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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

2018年07月

先日、立ち寄った抹茶カフェのお店で、源氏物語をコンセプトにした絵はがきを見つけました。思わず衝動買い。
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×ばつ4(春夏秋冬)=52枚で、源氏物語は全54帖ですが、「源氏香」にならって「桐壺」と「夢浮橋」の巻を外しているのでしょう。絵はがきの裏に、源氏香で用いる図形がプリントされていました。
源氏香
別の店舗では、源氏物語をイメージしたアートも展示されているようで、抹茶カフェの「和」のイメージと源氏物語のコラボレーション、といったところでしょうか。ちなみに最初の4枚の絵はがき、葵、明石、常夏、若紫の四巻ですが、どれがどの巻だかわかりますか?葵巻は、次の葉書です。
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どうも、家紋の「葵」と「御所車」の組み合わせ。葵巻は、「葵祭」において葵の上と六条御息所の車争いが描かれていますからね。他の葉書も、それぞれの巻でテーマとなった事物の組み合わせがなされているようです。
たまに、思いもかけないところで出会う「源氏物語」。最近では、朝ドラ「半分、青い。」に登場する「ボクテ」という漫画家が描く人気漫画が「女光源氏によろしく」でした。そういえば、「男大奥」の漫画が実際に出ていますので、こんな漫画が現実にあってもいいですよね。ちょっと読みたいじゃないか!

先日、大学院の演習で読んでいる『春湊浪話』の発表で、「犬の名」の話がとりあげられました。最近、日本の「秋田犬」が外国人に人気ですが、これらは早くから日本において犬を飼っていたことがわかる記事と言えます。
『春湊浪話』では、『日本書紀』垂仁天皇87年2月条に記載された次の話について触れています。
「昔、丹波国の桑田村に人有り。名を甕襲(みかそ)と曰ふ。則ち甕襲が家に犬有り。名を足往(あゆき)と曰ふ。この犬、山獣(やまのしし)名は、牟士那(むじな)といふを咋(く)ひて殺す。則ち獣の腹に八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)有り。この玉は、今し石上(いそのかみ)神宮に有り。」
犬の名前
石上神宮に納められた「勾玉」は、足往(あゆき)という名の犬が襲った山獣の腹から出たものだというこの話は、犬が早くから人と共に狩りをしていたことを窺わせます。いわゆる「猟犬」ですね。

また名前がつけられるということは、やはりそれだけ人が親しみをもって犬に接していたのでしょう。

ただし平安時代『枕草子』の記述では、「翁まろ」と呼ばれて宮中の女房などに可愛がられていた犬が、一条天皇の愛猫を脅かしたことから蔵人二人に打たれ、作者らがひどく同情する話があります(「上にさぶらふ御猫は」)。当時の皇族や貴族が愛玩していたのは、犬ではなく、舶来の猫でした。『源氏物語』でも、光源氏の後の正妻・女三の宮の元に唐猫がいます(この猫が原因で御簾がめくれ上がり、以前から宮を恋い慕う柏木にその姿を見られてしまいます)。
ねこといぬ
いつの時代も、外国の珍しい動物を可愛がる傾向はあるようです。今は海外の人たちから、日本の犬が注目されていますが、古くからのパートナーであったことを忘れず、この関係を大事にしていきたいですね。ちなみに私が子供のころ飼っていたのは、スピッツの雑種でした。

あちこちで水害が起こり、大変なことになっています。みなさんもどうぞお気をつけ下さい。

今日は七夕ですね。織姫と彦星が一年に一度出会う日。毎年、この日は雨や曇りの日が多いようです。先日、大学の授業で伊勢物語八十二段「渚の院」を読みました。伊勢物語には、恋愛話ばかり載っていると思われがちですが、君臣間の連帯を示す、男性しか出てこない章段もあります。
渚の院・花見
「渚の院」は、文徳天皇の第一皇子ながら、東宮になれなかった惟喬(これたか)の親王と、物語の主人公(ここでは「右の馬の頭(かみ)」と記載)や紀有常との交流が描かれます。惟喬親王は、右の馬の頭をよく供につれていましたが、桜の時期には、必ず彼らと水無瀬(現在の大阪府三島郡島本町)にある宮に赴きました。また「交野の渚の家」(現在の大阪府枚方市のあたり)に来てからは、狩りよりもむしろ酒宴をメインに、「やまと歌」を皆で作って詠み合います。このような「君臣唱和」は、平安時代の初期に嵯峨天皇が漢詩文によって盛んに行いましたが、ここではそれが「和歌」で行われます。
桜の花を媒介に詠まれた歌は、またいつか紹介するとして、ここでは、「交野」から「天の河」という地名の場所に至った際に詠まれた歌を紹介します。

