[フレーム]

koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

今週末7月7日の土曜日に、新しいウルトラマンが始まります!タイトルは「ウルトラマンR/Bルーブ」。
平安文学と関係ないじゃ〜ん、と思うでしょ?でも、ここ数年、家族と最近のウルトラマンをテレビで見て、さらに劇場版を映画館で見て、「あッ!」と気づいたことがあります。

『源氏物語』(平安中期)以降に作られた平安後期物語と、現代のウルトラマンシリーズって「似てないか?」ということです。

すみません。最初はウルトラマンの話から。
ウルトラマンシリーズは、初代ウルトラマン(1966年)に始まり、2016年に50周年を迎えました。
最初は、同じ「光の国」出身ということで兄弟扱いされていたウルトラマンたちですが(そのうち「父」や「母」も出てきて家族的な感じに)、平成に入ってから、タイプチェンジするようになります。状況に応じて、能力を特化し(パワー型、スピード型など)、見た目も変わるのです。
そして最近のウルトラマンは、「フュージョンアップ」(ウルトラマンオーブ)のように、歴代のウルトラマンの力を借りて、活躍するようになります。
見た目もそれらの姿を併せもち、ものすごくデコラティブ。思うに、親子二代・三代にわたって楽しめるように、昔のウルトラマンを登場させる方法なのでしょう。

フュージョンアップ!
たとえば、上記の画のように、ウルトラマンオーブでは、「メビウス」(左)と「タロウ」(右)の力を借りて(合体させ)、バーンマイト(中央)の姿になります(挙げる手が逆ですね。スミマセン)。

ウルトラマンエックスの劇場版を見に行ったとき(主役の高橋健介さんのトーク付き)、座席の前の方のお母さんたちが、高橋さんから「どのウルトラマンが好きですか?」と聞かれていました。高橋さん曰く「どのウルトラマンのファンかでおよその年齢がわかる」のだとか(おそろしい〜)。

「タロウ」や「セブン」の名前が挙がってましたが、私は「レオ」好きで、今週末から始まる新しいウルトラマンは、どうも「レオ」(双子ウルトラマン)を意識したもののようなのです。個人的にはとても楽しみ。

......と、ウルトラマンの話はこれくらいにして、平安後期物語の話へ。

朧月夜と光源氏
(この女性はこのあと光源氏と恋に落ちる女君です。さて誰でしょう?)

『源氏物語』は、帝の御子・光源氏を主役とする王朝ロマンですが、それから半世紀以上たって作られた作品たち──『狭衣物語』『夜の寝覚』『浜松中納言物語』は、『源氏物語』の登場人物たちや設定をうまく用いつつ、独自の作品世界(当代の問題意識を織り込んだ世界)を作り出しています。

いわば『源氏物語』の読者(ファン)たちが、『源氏』をリスペクトしながら、新たな作品を紡いでいったといえ、おそらくウルトラマンシリーズの制作者たちとその意識は通底しているような気がします。

たとえば、『狭衣物語』のヒロインの1人・飛鳥井女君は、『源氏物語』中、人気ヒロインであった「夕顔」と「浮舟」の特徴を併せ持っています。まさにフュージョンアップ!

飛鳥井女君-2
(↑主人公・狭衣と互いに素性を明かさず恋に落ちる点は夕顔に、他の男性との三角関係に悩み、水中に身を投げようとする点は浮舟と似ている飛鳥井女君)

いつだか社会学の先生から「ここ数十年の変化はゆるやかで、親世代とのギャップも少ない。だから思春期の衝突も減り、友達親子が出現した」といったようなことを伺いました。確かに現在、戦中・戦後のような劇的変化はなく、日本では比較的穏やかな時代が続いていると言えます。「ウルトラマン」を三世代で楽しめる時代というのは、王朝物語を同様に享受できていた時代と近いのかしらと思うのですが、今後さらなる変化の時代が訪れるかもしれません。それでも、過去の書物を紐解きながら、同じ過ちを繰り返すことなく、人としての歩みを進めていきたいものです。

表紙
上の絵、「わたしはだーれ?」の答えは「かぐや姫」です。
(上記の画像は、2020年3月11日までPC版の表紙でした。今は変更してます)


ことしは日本アニメーション映画界の巨匠・高畑勲監督が亡くなりましたが、彼の遺作が「かぐや姫の物語」でした。

映画館にこの映画を見に行ったとき、かぐや姫が月に帰っていくシーンに涙が止まらなくなりました。
かぐや姫の物語(映画館)

かぐや姫は、地上でいろいろな事を経験し、様々な感情(特に「愛」)を獲得します。でも月へ帰る際、羽衣を着せられると、そのような感情は失われます。また映画ではかぐや姫の成長がたいへんこまやかに描かれており、わたしは育ての「親」である翁・媼に感情移入してしまいました。

かぐや姫と養い親になる竹取の翁との出会いは、竹林です。かぐや姫については、原作で次のように語られています。
「三寸(約10cm)ばかりなる人、いとうつくしうて居たり」

この記述の前に、姫のいた竹は「光っていた」とあるので、かぐや姫じしんが光っていたこともわかります。

その後、翁はかぐや姫を家に連れ帰り、妻である媼にあずけて育てさせます。

「この児、養ふほどに、すくすくと大きになりまさる。三月ばかりになるほどに、よき程になりぬれば、髪上げなどさうして、髪上げさせ、裳着す。」
かぐや姫の成長

原文によれば、たった三ヶ月で成人の儀(裳着)を行えるほどに、成長するのです(この早さは、竹の成長スピードに由来するという説もあります)。

あっという間のかぐや姫の成長ですが、映画では、これが赤ちゃんのハイハイに始まり、立って歩いて、という姫の姿を、温かく見守る翁・媼が入念に描かれていました。

少なくとも、映画のかぐや姫は、最初から山でのびのびと過ごし、温かくやさしい感情を持ち合わせているのですが、原作のかぐや姫は、あまり人間らしい感情を持っていません。けれど、地上のしたたかな求婚者たちと対峙していくなかで、人間らしさを獲得していきます。

一方、映画のかぐや姫は、都に移り住んだ後、「貴族の姫君」のあり方を押しつけられ、逆に人間らしさを失っていきます。
原作と映画1
(↑どちらが映画でどちらが原作のかぐや姫でしょう?)


つまり物語の方向性は正反対なのです。それでも、原作、映画、ともに「かぐや姫昇天」の場面をクライマックスとし、感動的に描かれているとわたしは思います。


ぜひ、二つの作品、読み(見)比べてみてくださいね。

http://www.ghibli.jp/kaguyahime/
映画「かぐや姫の物語」公式サイト

このページのトップヘ

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /