'12-55 東海道一人歩き その11

'12/11/8 (木) 快晴

今日の行程は「藤枝から掛川まで」なのですが、きょうも小用をすると血が混じっているので、またもやお得意の手抜き
藤枝駅から島田駅まで電車のお世話になったことを申告します(笑)

Photo藤枝駅から島田駅まで電車利用したので、島田駅から歩き始めます

西方向に進み、川越遺跡を覗き、大井川を渡り

金谷駅を経由して

小夜の中山峠に向かって歩きます

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左:島田市博物館分館 9:07
川越遺跡の東側にあり、明治時代に建築された旧家を出来るだけ現状のまま復元保存した建物と、展示室や事務室などを増築して平成12年に開館したそうです

川越遺跡は昭和45年に現在地に復元されたものだそうです
『大井川川越制度:「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と称された東海道最大の難所は、実際は川幅が広く深みも少なく宿駅制度制定以前は各人が浅瀬を選んで渡っていた。
また川越賃も定まっていなかったので、人足はわざと深みに入り転んだりして法外な渡し賃を取ったりしていた。こういう状態を解消するために、1696(元禄9)年に川越制度を確立し、川庄屋が置かれた

右:室内展示品 9:09
川越に使った道具だと思いますが、このように展示してあって全く古さを感じさせません
それとも展示用として新たに作ったものでしょうか?

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左・右:川越人足 9:09
話を聞いてみると
左は気合い充分 手ぐすね引いて客の来るのを待っていました
右は もうスッカリ出来上がってしまい 今日は休む のだそうです

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左:人足小屋 9:14
川の水深が約136cm(4尺5寸)を越えると、川庄屋の権限で川札発行が停止され、川留となるのは時代劇でお馴染み
この川留は年間約50日もあり、最長で28日も記録したこともあり、余分な出費をさせ旅人を困らせた。』
(このようなアクシデントがあるので、山間部を通る「中山道」が造られた ということを聞いたことがあります)

右:川会所 9:20
大井川川越遺跡には、川越業務を管理運営する川会所、人足がたむろする番宿、人足頭が会合に使った立会い宿、人足が川札を賃金に替えた札場などの建物が復元されています

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左:全景 9:19
と言っても右側にもありますから、半景ですね

右:機織体験教室 9:18
この一角で作業をしている女性がいるので、聞いてみると、機織体験教室が有るそうでその準備をしているとのこと
『布を細かく裂いて織ったものを「裂き織り」といい、以前はほとんどの農家で自家用に織られていた。
布は古くなっても捨てずに横糸として織り込み、野良着・帯・コタツ掛けなどとして再利用する』
と話してくれました
(ブログに載せる了解は頂いてあります)

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左:大井川橋 9:35

こんなに長い橋は見たことがありません とにかく長い 調べてみたら橋の長さは1026メートル。 長いわけです
途中で何枚か写真を撮りながらでしたが、渡るのに約14分掛かりました (苦笑)

右:川筋 9:48
水量は多くないようですが、広い河原を幾筋もの流れがあり、逆光が眩しい

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大井川橋と富士 9:57
橋を渡り切ってから気が付いたのですが、富士が碧空の中にクッキリと見えるではありませんか 思わぬ富士との再会に何故か感激してしてしまいました

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左:新金谷駅 10:12
旧街道は新金谷駅の傍の踏切をわたります
一度、大井川鉄道の蒸気機関車に乗りたいと思っているのですが、まだ実現していません

右:金谷駅 10:49
この石垣の上が金谷駅で、道は駅の下のガードをくぐります

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左・右:石畳入口と石畳 11:00 11:02
大きな指道票と また石畳です。それもイヤに丸い石ばかり集めて造ったようです。
それにこの石畳は最近復元?したものらしいのですが、造った人たちは試し歩きをしたのでしょうか? これでは濡れていたり、凍っていたら危ない と思いますが (笑)

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左:すべらず地蔵堂 11:19
『平成3年に"平成の道普請・町民一人一石運動"によって甦った「旧東海道金谷坂石畳」の路傍に、有志の手によって建立されたお地蔵様があります。
長い間旅人の足元を守ってきた"滑らない山石を敷いた石畳"に因んで、このお地蔵様を「すべらず地蔵」と呼んでいます。
"安全に・滑らず・転ばず・着実に進めるように"と、試験合格・健康長寿・家内安全などを願いお参りする方がたくさん訪れる』 のだそうです

右:ご本尊 11:19
お堂の中をコッソリ覗いてみると、お互いが手に手を取って祈る姿は それこそカワイイ双体道祖神?で、微笑ましいお地蔵さんでした

この石畳を登りきると、そこにはナント平坦な舗装道路があって 何となく気が抜けてしましました
この舗装道路を右に向かって行くと、またまたナント喫茶室があるではありませんか こんな所に何故?
テラスに出てコーヒーブレイクしたのはモチロンですよ
客は2組いましたが、皆さん車で来ているようです

コーヒーブレイクの後はまた石畳で、今度は下り石畳。これは登りよりも注意して歩かなければなりません(私は特に 笑)
ここを下りきると「菊川宿」に入り、そのまま進むと今度は登り坂に変わりました

この坂を青木坂(箭置(ヤオキ)坂とも)と云い、旧東海道の難所として有名な「小夜の中山峠」の入口です。
ここが思っていたより長くて、この坂は峠の頂上にある久延(クオン)寺まで延々と続きます(約1km続く とありました)

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左・右:茶畑 12:22 12:35
これは青木坂の途中で撮ったのですが。道の両側は全て茶畑です

