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2015年07月

早朝、目覚めると雨音が気になる。かすかに聞こえると、また、「軽く眠る」にスイッチが入る。梅雨明けと言っても、台風12号のせいか雨雲が広がっている。そんな日は素直にラッキーだが、猛暑の早朝は忙しい。娘たちも熱中症に掛からないように、大量の水分補給をしている。

▼独りでも生きていけるようにと、小さな「鉢アパート」から大地に移植したのに、やっぱり気に掛かる「バラの花」。「親バカ」と言われそうだが、今年だけ、と言い聞かせながらの「水遣り」をしている。

▼天気予報の確率は100%だと、言いながら、どこかで信じられない。その日になってみないと分からない。「運を天に任す」言葉がまだ生きている。そんな「その日暮らし」をしながら、先人たちも自然と付き合ってきた。

▼「会うは別れの始めなり」。「1度あることは、3度ある」。「袖振り合うも多生の縁」などの格言や人生訓が、今も生かされている。長く人間を生き抜いていると、その格言の確率の精度はあなどれない。

▼そんな格言を信じて、行動に移すか止めるのかは本人次第である。「人生は常に岐路に立つ」。人によっては、困難な道を選ぶ人もいる。また、楽しいそうな道を選んで正解だった人もいる。「二者択一」は、日常茶飯事でみんな生きてきた。「一生を決める」重大な道を選ぶ時に役立つように、日頃の選択をいい加減にしていると、失敗する可能性もある。

▼しかし、人間は生まれた時から、右か左かの「二者択一」が待っている。幼児期は自分で決められないから、「運命」という他人任せの時もあるが、それも選ばれるという「択一」である。

▼きょうは「キュートな女性」と、3度も出会った。「偶然か必然か」。残り少ない老人は「必然」を選ぶ。会えば楽しくなるからである。笑顔から明日も生きられるエネルギーを注入された。

きょうの二十三日は、「文の日」。ちなみに七月は「文月」だから、ダブルで「文の日」だという。

そんな日に限って、「筆が進まない」。努力して今日まで続けた「吾亦交のつぶやき」の、途中下車で「筆を折る」は避けたい。これまでにも、発信最終時間に近づき「職業的もの書き」の気分になったことがあった。

▼「古希」を過ぎての、ブログ発信の「手習い」は毎日が楽しい。失うものない年齢環境の底力は、われながら驚いている。現役時は、「口下手」で「筆も立たなかった」。なんの取柄もないが、何事にも一生懸命が唯一の性格だった。

▼締め切り時間が近づく、日替わりの時間帯に下書きをしているが、こんな時に限って必需品の「老眼鏡」が見当たらない。首からぶら下げていたのに、どこかに置き忘れている。ウロウロしながら狭い部屋を探すが見当たらない。

▼小一時間、「ドローン」の鳥瞰的視野で探したが見つからない。ようやく、見つけた場所は、机の足元だった。きのうの掲載文に書いた「『青い鳥』の幸せはわが家にあった」。「チルチル・ミチル」の童話のようだった。

▼いつまで続けるのかと、誰も訊いてはくれないが、ことしの9月で丸1年目、その日まで連続発信を続けてみたい。そのあとをどうするか。今の気持ちは「ハーフ・ハーフ」。

▼「真央ちゃんが、継続を決心した」との、報道を知った。世界の頂点を極めた「アスリート」に拍手を送りたい。東京オリンピックに間に合わせる「新国立競技場」の計画が、ゼロに戻ったら、いろんな関係者が発言し出した。不思議なひとたち。「優柔不断な指導者」が表面化した。

長くて短い「夏休み」も終わった。「海の日」を挟んでの5日間の連休は充実していた。特別に何事もなく「無事」に過ごせたことに、1番の感謝だった。朝、目が覚めて、3度のご飯を食べ。排便があり、立って歩け、人との会話も出来た。これ以上何を望むのか。

▼一昔のコマーシャルに、「喰う。寝る。遊ぶ」。どこかの自動車会社の宣伝文句だった。長い間の庶民生活は、「喰う。寝る」ことが1番幸せだった。戦後は、この二つが出来ない日々が続いていた。

▼空いた時間の「遊ぶ」は贅沢だ。と、いう時代もあったが、いつの間にか「贅沢(ぜいたく)」のコトバは影をひそめ、「これでもか、これでもか」のあとに、「もっと、もっと」が蔓延している。そして、「まだ、足りない。まだ、足りない」が、口癖になっている。

▼1909年刊の「青い鳥」。メーテルリンクの童話劇。チルチルとミチルの兄弟が幸福を象徴する鳥を探して、さまざまな国を夢の中で遍歴するが、見つからず。「目が覚めて」幸せの鳥は身近にいることを知る物語だった。

