2017年01月
1月13日。「1・13」を逆に並べ替えると「3・11」になる。2011年3月11日から5年を迎えているが、福島県の原発の後遺症だけが解決のメドもたっていない。津波の震災地にも、まだ多くの未解決のところもあるが、僅かではあるが時間と共に復興に進んでいる。先日、「NHKスペシャル」東日本大震災「それでも、生きようとした〜原発事故から5年」。というドキュメント番組の録画を、目頭を熱くしながら見ていた。
▼2014年、NHKの番組に主演し、福島に帰還を果たした夫婦です。この1年後夫婦は自ら命を絶ちました。同じ年、原発事故で東京に避難していた年配の男性。ふるさとを思いながら震災から5年ちかくたって命を絶ちました。
▼小高区は市の方針で帰還が進む他の地域の廃棄物の一部を置く場所になっていました。それを佐藤さんの田んぼの目の前でした。佐藤さんはその翌朝も、ただ黙ってその風景を見続けていたといいます。東京に戻って5日後。佐藤さんは亡くなりました。
▼佐藤さんの日記の最後には、ふるさとの民謡の一節が書き残されていました。相馬地方を去る(追われる)悲しい唄。「 はるか彼方は相馬の空かよ 相馬恋しやなつかしや 」。
▼ニュースは、週末からの大雪警報を伝えていた。「活性化サロン」で、「はるか彼方は相馬の空かよ・・・・」を唄う声は、冷え切った吹き抜けの室内に響く。初めて聞く「新相馬節」を、瀬戸さんは聞かせてくれた。
▼サロンの小型の石油ストーブを囲みながら、映像を見ているだけで、どうにもならない解決策もない現実に・・・・、会話は途切れた。数万年前から、人類は寄り添って知恵を出しながら生きてきた。孤独感の中から生きる希望が消えると、死を選ぶ。「原発事故」に遭遇した人たちは悔しかったろう。
▼幸いにして、「いのちある限り」。大聖寺の風土や文化を残すことに関われることに、あらためて確認した寒い日だった。
まだ、新年になっての初対面の人に、ご挨拶ができる「小正月」も間近い。「いいお正月でしたか」。すると、「寝正月」などが多い中。実家へ帰り温泉旅館で正月を過ごして来たといういう、顔見知りの中年女性に出会った。「けなるい!」と返すと、「はぁ?、それって何ですか」と言われた。
▼九州は博多出身の彼女は、加賀市に嫁いできて、もう30年ぐらいのはずだが、初めて聞く方言だと言う。九州のご両親がまだ元気なうちに、ご主人と一緒に里帰りしたという。子育ても済み「夫婦水入らず」の時期に、親孝行とは「うらやましい」。
▼子育て中も、子どもたちとの会話には方言は出なかったという。テレビから聞こえてくる「標準語」が当たり前になって半世紀以上。とくに核家族での生活スタイルから、同居者に地元出身の老人がいない家庭には、聞く機会のない方言は「死語」になってしまったのか。
▼子どもがまだ小学生だという地元生まれの父親が、子どもから尋ねられた。山中温泉の銘菓「娘々(にゃにゃ)饅頭」の呼び方に答えられなかったという。「姑娘(クーニャン)ラーメン」の看板も地元で見たことがあるという、世代間の違う若い父親もいた。が、老人の博学?を教えなかった。
▼「赤いランタン 波間に揺れて 港上海 白い霧・・・クウニャン 悲しやシナの夜」。漫談調の替え歌?「支那の夜」を口ずさんでしまった。その後に出たのが「上海帰りのリル・・・」。小学生のころにラジオから聞こえていた歌詞の1題目は、今になっても覚えていた。結局、ユーチューブで「津村謙」と一緒に、知らなかった3題目までを歌ってしまった。
▼「降る雪や明治は遠くなりにけり 中田草田男」。雪なし正月だった今年に、やっと、五徳庵の庭も雪景色になった。2年後には「年号」が変わるという。「降る雪や 昭和は遠く なりにけり」。
5時。今朝も気持ちよく自然に目が醒めた。外はまだ真っ暗な寒中の「松の内」。深閑とした古民家に移住して、もう何年目か忘れてしまった。この時期の朝は、ストーブに火をつける。パソコン・スイッチオン。目覚めの水をコップ一杯で喉を潤す。そして、足裏マッサージ機に足を入れて、「YouTube」で音楽を聴く。今朝は、「バッハ・G線上のアリア」などのクラッシク定番を照明を暗くして流す。
▼音楽に目覚めたのは、古希をすぎてからの遅咲きである。物忘れが頻繁になってきたころに、老化する脳神経を刺激してくれるタイミングは、ラッキーだったかもしれない。きのうのニュースは「新成人式」。20年前は、まだ「たまごっち」で翌年から「ガラケー」が世に出たという隔世の感である。
▼9時近くになって、連日の「活性化サロン」の当番役で家を出た。いつもと変わりない空き時間の奉仕活動。楽しみは、サロン代表の瀬戸さんが正月番組を録画してくれた「野生の思考」と「欲望の資本主義2017」の長編を見ることだった。移り行く今後の世界感には、これまでの人類が、何万年もかけて生き抜いてきた「匠のかくれ知恵」が生きていた。
▼昼ごろに、「大聖寺観光案内所」のレンタルロッカー利用の青年が、京都から来聖した。外出中の看板から、サロンのドアを開けた。旅人が困っていたから、旅行カバンを預かった。錦城山の城跡をめぐるマニアに、コーヒーでもてなし、持参の城跡資料にない、大聖寺の風土や歴史・文化を伝えた。
▼日本を代表する「京都」には、外国人が押し寄せている。必要があって地元の「京都名勝」へ訪ねることもあるが、観光客に圧倒されていると言う。そして、観光地の「おもてなし」の対応は、すべてが観光客向けで、素朴な旅情に欠けていると。そんな彼に、大聖寺の印象を尋ねたら、城下町散策の要所にある「駅まで何分」の看板に助かったという。
▼そして、「気持ちです」。と言って、サロンの隅にあった「募金箱」に、百円硬貨10枚を入れ「もう時間です」。と、大聖寺駅へ向かった。さすが、古都に育ったニッポンの若者よ。たのむぞ!