狩り暮らし たなばたつめに宿からむ 天の河原に われは来にけり
(狩りをしているうちに日が暮れてしまったので織女(織姫)に宿を借りるとしよう。私はいつのまにか天の河のほとりに来てしまっていたのだった)
渚の院・業平
この歌は、古今和歌集の羈旅歌・418番に在原業平の詠として記載されています。しかし物語では、あくまで「右の馬の頭」が詠んだ歌であり、その人の名前は忘れてしまったと語ります。

主人公は、親王に命じられた通り「交野での狩り」と「天の河のほとりに来たこと」をうまくとりいれて歌を詠んでいます。「天の河」から連想する女性との出会いを「たなばたつめ」にかけて期待するとともに、いつのまにか天上界に来てしまったと親王を讃えます。

この歌の返しについては、惟喬親王に代わって、紀有常が行います。

一年(ひととせ)に ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
(織姫は一年に一度やってくる彦星(惟喬親王)を待っているので、宿を貸してくれる人はあるまいと思う)

たいへん見事な切り返しです。織姫は彦星を待っている、という七夕伝説にかけ、さらに、その彦星を親王にたとえているのでしょう。この歌は、同じく古今和歌集に業平歌の返歌として載せられています。
物語の例は地名「天の河」からの発想ですが、千年以上も昔から人々は七夕伝説を思い、きっと七月七日には、空を見上げていたのでしょう。

この後も物語では歌の贈答が続きますが、七夕の話題からは外れてしまいますので、今日はこの辺で。そういえば、最近CMでも、彦星と織姫を見ますね(「バイト探しは」〜のフレーズで)。こちらは「せめて週2で会いたい」(「毎日会えてもきついか」のバージョンもあり)のように言っていますが、「一年に一度しか二人は会えない」ということを、見ている人が皆知っている前提で作られているのでしょう。

〈参考文献〉
石田穣二訳注『伊勢物語』(角川文庫)
片桐洋一『伊勢物語全読解』(和泉書院)
鈴木日出男『伊勢物語評解』(筑摩書房)ほか

今週末7月7日の土曜日に、新しいウルトラマンが始まります!タイトルは「ウルトラマンR/Bルーブ」。
平安文学と関係ないじゃ〜ん、と思うでしょ?でも、ここ数年、家族と最近のウルトラマンをテレビで見て、さらに劇場版を映画館で見て、「あッ!」と気づいたことがあります。

『源氏物語』(平安中期)以降に作られた平安後期物語と、現代のウルトラマンシリーズって「似てないか?」ということです。

すみません。最初はウルトラマンの話から。
ウルトラマンシリーズは、初代ウルトラマン(1966年)に始まり、2016年に50周年を迎えました。
最初は、同じ「光の国」出身ということで兄弟扱いされていたウルトラマンたちですが(そのうち「父」や「母」も出てきて家族的な感じに)、平成に入ってから、タイプチェンジするようになります。状況に応じて、能力を特化し(パワー型、スピード型など)、見た目も変わるのです。
そして最近のウルトラマンは、「フュージョンアップ」(ウルトラマンオーブ)のように、歴代のウルトラマンの力を借りて、活躍するようになります。
見た目もそれらの姿を併せもち、ものすごくデコラティブ。思うに、親子二代・三代にわたって楽しめるように、昔のウルトラマンを登場させる方法なのでしょう。

フュージョンアップ!
たとえば、上記の画のように、ウルトラマンオーブでは、「メビウス」(左)と「タロウ」(右)の力を借りて(合体させ)、バーンマイト(中央)の姿になります(挙げる手が逆ですね。スミマセン)。

ウルトラマンエックスの劇場版を見に行ったとき(主役の高橋健介さんのトーク付き)、座席の前の方のお母さんたちが、高橋さんから「どのウルトラマンが好きですか?」と聞かれていました。高橋さん曰く「どのウルトラマンのファンかでおよその年齢がわかる」のだとか(おそろしい〜)。

「タロウ」や「セブン」の名前が挙がってましたが、私は「レオ」好きで、今週末から始まる新しいウルトラマンは、どうも「レオ」(双子ウルトラマン)を意識したもののようなのです。個人的にはとても楽しみ。

......と、ウルトラマンの話はこれくらいにして、平安後期物語の話へ。

朧月夜と光源氏
(この女性はこのあと光源氏と恋に落ちる女君です。さて誰でしょう?)

