[フレーム]

koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

日本書紀と養蜂

いよいよ平成最後の日。といっても、あまり実感はなく、いつもと同じように過ごしています。
いま家族が一般向け歴史系出版物の監修をしているのですが、そこに百済(くだら)太子・余豊璋が出てきました。古代、日本は朝鮮半島南部にあった加耶諸国と関係が深く、その後、同半島の新羅や大陸の唐と対抗すべく、朝鮮半島にあった百済国と親しい関係にありました。その太子が、日本に来て、養蜂をやっていたことが次のように、『日本書紀』に出てきます。

是歳(皇極天皇2年/643年)、百済太子余豊、蜜蜂房(みつばちのす)四枚を以って、三輪山に放養す。しかれども終に蕃息(繁殖)せず。

この直前、聖徳太子の息子であった山背大兄王が謀反の疑いをかけられ自害します。上記の記事は、そのことと関わるのかもしれません(父であった聖徳太子は、百済から渡来した仏教を厚く信仰していました)。

この二十年後、白村江の戦いで、日本・百済連合軍は、新羅・唐連合軍に破れ、百済は滅亡します。それでも日本に渡来してきた多くの百済人は、日本にたくさんの技術・文化を伝えてくれるのです。

古い書物を紐解くと、今とは異なる隣国との関係が見えてきます。そういえば、今年のゼミには、「K-POPのファンです!」という学生が数名いました。政治や経済の問題とは別に、感覚的に親しみを覚えることがあっても不思議ではないのかも。

新元号「令和」の出典、『万葉集』の梅花の宴も、アジアとの交流の窓口・大宰府で行われていました。元号で盛り上がるのもいいのですが、特に『万葉集』は漢字を借りて日本語を表現したもの。序文についても、漢文で書かれています。日本文化の多様性は、諸外国との交流の中に生み出されてきたものであることを、忘れずにいたいものです。

古墳のどらやき

古墳の焼印が押されたどらやきをいただきながら。


このページのトップヘ

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /