久しぶりに見た昨夜の満月は、美しいと思った。煌々と光り輝く月に見とれていた。街中の「甍の屋根」もきらきらと反射し、「まんまんちゃん」の言葉が甦ったひとときだった。ふと、昼間ラジオから聞こえていた「なぜ、月は光るのですか」という、子どもたちの素朴な質問も思い出した。
▼「満月に まだ見ぬ父に 手を合わす 祖母が教えた まんまんちゃん」。戦後、シベリアから帰ってこない、わが子の無事帰還を祈る祖母と月夜に手を合わせていた。戦後3年目に、祖母と出迎えに行った町はずれの「一本松」ところで、「あれがお前の父ちゃんやぞ」。
▼今年になって、「戦後70年」の節目が何かと報道の表題に見る。満3歳児は家のラジオで、8月15日の「玉音放送」を聴いていた。そして、昭和20年の8月1日から2日にかけての今夜。「富山大空襲」も、母の実家のある動橋町から「赤々と染まる北の空」を見ていた。
▼縁あって73年前に生を受けた者からすると、「戦争体感者」でもある。戦後の動乱期を、生かされてきた思いが強く甦ってきた。
▼「防空頭巾」、「防空壕」、「B29」、「灯火管制」、「空襲警報」の実体験者である。そして、「ひもじいおもい」。夏場の「おひつ」には、「イ草のカゴに入ったご飯」は、警報が聞こえると妹も乗せる乳母車で、避難する態勢ができていた。
▼「白いご飯」を食べたいと、ダダをこねたこともしっかり覚えている。「混ぜ物の入ったご飯」には、「白米」はわずかだった。季節ごとに変わる「混ぜご飯」が、毎日続く。秋には木の実の「ドングリ」が混ざっていた。少し豊かになったころから、落下している「ドングリ」を見ると、幼児期を思いだす。そのころ「ドングリ」を食べると「ドモリ」になると聞かされから食べていないが、最近、時々「どもる」。
コメント