'12-48 東海道一人歩き その4

ここでは「平塚から小田原まで」について投稿します

'12/11/1 (木)快晴

Photo_5右上の「平塚」の宿をスタート
暫くは旧街道を歩き、途中で国道に合流

「化粧(ケワイ)坂」で一旦旧道に入りますが、大磯付近でまた国道へ

あとはまた退屈な国道歩きが続くので 手抜きを考えながら・・・

【ハプニング】
街道歩きをリアルタイムに送信出来るよう タブレット(ドコモ)を購入し持参しましたが、昨夜(10/31)から入力が出来なくなってしまいました
そこでドコモショップの場所を教えてもらい、11/1 行くことにしました
けれどもショップのオープンは 10時から

平塚駅前のコーヒーショップで時間を潰し、ショップへ着きましたがもちろん開いていません
仕方なく出勤してくる人を掴まえて 状況を話して修整してもらうことが出来ました
「馬には乗って見よ 人にはお願いして見よ?」 の格言通りだったのか、或いは私の風采を見て気の毒に思ったからなのか

ただ、これで時間が大幅に遅れたため、どこかで手抜きをしなければなりません と言う良い口実が出来ました(笑)

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左:併設の教会 8:43
泊まった宿には結婚式場もあって、このような立派な教会もあります
教会内を見せてもらおうと思ったのですが、まだ鍵が掛かっていて 残念 (私は信者ではありません 念のため)

右:送迎バス 8:40
宿から平塚駅まで約1,5キロほどあるので、このような送迎バスが準備されています。が、もちろん私は利用しませんでしたが

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左:馬入一里塚跡 8:53
一里塚跡にも色々あって、このように跡形もないところに 表示板だけが という所もあります

右:京方見附跡 10:20
東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。
宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりましたが、先人たちの言い伝えや歴史資料等により、この辺りにあったものと思われます と説明されています

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高麗山 10:28
この一帯は「高麗山公園」となっているらしく、こんな記事がありました
『東日本大震災後、多くの平塚市民がボランティア等で被災地での活動を行っておりますが、その一環として、震災で倒壊した宮城県牡鹿郡女川町の桜を補植する為のボランティア活動があり、その活動の証として、高麗山公園内にその桜の苗木の一部が寄贈されました』

「平塚宿」歌川広重 東海道五十三次

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左:虎御前の化粧(ケワイ)井戸 10:47
伝承によると、虎御前がこの井戸の水を用い化粧をしていたとのこと。

虎御前とは、曽我十郎祐成(すけなり)の愛妾として知られている山下長者の娘(遊女)で、詩歌、管弦に通じ、大層な美人であったそうな

虎女は17歳で大磯の菊鶴という長者にもらいうけられ遊女になりました。
当時の遊女とは知識人であり、歌舞などの技芸を厳しく躾られ、時には教養も身につけた女性たちであり、神聖な存在として巫女の代わりをするようなこともありました。

虎女は十郎が仇討ちの本望を遂げ、命を落とすまでの2年間及び63歳で生涯を閉じるまでの晩年を、大磯の地で暮らした そうです

右:化粧(ケワイ)坂旧街道 10:51
この化粧坂は国道1号から離れ、大磯までこのような静かな道が続きます

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左:新島 襄 終焉の地碑 11:29
明治の先覚的教育者新島襄は、1875年(明治八年)11月29日京都に同志社英学校を設立した。
その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地 百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた

蛇足:来年の大河ドラマは、この新島襄(或いは奥さん?)をテーマにしたドラマだと聞いています

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「新島 襄 生誕の地 碑」
12/1 東京で偶然この碑に出合うことが出来たので追加します
『天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩 板倉家江戸屋敷で、藩士の子として生まれる。
本名を七五三太(しめた)という。この名前は、祖父弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説がある』

右:鴫立(シギタツ)庵 11:32
小田原の医師の子、崇雪(そうせつ)が、寛文4年(1664年)、西行法師の詠んだ名歌
心なき 身にもあわれは 知られけり
鴫立つ沢の 秋の夕暮
を慕って鴫立沢(しぎたつさわ)の畔に草庵「鴫立庵」を結んだ。

そして標石を立て、東海道を往還する人に鴫立沢を示し、「著盡湘南清絶地」と景勝を讃えて刻んだのが、湘南の始まり。
鴫立庵は元禄時代に俳人大淀三千風(みちかぜ)が入庵してから有名になり、多くの俳人が集まるようになった。

との事ですが、どうも私には「お呼びでない」場所のようです(苦笑)

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左:大磯の松並木 11:39
大磯周辺の松並木は昔ながらの風情を残しているような気がします