この辺り一帯を「牧の原台地」と云い、茶畑で有名で周りはすべて茶畑
『標高40-200mで、北側から南側へかけて緩く傾斜している。石が多く、水はけが良い赤土で弱酸性であり、気候が温暖で霜が降りることも少ないため、茶の育成に向いている。
米作などには向かない不毛の土地であったが、明治維新の後、無禄士族対策の為、牧之原台地に多くの士族が入植し、開拓作業が始まった。そして茶樹を植える事が推奨されたため、現在のような茶畑が広がる日本一の製茶地帯になった』

蛇足...茶畑と勝海舟について
『日本一のお茶どころ静岡。
実はその発展には勝海舟が大きく関わっていた。
江戸から明治への大転換、江戸無血開城を行った勝は、その直後から幕府崩壊の後始末に奔走する。
失業し、生きる術を失った徳川家の家臣たちのために、政府や全国の大名家への再就職を斡旋し、さらに、幕府崩壊に不満を持つ武士たちを言葉巧みに抑え込みながら、自立の道へと促していく。
それが、徳川家の移住先だった静岡での茶畑開墾だった』
ただ、この茶畑かどうかは判りません

この坂の途中でコンビニで買った握り飯の昼食。 ここから眺がめる茶畑や山々は広々としていて景色も良く、一服しながら
♪ 唄はちゃっきり節 男は次郎長
花はたちばな 夏はたちばな 茶のかおり
なんて口ずさんでいました

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左:市境 12:39
島田市と掛川市の市境のようで、私はこれから掛川市に入ります

右:季節外れ 12:40
多分アジサイだと思うのですが? 珍しかったので パチリ

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左:山門 12:48
青木坂を登り切るとあったのが「久延寺(クオンジ)」で、ここが「小夜の中山峠」です(それにしても洒落た名前の峠です)
その境内には「夜泣き石」が置かれてありました

右:夜泣き石 12:49
「夜泣き石伝説」とは・・・
『その昔、小夜の中山に住むお石という女が菊川宿の里へ働きに行っての帰り、中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り、殺して金を奪い逃げ去った。

その時 お石は懐妊していたので傷口より子供が生れ、お石の霊魂が傍にあった丸石に乗り移り、夜毎に泣いた。
里人は恐れ、誰と言うことはなく その石を『夜泣き石』と言った。

傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり、大和の国の刃研師の弟子となった。
そこへ轟業右衛門が刃研ぎに来た時、刃こぼれがあるので聞いたところ、「十数年前、小夜の中山の丸石の附近で、妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」
と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ恨みをはらしたということである。
その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う』


久延寺を過ぎると道は下り坂になりますが、やはり下りは楽で好いなぁ(笑)

Photo久延寺を過ぎると道は下りとなり

日坂宿まで来ると平坦な道になって

後は国道を歩いたり、旧道を歩いたり

ひたすら掛川を目指すだけで、島田から掛川までの道は全て舗装されていました

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左:夜泣き石跡 13:24
妊婦の霊魂が乗り移り泣いたという夜泣き石が、明治元年までここの道の中央にあったが、明治天皇が来る際に、道脇に寄せられた。
その後、明治初年に東京で博覧会があり、出品されたあと現在の位置に移ったと説明してあります

右:夜泣き石の証拠?
道の真ん中に石がありますが、これが夜泣き石なのでしょう

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左:茶の花 13:18
茶の花を見たのは初めてなので撮りましたが、ピントが葉になってしまい 葉なしになりません(苦笑)
それにしても意外に大きな花なのですね
歩きながら茶木の先の新しい葉をちぎって食べてみましたが、お茶の味は全然しませんでした。 当たり前なのかなぁ(笑)

右:相変わらず道の両側は茶畑が続きます 13:27

長い下り坂が終わると道は「日坂宿」に入って行き、平坦になりました

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左:日坂宿本陣跡 13:44
『日坂宿本陣の屋号は「扇屋」で、代々片岡家が世襲で営んでいて、敷地は約350坪、建坪220坪、門構・玄関付の建物であった。
しかし1852(嘉永5)年の日坂宿の大火で全焼し再建後、明治3年に店を閉じている。
その後明治12年より跡地を日坂小学校の敷地とし、建物は校舎として利用したが、現存していない』
門を入ると、そこはただの広場になっていました

右:旅籠 13:52
説明によると・・・『日坂宿の旅籠屋で、江戸時代の面影を遺す数少ない建物のひとつです。
江戸より招いた棟梁の手で、精巧な木組みと細やかな格子が造作されたといわれています。
身分の高い武士や公家などが宿泊した格の高い脇本陣格であったことが伺えます。
旅籠屋としては、明治3年まで存続していたようですが、以後も要人には宿を提供していたとも云われています』

唯一江戸時代の面影を残しているのはこの川坂屋だそうで、内部を公開する日もあるようです

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左・右:とも同じ旅籠です 13:48
日坂宿池田屋末広亭で、今でも仕出しなどの営業を続けているそうです

ここに載せた2軒のほかにも趣きのある家が点在していました

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掛川城 16:33
1994年(平成6年)4月 天守が再建された。再建された天守は木造であり、日本初の木造復元天守である。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(42番)に選定される

こんな時刻だったので天守閣はクロ-ズでした
(天守閣に登るのもちょっとシンドっかたので良かったのかも 苦笑)

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掛川市に入ると大きなショッピングセンターがありましたが、もうこんな季節になっているのですね

藤枝 スタート 8:30
島田 歩き始め 8:45
掛川 着 17:30頃
歩行距離 24,4キロ (38500歩)

きょうオシャベリしたのは喫茶室のオバチャンだけで、誰とも会わなかった気がします

(余談:きょうも小用のたびに血が混じるので気に掛かります)

【これで「藤枝(島田)から掛川まで」を終わります】

2012年12月12日 (水) ★ 「東海道」一人旅 | 固定リンク
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