をもろに打ち付けてしまいました
5/29 現在、まだ尻が痛く湿布薬のお世話になってます

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左・右: 13:30 「庄野町資料館」
玄関には「鈴鹿市指定建造物 旧小林住宅」の標識が立っている(右の写真)
ここはもと菜種油屋の建物で、宿場関係資料や農機具・生活用品などが展示されているそうです
この資料館もオープンしてる様子はありませんでした

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左: 14:10 女人堤防の碑
解説によると・・・鈴鹿川と安楽川の合流するあたりを汲川原という。
合流点では、しばしば川の氾濫が起き人命が失われた。言い伝えによると村人たちは堤防を築くことを神戸藩に願い出たが、藩は堤防ができると対岸の城下町に浸水の恐れありとして許可しなかった。

そこで人々は、処罰覚悟で工事に踏み切ったが、村人の菊という女性が「工事にかかわった男たちは打ち首になり村は全滅する。私たち女だけで堤防をつくろう」と200人余の女性だけによる工事が始まった。

6年後に堤防は完成したが、やがて藩主の知るところとなり首謀者の菊らは、あわや処刑される寸前、家老の松野清邦の嘆願により助命された。かえって、その志にたいし金一封が贈られたという。
現場にわずかに残る堤防の脇に「女人堤防の碑」(昭和33年建立)が建てられています

右: 15:25 信仰心
このように石を積んだだけの物でも信仰の対象にしているのですが、この信仰心はどこから生まれてくるのでしょうか?

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左: 15:10 に撮った風景 両方とも特に意味はありません

右: 15:55 に撮った風景

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左:和田山一里塚
たぶん復元された一里塚だと思いますが、それでもこのように塚に木が植えられていると、何故かホッとしてしまいます

右:高台から亀山の市街地を俯瞰
旧東海道は亀山の町の北部に連なる高台を通っていて、駅を含めた繁華街はそこより下がった位置にあります

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左右とも途中で撮った意味のないスナップです
右は、姉妹でしょうか、幼い二人が車庫入れの練習をしてるようでした

途中でケイタイの電池切れになってしまい、距離・歩数とも正確かどうか判りませんが
歩行距離 18、6キロ 歩数29623歩
この距離は事前に調べて数字は約24キロでしたが、これよりも低い距離になっています

相変わらずの 徘徊師の発句は
ダラダラト 歩いても 暑さは同じ
一歩・一歩 だけが頼りか 五月晴れ
一歩・一歩 と言い聞かせつつ 初夏の道

ちょっと先が思いやられる今日の一日でした

想定していた問題
当初の計画では、今日 5/14 は 鈴鹿峠 の近くまで行って宿をとることを予定してました

出発前に予約を入れると、
今のところ予約が無いので一人はお断り
とのこと

きょう(5/13)亀山に着いたので、再度予約電話を入れると、前回と同じで断られてしまいました

そこで明日は鈴鹿峠近くまで歩き、一旦亀山に戻りここで連泊
明後日はタクシーで、歩いてきた登山口まで贅沢三昧をすることにします
もちろん、バスがあればこれに越したことはないので、亀山の観光案内所で確認するつもりです

【これで7日目は終わりです】

2013年6月 4日 (火) ★ 「東海道」一人旅 | 固定リンク
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