右:名もない野仏 13:10
街道の一隅には名もない野仏達が

大磯から二宮まで国道1号を歩きますが、何故国道ってこんなに車ばかり多くて、退屈なのでしょうか

二宮駅の着いたのが 1時半過ぎ、これでは小田原まで行くのはちょっとムリかも?
そこでまた手抜き 二宮から国府津まで 電車利用することに決定
ドコモショップへ寄り道したのでこんな事に とは勝手な言い分です(苦笑)

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ガラスのうさぎ像 13:39 (二宮駅前広場にあります)
これは史跡ではありませんが、それでも将来には戦争悲劇の史跡として残して欲しい彫像で、二宮駅前に建っています

『著者の高木敏子さんは東京・本所区(現在の墨田区)で育った。
父は東京でガラス工芸品の工場を経営していたが、戦争が始まって工場は軍需物資の製造へ転換した。二人の兄がいたが二人とも徴兵を待たず軍人を志願し、長兄は陸軍軍人として中国戦線へ赴き、次兄は海軍飛行予科練習生として三重航空隊へ入隊した。

昭和20年3月10日の東京大空襲で、母と二人の妹が行方不明になる。防空壕に避難したが余りの熱さに耐えかねて飛び出した所で消息が絶えた。

昭和20年5月7日、東京が再び空襲にあい焦土と化した。敏子さんは家の敷地のあちこちを掘って、母や妹たちの使っていたものを探した。
父が作った大きなガラスのうさぎの置物が半分溶けて転がっていた。
敏子さんは家族が使っていた食器の欠片とともに、ガラスのうさぎを大事に手提げに入れた。

父は新たな仕事の準備で新潟に在り、敏子さんは一人で神奈川県二宮町の知合いの家に疎開していた。

昭和20年8月5日、仕事の目途がついた父と新潟へ立つために二宮駅に着いた時、鋭い金属音とともに敵艦載機P-51が飛来し、駅にいた人達に反復して機銃掃射を浴びせた。多くの人達が鮮血に染まって倒れ、敏子さんの父もまた病院に運ばれたが既に亡くなっていた。

「碑文」
太平洋戦争終結直前の昭和二十年八月五日、ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載機P51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い命がその犠牲となりました。
この時、目の前で父を失った十二歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き拭く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」は、国民の心に熱い感動を呼び起こし、戦争の悲惨さを強く印象づけました。

この像は私たち二宮町民が、平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、多くの方々の援助をいただき建てたものです。

少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。
ここに平和と友情よ永遠に』

(この高木さんは私よりも一つ歳上ですが、今でもお元気でお過ごしになっていることを祈っています)

Photo_4手抜きで「国府津」まで来たので、ここからまた歩き始めます

小田原に近付くと「一里塚跡」「本陣跡」などがあり

そして小田原城へと向かいました

【きょう2度目のハプニング】
ルート図入れのケースから いつの間にかボールペンが無くなっていました
予備は持っていますが、歩いていると雑貨屋があって、そこにはボールペンが2本で150円
ここで買うことにしたのですが、店の親父さんが
「どこまで行くのですか?」 私「京都まで」 「歩いて?」 私「そう」
「歳はいくつですか」 私「79」
すると親父さんは驚いた様子で 「これを持って 気を付けて行きなさい」
とスポーツドリンク1本を私に押し付けてきたので、有り難く頂戴しました
ここでも白髪頭の効き目はあったようです

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相模川に架かる橋の上から 15:36
明日行く予定の箱根の山々が霞んでいますが、登れるか がチョット心配

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一里塚跡の石柱 16:15
江戸口見付 になっているので、小田原から江戸に向かう出口なのでしょう
もちろん石碑が建っているだけです

本陣跡 16:35
「明治天皇宮ノ前行在所跡」の碑がたっていて、案内板によると、ここは清水金左衛門本陣のあった場所 となっていました
それにしても「明治天皇」は日本各地を歩いていたのではないか と思うほど、このような碑が多いのに驚きます

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左:小田原城天守閣 16:52
『現在の天守閣は、昭和35年(1960)5月に市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものです。
内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっています。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望できる』 そうです
国の史跡に指定されてます

右:発掘調査? 17:00
天守閣傍では今でもこのような発掘調査をしているようで、新しい発見を期待してしまいます

平塚スタート 8:40
小田原 宿着 17:10
歩行距離 21,9キロ (34600歩)
二宮駅から国府津駅まで 電車利用

【次回は「小田原から芦ノ湖まで」の予定です】

2012年12月 3日 (月) ★ 「東海道」一人旅 | 固定リンク
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