雪なし正月を迎え、寒入りの「小寒」になっても、青空に映えて霊峰白山がまぶしい。スノータイヤの役目はないが、そのうちお世話になるだろう。初湯は「菊の湯」で冷えた身体で温まりたいと、山中温泉へ行った帰りに、むかしは常連客だった喫茶店に、夕方の閑散とした時間帯に入った。
▼10年前の思い出話に花が咲いていたら、「九頭竜川」の河口近くに育ち、山中に移住して35年目の同世代もカウンターに座った。加賀温泉駅で客待ちしている、非番のタクシー運転手だという。
▼「おぉ!、まだ生きているなぁ」と。カウンターに置かれたコンビニ弁当の空き箱を覗き込んでいた常連客がつぶやいた。何かと尋ねると、マスターが飼育している空き箱を目の前に移動してくれた。去年の6月ごろに、食材の盛り付ける野菜を洗っていたら、小さな虫が手に残り、確かめたら「カタツムリの幼虫」だった。
▼弁当箱には、「小松菜、サツマイモ、玉子の殻」などの陰にじっとしている1センチぐらいのカタツムリがいた。「デンデンムシムシ・・」の歌が口から出た。アジサイの花が咲くころの葉っぱの裏に、這っていた姿を思い出した。
▼フランスで食べる「エスカルゴ料理」。土地によっては食べるが、食べない土地もある。そんな身近で食べれる動植物の話になった。「川カニ、カエル、雷魚(ライギョ)、イナゴ、蜂の子・・・」。田植え前の田んぼに素足に入ってタニシを捕って、夕食のおかずにした戦後の貧しい食糧事情の泥臭い話。
▼「貧しさへの郷愁」。そんな世代を乗せて、加賀温泉から越前の国境を巡るタクシードライバーは、「エチェン弁」で観光案内するという。「粟津、片山津、山代、山中、芦原」温泉。白山と日本海。加賀藩と越前藩の関係。那谷寺、永平寺、平泉寺。源平合戦の斉藤実盛。奇岩の東尋坊は平泉寺の坊さんの名前・・・。ありすぎる歴史の宝庫である。と、「訛り弁」がつぶやく。
「フレイル」のテェックで3つ以上あれば、要支援の虚弱「高齢者」と言われるらしい。筋力や心身の活力低下のテェック項目とは、1 体重減少=(意図しない年間4.5kgまたは5%以上の体重減少)。2 疲れやすい=(何をするのも面倒だと週に3〜4日以上感じる)。3 歩行速度の低下。4 握力の低下。5 身体活動レベルの低下。
▼今年から、「高齢者」の定義を10年ほど繰り上げて、75歳からにするという。それまでの元気な老人は、まだまだ社会的貢献の精神で、各種のボランティア活動に携わってもらうという。「還暦」を迎えて赤頭巾をかぶり、家族から祝ってもらっていた風習にも、まだ早いという「ケチ」がつきそうだ。
▼統計から、75歳を過ぎると冒頭の「フレイル」のテェックが必要になってくる。聞きなれない「フレイル」とは、高齢者が筋力や活動が低下している状態(虚弱)を「フレイル(Frailty)」と呼ぶ。去年の5月に「老年学会」が決めたそうな。
▼日本は介護および、介護予防サービスに掛かる費用が8兆円を超えており、少子高齢化が大きな課題となっている。そんな「フレイル」に陥った高齢者を早く発見して、適切に介入することによって「要介護」状態にならないように防ぐ効果がある対策でもある。と、テレビは伝えていた。
▼日本は「長寿国」と呼ばれているが、介護施設で世話になっていては、「生きているだけ」と言われている。自力で楽しく生きてこその長寿王国である。当方も早速、「フレイル」のテェック項目を確認したが、該当する項目がなかった。
▼「カズ・ダンス」が今年も見られるという。プロサッカーの三浦知良選手が今年50歳になった。そして、今年も現役を続けるニュースを見て、刺激を受けた高齢者の一人でもある。
▼今年は、「活性化サロン」のメンバーでもある「燃焼系羽深トレーニング教室」の、門を叩き、楽しく生きる余生を目指そうと、意識した「松の内」だった。