▼日本を代表する「東芝」の、不適当な会計処理問題で、歴代経営トップが辞任したニュースがテレビ画面でみる。「これでもか。もっと。まだ足りない」。が、「誤魔化してもやれ」というトップダウンが表面化した、愚かな人間の末期であろう。

▼1920(大正9)年に、「芝浦製作所」」の初代会長三井守之助の後を引き継いだ「岩原謙三」は、2代社長に就任した。昭和5年の辞任まで、「東芝」の前身であったこの会社の経営に当たり、世界的企業になる基礎を築いた。「謙三」は大聖寺藩士の長男として、大聖寺「穴虫」に生まれた。

▼「岩原謙三」生誕150年を顕彰して、菩提寺でもある「蓮光寺」境内に、「歴町センター大聖寺」が「お御堂」を建立したばかりだったのに。「草葉の陰で嘆く」、謙三の声が聞こえて来そうだ。

小松市が全国第1位になった。気温37・3度でNHKの全国ニュースになった。暑さで地名度アップをしている熊谷市や四国の四万十市を抜く暑さだった。小松市に隣接する加賀市の体感温度もそれに近い温度だったと思うが、気温計を見る余裕もなく、水分補給に気づかっていた。

▼何年も飲まなかった「三ツ矢サイダー」と「コカコーラー」の1500mlを2本買い求めた。数十年前から販売されている老舗の飲料メーカーのブランド品。糖分があるというウワサで敬遠していたが、必要があって手に入れた。

▼中身より外見のボトルが欲しかった。「夏休みの工作?」で作る「ペットボトルの風車」の材料だった。夏のガーデンには、四季咲きのバラの花も咲いていない。期待している朝顔の花が咲くのを待ちきれず、それまで、ペインティングされたボトル風車で、にぎやかに庭を演出する。大小あわせて10機の風車が、時折の風を待ち受けて回る景色は、ひとり悦に入っている。

▼提出先の無い工作品は、即、風が通る庭で回る。簡単に出来る作品が、夏の風に反応する風景に、「老人は、ハマってしまった」。クルクル回る風車。老い先短い、一時の楽しみに夢中になった。すると、次から次へといろんなスタイルを作りたくなる。

▼まだいけるぞ。ボケかかった脳ミソも回りだした。敬遠していた中身を空にしながら、風車のボディに「鈴」を入れると無言で回る風車から「鈴の音」が聞こえる。回転を利用しての「自家発電」で発光がする風車。そんな発想が湧く。

▼「熱中症」。「認知症」。「蚊の感染症」。そんな症候群が目白押し。汗をかかないように夏を過ごすことに吟味しているより、「夏の汗」をかき、「智恵の汗」もかき、生きていることを実感してみたい。

きょうは「旗日」。カレンダーには「海の日」の国民祝日で、半分現役の身も休日で遅い朝食を済ませた。散歩がてらに、朝から湿った空気の近所を歩いた。だが、わが家も含めて「日章旗」を掲揚する家が見当たらない。

▼戦前の70年前には、日本列島が「日の丸」で埋め尽くされていた時代があった。その後の「日の丸」は影をひそめてきたが、東京オリンピックあたりから、ユニーホームに日の丸をつけた選手がテレビ画面に映り、表彰台に「君が代」が流れ、「日の丸」がポールに揚がると、胸が高まり目頭が熱くこみ上げてきた。

▼「日の丸」は正式に「日章旗」という。1999年に「国旗国歌法」の制定により法制化された。16年前。不思議な気がするが、「これ、ほんとう」。戦後のゴタゴタで、進駐軍に遠慮して、うやむやになっていたが、やっと、法制化された。

▼一番先に、国民のシンボルでもある「国旗国歌」に時間をかけていた。しかし、先日衆院を通過した「安保改正法案」。これは、国家の進む道を決定する法案だから、国民に理解できるまで時間をかけることをしないで、数の論理で決めてしまう。

▼「白地の長方形で、縦は横の3分の2。日章は赤で、その直径は縦の5分の3。日章の上下のあきを等しく、日章の中心は旗面の中心」。日章旗の決め事である。単純明快でバランスのとれた配置の「日の丸」は、世界の国旗のなかでも1番優れた「国旗」である。

▼いつも考えているが、「日の丸」掲揚する日には、一日のうちの一食を「日の丸弁当」を食べる。耐え忍んだ日々を送ってきた先人たちを思いながら、今日の「平和ボケ」を噛み締めてもいいのではないかと思う。

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