『源氏物語』は、帝の御子・光源氏を主役とする王朝ロマンですが、それから半世紀以上たって作られた作品たち──『狭衣物語』『夜の寝覚』『浜松中納言物語』は、『源氏物語』の登場人物たちや設定をうまく用いつつ、独自の作品世界(当代の問題意識を織り込んだ世界)を作り出しています。

いわば『源氏物語』の読者(ファン)たちが、『源氏』をリスペクトしながら、新たな作品を紡いでいったといえ、おそらくウルトラマンシリーズの制作者たちとその意識は通底しているような気がします。

たとえば、『狭衣物語』のヒロインの1人・飛鳥井女君は、『源氏物語』中、人気ヒロインであった「夕顔」と「浮舟」の特徴を併せ持っています。まさにフュージョンアップ!

飛鳥井女君-2
(↑主人公・狭衣と互いに素性を明かさず恋に落ちる点は夕顔に、他の男性との三角関係に悩み、水中に身を投げようとする点は浮舟と似ている飛鳥井女君)

いつだか社会学の先生から「ここ数十年の変化はゆるやかで、親世代とのギャップも少ない。だから思春期の衝突も減り、友達親子が出現した」といったようなことを伺いました。確かに現在、戦中・戦後のような劇的変化はなく、日本では比較的穏やかな時代が続いていると言えます。「ウルトラマン」を三世代で楽しめる時代というのは、王朝物語を同様に享受できていた時代と近いのかしらと思うのですが、今後さらなる変化の時代が訪れるかもしれません。それでも、過去の書物を紐解きながら、同じ過ちを繰り返すことなく、人としての歩みを進めていきたいものです。

表紙
上の絵、「わたしはだーれ?」の答えは「かぐや姫」です。
(上記の画像は、2020年3月11日までPC版の表紙でした。今は変更してます)


ことしは日本アニメーション映画界の巨匠・高畑勲監督が亡くなりましたが、彼の遺作が「かぐや姫の物語」でした。

映画館にこの映画を見に行ったとき、かぐや姫が月に帰っていくシーンに涙が止まらなくなりました。
かぐや姫の物語(映画館)

かぐや姫は、地上でいろいろな事を経験し、様々な感情(特に「愛」)を獲得します。でも月へ帰る際、羽衣を着せられると、そのような感情は失われます。また映画ではかぐや姫の成長がたいへんこまやかに描かれており、わたしは育ての「親」である翁・媼に感情移入してしまいました。

かぐや姫と養い親になる竹取の翁との出会いは、竹林です。かぐや姫については、原作で次のように語られています。
「三寸(約10cm)ばかりなる人、いとうつくしうて居たり」

この記述の前に、姫のいた竹は「光っていた」とあるので、かぐや姫じしんが光っていたこともわかります。

その後、翁はかぐや姫を家に連れ帰り、妻である媼にあずけて育てさせます。

「この児、養ふほどに、すくすくと大きになりまさる。三月ばかりになるほどに、よき程になりぬれば、髪上げなどさうして、髪上げさせ、裳着す。」
かぐや姫の成長

原文によれば、たった三ヶ月で成人の儀(裳着)を行えるほどに、成長するのです(この早さは、竹の成長スピードに由来するという説もあります)。

あっという間のかぐや姫の成長ですが、映画では、これが赤ちゃんのハイハイに始まり、立って歩いて、という姫の姿を、温かく見守る翁・媼が入念に描かれていました。

少なくとも、映画のかぐや姫は、最初から山でのびのびと過ごし、温かくやさしい感情を持ち合わせているのですが、原作のかぐや姫は、あまり人間らしい感情を持っていません。けれど、地上のしたたかな求婚者たちと対峙していくなかで、人間らしさを獲得していきます。

一方、映画のかぐや姫は、都に移り住んだ後、「貴族の姫君」のあり方を押しつけられ、逆に人間らしさを失っていきます。
原作と映画1
(↑どちらが映画でどちらが原作のかぐや姫でしょう?)


つまり物語の方向性は正反対なのです。それでも、原作、映画、ともに「かぐや姫昇天」の場面をクライマックスとし、感動的に描かれているとわたしは思います。


ぜひ、二つの作品、読み(見)比べてみてくださいね。

http://www.ghibli.jp/kaguyahime/
映画「かぐや姫の物語」公式サイト

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