333,寄り道・手抜きの中山道 (恵那から馬籠へ 1 )

10/30 (金) 快晴

昨日ホテルに着いてから、あのアップダウンの連続を思いだし疲れを感じていました。
それにきょうの行程は地図の上では約24キロとちょっとシンドイ。それに馬籠に入る手前からあの周辺をジックリと歩き回りたいという考えが浮かんできて、即決断。
恵那の町を散策したら中津川まで歩く(赤点線)のを止めて、電車で「中津川駅」までショートカット(赤実線)することにしました。

Photo_4

その考えを纏めたのがこのルート図で、赤実線を電車で約10分 (歩くと地図上の距離で約12キロ)。
これでだいぶ時間の余裕が出来て「馬籠」でユックリ出来そうです。

Photo「恵那(大井宿)」の町並みと家々で、それぞれ標識に名前が書かれていますが・・・

手抜きをして中津川から歩き始めましたが、市街地や住宅地なのにアップダウンの連続、住んでいる人はこれでは難儀でしょう。
特に 雪でも降っていたら と思うと怖ろしい。

Photo_2中津川にある「桂小五郎の隠れ家跡」で、説明によると・・・ 文久二年(1862)6月、長州藩士桂小五郎(木戸孝充)は、京都に向かう藩主毛利慶親公の行列を待つ間、幕吏の目をのがれて中津川の平田門人間秀矩(はざまひでのり)や市岡殷政(しげまさ)の好意で、密に料亭「やけ山」(この家)に隠れ待機した。
やがて「中津川会談」三日の結果、桂の主張によって長州藩は、尊王倒幕へと決断した。
明治変革の秘史を物語る場所である。
(中津川市観光協会の解説による)

この「隠れ家」は中山道から少し離れていました。

Dscn1769「落合宿」の通りですが、左にあるのが「善昌寺」で、寺の松が道に張り出している形が気に入りました・・・この松は、創建当時の山門を覆っていたことから門冠(かぶり)の松と呼ばれている。
道路新設拡巾・寺の移転等で根が痛めつけられて来たのか、凡そ450年の年を経ているといわれているが、さほど大きくなく宿場の入口に格好の風采を添えている・・・『落合まちづくり推進協議会』 の解説による

Dscn1781落合宿から馬籠に向かう途中で秋の空を撮ったものですが、正面の山は「笠置山(1128メートル)」というらしい。

Photo_3 いよいよ「落合から馬籠」への石畳になりますが、 昨日からの石畳に少しは歩き慣れたかも知れません。
和宮が降嫁する時は石畳に砂を敷いて歩きやすくしたとか・・・

Dscn1794_2 「是より北 木曽路」の石碑・・・ 1940年(昭和15年)7月、当時68歳だった島崎藤村が地元の要請によって揮毫したもの。
藤村は60歳頃より藤村老人と名乗っていたそうです。
憧れていた「木曽路」、ヤットここまで来ることが出来ました。

Photo_4

木曽路の碑の前にあるのが「一里塚と新茶屋旅館」で、300年以上前から茶屋を営んでおり、それが地名になったといわれているそうです。

Photo_5 新茶屋から馬籠への途中の風景ですが、周りの紅葉も進んでいるようです。

【続く】

2009年11月24日 (火) ★ 中山道(4,恵那〜木曽福島) | 固定リンク
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